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2014年10月29日 (水)

CIA文書 1035-960:ウォレン報告書に対する批判への対抗

 

以下は、http://www.jfklancer.com/CIA.htmlの日本語訳です。

 

この文書はニューヨークタイムズの1976年のFOIA(情報公開法)に基付いた情報公開請求に応えて公開された、リー・ハーベイ・オズワルドをケネディ大統領暗殺の単独犯であるとするウォレン報告書への批判者に対する対処方法を指示するCIAの内部文書です。そうした批判者への対処方法としてはっきりと(この問題について)「友好的エリート接触者(特に政治家や編集者)と共に論じ」、「プロパガンダ情報人脈を活用すること」と記しています。(つまり、CIAはそのような「友好的エリート接触者(特に政治家や編集者)」や「プロパガンダ情報人脈」を持っていたということです。)

 

ここでのタイトルはConcerning Criticism of the Warren Report(ウォレン報告書に対する批判について)となっていますが、
http://themindrenewed.com/images/documents/countering/docs/aarc-rhwork-12_0001_0002.png
http://www.maryferrell.org/mffweb/archive/viewer/showDoc.do?docId=53510&relPageId=2にて閲覧可能なオリジナル文書のコピーでは、Countering Criticism of the Warren Report(ウォレン報告書に対する批判への対抗)となっていましたので、こちらのタイトルを優先しました。

 

CIA 文書 1035-960
ウォレン報告書に対する批判への対抗

 

CIA 文書 #1035-960

件名:ウォレン報告書に対する批判への対抗

 

1.我々の懸念。ケネディ大統領の暗殺の日から今日まで、大統領の暗殺の責任について推測がなされている。この推測はウォレン委員会報告書(1964年9月下旬に発表された)によって一時的には抑制されたものの、様々な書き手が今や疑問の新たな口実を求めて委員会が発表した報告書と文書に目を通しており、委員会の結論を批判する書籍や記事の新しい潮流が存在している。大抵の場合批判者は一種の陰謀の存在について推測しており、しばしば彼らは同委員会自身が関与していたとほのめかしている。恐らくウォレン委員会の報告書に対してますます高まる異論の結果であろうが、一つの世論調査はアメリカ大衆の46パーセントがオズワルドが単独で実行したのではなかったと考えていることを示しており、そのうちの半数以上が委員会はいくつかの疑問を解明されないままにしていると考えていることを示していた。海外での確かな世論調査も同様な結果、または場合によってはより不都合な結果を示していた。

2.こうした世論の潮流は、我が組織を含め、アメリカ政府にとって憂慮すべき事項である。ウォレン委員会のメンバーは品位、経験、卓越性により中立的に選出されたものである。メンバーは両二大政党を代表しており、またメンバーとその補佐役は細心の注意を払って国の全ての方面から集められていた。そのような委員に立ち向かうものであるため、彼らの公正さと見識に異論を唱える取り組みは、アメリカ社会の全指導体制に対して疑念を投げかける傾向を持つものである。さらに、ジョンソン大統領自身が、便益を得たとまで言われる一人として、暗殺に対して何らかの形で責任があったと示唆する傾向がますます高まって存在していると思われる。

そのような憂慮すべきほのめかしは関係当事者のみならず、アメリカ政府の信望全般に対しても影響を及ぼすものである。我が組織自体にも直接関係するものである;一つの事実として、我々が調査に対し情報を提供したからである。陰謀論者は、例えばリー・ハーベイ・オズワルドは我々のために働いていたと偽って主張することで、しばしば我が組織に対して疑念を投げかけている。この指示書の目的は、他国でのそのような主張の流布を防ぐために、陰謀論者の主張に反論し彼らの信用を貶める材料を提供することである。背景となる情報は機密セクション並びに数多くの機密扱いではない添付文書中にて提供されている。

3.行動。我々は議論がいまだ起きていない場合には、暗殺に関する疑問をめぐる議論が開始されることを推奨するものではない。議論が活発[問題]である場合には、以下の対応策が求められる:

a.広く知られている問題について連絡担当者や友好的エリート接触者(特に政治家や編集者)と共に論じ、ウォレン委員会は人間的に可能な限り徹底的な調査を行っており、批判者の訴えには真剣な基盤がなく、さらなる推測に基づいた議論は反対勢力の術中にはまるだけであることを指摘すること。また陰謀議論の多くは共産主義者プロパガンダ扇動家によって意図的に引き起こされたと考えられることも指摘すること。彼らに事実無根の無責任な推測を阻止するべく自分達の影響力を行使するよう促すこと。

b. プロパガンダ情報人脈を活用し、批判者の攻撃を[無効とし]反論すること。書評や特集記事がこの目的には特に適している。この指示書に添付された機密ではない添付書類がその人脈に与える有用な背景資料を提供するに違いない。我々の策動は、規定通り、批判者は(1)証拠が出現する前に理論と結ばれていること、(2)政治的に利害があること、(3)金銭的に利害があること、(4)自分達の検証において軽率で不正確であること、(5)自分達の理論に夢中になっていること、を指摘せねばならない。全般的事象としての批判について議論する過程において、有用な戦略となると思われるのは、添付した背景情報となるFletcher Knebelの記事とスペクテイターの記事を活用して、エプスタインの理論を選出することである。(Mark Laneの書は精通している批判者に直面した場合エプスタインの書ほど説得力のあるものではなく、ひどいものであり、関係のない詳細の泥沼に陥いっているため、全般として答えることが困難にもなっている。)

4.非公式な場や特定の書き手に向けられたものではないメディアの議論において、あるいは公表されていない言説を攻撃する際には、以下の論点が有用であるに違いない:

a.委員会が考慮しなかった新しい重要な証拠は出現していない。暗殺は時折(例、Joachim Joesten や Bertrand Russellによって)ドレヒュス事件と比較されている。;しかしながら、同事件とは異なり、ウォレン委員会に対する攻撃は何ら新しい証拠を提起してはおらず、真犯人も納得の行く形で特定はされておらず、批判者の間でも同意は形成されていない。(より最適な比較は、不完全なものではあるが、1933年のドイツ議事堂放火との比較であろう。一部の優秀な歴史家(Fritz Tobias、AJ.P. Taylor、D.C. Watt)が現在ではこの放火はVander Lubbe により、ナチスのためでも共産主義者のためでもなく、自身の決断で実行されたと考えている;ナチスはこの責任を共産主義者に負わせようと試みたが、共産主義者はナチスが責任を負うと世界に信じさせる上でより成功したのだった。)

b. 批判者はたいていの場合特定の事項を過大評価し他の事項を無視している。彼らは個々の目撃者の回想(これらは信憑性が低く、一致していない‐そのためさらに反論の手掛かりを提供するものである)により重きを置いており、弾道解析、検死、写真上の証拠には重きを置いていない。委員会の記録を詳細に検証すると、矛盾する目撃者の説明は文脈から外れて引用されたものであるか、委員会から適切で十分な理由により却下されたものであったことが通常は示されることになる。

c. しばしば示唆されている大規模な陰謀は、アメリカ合衆国においては特に情報提供者が特別な権益等を受け取ることが想定可能であるため、隠蔽が不可能である。当時の司法長官でジョン・F・ケネディの弟であったロバート・ケネディはいかなる陰謀であれ見過ごしたり、封印したりする人物ではなかったことに留意されたい。一人の批評家が指摘したように、ジェラルド・R・フォード議員が民主党政権のために口をつぐむはずがなく、ラッセル上院議員はウォレン最高裁判所長官側の不正を暴くことにあらゆる政治的関心を持っていたのだった。さらに陰謀者がルート、車両の速度、動く標的、暗殺が発覚するリスクといった多くが自分のコントロールを超える状況に左右されるような発砲箇所を選ぶはずはがない。富める陰謀者であればより確実な状況を手配することが出来たはずである。

d. 批判者はしばしば一種の知的自尊心にそそのかされているのである:彼らは何かの理論と出会い、その理論に恋しているのである;彼らはまた委員会を嘲笑してもいる。なぜなら委員会が全ての疑問に対して何らかの形で常に決定的な解答をしてはいないからである。実際には、委員会とその補佐役の構成はいずれかの理論への過度の傾倒に対する、また可能性の確実性への不法な変換に対する優れた安全対抗策となっていたのであった。

e. オズワルドは分別のある人間が共犯者として選択する人物ではなかった。彼は「一匹狼」で、情緒不安定で、信頼性に疑問があり、専門的情報工作に際しては未知数の人間であった。

f. 委員会の報告書が急ぎの仕事であったとの訴えに関しては、同報告書は当初設定されていた締め切りの3ヶ月後に発表されたと言わねばならない。また委員会が報告の作成をどれほど急いでいたのかという点では、大部分が既に出現していた無責任な推測というプレッシャーによるものであり、そのプレッシャーには自分達の間違いを認めることを拒みつつ、現在新しい批判を表明している批判者からのものもあったと言わねばならない。

g. 「10人以上の人が不可思議な状況で死亡している」というようなあいまいな告発は自然なあり方として常に説明が可能である。例:懸念となっている人々は大部分が自然な原因により死亡している;委員会の補佐役は418人の目撃者を質問し(FBIはこれ以上の人々をインタヴューし、25,000人をインタヴュー、再インタヴューした)。このような大規模な集団においては、ある程度の死者数は想定されるものである。(「10人の謎に満ちた死者」構想の創設者の一人Penn Jonesがテレビに出演した際、彼のリスト上の死者の二人は心臓発作によるものであり、一人はがんによるものであり、一人はドライバーが橋台にはまり込んだ時に起きた橋の上での正面衝突によるものであったことが明らかになった。)

5.可能であれば、推測には委員会の報告書自体を参照するよう促すことで対処しなければならない。偏見のない海外の読者は依然として、委員会が取り組んだ際の注意深さ、徹底性、客観性、迅速性に感銘を受けるに違いない。他の書物の吟味する者は、報告書自体と照らし合わせて、報告書に対する批判者の作品よりも報告書の方が優れていることが分かるとの意見を自分達の感想に付け加えたいと促されるであろう。

「陰謀論」:兵器化した用語の根幹 メディアや研究において真実の信用を貶める巧妙で欺瞞的な戦術

以下は、http://www.globalresearch.ca/conspiracy-theory-foundations-of-a-weaponized-term/5319708の日本語訳です。

 

 

「陰謀論」:兵器化した用語の根幹

 

メディアや研究において真実の信用を貶める巧妙で欺瞞的な戦術

 

 

Global Research、2013年1月22日

 

「陰謀論」とはほとんど全ての公人、特にジャーナリストや学術研究者の心に瞬時にして恐れや不安を引き起こす用語である。1960年代からこのレッテルは特定の出来事を調査や議論から隔離する上で圧倒的に有効な懲戒装置となっている。特にアメリカ合衆国においては世論に訴えるべく運命付けられた疑わしい公式説明(よって公共政策)について当然の疑問を提起することは重大な思想犯罪なのである。

陰謀論という語の持つ鋭敏で否定的な言外の含みはリベラルな歴史家Richard Hofstadterが「新右派」に対して浴びせた有名な攻撃に遡ることが出来るであろう。けれどもこの用語を効率的に「兵器化」する上で最大の役割を果たしたと考えられるのは中央情報局(CIA)であった。ジョンF.ケネディ大統領の暗殺についてのウォレン委員会の結論に向けられた世間の疑念の高まりの中で、CIAは同局の全支局に詳細な指示を送った。「ウォレン委員会報告書に対する批判への対抗」との題の送付文書が、「陰謀論」という用語を政府の増大する秘密プログラムや活動に疑問を投げかけるほとんど全ての個人、集団に対して振りかざす兵器とする上で決定的な役割を果たしたのであった。

この重要なメモとそのメモに含まれるアメリカの政治と公的言説にとっての広範囲の意味がフロリダ州立大学の政治科学者Lance de-Haven-Smith著の近著Conspiracy Theory in America(アメリカにおける陰謀論)の中で詳細に論じられている。de-Haven-Smith博士は state crimes against democracy「民主主義に対する国家犯罪」という概念を考案し、トンキン湾事件、1960年代の大きな政治的暗殺、そして911といった事件における政府の共謀の可能性を解明し、説明している。

CIA文書 1035-960」が、ニューヨークタイムズの1976年のFOIA(情報公開法)に基付いた情報公開請求に応えて公開された。この指示書は、ウォレン委員会報告書をめぐる「アメリカ政府全体の信望」に関するCIAの懸念を概説しているため、特に重要である。同局は自身のイメージと「(ウォレン委員会の)調査に対する情報提供に貢献した」という自身の役割を堅持することに特に関心を持っていたのである。

このメモは「他国でのそのような主張の流布を妨げるために、陰謀論者の主張に反論しその信用を貶める」一連の詳細な行動とテクニックを明らかにするものである。例えば、「友好的なエリート接触者(特に政治家や編集者)」に接近し、ウォレン委員会の品位と健全さを思い出させることが最優先とされるとしている。「批判者の訴えには真剣な根拠がなく」、「さらなる推測による議論は敵対勢力(共産主義者)の術中にはまるだけである」と文書には書かれている。

同局はまた「プロパガンダ情報人脈を活用し、批判者の攻撃を(無効にし)反論する」ように、「書評や特集記事がこの目的には特に適切である」と同局局員に指示していた。

1035-960文書はさらに、ウォレン委員会の結論をめぐる「陰謀めいた」主張に対抗するための具体的なテクニックについて描写している。そうした対応や軽蔑的なレッテルと結び付いた対応が、重大な公的事件に関する真実と説明責任を求める人々に対して、企業メディア出先機関、コメンテーター、政治的指導者によって、様々な装いで今日までごく普通に活用されているのである。

・(ウォレン)委員会が考慮しなかった意義ある新しい証拠は出現していない。

 

・批判者はたいていの場合特定の事項を過大評価し他の事項を無視している。

 

・しばしば示唆されている大規模な陰謀は合衆国では隠蔽することが不可能である。

 

・批判者は多くの場合一種の知的プライドに誘惑されているのである:彼らはある理論を出会い、恋に落ちているのである。

 

・オズワルドは分別のある人間が共謀者として選ぶ人間ではなかった。

 

・(ウォレン委員会の調査中に)「10人以上が謎めいた形で死亡した」というようなあいまいな訴えは常に自然なあり方として説明が可能である;例えば、死亡した人は大部分自然な理由で死亡している。

 

これまで以上に今日ニュースメディアの人間やコメンテーターは、異論の余地ある不明部分が多い事件に対して国家が認可した説明に疑問を提起する可能性のある全ての人物に対して、1035-960文書で計画されたプロパガンダと酷似したプロパガンダ活動を開始する上で力ある立場を占めているのである。この文書に記載されている動機と方法は、まぎれもなく、知識労働者によって全面的に内面化され、そうしたメディアを通じて実行可能となっており、オクラホマシティのミューラー連邦ビル爆破事件、911、最近ではサンディフック小学校射撃事件のような、未解決事件についての公式説明への大衆のほとんど一様な受容が、大きく保証されているのである。

こうしたことが後に公的な調査、議論、行動を結集させる可能性のある、不明瞭で説明されていない事件に対する学術的なまたジャーナリスティックな調査に対して及ぼす影響は目覚しいものであり、広範囲に及ぶものである。巧妙で欺瞞的な脅しの戦術が未来の独立した自己決定や市民の力の可能性をいかに深く阻害しているのかの証拠としては、警察国家の台頭、市民的自由や憲法による保護の空洞化に目を向けるだけでよい。

 

著者について:
James Tracyのメディアの歴史、政治、文化に関する研究は広範囲の学術誌、編集刊行物、オルタナティブニュース、その他の意見表明手段で発表されている。TracyはProject Censoredの近刊書、「「Censored 2014: Fearless Speech in Fateful Times; The Top Censored Stories and Media Analysis of 2012-2013」(検閲2014;運命を決する時代における恐れを知らない言論;最も検閲されたストーリーと2012年から2013年のメディア分析)の寄稿者である。さらなる記事と情報はmemoryholeblog.com.で閲覧可能である。

2013年11月22日 (金)

CIAのジョージブッシュに言及する1963年11月29日のフーヴァー長官のメモ

 

 

 

日付:1963年11月29日

 

宛先:国務省情報研究局局長

 

発信者:長官、John Edgar Hoover

 

件名:1963年11月22日のJOHN F. KENNEDY大統領の暗殺

 

国務省は、一部の誤って導かれた反カストロ派のキューバ人グループが、事実ではないが、John F. Kennedy大統領の暗殺がアメリカの方針の変化の前触れとなる可能性があると考え、現在の状況に乗じて、キューバに対し未承認の急襲を仕掛けるのではないかと考えているとマイアミのキューバ問題調整オフィスから報告があったと、我々のフロリダ州マイアミのオフィスが1963年11月23日に報告してきた。

 

我々のマイアミ地域のキューバ問題に通じている情報筋並びに情報提供者は、反カストロ派のキューバ社会での一般的な感情はぼうぜんとしており信じられないというもので、キューバについての大統領の方針と全面的には賛成しない者の中でも、感情は大統領の死はアメリカにとってのみならず、ラテンアメリカにとっても大きな喪失を意味するというものであると報告している。こうした情報筋はキューバに対する未承認の行動の計画については知らないという。

 

以前信頼に足る情報を提供してきた、マイアミの賛カストロ派の小さな集団と近い関係にある一人の情報提供者は、賛カストロ派も感情的には暗殺を遺憾に思うものであるが、
こうした人々は大統領の暗殺が彼らに対して強硬な抑圧的施策の結果を招くのではないかと恐れていると報告している。

 

上述の情報の要旨が中央情報局の George Bush氏と国防情報局のCaptain William Edwards に対して、同局のW. T. Forsyth 氏により1963年11月23日に、口頭で提供された。

ブッシュが1963年11月22日午後1時45分にFBIに電話をかけていたことを示すFBIメモ

 

宛先:ヒューストン、担当特別捜査官           日付:1963年11月22日

発信者:特別捜査官 GRAHAM W. KITCHEL

 

件名:不明;
   JOHN F. KENNEDY大統領の暗殺

 

午後1時45分にテキサス州ヒューストンにある住所ヒューストン5525ブレアーのZapata海洋採掘社の社長であるGEORGE H. W. BUSH氏がテキサス州タイラーから長距離電話をかけ、以下の情報を電話で筆者に提供した。

 

BUSHは内密にしておきたいと望みながらも、何日であったのかと情報源については分からないが、ここ数週間の間に聞いたことを思い出したうわさ話を提供したいと述べた。彼は、JAMES PARROTT という人物が大統領がヒューストンに来たら、殺害すると話していたと述べた。

 

BUSHは、PARROTT はおそらくヒューストン大学の学生で、この地域で政治的な活動をしている可能性があると述べた。 彼は、ハリス郡共和党本部の電話番号SU 2-5239のFAWLEY夫人か、電話番号AJA 9-9194のRLINE SMITHが PARROTTの身元に関する追加情報を提供出来ると思うと述べた。

 

BUSHは、テキサス州ダラスに向かい、シェラトン‐ダラスホテルに滞在し、1963年11月23日に自分の自宅に戻るつもりであると述べた。彼のオフィスの電話番号はCA 2-0395である。

2013年11月21日 (木)

ブッシュはJFK暗殺に関与していたのか?

以下は、http://www.veteranstoday.com/2011/11/16/was-george-h-w-bush-involved-in-the-assassination-of-jfk/の日本語訳です。



George H.W. Bush はJFK暗殺に関与していたのか?

 

   
by Jim Fetzer and John Hankey


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George H.W. Bush (第41代大統領)のJFK暗殺への関与を示すおそらく最も説得力の強い事例が、John Hankeyによって提示されている。彼はこの犯罪に関する独立研究家で、この事件を明らかにする複数のドキュメンタリーを制作しており、その最新作は“The Dark Legacy”である。Johnは、特にSeamus Cooganが書いた厳しい批評を発表している“CTKA”と呼ばれる組織が彼に対して開始攻撃によって、大きな論争の的となっている

私はHankey が全面的に正しいと信じるものではない。特に、テキサス教科書倉庫ビルの前面に立っている姿が見える男の身元についての彼の懐疑は正当であるとは考えられない。また、「三人の浮浪者」の写真中に存在しているのがアメリカ空軍将軍 Edward LansdaleであるというFletcher Proutyによる身元確認についての彼の疑念も同様である。これは、元海兵隊司令官Victor Krulak将軍ほどの大物によって確認されたことで、この同じ男がGeorge H.W. Bushに歩み寄っている姿を写した他の写真もある。これらは皮肉にも、Hankeyの主張に対する想定可能な最も力強い確認となっている。-彼は正しい方向にあるのだ。

Lansdale は、暗殺を準備する彼の手腕のためCIAでは名が知られていた。私達の多くは、彼がDealey Plazaで起きた実際の処刑を組織したと信じている。

しかしながらCTKAの批評、“
The Dark Legacy of John Hankey”における暗殺についての議論の際、Seamus Coogan は多くの間違いをしており、JFK暗殺検証の動向になじみのない人は、それを偽情報工作の作品と疑うかも知れない程である。

CTKA のホームページはJim DiEugenioが管理しているため、私は彼自身のJFKについての検証からは一様に好印象を受けているものではないと述べねばならない。彼は Jim Garrisonに関する評価の高い著書
Destiny Betrayed (1992)を発表し、Lisa Peaseと共に Assassinations (2003) を共同編集した。後者は、元々はCTKAの刊行物、PROBEに発表されていた優れた多くの論考を再収録したものである。

しかし他の件についての彼の研究にはかなりむらがあることが私には分かっているのである。そのうちの一つは、特に、Shane O’Sullivanが明らかにした事象についてのJefferson Morleyと David Talbotの検証に対する彼の擁護である 。これは、Bobbyが撃たれた夜にAmbassador Hotelにいた三人の人物の身元特定に関することで、この件について私は“
RFK: Outing the CIA at the Ambassador”にて詳細に論じたことがある。私の過去における彼の研究のむらについての複雑な経験を基にしても、Hankeyの研究を批評する際の間違いに私は驚かされるのである。以下で三点について説明する。

(1)Coogan はHankey が傷を6箇所あるいは7箇所と述べていることを非難している。

 

Coogan が主張していることを間違いないものとするため、具体的な一節を一字一句引用する:

18:43 でHankey はKennedy とConnallyには総計6箇所の傷があったという考えを納得させようとしている。しかし読者は14:23 でHankey が、Garrison (Kevin Costner) が Alven Oser (Gary Grubbs) と Numa Bertel (Wayne Knight) を活用し、Kennedy とConnallyの両人にあった7箇所の傷の弾丸の軌道を具体的に示した「JFK」からの象徴的な裁判所の映像を既に利用していたことを思い出すであろう。Hankey はどういうわけか大抵の場合、侵入痕は侵出痕を残すという事実を見逃しているのである。

しかしJFKには喉に一つの侵入痕 (#1)が、背中の襟下5.5インチの脊柱のすぐ右の箇所に一つの侵入痕 (#2)が、後頭部の外後頭隆起付近に一つの侵入痕 (#3)が、右のこめかみ付近にもう一つの侵入痕 (#4)があり、一方John Connally知事には少なくとも背中に一箇所 (#5)、そしておそらくさらに二箇所もの、一箇所は右の手首 (#6)に、そして左の太腿 (#7)に傷があったのである。(#7)の傷が (#6)の傷により生じたのではないかということに関しては議論の余地があるが、6発か7発が当たっており-加えて他に3発がそれたということが私達には分かっているのだ!このことを示す証拠は
Assassination Science (1998)、Murder in Dealey Plaza (2000)、 The Great Zapruder Film Hoax (2003)において見出すことが出来るものである。しかしより容易には、例えば、簡単にネット上で閲覧可能な“Dealey Plaza Revisited: What happened to JFK?”において見出すことが出来る。

Hankey が間違っているとのCooganのほのめかしは、かなり重大な過ちという印象を私は受けたのである。こうした弾丸は前方から、側方から、後方から発射されていたのであった。

 

 

02lansdaletramps320x285_2(2)Coogan は Zapruderフィルムが正真正銘であるとの前提に立っている

別の一説で、Coogan は Zapruder フィルムが情報源として正真正銘であるということを当然視している:

読者は尋ねるであろう:「もし Connallyが間違った言い方をしていたのであれば、どうやってHankeyはKennedyが倒れこんだことを最終的に認めることになったのか」と。これは実際のところ、かなりな争点である。なぜならHankeyが倒れこんだという言い方をしたため、Connallyに Kennedyが「弾丸のせいで呼吸困難になっており、頭部を撃たれている」ことが分かったということについての議論が始まったからである。しかしZapruder フィルムにはこのことを示す証拠は存在していない。Zapruderフィルムから判断する限り、世界中の誰もが- Hankeyを除いて-Connallyはわずかに一瞬Kennedyを見たに過ぎないことがはっきりと確定可能なのである。彼は致命的な頭部の被弾の際には明らかに視線を戻していたのである。

しかしこのフィルムが再編集されており、リムジンの停止が削除され、JFKの後頭部が吹き飛んだことが隠されていたことを示す証拠は豊富にあり、説得力に満ちている。私は 1996年のダラスでのランサー会議においてZapruderフィルムの改ざんに関する第一回目のシンポジウムを組織し、この件について一冊の本と多くの記事を発表してきた。発表した記事には、Veterans Todayの
“JFK: Who’s telling the truth: Clint Hill or the Zapruder film?”“US Government Official:  JFK Cover-Up, Film Fabrication”が含まれている。Zapruder フィルムのカメラはセルロイドの16ミリストリップを使用し、「A」面を撮影し、次に反転して「B」面を撮影するものであった。

8ミリ投影機で投影するためには、分割し、結合する必要があった。しかしダラスで現像された8ミリの分割されたフィルムは、11月23日土曜日にワシントン.D.C.のNPICに持ち込まれており、ロチェスターで現像された16ミリの分割されていないフィルムは同所に次の日に持ち込まれたのであった。オリジナル版と現存する版の間には5箇所の物理的な相違点が存在している。

これでもまだ十分ではないかのように、Clint Hill はその日の自身の行動を47年間にわたり同じように説明している。その行動には、前方に走り寄り、リムジンに駆け登り、Jackieを押し戻し、彼らの上に覆いかぶさりながら、JFKの後頭部の大きな、こぶし大の穴を覗き込み、三線高架下道路に車両が到着する前に、同僚の方に振り返って、彼らの「否」のサインをしたということが含まれている。-しかしこうした行動は一つも現存するフィルムには映っていない。コマ313以降のコマと後頭部の吹き飛びが見えるコマ374を比較すると、誰でも自分自身で前のコマではそれが消されていることを確認可能である。

 

それからConnally もまた自身の証言において、彼は右肩越しに何が起きているのか見ようとして、その後より視野を広げようと左側に向き直った時に胸に側方からの弾丸による強烈な痛みを感じたと述べていた。これは Connally自身の証言がZapruderフィルムの捏造のもう一つの証拠を提供していることを意味している。こうした事象を理解することなく書く者は、無能であるのか、あるいは知らない振りをしているのかであると考えられる。

(3)Coogan は遺体が秘密裏に航空機から運び出されていたことを否定している

 

遺体に改ざんがされていたことは、David S. Liftonの詳細な検証、 Best Evidence(1980)により確定している。ARRB(暗殺記録再検証委員会)の軍記録主席分析者として務めたDouglas Horneが彼の五巻の研究書、Inside the ARRB (2009)において具体的に示しているように、これはARRB(暗殺記録再検証委員会)によって-間違いなく-裏付けられていることである。しかしながらそれでもCoogan は、JFKの遺体が大統領専用機エアフォースワンから秘密裏に運び出されており、全国的にニュースメディアが大きく見守る中で、公式の、葬儀用のブロンズ製棺は空であった可能性をめぐってHankey に課題を強いることをやめないのである。彼はさらには以下のような意見まで述べている:

 

 
03lansdalebush私は、Kennedyの棺の到着をどれほど多くの人々が見守ったのかと疑問に思わざるを得ない。何かが進展することなど実質的に不可能である。航空機が飛来する際滑走路が突然真っ暗になったが、停電の知らせがあり、航空機が飛行している間に光は復旧し、相当な重さの棺を運ぶことは全く困難になったのである。大多数の専門家が今日信じているのは、X線写真、それからおそらくは写真にも検死後に捏造がなされていたということである。そして明らかに、一部の写真は行方不明となっているという。(例として Murder In Dealey Plaza、175-218ページのGary Aguilarによる優れた論説を参照されたい。)

しかしパークランド病院でのパークランド記者会見の際Malcolm Perry医師によって三回にわたり小さな、円形の侵入痕として説明されていた喉の傷の説明は、(この説明を私は
Assassination Science (1998) 中の付属資料Cとして公表している)、Warren 委員会には提供されおらず、私がThe Great Zapruder Film Hoax (2003)の14ページで(また私の公共の場でのプレゼンテーションにおいても)説明しているように、ベセスダ海軍病院での検死の際に写真撮影された大きな、不規則な傷とは全く異なるものである。

しかしながら、Cooganの無能さを示すおそらく最も驚くべき点は、
Murder in Dealey Plaza (2000)中のGary Aguilar が書いた章からのお気に入りの部分の引用であろう。Aguilarの研究は、パークランド病院で観察された後頭部の大きな吹き飛びとベセスダ病院から報告された傷の説明の間の一貫性を具体的に示すことに専念したものである。Horneの研究から私達には、検死を担当したアメリカ海軍医療部隊の指揮官James Humesが、実際には傷を拡張するために頭部に頭蓋用のこを使用しており、 Aguilarはそれらの一貫性を誇張していたことが分かっている。

しかしながらさらに重要なことは、Aguilarが正しければ、フィルムは改ざんされていたことになることである。なぜなら彼が文書で示した後頭部の吹き飛びはフィルムの大部分では見えないからである。フィルムが改ざんされていたことを否定しつつ、Aguilarの研究を支持したいと望んでいた他の人々に対して私が説明してきたように、両者を一貫して支持することは不可能なのである。もしAguilarが正しければ、フィルムは捏造である;またもしフィルムが正真正銘のものであれば、Aguilarは間違っているのである。

 

Cooganの批評には、ニューヨークに着いた時に、自分は暗殺について初めて知ったというRichard Nixonの主張を額面通りに受け取っていることを含めて、他にも間違いが存在している。この点についてはいくつかの説明があり、その一つは「女性の叫び声を聞き、タクシーを止めさせ、窓を開けたとNixonは述べた」というものである。しかし窓が閉まっていたのであれば、どうしてNixonに女性の叫び声を聞くことが出来たのであろうか?また叫び声を上げることは言うまでもなくニューヨークではそれほど珍しいことではないのに、この極めて自己中心的でひねくれた男の注意を引いたというのである。Bush やLBJと同様に、NiksonもまたJFK暗殺に共謀していたのであった。 

 

私はSeamus Coogan が全面的に間違っていると、あるいはJohn Hankey が全面的に正しいと言っているのではない。しかし私は、JFK暗殺におけるGeorge Herbert Walker Bushの役割はこれまで注目されてきた以上に、さらに大きく注目するに値する主題であると確実に信じるものである。これは、全くJim DiEugenio や Seamus Cooganが注目しそうにない事象であると、私が推論せざるを得ないことでもある。そして振り返ると、CTKAが形成されていた際の私の参加しないとの決心は、その時点で分かっていた以上に賢明であったと考えることにもなる。

遺体の改ざん、大規規模に修正されていたZapruderフィルムを含めた、医学証拠について私達が知っていることを封印するという同組織が果たしている役割に私はますます困惑を覚えるものである。CTKAを運営している人々に、暗殺に関する私達の重要な科学的結論の最も基本的事項さえも正しく捉えることが出来ないのであれば、JFKに関する真実を追究する上で彼らよりも明らかに優れている人々を彼らが非難しようとしていることは何ら驚くべきことではない。

 

終わらざる話‐ブッシュがダラスにいたというさらなる驚くべき証拠
by John Hankey

歴史を科学として見るように私達が奨励されているとは、私は考えない。実際の所、全く正反対である。そしてもちろん、全く政治的なものである。勝者が歴史を書き、真実は非難されるものとなる。私達が進化論、タバコとがんの関係、地球温暖化という事例で知っているように、科学であっても政治的事項が関連した場合には、科学として振舞ことが困難になることがある。しかし私は、歴史は物理科学と多くの共通点を持っていると考えている。

 

例えば私は、アフリカとアメリカがかつては一体となっていたという「大陸移動」という考えが「単なる仮説」と見なされていた時のことを思い出すことが出来る;この考えは、一部の人々からは愚弄され、多くの人々からは娯楽と見なされており、ごく少数の人々によって可能性が高いものとして広められたのである。しかし時が過ぎるにつれ、証拠は蓄積されている;そして古い証拠の持っていた意味が定着し始めている;そしてかつてはトンデモないと見なされた考えは、徐々に使いこまれ、当たり前の常識と見なされ始めている。この過程の一部となるのが、新しい証拠の継続的な蓄積である。新しい断片がパズルに加えられ、全体像がさらに明らかになるのだ。そして時には、長年にわたり存在していた古い証拠の隠された意味が、突然認識に飛び込んでくることもある。アフリカ東岸とブラジル西岸で発見された化石と鉱物という証拠は、誰かがそれらが一致するものであるのか検証しようと決め、そして実際に一致するものであったことが分かる前から;そして西アフリカとブラジルはかつてくっ付いていたことが間違いなく実証される前から、長年にわたり存在していたものであろう。

George HW Bush とJohn Kennedy殺害に関しては、Joseph McBride が1988年にこの覚書メモを発見した:

 

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                         "中央情報局のGeorge Bush"についてのメモ
                                                    (訳者注:このメモの日本語訳が
こちらにあります。)

 

FBI 長官J. Edgar Hoover がこのメモを暗殺の5日後に書いており、George BushをCIAの幹部として名指ししているのである。最後の、最も決定的な段落は、かなり読みにくくなっている。以下が写しである:

「上述の情報の要旨が中央情報局(CIA)の Mr. George Bush と国防情報局(DIA)のCaptain William Edwardsに対して、1963年11月23日に同局のMr. V.T. Forsythにより、口頭で提供された。」

最初にこの情報が1978年に公表された時、George Bush は目立たない役人で、実際には無名であった。つまり1978年にはこの惑星上で最高の研究者がこのメモを見ても、彼らは注意を払わなかったのである。2年後にBushが副大統領になった時も、誰も当時有名になったブッシュの名前とこのあいまいなメモを結びつけることが出来なかった。しかしJoseph McBride が1988年にこの厄介な件に首を突っ込んでいた時、Bushは大統領に立候補していた;そしてMcBrideのメモを見て、飛び上がり、叫んだのだ。「何てことだ。このメモはBushについてのものだ!このメモは彼が以前、1963年にCIAにいたと書いている!」

それからとても長い間、焦点は単独の事実に当てられていた:Hoover が Bush が1963年にCIAにいたと述べたという事実にである。Bushは自分はその当時CIAにはいなかったのだから、このメモは他の「George Bush」に言及するメモに違いないと述べた。しかし歳月が過ぎるにつれて、人々はBushの私生活から、当時の彼のCIAや、CIAの反カストロ派キューバ人(このメモにおいて、Hoover は彼らを「誤り導かれた反カストロ派キューバ人」と呼んでいる)への深い関与を示す事実を集めることが出来るようになった。そして歳月と共に、以下の事実は否定できないものとなっている;Hoover は、自身が書いたメモにおいて、ほかならぬ、George Herbert Walker Bushについて言及していたという事実である。しばらくは、これだけのことであった。話は終わったのである。

 

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しかしHoover のメモの件名は、「John Fitzgerald Kennedy大統領の暗殺」である。これは重要ではないのだろうか?読者もそう思うであろう。しかし長い間、誰もその重要性を理解していなかったのだ。加えて、Hoover はこのメモにおいて暗殺についてはほとんど言及しておらず、一連の「誤り導かれた反カストロ派のキューバ人」に焦点を当てているのである。このメモの本文は、一目見た所では、このメモの件名である「John Fitzgerald Kennedy大統領の暗殺」と何か関係があるとは思えないのである。しかしその後、Mark Laneが著書
Rush to Judgmentにおいて、CIAの「誤り導かれた反カストロ派キューバ人」プログラムのmajor lieutenant E. Howard Huntがダラスにおり、暗殺に関与していたことを具体的に示し、そしてこのことを実際に陪審員団を納得させるという驚くべき仕事をしてくれた。こうした背景によって‐こうした研究者を導く枠組みによって‐こうしてBushとHuntを結び付ける証拠を集めることが可能となったのである。

Bushが以前Nixon政権での国連への大使時代に、ホワイトハウス内にオフィスを与えるよう異例の要請をしたことに気が付いた人もいるかも知れない。彼らはHuntがホワイトハウス内の誰からも給与は支払われておらず、私達がホワイトハウス内にいたことを知っている誰に対しても説明責任を持っていなかったにもかかわらず、彼もまたホワイトハウスにオフィスを持っていたことに気が付いたかも知れない。しかし、BushをCIAの「誤りみちびかれった反カストロ派キューバ人」作戦の監督者として確定するこのHooverのメモが手元にあることによって、BushとHuntをピッグス湾作戦において結びつけることが可能となるのである。

 

このメモが手元にあることによって、BushとHuntをホワイトハウス内にオフィスを持っていた二人のCIA工作員として結び付けることが可能となるのである。このメモが手元にあることで、Huntがホワイトハウス内の誰に対して説明責任を持っていたのか;またそもそも第一にどのようにして彼がそのオフィスを得たのか、答えることが可能となるのである。そして以上のことから、BushをHuntに、ダラスにいたHuntに結び付け、そのためBushをダラスにも結び付け、John Kennedyを暗殺した「誤り導かれた反カストロ派のキューバ人」に結び付けることが可能となるのである。これが彼がこのメモの件名を書いた時に、Hooverが私達のためにしてくれたことである。すこしづつ、断片が正しい場所に収まり始めている。そして単独では何も意味しなかった断片が、全体像の主要な部分となっていく。

 

しかしそうであっても、これは強固なつながりではない:Huntは直接JFK暗殺に関与していた。そしてBushがHuntを監督していた。しかしBushはおそらく多くのCIAの人間を監督していたのであり、その全員が暗殺に直接関与していたのではないだろう。高位にある幹部は、彼が彼らの指揮官であるという理由により、彼の部隊全員の全ての行動とつながっていると言える。しかしこれは直接的なつながりではない。これは幹部が部隊の全行動について知っていた、承認した、あるいは関与したということを確証するものではない。

 

Enter FBI memo # 2:

06bushwarning1531x640                          "Zapata 海洋採掘社の社長"についてのメモ
                                                         (訳者注:このメモの日本語訳が
こちらにあります。)                                                         

このことはすぐに再び出てくることであるため、冒頭の文章を注意して読んでいただきたい。BushはFBIに対して自身の身元をヒューストンの自営オイルマンであると名乗っているのだ。

このメモは暗殺のその日のダラスでのBushとHuntの間の一種の直接的なつながりを確定するものである。このメモは、暗殺から精確に1時間15分後になされたBushのFBIへの通話を記録している。私がこのメモに最初に出遭った時、そして私がこれを最初に私の映画、JFKⅡで表現した時、私はこれを単に「奇妙である」と見なした。私はこれをBushと暗殺の間の奇妙な、単独のつながりとして、分離して見ていた。背景の文脈の中でこれを理解するには数年かかった。数年かかってこの通話は、George Bushがその日任務についていたことを、明白に、具体的に示していることが分かったのである。.

 

彼の任務はダラスでのものであったため、彼はダラスシェラトンホテルに滞在していた。彼のFBIへの通話は成り行き任せになされたものではあり得ない。このJames Parrott はBushのために看板描きとして働いていた;彼は暗殺者ではなかった;この通話はそれが主張している目的のものではないのだ;Bushはこの電話をかけることで見えない秘密の役割を果たしていたのだ。つまりこの通話は彼のCIAの任務の一部として見られるべきなのである;この任務は明らかに暗殺と関係していたのである。このメモはこうして、Bushがダラス区域に、任務でいたことを確定するものである;それから彼の任務が暗殺に関係していたことを確定するものでもある。そしてもし彼の部下が、実際にそうであったように、ダラスで大統領を撃ったのであれば、彼は間違いなく彼らを監督する任務にあったことになる。もし彼が彼らを監督することになっていなかったのであれば、彼の上司は彼をテキサスのヒューストンの彼の所属オフィスか、カリブ海の彼の石油会社の石油採掘所に配属していたであろう。

 

しかし背景の文脈の中であっても、このメモとメモが言及している通話は依然として奇妙ではないだろうか?つまり、この有罪を示す非常識な電話をかけるほどBushは愚かであったのかということである。この通話を記録したFBIのメモがなければ、暗殺の当日にBushがどこにおり、何をしていたのかに関しては理解することも、糸口をつかむこともなかったのである。そうではないだろうか?Bushは最近まで、暗殺当日に自分が何をしていたのか記憶していないと、単に述べていた。しかしこのメモによって、Bushは自分がどこにいて、何をしていたのか私達に告げているのである‐彼は自分の頭を銀の皿にのせて私達に差し出しているのだ。 彼がFBIへ電話をかけるというこれほど愚かな過ちを犯す原因となったのは何であったのだろうか?これは正当な疑問である。これは最も重要な疑問ではない。私達は通話の理由という疑問に答えなくても、さらにこのメモを重視し、このメモから多くの重要な内容を引き出すことが出来る。しかし疑問は残るのである。

 

なぜ偽りの電話を?

そして私達はその疑問に答えることに挑戦出来るのである。Russ Baker は彼の優れた著書
Family of Secretsにおいて、Bushがアリバイを確立しようと企てていたことを示唆している。今では、この電話をかけることで、彼は実際には、彼がダラス区域にいたことを、そして彼は暗殺と関係する任務についていたことが確定しているのである。では彼が実際にどこにいて、何をしていたのかを隠蔽するためのアリバイを確立しようとしているのであれば、彼が隠蔽しようとしていることはこのアリバイで私達に示していることよりも何か悪いこと、何か有罪を示すことに違いないことになる。

では彼が私達に示しているよりも悪いこととは何であろうか?つまり明らかに、彼は実際にはダラスにいたに違いないのだ。事実、私は、この状況は彼が実際に Dealey Plazaにいたに違いないことを示していると考えている。私は真剣にそう考えているのだ。このことについて考えていただきたい。彼は真実が明るみに出ることを考えパニックになっていたため、自分の首をロープに通して、私達に差し出したということである。彼は Dealey Plazaにいたに違いないと、彼は狙撃者の同伴者であったに違いないと、彼はそのことを証明する証拠が存在すると感じていたに違いないと、私は考えざるを得ないのだ。

 

私達は現時点では、単に推測しているだけである。すぐに証拠は明らかになるが、状況を説明してみたい。罪人がパニックに陥った場合、彼らを犯罪に結び付ける証拠を隠そうとして、彼らはその時点で名案と思われる釈明、あるいはアリバイを発明するであろう;しかし実はそれが不利を招く罪の告白となるのである。では、この写真を良く見ながら、この件についてじっくり考えていただきたい:

07bushtsbd1213x320_2スーツ姿の、生え際の後退した、背の高い男が見える。多くの人々が、テキサス教科書倉庫ビルの前面に立っているこの人物はBushだと主張している。そうかも知れない、他の人間かも知れない。おそらく、彼がFBIに電話をかけ、自分自身に罪を負わせた時、Bushはこの写真よりも写り具合の良い、カメラの方を向いており、明確に彼だと認識可能な写真で姿を現してしまうかも知れないと懸念していたのだろう。

 

個人的には、私はこの写真がBushにそれほど似ているとは考えない;また実際、彼が殺害現場周辺をうろつくほど愚かであったとは私は考えない。彼は十分高位にあったため、現場の事項は下の者に任せて、立ち去っていたと私は考える。そうではないだろうか?少なくとも私の考えでは、あなたがBushのような幹部であれば、あなたはコーチであるということになる。あなたが計画し、あなたが自分の部下を訓練し、準備し、その後あなたは距離を置き、起きることを見守るのである。そのように私は考えた。

 

Fletcher Prouty は最高ランクの軍事工作員Ed Lansdaleが写った写真を見て、Lansdaleがgrassy knoll(芝生の丘)の後ろで拘束された「浮浪者」に「冷静に」全てはうまく行ったという合図を送っていることに間違いはないと確信している。Huntは高位にあったCIA幹部で、メキシコ地域本部の本部長であった;そして彼の息子がHuntは複数の写真中に姿が見えるgrassy knoll(芝生の丘)の後ろで拘束された「浮浪者」の一人であったと述べているのである。つまり、殺人作戦の最高位ランクの人員が明らかにそこに、最前線にいたのだ。不可避的に計画がうまく行かなくなった場合、こうした最高位ランクの幹部がどのような問題であれ修正することが出来るようにするためである。こうして、CIA幹部が居合わせたことを考慮すると、スーツ姿のこのやせた男の写真が、紛れもなく、Bushを写したものであると考えられることになる。その可能性があるのだ。

 

Dal-Texビルの狙撃者

 

では今度は、このDal-Tex ビルの写真を見ていただきたい。The Dal-Tex ビルは教科書倉庫ビルの通りの向こうにあるビルで、Jim Garrisonを含めた暗殺に対する多くの優れた研究者が、間違いなくこのビルに狙撃者の一団がいたと主張している:

 

08daltex1320x161_3                         Altgens写真と Dal-Texビルの窓の拡大写真

09daltexwindow320x248                         Dal-Texビルの窓のカラー版引き伸ばし

ご覧いただけるように、かなり想像的な人物が色を加え、この窓にいた三人の男を示している。極めて創造的で、想像的であり、確かにうまくは出来ている。それでも、Bushの顔を見出すには、かなりの想像と努力が必要とされる。しかしここで
Roger Craigについてのこのリンクを見ていただきたい。実は、この記事を読むのを止めて、そのリンク先の記事を読む必要はない。というのは、私が関連する箇所を引用するからである。これは、1960年の最優秀ダラス保安官代理賞の受賞者で、ダラスでその日勤務していた最も誠実な人物の一人であったRoger Craigの発言である。彼は素晴らしい、英雄的な人物で、その経歴と人格は常に注目するに値する。そしてこの下に引用した一節で、彼は自身がJim Garrisonと持った対話について述べ、以下のように発言している。

 

“Jim はまた私にその日Dealey Plaza で起きた拘束事案についても尋ねました。私は彼に、自分は12件の拘束事例のことを知っていたと告げました。一つは特に、ダラス警察署のR. E. Vaughn によってなされたものでした。Vaughn が拘束した人物はテキサス教科書倉庫ビルの通りの向こうのDal-Tex ビルから出てきたのです。その男に関してVaughn に分かった唯一のことは、その男はテキサス州、ヒューストンの自営石油操業者であったということだけでした。この拘束された男はVaughnの元からダラス警察の刑事によって連行されたため、Vaughnがこの被疑者のことを見たり、聞いたりしたのはその時が最後だったといいます。」(強調が加えられている)

 

Holy Moe Lee! Jim Garrisonと話しながら、Craig が「特に」と発言していることにご注意いただきたい。明らかに彼とVaughnはこれがその日になされた最も意味深い拘束であったと考えていたのである:grassy knoll(芝生の丘)の後ろの鉄道操業所で E.Howard Huntが拘束されたことを考えれば、全く驚くべきことである。この「他ならぬ」拘束者についてCraigに分かった唯一のことは、その男が、George Bushがその同じ日にFBIに連絡する際に使ったのと全く同一のCIAを隠す隠れ蓑、「テキサス、ヒューストンの自営石油操業者」を名乗っていたということである。こうして、誰がこの「自営石油操業者」であったのかについて考えられる解釈はごくわずかのみとなる。それらを見てみよう。

「自営石油操業者」とは誰であったのか?

 

CIAがダラス区域に狙撃者を監督する二人の人間を配置しており、その両人共が「ヒューストンの自営石油操業者」という指定された隠れ蓑を持っていたということは考えられることである。上に示した証拠がはっきりと示すように、Bushはその一人であった;そしておそらく別の一人がDal-Texビルに狙撃者と共におり、彼らを直接監督していたのであろう。しかしCIAの権力者がBushを罠にかけようとしていたのでない限り、権力者は関係者全員にBushのCIAの隠れ蓑を用いて、警察に自分達の身元として名乗らないように告げていたはずである。もしBushとは別の人間が犯罪に関与していても、そのため拘束され、その人間が警察官に自分は「ヒューストンの自営石油操業者」だと告げた場合には、Bushの方向へと容疑が向けられることになるのだ。BushのCIAのキューバ人とのつながりは既に広く知られていた。

 

Fletcher Prouty はそのことを知っており、書き記していた。キューバの対諜報部局長、Fabian Escalanteはそのことを知っており、書き記していた。かなりの信憑性を持ってダラスのマフィア狙撃者を運ぶドライバーであったと主張しているJames Filesはそのことをカメラを前にして語っている。またFBI長官、J. Edgar Hooverもそのことを知っており、自身が作成したメモでそのことについて書き記していた。つまりHooverの目から見るとBushは既に被疑者であったのだ。このため、「拘束された場合には、自分はヒューストンの自営石油操業者であると警察官に告げるように」とCIAの計画発案者が誰かに言うはずはないのだ。そうではないだろうか?なぜなら、そうすれば極めて疑わしい立場にあったことが既にはっきりと分かっていたBushに罪を負わせてしまうことになるからである。

 

もう一つのありそうにない可能性は、この「自営石油操業者」は全く無実の石油操業者で、何らかの形で疑念を招いてしまい、拘束されたというものである。Dealey Plazaのその角にたまたま偶然、別のヒューストンのオイルマンがいたという可能性があると読者は考えるだろうか?その可能性はあると考えてもよいだろう。ありそうになく思えても、その可能性があったと考えるのであれば、Bushが自分が拘束された際に、その拘束を目撃した別の石油操業者が群集の中にいたと考えるのも通りにかなっているであろう。

 

実は、Bushは暗殺の前夜にダラスでオイルマンの集団に対して講演していたのである(*2)。Dealey Plazaにそのオイルマンの数人がいた可能性があったのであれば、彼はその数人が彼の拘束を実際に目撃しており、Bushをその拘束の対象者として特定してしまう可能性を恐れる必要があったことになる。

そうすると、Bushが取り乱し、FBIへのこの有罪を示す愚かな電話をかけたのも、不思議ではない。たとえそれが彼がヒューストンにも、カリブ海にもおらず、ダラスにいたことを示すものであっても、少なくともそれは彼がDealey Plazaでの大統領殺害の容疑で警察に留置されていたのではないことを示すものであったのだから。

 

しかしここで立ち止まり、しばらく考えていただきたい:警察官の注意を引くような何を一体彼はしていたのであろうか?彼は一体何をしていて、警察官にBushを拘束せねばならないと考えさせてしまったのだろうか?おそらくビルから注意を引くことなく歩いて出てくることは、思う以上に困難なのである;Dal-Tex ビルの外にいた群集は銃声を聞き、大統領が負傷したことを聞いていたため、誰であれそのビルから出て来る人間を注意深く見つめていたと想定することは理性にかなっている。

 

しかしこの話は、Bushが殺害に手を染め、犯罪現場から立ち去ろうとする際に何も起きてはいなかったように振る舞って見せることが出来る程、冷静沈着な殺人者の類ではなかったことをはっきりと示すものである。そしてBushはこの、隠しておく必要のある感情を隠すことを隠すことが出来ないという性格的特徴に、老人になっても苦しみ続けていることが判明している。このリンクでご覧いただけるように、Gerry Fordの葬儀の席上、Kennedy暗殺について話しながら、Bushは突然口を大きく開いて笑い出すのである。これはモナリザの微笑ではない。これは歓喜に顔面がゆがみ、痙攣しているのである。

 

しばらく私達は、なぜBushがJohn Kennedyの脳が吹き飛んだのを見たことを回想して笑みを浮かべたのかという疑問を取り扱うことにする;私達にとって重要な点は、Dal-Tex ビルから出ようとする際にも、外見上彼は同様に不適切な、人目を引き付ける顔つきをしていたであろうということである;彼は自分の目で殺害者を、見逃すことの出来ない程はっきりと見ていたのである;この葬儀の席での笑みを見逃すことの出来ないのと同じように。そして犯罪はBushの顔全面に漂い、人々の注意を引いたのだ。そしてこの警察官、Vaughnが彼を拘束したのである。

 

Roger Craigが、その日に拘束された後、顔写真も、取調べも、指紋も、名前も残さずに消えた被疑者について話したニューオリンズの地方検事、Jim Garrisonとの対話と関連してこの話をしていることを、ここで思い出していただきたい。Garrison はRoger Craigとだけ話したのではなく、彼は間違いなく、その拘束をしたVaughnとも話したのだった。そしてGarrison は以下のように付け加えている:

 

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「少なくとも拘束された一人の男は狙撃の直後にDal-Tex ビルから走り出てきたのであり、自分がそこにいた説明をしなかった。見物人の大声のため、地元当局は彼を拘束せざるを得なかった。その男は保安官オフィスに連行され、取調べのため拘留された。しかしながら、保安官オフィスは、この被疑者への取調べの記録を、取調べがなされたのであっても、残さなかった;またその男の名前の記録も残さなかった。その後、二人の制服警察官がその男に付き添い、ビルから出てきて、待ちうける群集の野次に直面した。彼らはその男を警察車両に乗せ、車は走り去った。どうやらこれがその男のダラスとの別れであり、その男は永遠に全く姿を消し去ったのである。」 (On the Trail of the Assassins, p. 238)

この拘束され、警察署に連行され、おそらく記録をとられ(そうした記録は破棄されたのであろうが)、間違いなく恐れを感じ、パニックに陥ったBushの姿を想像することで、多くの、そのように考えなければ不可解なBushの行動を説明する背景が提供されることになる。間違いなくBushは取り乱し、パニックに襲われていたのだ!憤慨した群集が彼の拘束を強く求め、彼の釈放にやじを飛ばしたのであった。

 

こうした闇の案件においては初心者であるため、Bushは、水を逆流させ、時間を後戻りさせ、証人を沈黙させ、記録を破棄し、全てを解決する、CIAの年老いた悪魔の能力に信頼を置けなかったのだ。そのため彼はパニックになったのである;彼は愚かにも、自分自身で行動したのである;彼はFBIに電話をかけ、Dal-Tex ビル前面でその日拘束されたのは自分ではなかったという証拠を「巧妙に」提供していることのだと考えたのである。彼のパニックに陥った精神状態では、これは名案のようであった。彼は自分が実際には、彼自身の関与を示す永遠に残る全く確実な記録を作り出していたとは理解出来なかったのだ。

 

私達は今ではあの笑いもまた説明出来るのである。彼はGerry Fordの葬儀の席で、John Kennedy殺害について触れ、愚弄するかのように笑うのである。それは彼がKenneyの頭部の内容物がJackie Kennedyの全身に飛び掛るのがおかしいと考えるような残忍な鬼のような人物であるからではない;そうではなく、暗殺について言及することが彼に、彼自身のばかげたパニック、拘束、さらなるパニック、等々を生じさせた失策の喜劇を思い出させることであるからである。

 

Garrison はBushの拘束についての一節を1988年に書き記した。Craig保安官代理の記事は1971年に書かれ、1992年にインターネットに投稿された。しかし一連の文章の意味は、先週発見されたのだった。Craigの記事が投稿された1992年にはインターネットはほとんど普及していなかった。そして19年間、この語句、「ヒューストンの自営オイルマン」がBushを表す独特の説明であることに誰も気付かなかったのである。先月、JFKMurderSolved の仲介者の一人が私にそのことを示すまで、誰も気付かなかった。そして私はそのことについて数人の友人に書き、そのうちの一人が私はJim Garrison が言わねばならなかったことを読み取ったのだと示唆してくれたのである。

 

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こうして断片が正しい場所に収まり続けている。少しずつ、全体像が埋まっていき、疑問に答えが与えられている。そして推定がより議論の余地のないものとなっている。これはまさに、進化論やビッグバン理論;また大陸移動説において起きたような類のことである。そしてやがて彼らは歴史を、大学で、証拠に基づいた科学として教え始めるのである。本当のことである!そうしたことが起きる可能性があるのだ!そうして、BushのJFK殺害への関与は、入手可能な信頼できる証拠による唯一の説得力ある説明として、進化と同様、教えられることになるのだ。

最後の注記:最近まで、Bushは暗殺当日の自身の所在について、どこに自分がいたのか記憶していないと言う以上のことは発言していなかった。これ自体、異常なことであり、自己に不利に働くことである。その当時生きていた人は誰でも、911の日に、またKennedyが殺害された日に自分がどこにいたのかを記憶している。しかし、自分は記憶していないと言うことは、どれほどあり得なさそうではあっても、少なくとも何も言及のないBushの自叙伝とは一致している。

オイルマンという隠れ蓑の話

しかしながらその後、少なくとも一部分は私の研究に対応する形で、Bushと仲間達は、彼がテキサスのタイラーでロータリークラブに対して講演していたという話を作り上げた。このロータリークラブの副会長、Aubrey IrbyはBushが講演していた時、ホテルのベルボーイが来て、Aubrey IrbyにKennedyが死亡したと告げたと述べている(*1)。Irby 氏はその情報をWendell Cherry氏に手渡し、Cherry氏がそれをBushに手渡し;そしてBushは講演を止めたという。Irby 氏は、Bushがこの状況の元では政治に関する講演は不適切であると考えると説明し;彼は着席したと言うのだ。Bushの無実を証明しようとのアリバイとしては、この話には少なくとも三点の大きな問題がある。

問題点1:第一の問題点は、Bushがそうした出来事を記憶していなかったとは想像出来ないということである;またこの出来事は、彼が何と立派な礼儀正しい人物であるのかを示すものであるのに、彼が自分の自叙伝からその出来事を省いていることである。彼が以前このことを記憶しておらず、自分の自叙伝に記載してもいなかったのは、こうしたことが起きなかったからであることは明白である。

問題点2:この話の持つ第二の大きな問題点は、そのようなことが起きた可能性がないことである;そのようなことは、見ていくように、Bushの元々のアリバイ、彼のFBIへの電話によって、不可能となるのである:

この話を告げる証人、Aubrey IrbyはBushが釈明して、着席したと述べている。Bushは大急ぎで部屋を出て、電話を懸命になって探したとは述べていないのである。問題点は、Kennedyが死亡したという世界への
Walter Cronkiteからの発表は1時38分にあったことである。間違いなく、Bushが講演していた同じ部屋で、Walter Cronkiteの発表を聞いていたものは誰もいない。そのため、Kennedyが死亡したことをIrby に告げたこのベルボーイが別の部屋にいたことは確実である。このベルボーイはこのニュースを十分聞いたとして、ニュースを聞くのを止める判断をしなければならなかったのである。これは些細な点ではない。テキサス州知事 Connallyは重傷を負っていた。Lyndon Johnsonも負傷したと報じられていた。他にも多くの確認するべきニュースはあったのである。

そうしてある時点で、ベルボーイはニュースを聞くことを止め、知らせに行くとの判断をしたのである。ベルボーイがIrby のことを最初に知らせるべき人物であると考える理由は存在しない。しかしある時点で彼はBushが講演していた部屋に行き、大統領が死亡したことをIrby氏に伝えたのである。言うまでもなく、歩いてIrbyを見つけるには時間がかかった。Irby氏はその情報を受け取らねばならず、そしてキワニスクラブの会長、Wendell Cherry氏に知らせる判断をしなければならなかった。Cherry氏は、Bushの講演を遮るべきか判断をしなければならなかった;そうしてCherry氏はBushに歩み寄り、彼にそのニュースを告げねばならなかった。

 

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Bushは何を言うべきかの判断をしなければならず;言うべきことを言わねばならなかった。そして唯一の証人Irby氏によれば、Bushは「それから着席した」という。Bushは着席し終えると、どうにかしてIrby氏の注意を引くことなく、電話を探して、見つけねばならなかった。

 

電話はホテルの電話であったであろうため、Bushはホテルの電話交換台にたどり着き、外線につなげねばならなかったのだ。大統領の死の発表の後には電話交換台は混雑していたと読者は考えるであろう。それは見事な推測である。ワシントン.D.C.ではあまりに多くの人々が電話をかけようと殺到したため、電話システムが機能しなくなっていたのだ。

 

いずれにせよ、いったんホテルの電話交換手につながり、外線につながった後、Bushはインフォメーションセンターに電話をかけ、FBIの電話番号を入手しなければならなかった。インフォメーションセンターにつながり、FBIの電話番号を入手した後、そうして彼はFBIに電話しなければならなかったのである;そして間違いなく、極めて混雑していた、FBI側の交換台につながらねばならなかったのである;そしてダラス支局の歴史で最も混雑していたに違いない日に、彼は職員を見つけねばならなかったのである。読者はこうした行動には何分がかかったと考えるであろうか?

 

その時点では全ての公共の警察業務が進展していたことを考えると、民間人がつながったこと自体信じがたく思えるが、20分が偏りのない推測と思われる。ダラスのFBIは殺害現場一帯に配置されており、カメラのフィルムを没収し、目撃者を脅していたことを私達は知っている;つまり、どうしてBushが狙撃の一時間後に、FBI職員に連絡出来たのか想像することは困難なのである。BushがそうしていたとIrby氏が述べた「着席していた」ことを考えると、こうした出来事が45分かかったとしてもうまく出来た仕事なのである。しかしBushはこの全てを、FBIのメモが記載しているように、Kennedyの死亡の発表が最初に出されてから7分後の1時45分までに、なさねばならなかったのである;これは明白に不可能である。

 

問題点3:第三の問題点は、なぜBushがそのような話を作り上げる必要があったと感じたのかという疑問である。なぜ彼は私達にこのような嘘を告げねばならないのであろうか?なぜ彼は自分のために、Irbyのような他の者に、嘘をつかせなばならないのであろうか?彼が嘘をつくことで、自分自身を無実としようと懸命に試みれば試みる程、彼の有罪を示す証拠を彼が私達に提供することになるのは、皮肉である。

 

(*1) Kitty Kelley著、 The Family: the Real Story of the Bush Dynasty、 p.213; Russ Baker著、 Family of Secrets、p. 54にて引用されている

 

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20-セクション1 ダラスモーニングニュース1963年11月20日水曜日

課外活動‐アメリカ油田採掘業者、午後6時30分、木曜日、シェラトンダラスホテル:George H.W. Bush、Zapata 海洋採掘社、社長

11月21日木曜日‐JFK暗殺の前夜のアメリカ油田採掘業者協会の会合での講演者としてGeorge H.W. Bush を告知する1963年11月20日のダラスモーニングニュース紙

 

(*2) 一部には、この点を指摘して、このような主張までする人々も存在する。「そうか!このためにBushはダラスにいたんだ!大統領を殺すためではなく、他のオイルマンに講演するために!」しかしHoover が作成したメモが示しているように、オイルマンというのは、単にCIAの訓練された殺人者を監督する監督者というBushの本当の任務を隠す隠れ蓑であった。彼にはダラスにいる口実が必要であったのだ。この講演の仕事は彼に言い訳を提供していたのである。

 

                                    監督から

「George Bush が Kennedyを殺した。あるいはそれはマフィアであった?もしかするとカストロがやった。誰が構うというのだろう?40年前の話である。どんな違いがあるというのだ?」

 

重要視すべき問題である。

彼が死亡した日に、私達は計り知れない富を失ったのだ。このビデオは、冷戦の沈静化に努め、そしてアメリカの人々に彼らのロシアの敵を、下劣な非人間的怪物としてではなく、私達と同様な人間として見るよう働きかけた、平和の人を私達は失ったということを示すものである。

 

1963年11月22日、あなた方はあなた方の命を1962年10月17日に救った人を失ったのである。ミサイル危機の真っ只中において、Kennedyの軍司令官と顧問団はキューバに対する先制ミサイル攻撃を開始するよう迫っていた。彼らはKennedy にキューバのロシア製ミサイルは核弾頭ではなく、発射準備もされていないと確約した;しかしともかく大統領と自分達は万が一のために、爆弾攻撃避難所という安全な場所に静かに立ち去らねばならないとも言うのだった;それから私達全員を死ぬ危険にさらしながら、攻撃を開始するのだと。Kennedyはこのことについて考えた。そして彼は彼らに誰もどこにも行くことはないと告げたのだった。

 

もし誰かが死亡するとすれば、ロシア製ミサイルの主要標的であったホワイトハウスの座にいた彼らこそ最初に死亡していたはずである。団結して彼らはより安全な計画を考え出したのだった。当時の国防総省長官、Robert McNamaraは最近になってロシア側から、そのミサイルは核弾頭を積んでおり、発射準備が出来ており、攻撃された場合には司令官にはそれらを使用する権限が与えられていたことを知った。もしあなた方が北半球に住んでいるのであれば、あなた方の両親の命、そしてあなた方の未来はその日間違いなくJohn Kennedy によって救われたのである。彼を殺害した者を明らかにすることは重要視すべき問題である。

 

退任演説の中で、Eisenhower大統領はKennedyに、また私達全員に、Eisenhowerが呼ぶところの「軍産複合体」が民主主義に突きつけている脅威について警告した。また一方Kennedy は周知のごとくCIAを追求し、ベトナムへ軍を派兵することを拒んだ。私は、なぜKennedy はもっと公然とこうした軍産複合体を攻撃しなかったのか、常に不思議に思っていた。そしてその後私は、Kennedyが国連で行ったスピーチに巡り合った。このビデオで見るようにKennedyは、「全ての軍と全ての兵器を廃絶する」ために、こうした軍産複合体と戦う上で彼を支援してくれるよう、ロシア人に、国連に、呼びかけていたのである。

 

しかし彼は消し去られたのだった。その後の年月において、数百万人が必要のない戦争で死亡し、数兆ドルが「防衛」に無駄につぎ込まれ、数百万人以上の人々が不必要な形で貧困の中で生活し、死亡している。私達が彼を失ったことは重要視すべき問題である。

14brucewillis320x2392007年に、Bruce Willis は雑誌Vanity Fair にこう語った。「彼らは今も Kennedyを殺した人間を捕らえていない。こう言うと殺されるだろうが、何らかの形でそうした連中が今も力を持っていることは、間違いないと思う。合衆国政府は完全に乗っ取られたのだ。」

 

彼は天才ではないと私が示唆しても、現在ではおそらく Willisも気にしないだろう。せいぜい、彼の観察は常識に過ぎないのだから。アメリカ人の80パーセントが彼に同意している。Kennedy が世界で最も力を持った人間達によって倒されたことを示しているこのビデオは、実は、秘密文書に基付いたものではない。単に封印されてきた情報によるものである。Oswald がKennedy を後方から撃ったと言われている。しかし彼が死亡した日に、ニューヨークタイムズは、Kennedy には喉に弾丸が侵入した傷、右のこめかみにもう一つの傷、後頭部に大きな穴の開いた弾丸が侵出した傷があったことをダラスの医師が語ったという記事を掲載したのだった。

 

救急治療室の医師と話した後、Kennedyの報道担当官は集まった報道陣に、右前方からの右のこめかみへの一発は「頭部を貫通」していたと説明した。右前方の、grassy knoll(芝生の丘)付近にいた目撃者は全員、その方角から銃声が聞こえたと説明しており、多数の目撃者が射撃者を求めてその丘を駆け上った。これらの目撃者は報道機関に話していた。しかしこうした情報は全て50年間にわたり封印されてきたのである。誰によって?誰にそのようなことが出来たのか?

 

このビデオではまた、理性的反論の余地なく、Kennedyの遺体がエアーフォースワンから盗み出されていたこと、それから検死の前に、喉の傷が切開されていたことを示す最高の証人による圧倒的な最高の証拠も目にすることになる。Jackie Kennedy はダラスからベセスダ海軍病院までの航空機の中で空の棺を見守っていたのだった。その後Jackieと空の棺が到着する20分前に、遺体は静かにベセスダに検死のために運び込まれたのである。誰がこうしたことを手配する力を持っていたのであろうか?

 

証拠を全て封印し、単独殺し屋についてのばかげた嘘で私達を情報攻撃し続ける力を、今日、誰が持っているのであろうか?短いリストになるのではないだろうか?そのリストにはマフィアやロシアやカストロは含まれないものである。そのリストにはBush一族が含まれており‐それ以上に大手石油会社の所有者;銀行業界のエリート;軍産複合体の中枢が含まれているだろう。こうした人間達が、そして彼らの後継者達が、911の攻撃を仕掛けたのだ。重要視すべき問題である。

Jim Fetzerは元海兵隊将校で、ダルースのミネソタ大学のマックナイト名誉教授である。

John Hankey は30年近くロスアンジェルス市の学校で、「歴史として」通用している事象の見直しを提起する代替的研究方法を含めて、歴史と英語を教えている。

2013年11月10日 (日)

ブッシュはJFK暗殺チームを調整したのか?

以下は、http://www.veteranstoday.com/2013/03/30/did-george-h-w-bush-coordinate-a-jfk-hit-team/の日本語訳です。


ブッシュはJFK暗殺チームを調整したのか?

by Richard Hooke (with Jim Fetzer)

 

01_ghwbfeaturedimage_2元CIA長官で第41代アメリカ合衆国大統領、George H.W. Bushが我々の第35代大統領の死に関与していたことが示されるのは、これが最初ではなく、また間違いなく最後でもないであろう。我々の以前の記事、例えば、“Was George H.W. Bush involved in the assassination of JFK?”(George H.W. Bush はJFK暗殺に関与していたのか)において、John Hankey と私は双方共にこの疑問を扱っている。そこで彼はGHWB (第41代大統領George H.W. Bush)のDealey Plazaにおける狙撃事件での役割を裏付ける大量の証拠を提供している。この新しい検証において、Richard Hookeはその主張を具体的に実証し、彼自身のさらなる証拠を提起するものである。私はそれらは正しいと信じている。

 

GHWB がYale 大学時代からMalcolm “Mac” Wallace を知っていたことは特に驚くべきことである。”Mac” Wallaceは LBJ(リンドン・ベイ・ジョンソン第36代大統領)が私的に雇っていた殺し屋で、Lyndonのために一ダースもの多くの人々を殺害したのである。その中には、彼の仕事に口をはさみ過ぎたため、話すことを続けさせることが出来なくなった、彼自身の姉妹の一人も含まれていた。LBJが大統領暗殺に関与していたことを示すかなりな量の証拠が存在している。彼の生活は「全ての人々の大統領」になることに捧げられていたのである。Phil Nelsonが、著書 LBJ: Mastermind of JFK’s Assassination (2nd revised edition, 2011) において文書で示しているように、彼はこの追求に際して容赦なかった。Madeleine Duncan Brownの著書 Texas in the Morning (1997),、Barr McClellanの著書 Blood, Money & Power (2003)、Billy Sol Estesの著書 A Texas Legend (2004)もまたLBJを中心人物であったと名指ししている。このことは、E. Howard Huntの著書“Last Confessions” (2007)によっても確認されている。E. Howard Huntは、LBJ、Cord Meyer、David Atlee Phillips、William Harvey、 David Sanchez Morales らを「指揮系統」にいたと確定している。

(画像下の字幕:George W. BushとMalcolm Wallaceの写った1947年のYale 大学の Skull & Bonesの写真は、私達に与えられている、1947年にニューヨークのColumbia大学で学んでいたことになっているMalcolm Wallaceに関する定型的な歴史は、おそらく全面的には正しくはないことを示している。)

 

知る立場にいたJack Rubyまでもが、もし他の人物が副大統領であったなら、暗殺は決して起きなかっただろうと主張していた。McClellan は、Clint MurchisonH. L. Huntのようなテキサスのオイルマンが、石油減耗控除を27.5パーセントに維持するために、暗殺の資金を提供したと結論付けた。この控除率はLBJ政権下で変わらずに維持されたのだった。

 

私は、1948年にLyndonとの不倫関係を始め、彼の息子Steven(彼だけが結婚生活における子供ではなかったが、唯一の男子子孫であった)を1950年に出産した、Madeleine Duncan Brownと100回以上の対話を持った。彼女は私に、暗殺からわずか6週間後の大晦日のテキサス州オースティンのDriskill Hotelでの彼らの面会について語った。その時彼女は彼に、誰も彼以上に得をする人物はいなかったのだから、彼が暗殺に関与していたのではないかという噂を持ちかけたという。するとすぐLyndon は激昂し、彼女にCIAとオイル関係者がJFKを除去することに決めたのだと語ったという。こうしてMac Wallace が関与していたことには、深刻な疑いがないのである

 

Wallace はHarry Lewis and L & G Oilで働くことになった。1970年に彼はダラスに戻り、John F. Kennedy暗殺における彼の役割に対してさらに金をEdward Clark に要求し始めた。Barr McClellan によれば、このとき、Wallace を殺す決定が下されたという。「彼は除去されねばならなかった。テキサス州のトループに娘に会いに車で出かけた後、彼はテキサス州ロングヴューのL & Gのオフィスに立ち寄った。そこで車中に排気ガスが流入するように彼の車の排気管が操作された。」1971年1月7日、Malcolm Wallace はテキサス州ピッツバーグへ車で向かう途中には死亡した。彼は居眠りし、道路から外れた後に、衝突したものと考えられた。Wallace は大規模な頭部の損傷により死亡したのだった。

 

程なく、Clifton C. Carter が53歳で死亡した。1971年はまた、Billie Sol Estes が刑務所から出ることになっていた年でもあった。オースティンに拠点を置いていたテキサスレンジャーズの一人、Clint Peoplesによれば、Billie Sol Estes は、自分が自由を手にした際に、 Henry Marshallの死について詳しい話を語ると約束していたという。

 

1984年8月9日、Estesの弁護士、Douglas Caddyがアメリカ合衆国司法省のStephen S. Trott 宛てに手紙を書いた。その手紙の中でCaddy は、Wallace、 Billie Sol EstesLyndon B. JohnsonCliff CarterHenry MarshallGeorge KrutilekHarold Orr、 Ike Rogers、 Coleman WadeJosefa JohnsonJohn KinserJohn F. Kennedy、の殺害に関与していたと主張した。Caddy は以下のように加えた:「Estes 氏は、LBJが一連の殺害を命令し、彼の命令をCliff Carterを通じてMac Wallaceに伝え、Wallaceが殺害を実行したものであると証言する意思があります。」

 

これは、Billy Solに対するフランス人調査報道記者William Reymondによるインタヴュー内容と一致するものである。そのインタヴューにおいて、彼はLyndon が自身の最高責任アシスタント、Cliff Carterをダラスに送り込み、暗殺の手配が成されるのを確認させたと説明している。このことを彼はA Texas Legend (2004)においても再主張している。Billy Sol はCliff Carterと“Mac” Wallace の双方を個人的に知っており、直接の対話から彼らの関与を推測していた。The Education Forum上でのJohn Simkin とDouglas Caddyの間のeメールのやり取りのコピーをamazon.com上で見ることが出来る。これは、LyndonがCliff Carterを利用し、“Mac” Wallaceにこうした犯罪を実行するよう指示を伝えていたことを具体的に示すものである。それ故に私はGHWB と“Mac” WallaceがYale大学のSkull & Bones のメンバーであったことを発見して衝撃を受けるのである。

http://www.youtube.com/watch?v=pxJop1MWmpk

 

なぜDal-Tex が問題となるのか

Warren 報告書 (1964)によれば、暗殺の間3発が放たれたという。 暗殺当日にFBIとシークレットサービスは、一発目がJFKの背中に、二発目がJohn Connallyの背中に、三発目がJFKの後頭部に命中し、大統領の命を奪ったとの結論を下した。発砲された一発がそれて、離れた所にいた見物人James Tagueを負傷させていたことが、後に明らかになった。 4発以上が放たれていたことを信じる者にとっては、これは特に問題となる事象ではなかった。六箇所の異なった地点から八発、九発ないし十発が放たれていたと考えられることが判明している。(例えば、“Dealey Plaza Revisited: What happened to JFK?”を参照いただきたい。)しかし三発のみが発砲されたと信じている者にとっては、これは微妙に困難な状況を示すことになる。こうして、背中に命中した弾丸は実際には大統領の首の後ろに命中したものであり、大統領の喉から侵出し、Connally.の背中に侵入したとする「魔法の弾丸」説というでっち上げに至ることになった。

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証拠は全てそれに反するものである:まぎれもなく、それは偽りであることが実証可能であるのみならず、解剖学的に不可能でもあるのだ。私が“Reasoning about Assassinations”において説明しているように、頚椎が介在しているからである。それでもなおこれが「公式説明」の支柱となったのは、そうしなければ、大統領の喉の傷とConnally の複数の傷を他の弾丸、他の狙撃者に基づいて説明しなければならないからである。徹底的な、詳細な細部にわたる医学的、弾道学的検証、そして目撃証言は、JFKが四度撃たれていたという結論を支持するものである。-背中を一回(後方から);喉を一回(前方から);頭部を二回(後頭部を後方から一回、右のこめかみを右側/前方から一回)。これらの弾丸のうち一発も、テキサス教科書倉庫ビル六階の「暗殺者の巣」からは放たれてはいなかったと考えられるが、Dal-Texから放たれた三発には、テキサス教科書倉庫ビルから放たれたものであるかのように響く音響効果があった。Richardの検証は、GHWB がこのDal-Texの窓に見えることを示しているのである:

 

 

03_theshotsequencerotated_2
(画像下の字幕:最も可能性の高い一連の順序は以下である;Country Records Buildingから発射された一発が大統領の背中に命中し、直後にTriple Underpass(三線高架下道路)の南側末端部から一発が発射され喉へ命中した。その後Dal-Tex から発射された一発はそれ、Tagueを負傷させた。教科書倉庫から発射された一発がJohn Connallyに当たった。運転手がリムジンを左に寄せ、停止させた。Dal-Texから発射された二発目がJFKの後頭部に命中した。大統領は前方に倒れこみ、Jackieが抱きかかえた。彼女が大統領の顔を見ているとTriple Underpass(三線高架下道路)の北側末端部から発射された炸裂性弾丸が右のこめかみに命中した。Dal-Texから発射された三発目はそれ、クロム製の縁に当たった。その他の弾丸がおそらくJohn Connallyに当たったり、それてクロム製の縁に当たったりして、芝生で発見された。一発も「暗殺者の巣」からは発射されなかった。)

これは一連の発砲についての私の分析であると強調することをお許しいただきたい。私はこれを“
What happened to JFK–and why it matters today” (UW-Madison, 22 November 2011)を含む、複数箇所で詳細に説明してきた。私達は双方ともDal-Texから三発が放たれたと信じるものではあるが、一連の発砲に関してRichardは必ずしも私に同意してはいない。Dal-Texから三発が放たれたこと、これは下の彼の検証で彼が扱っている題材である。一発がそれてJames Tague.を負傷させたと考えられる。別の一発がリムジンのフロントガラス上部のクローム製の縁に当たったと考えられる。そして三発目がJFKの後頭部に当たったと考えられるのである。特にRichard は、もう一発が抗柵の後方から放たれたと信じている。これは、Ed Hoffmanやその他の人物も支持していることである。さらに別の狙撃者がいたであろうことには私も同意している。

http://www.youtube.com/watch?v=zLL8diz-7bw

 

George H.W. Bush がDal-Tex の暗殺チームを調整した
by Richard Hooke

 

04_ghwbattsbdGeorge H.W. Bush は少なくとも1961年という早い時期にCIAのために活動していた;おそらく彼は、Skull and Bones 結社に属していたYale大学での大学時代に、リクルートされたのであろう。彼と彼の妻Barbaraはヒューストンに引越し、海底石油採掘ビジネス、Zapata Offshore Co.を経営した。これは採掘設備を世界中に配備していたCIAのトンネル会社であり、何を行っているのか疑われるCIAのビジネスで彼が一度に数週間姿を消す上では都合が良かったのである。Bush は、ZAPATA. Col.作戦とのコードネームで呼ばれていたピッグス湾侵攻作戦の主要な組織まとめ役、リクルート担当者であった。元ペンタゴンの高位にあった高官、Fletcher ProutyはOliver Stoneの映画「JFK」中の「X大佐」のモデルになった人物であったが、彼はこの作戦のために二艘の海軍船舶を調達していた。この二艘は非海軍色に塗り替えられ、HOUSTON 、BARBARAと改名されたのだった。

 

George H.W. “Poppy” Bush はJFKが暗殺された時に自分がどこにいたか、何をしていたかを思い出すことが出来ない少数者の一人である;事実、20年以上にわたり、彼はその詳細を全く思い出せないのである。彼は当時39歳で、ハリス郡(ヒューストン)の共和党の議長であり、JFKに対する辛らつな批評家であった。しかし1963年11月21日に、GHWB はダラス中心街のシェラトンホテルに滞在しており、その日の夜、石油採掘契約者アメリカ協会にむけて講演していたのであった。しばらくして、彼は報じられる所によれば、Clint Murchison, Srの自宅での「承認のための会合」に出席しており、暗殺実行の前夜に最終指示を受け、JFK殺害の祝杯を上げていたという。[注記: Madeleine Duncan Brown が自身の著書Texas in the Morning (1997)においてこの出来事を記述している。これは、Nigel Turner制作の"The Men who Killed Kennedy"のパート9、"The Guilty Men"でも裏づけられている。]

http://www.youtube.com/watch?v=jgNfQYpS1gQ

 

保安官代理Roger Craig はDealey Plaza でその日にあった12件の拘束について自分は知っていたとJim Garrison に報告した。その内の一つは、特に、ダラス警察署のR.E. Vaughn によってなされたもので、Dal-Tex ビルから出て来る男の拘束であった。彼は自分のことを「テキサス州ヒューストンの自営石油操業者である」と述べたという。この拘束された人物はダラス警察署の刑事によってVaughnのもとから連行され、彼がその人物を見たのはそれが最後であったという:この謎の人物の存在については、顔写真も撮影されず、インタヴューも行われず、指紋も取られず、名前も分からなかった。「ヒューストンの自営石油操業者」は常にGeorge Bushの(CIAの)隠れ蓑であった。実際の所なぜ彼は拘束されたのであろうか。Garrisonはその人物がDal-Tex ビルから走って出て来たのであり、当局は見物人の騒ぐ声のため、拘束せざるを得なかったのだと述べた。彼は取調べのため保安官オフィスに連行されたというが、取調べの記録は存在していない。その後、二人の警官が彼に同伴しビルから外に出てきて、待ち受ける群集のやじに直面した。彼らは彼をパトカーに乗せ、走り去った;おそらくDealey Plazaへと戻ったのであろう。なぜならそこで彼は、アメリカ空軍将軍Edward Lansdaleと共に写真に撮影されることになるからである。

 

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Ed Landsdale は「三人の浮浪者」(真ん中の写真)のそばを歩いている人物であると、秘密活動のためのペンタゴンとCIAの連絡役であり-またOliver Stoneの映画「JFK」中の「X大佐」のモデルでもあった-L. Fletcher Proutyや元アメリカ海兵隊司令官、 Victor Krulakほどの当局者によって確認されたのである。両人共にLandsdale のことをよく知っていたのである。

 

06_lansdalewaitingforbush279x320_2GHWBの本人確認に関しては、私達にはプロのカイロプラクターで、人物の身体や服装に対処する専門家であるRalph Cinqueによる観察がある。「George HW がそこにいるということの確定は簡単です。他にどんなまじめな代替案があるのですか。全く彼に似た人物がたまたま偶然そこにいたという全く驚くべき偶然が起きたというのですか。何度V(映画「V for Vendetta」中のVendetta =復讐)は私達に、自身は神と同様、サイコロ遊びをするものではなく、偶然を信じるものではないと告げねばならないのでしょう。私も、あるいは殺害についての他の真剣な研究者は誰も、JFK暗殺に際しては、特にそのような偶然はないと言わざるを得ないのです。」私達には、テキサス教科書倉庫ビルの前にBushが立っている写真がある;私達には、その時Dealey Plaza でEd Lansdaleを写した写真がある;そして私達には、世界中で暗殺を準備したことで有名なLansdaleが彼に話すのを待っている姿を写したもう一枚の写真があるのだ。この件については、「これらの写真にはまぎれもなく千の言葉以上に値する」と言っても過言ではないであろう。

 

偽りのアリバイ

次に私達が1963年11月22日のGeorge H.W. Bush について知るのは、FBIの覚書メモによってである。それによれば、GHWBはダラスの保安官オフィスでの記録には残っていない取調べから解放され、ヒューストンのFBIオフィスのSAC Graham W. Kitchel のもとに電話をかけたという。これは、ここ数週間の間に、James Parrottという名の人物が大統領がヒューストンに来た時大統領を殺害すると話していたことを思い出したと述べるもので、偽りのアリバイを確立しようとしていたものであった。Bushがこの電話をかけた直後に、FBI職員がParrot の自宅へと派遣された。別のFBIメモでは、Parrotの母親は、JamesはFBIが自宅に到着した時自宅にいなかったが、彼は一日中自宅におり、彼女が息子Gary.の面倒を見るのを手伝っていたと語ったという。

 

Parrot 夫人は、午後1時直後にReynolds 氏が訪れて、Waugh Driveの共和党本部の看板を塗ることについて息子に話したと報告した。要点は、Kerney Reynoldの助けとGeorge Bushの助けがParrot にアリバイを与え、Parrot がBushのアリバイであったというものである;全員がお互いをかばい合っているのだ。Bushの共和党看板描きの一人であった暗殺者志望者について通報する偽りの電話;彼自身もまたBushの仲間の一人によるアリバイによって見逃されるもので、実際にはうまく機能していない;これはCIAのアリバイテキストの101番である。こうした類のものが歴史の代役を務めることは許されないのである;もしBushがそれほど看板絵描きについて懸念していたのであれば、なぜ彼はKennedy大統領がダラスに来る前に、FBIに警告の電話をしなかったのであろうか。

 

Bushはこのメモによって自分の頭部を銀の皿にのせて私達に差し出したのである;Bushは自身が目撃されたことを懸念していたため、パニックになり、その日にDal-Tex ビルの前で拘束されたのは彼ではなかったことを示す証拠を提示することで自分は賢明であると考え、愚かにもFBIに電話をかけたのだ。これはその時点では、良い考えのように思えただろう。しかし彼は実際には自身の関与の永遠に残る記録を創造していたのである。このメモはBushを、テキサス州のタイラーから長距離電話をかけてきた、ヒューストンのオイルマンとして確定している。Bushは暗殺の間、あるいは暗殺の直後にダラスにいなかったことを確証しようとしていた。彼は、誰かが自身を、Dal-Tex ビルから走り出て来るところを拘束され、ダラス保安官オフィスに連行され、そのビルから連れ出されたオイルマンとして特定することを懸念するべきであったのだ。

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この1963年11月22日の日付のあるFBIメモは、Bushがテキサス州タイラーから電話したと述べている。しかし彼が実際にそこにいたという証拠は存在していない。暗殺の後20年以上にわたり、Bushはダラスで12時30分に暗殺が起きた時、自分はどこにいたのか記憶していないと言っていた。私がそのような話を聞いたことのある唯一の人物はRichard Nixonであった。彼はJFKが飛来するわずか2時間前にLove Fieldから飛び立っていたのである。
(訳者注:このメモの日本語訳が
こちらにあります。)

 

顕著なことであるが、このFBIメモはGeorge Bush が実際にどこにいたのかに対する答えを提供出来ないのである。このメモは、しかしながら、Bushが自由になり、偽りのアリバイを創作した最初の瞬間は午後1時45分であったことを私達に告げるものである。BushはDealey Plazaからわずか数ブロック離れた、ダラス中心街のシェラトンホテルに滞在していたにもかかわらず、午後1時45分にテキサス州タイラーにいたと私達に言おうとしているのである。

 

George BushのCIAの任務はダラスにおいてあからさまであった。そのために彼はダラスに滞在していたのだから、彼がタイラーで何をしていたというのだろう。JFKは午後12時30分に撃たれた。他の全ての人と同じように、Bushも午後12時30分にダラスにいなかったのだろうか。そのめにおそらく彼はダラスシェラトンホテルにいたのではないだろうか。Bushは他の全の人と同じように、大統領の状態を確認するためにパークランド病院に車を走らせることはなかったのであろうか;保安官のオフィスで取り調べを受けていたのでなければの話であるが。

 

FBIの覚書メモ

Bush は国家反逆として起訴される候補者であると考えられるのである:彼の1963年11月22日のアリバイは捏造されたものであり、彼がそこにいたことを示す証拠が我々にはあるのだ。テキサス州タイラーからの電話についてのFBIメモは、彼がCIAのテキスト式アリバイをでっち上げていたのであり、彼が嘘をついており、おそらくJFK殺害への共犯者であったことを示す以外に、彼が電話をかけてきた場所を証明するものではない。Bush は暗殺後20年以上にわたり、暗殺時に自分が何をしていたのか全く記憶していないと主張していた。実際の所、彼は自分の自叙伝でも説明しなかったのである;そしてその後、突然、彼はテキサス州タイラーでロータリークラブに対して講演していたという話をでっち上げたのだ。Aubrey Irby は、Bushが講演している時、ホテルのベルボーイがやって来て、Aubrey にJFKが死亡したことを連絡したと述べた。 Aubrey 氏はこの情報をWendell Cherry Irby氏に渡し、彼がそれをBushに渡し、Bushは講演を中止したという。Irby氏によれば、Bushはこの状況の下では政治に関する講演は不適切であると考えると説明し、講演を終わらせ、すぐに着席したのだという。

 

George Bush がこの出来事を20年以上にわたり思い出せなかったとは、想像出来ないことである。JFKが死亡したというWalter Cronkiteの世界に対する発表は午後1時38分になされた。大統領と知事Connally が午後12時30分に撃たれたことが判明していた後に、Bushがその時、テキサス州タイラーでロータリークラブに対して講演していたと考える人がいるのであろうか。Kennedy 大統領はDealey Plazaを通過した後に、ダラス貿易マートで昼食時のスピーチを行う予定になっていた。ダラス周辺にいた人は皆そのスピーチに参列しようとしていた;そしてJFKが撃たれた後大部分の人々は、重傷を負った大統領と知事に関する最新ニュースを知るために、パークランド病院へと殺到した。右派人物が所有するビル内でのJFK嫌いの共和党集団に対するテキサス州タイラーでの講演は、Bushがダラスにはいなかった証拠とは認められないのである。入手可能な証拠が、BushはCIAの任命を受けており、Dal-Tex 暗殺チームの監督をしていたことを示しているためである。Dal-Tex からはMannlicher-Carcanoを用いて三発が放たれたと考えられており、この銃は使用された凶器のうちで唯一消音装置を取り付けていない凶器であったと考えられている:

 

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次に、George Bush を暗殺の直後にDealey Plazaで撮影された写真中で、テキサス教科書倉庫ビル出入り口の隣、そしてEd Lansdaleの隣に見ることが出来る(下を参照)。これらの写真は、紛れもなくGeorge Bushを写しており、彼がダラス保安官オフィスを出て行った後に、どこに行ったのかを告げるものである:見逃した最新情報を得るために犯罪現場に戻ったのである。彼は James Parrot について通報するFBIへの電話を、ダラス保安官オフィスから午後1時45分にかけたに違いない。なぜなら Bush を Dealey Plaza で、午後2時頃 Dealey Plazaを立ち去り、「三人の浮浪者」のそばを通り過ぎ、駐車場へと向かうことになるLansdaleと共に見ることが出来るからである。Bushが、Oswald が午後1時50分にテキサス劇場で捕らえられるまでDealey Plaza周辺に留まっていたLansdaleと共に写真に収められるには、いうまでもなく彼はDealey Plaza に直接戻らねばならない。もしLee が捕らえられなかった場合には、Lansdaleが「プランB」として、有蓋貨車に行くよう指示されていた三人の浮浪者–Charles Rogers、Charles Harrelson、 Chauncey Marvin Holt(しばしばE. Howard Huntと誤認されている)–を罠に嵌めていたのであろう。暗殺が彼らのせいにされることもあった。帽子をかぶった浮浪者Holt (CIA)は、自分達は有蓋貨車中で発見され、Oswald が捕らえられた直後にplazaを通って連行されたと述べた。彼はOswaldの逮捕を、このおなじみの写真で彼が手に持っている紙袋の中に隠していたCIAが提供した無線で盗み聞きしていたため、知っていたのだった。

 

有罪を示す覚書メモ

09_memomentioninggeorgebush1988年にJohn McBride が発見した、 J. Edgar Hooverによる FBI の覚書メモ(右)は暗殺のわずか7日後に書かれたものであるが、1963年にGeorge H.W. Bush が CIAの関係者であり、反Castro 派キューバ人に関する最新情報を与えられていたという根拠を提供するものである。George Bush は当時自分はCIA にいなかったため、このメモは別の「George Bush」について言及しているものであると述べている。しかし同名の人物がいたにせよ、その人物は文書係であり、ピッグス湾作戦についての覚書メモを受け取るはずはなかったのである。そしてまた、この文書中のGeorge Bushは間違いなくGeorge H.W. Bush であり、同じ住所であったことを示す別の情報も明らかになっている。1976年、Ford 大統領はWilliam Colbyの後任としてGeorge Bush を CIA長官に任命した。Bushはこの役職を、
1976年1月30日から1977年1月20日まで、357 日間にわたり務めた。Bush は自分はCIAのために活動したことはないと議会の前で偽りの証言を行い、また民間人が同局の運営に任命されることは初めてであると広く報じられた。しかしこれはばかげた以上にたわ言であった。George Bush はおそらく、Yale大学から直接リクルートされた、CIA に捉えられた終身雇用の囚人であったと考えられる。
(訳者注:このメモの日本語訳が
こちらにあります。)

 

George H.W. Bush (CIA) はまたGeorge De Mohrenschildt (CIA)の親しい友人でもあった。両人はダラス石油クラブのメンバーであった。1970年代後半にJFKと MLK(キング牧師)の死を調査するHSCA(暗殺に関する上院調査委員会)のため、Gaeton Fonzi による聞き取りが行われる前日に、De Mohrenschildt が撃たれて死亡しているのが発見された後、De Mohrenschildtの住所録中に以下のBushの名前と住所が発見されたのだ:“Bush, George H.W. (Poppy) 1412 W. Ohio also Zapata Petroleum Midland.” CIA の文書により、ピッグス湾作戦(オペレーションZapata)の計画の最中、De Mohrenschildt はメキシコとパナマを頻繁に旅し、 CIAに報告書を提出していたことが明らかにされている。彼の義理の息子もまた、Warren 委員会に対してDe Mohrenschildt はキューバ侵攻のためのスパイ活動をしていたと自分は信じると告げていた。George De Mohrenschildtはとりわけ、Lee Harvey Oswaldの親友であり、またOswald が1963年の秋にダラスに出て来て、テキサス教科書倉庫ビルでの仕事を見つけた後の彼の側近であったと考えられている。

 

Bush は窓にいたのか?

著書
The Killing of a President (1994)において、Robert Grodenは窓に外見の暗い人物が見えると述べている。この人物の身元をJames Richards はJim Fetzer に対して、フロリダ州マイアミの「リトルハバナ」のフリーダム公園に彫像が建てられている Nestor “Tony” Izquierdoであったと特定している。彼は反Castro 派のキューバ人で、 GHWBはピッグス湾の時から彼を知っていたと思われている。Dal-Texビルからライフルにより三発が放たれたと考えられるという、この場所について最も示唆に富む解釈を提供するDuncan MacRaeの以前の研究“Dal-Tex Shooter 2nd floor”を基に、私はさらに以下のように発展させた:

 

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Bushがその時そのビルにいたのであれば、彼は出しゃばらずに、Dal-Texビルの二階にあったウラン採掘会社(CIA の所有物)の物置の窓の内側にいたと私は推測する。私の解釈はGHWB風の大きな左耳、高い身長、ボディランゲージ(首の傾げ方)、髪の生え際、額の特徴を持つお坊ちゃん髪型をした人物が、Dal-Tex 暗殺チームを監督していたというものである(下のコラージュを参照)。彼はある理由のためダラスにいたのだ。その理由とは、大統領の車両パレードを見るためではなく、狙撃者としてでもなく監督者として、無線装置を用いて監視人と通信するためであった可能性が高い。この監視人は、(上のAltgens6 写真で)ヒューストン通りでJohnny Roselli (CIA/マフィア)の隣に立って携帯無線機に話しかけている姿が見られるDanny Arce (CIA)であったと考えられる。Arce は、数発が放たれた間、誰かと話していたのであった。Ruth Ann (CIA) はタイミングを数えており、携帯無線機でテキサス教科書倉庫ビルの六階から情報を受け取っていたのだと、(共謀を認めた参考人 Loy Factor)によって告発された。

 

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傘の男の同伴者は、 Orlando Bosch (CIA)であった可能性があるが[注記: あるいはFilipe Vidal Santiago]、リムジンがStemmons Freeway の標識を通過し、傘の男が自分の傘を上げ下げする間、無線で話しているのではない。傘の上げ下げは、まだ標的が生きているので「射撃を続けろ」という合図であったと考えられる。[注記: そこは、私が上に確定した全ての発砲箇所から目に見える場所であった。]最年長の浮浪者Chauncey Holt (CIA)は、自分は茶色の紙袋の中にCIAが支給した無線を隠し持っており、Rock Island鉄道の有蓋貨車内からであっても事件の最新情報を入手出来ていたと述べた。Holtは15組の偽のシークレットサービスの身分証明書を作成し、grassy knoll(芝生の丘)の後ろにある、その日の朝ダラス警察署が使用していた駐車場に駐車してあった赤色の小型トラック車中に置いており、grassy knoll(芝生の丘)の狙撃者の逃亡の手助けとなったのだった。それから鉄道塔転轍手、Lee BowersもまたWarren 委員会に対して、奇妙な人々が抗柵の後で車を運転していたのを自分が見て、一人が携帯無線機を使っていたことに気付いたと証言した。

 

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GWHBがそこにいたという証拠の概略

(1) Bushが1963年11月22日午後1時45分に電話をかけており、テキサス州ヒューストンのオイルビジネスマンであると身元確認されたことを示すFBIの報告書(覚書メモ)。彼が訪れたFBIオフィスはヒューストンオフィスであった。

(2) 11月22日の12時35分頃Dal-Tex ビルから走り出てくるところを拘束された男は、(副保安官Roger Craigによれば)自身の身元を「ヒューストンのオイルマンである」と認めたと言われている。Bushはダラス警察署のR.E. Vaughn によって拘束されたのだった。

(3) Bushは、James ParrotについてのFBIに対する警告を、ヒューストンのFBIオフィスの彼の友人であったFBI特別捜査官Graham W. Kitchelに長距離電話で知らせた。

(4) James Parrot には破壊分子としての履歴はなく、George Bush共和党上院選挙運動の際の看板描きであった。

(5) James Parrot には、Bushの支援者でもあった別の友人、Kerney Reynoldsから速やかにアリバイが与えられた。

(6) George Bushはダラス中心街のシェラトンホテルに滞在しており、そこで前日の夜(21日の夜)を過ごしていた。

 

(7) 午後12時30分にJFKが撃たれた直後にDealey Plaza でGeorge Bush (CIA) が警察と話している姿を写した写真が、少なくとも2枚の存在している。

(8)そうした写真の一枚は、Bush(CIA)がEd Lansdale (CIA)の隣に立っている姿を写している。

 

(9)そうした写真の一枚は、警察が封鎖しており、特別な身元証明書(CIA)がなければ入れない区域内のテキサス教科書倉庫ビルの出入り口付近にいるBushの姿を写している。

(10) Lansdale の隣にいる写真は、FBIメモでBushが電話したという午後1時45分から、Lansdaleが三人の浮浪者の横を通ってplaza を出て行く姿が撮影された午後2時の間に撮影された可能性が高い。この浮浪者が有蓋貨車から連れ出された午後1時50分頃、Oswaldがテキサス劇場で逮捕された。

(11) 20年以上にわたり、George H.W. Bush は、暗殺の際に自分が何をしていたのか記憶していないと述べていた。しかし突然彼は、自分が午後1時38分にタイラーのロータリークラブで講演をしていたことを思い出したのであった。一方、James Parrot を通報する彼のFBIへの電話は午後1時45分になされていた。

(12) 彼が、LBJが私的に雇っていた暗殺者であった、Malcolm “Mac” Wallace とYale大学で同席していたこと並びに、Clint Murchison, Sr.の自宅での承認のための会合に出席していたことは、JFK暗殺における彼の共謀を示す力強い状況証拠である。

 

あとがき

注目に値することであるが、(DCA フィルム中に)ヒューストンとエルム通りの角から、「ヒューストンのオイルマン」(George H.W. Bush)が数分前に拘束されたDal- Tex ビルに向かって歩いている人物がいる。この人物は彼の息子、17歳のGeorge W. Bushに酷似している。この人物の耳、鼻(これらの三枚の画像の二枚目では鼻を改ざんするがさつな処理がなされている)、鼻梁の形状、下あごの輪郭はGeorge W. Bushのものとかなり一致している。彼が着用しているお坊ちゃん風のローファーと白い靴下はチアリーダーにふさわしいものである。W.Bushもまたそこにいたように見えるのである。

 

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(画像下の字幕:
私の見解はこの人物は彼(George H.W. Bush )であるというものである。
父親が保安官の事務所に連行されたため、彼は途方に暮れていた;彼は父親を探していたのだ...
身長、体重、体格、鼻、耳、年齢、顎、歩き方;
数分前に父親が逮捕されたビルに向かって歩きながら...
白い靴下とお坊ちゃん風ローファー...
これが事実である確率はどれくらいか...かなり高いと私は思う...

 

JFK研究者Richard M.Hooke  2013年3月28日  )


Richard M. Hooke
はキャリフォルニア大学サンタバーバラ校の文化人類学研究者で、Bank of Americaの元システム分析者であり、またJohn F. Kennedy大統領の死に関する著述家、研究者でもある。 

Jim Fetzerは元海兵隊将校のミネソタ大学のマックナイト名誉教授で、Veterans Todayのコラム執筆者、編集者である。

 

 

2013年11月 4日 (月)

オズワルド無罪キャンペーン

以下は、http://www.oswald-innocent.com/の日本語訳です。

 

オズワルド無罪キャンペーン

 

私達は-これを隠蔽しようとの巧妙な取り組みにもかかわらず-有名なAltgens 写真に写った「出入り口の男」はLee Harvey Oswald であり、従って、ケネディ大統領殺害についてのありとあらゆる彼の罪は放免されることになるという真実を広めることに専念するJFK研究者の組織である。これはJFK暗殺についての決定的証拠である。

 

2013年11月22日のオズワルド無罪キャンペーンのサンタバーバラでのJFK真実集会にご参加下さい。

 

詳細は、こちらへ:50周年記念イベント 

 

警報!オズワルド無罪キャンペーンによって史上初のAltgens 写真の再現がなされています。

この結果をご覧になるにはこちらへ:
49 Years in the Offing — Altgens 写真の再現 

 

また、Blogspot上のオズワルド無罪キャンペーンも訪れて下さい。

 

Blogspot上で私達に加わるには、こちらへ: Blogspot上のオズワルド無罪キャンペーン  


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Lee Harvey Oswald に関する真実は上のリンクではっきりと見ることが出来る。彼は暗殺の間、テキサス教科書倉庫ビルの出入り口に立っていたのである。これは、Lee が通過する車両パレードを見ていたことを、彼が6階でケネディ大統領を狙撃することは不可能であったを証明するものである。JFK暗殺においては陰謀が存在しており、Lee Harvey Oswald は無実であったのだ。私達は、陰謀と隠蔽工作を証明する豊富な写真上の証拠並びに多くのJFK暗殺に関する正確な情報を提供するものである。

嘘に終わりを!Lee Harvey Oswald に光を!

 

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「Oswald はビルの前にいたという証拠がある。ビルの前で彼を見た人々がいた。私は、シークレットサービスの提示した証拠や他の証拠により、Lee Harvey Oswaldは出入り口にいた男であったことに私自身納得している。」
Gerald McKnight教授

 

 

オズワルド無罪キャンペーンの上級メンバー

David Wrone                   Jim Fetzer                        Ralph Cinque                Vincent Salandria

 

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Richard Hooke              James Norwood           Mark Lane                    Phillip F. Nelson

 

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Peter Janney                  Gerald McKnight            Larry Rivera                 Roy Schaeffer

 

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Dennis Cimino                Ted Coeyman            Donald Fallon               Staffan H. Westerberg 

 

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Donald Miller                      Pat Shannan                Graham Waite                  Tyler Newcomb

 

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Valerie Newcomb Woods     Orlando Martin           Jerry Kroth                Craig Roberts       

 

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Pete Mellor

 

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David Wroneは、Wisconsin-Stevens Point (UWSP)大学の退官した歴史の教授であり、オズワルド無罪キャンペーンの名誉相談役である。Wrone教授は、西洋文明の偉大な書物、ネイティブアメリカンの歴史、JFK暗殺に関する講座を受け持っていた。同教授は、「The Assassination of John F. Kennedy」、「 A Comprehensive Historical and Legal Bibliography and of The Zapruder Film」、「 Reframing the JFK Assassination」 という本の著者である。最後の書の第11章において、Oswaldが「出入り口の男」であったと広めており、その概要がWrapページの見出しになっている。

 

James H. Fetzer博士は、オズワルド無罪キャンペーンの会長である。同博士は、元海兵隊将校でMcKnight 大学名誉教授であり、JFKの死に関する4つの全国会議において議長あるいは共同議長を務めている。博士は「JFK: The Assassination, the Cover-Up, and Beyond 」というドキュメンタリーを制作した(1994)。博士はまた「Assassination Science 」(1998)、「Murder in Dealey Plaza 」(2000)、「The Great Zapruder Film Hoax 」(2003)という本を編集した。博士は、インターネット上の論考集assassinationresearch.com をJohn Costellaと共同で編集している。また博士のVeterans Today誌での定期的コラムは、世界で最も広く読まれているJFKに関するコラムの一つである。

 

Ralph C. Cinqueは、カイロプラクター、健康施設オペレーターとして健康分野で働いている。同氏はある国際的医師集団の元代表である。Ralphはまた長年にわたるJFK暗殺の熱心な研究者でもあり、Veterans Today や世界で最も読まれているオルタナティブニュースページの一つである、LewRockwell.com上に暗殺に関する記事を発表している。

 

Vincent Salandria は弁護士で、1963年11月22日にこの暗殺が国家犯罪であると分かった、尊敬すべきJFK研究の「第一世代」である。同氏はその日に、Oswaldはすぐに殺されるだろうと述べた。Vinceは、「False Mystery」という本の著者である。同書は、JFKは「安全保障国家」によって殺害されたと、そしてそれは謎ではなく、むしろ意図通り「露骨にあからさま」であったと推測している。Vincent Salandria の参加をいただき、私達は特に光栄である。

 

Richard Hookeは、キャリホルニア大学サンタバーバラ校で文化人類学の学位を取得しており、Bank of Americaの元コンピューターシステム分析者で、JFK暗殺に関する著述者、研究者である。同氏は、偽装をなすためにいかに画像が改ざん、変更されていたのかを解明し、鋭く証明している。Richardの類まれな画像を読み取る能力は、このホームページで広く生かされている。

 

James Norwood、キャリフォルニア大学バークレー校博士は、ミネソタ大学で25年以上人文科学と舞台芸術を教えてきた。同博士は、芸術、文学、歴史、西欧の伝統という考えについての6回連続講座によって、また一学期の長さのJFK暗殺に関する講座によって知られている。博士は最近では、シェイクスピアについての長編のドキュメンタリーのための作家-相談役として働いている。50周年記念に際して、博士はミネソタ大学でのラーニングライフプログラムを通じて、JFK暗殺に関する連続講義を担当している。

 

Mark Lane は、「Rush to Judgment 」(1966)、「The Last Word: My Indictment of the CIA in the Murder of JFK 」(2011)という本や他の書物の名高い著者である。Mark は公式説明に疑問を投げかけた初期の先駆けの一人であったが、Oswaldの無罪に関しては彼が世界で最も声高で、最も際立った声で、最も目に付く顔である。

 

Phillip F. Nelsonは、「LBJ: The Mastermind of the JFK Assassination」という本の著者である。同氏は同書において、Johnson がJFKを殺す企ての最も重要な扇動者であったと主張している。LBJ(リンドン・ベイ・ジョンソン)は、1962年から1963年に計画と実行のために他の人間に協力を求める前のおそらく1961年という早い段階で、それを思い付いたのだという。Phillip は、犯行を完遂するためにいかにJohnsonが、資金提供者から作戦計画者、隠蔽工作専門家までの鍵となる人間達を全て手配する、独自な状況にあったのかを説明している。そしてこの計画は全て、Lee Harvey Oswaldという名の「カモ」を犠牲にして、実行されたのであった。

 

Peter Janney は1950年代から1960年代の冷戦期にワシントンD.C.で育った。同氏の父親、Wistar Janney は上級経歴を持つCIA関係者であった。Janney 一家はワシントンの多くの政治的エリートと親密な関係を持っていた。そこにはMary Meyer、 Cord Meyerの家族や、Richard Helms、 Jim Angleton、 Tracy Barnes、 Desmond FitzGerald、 William Colbyのような他の高位にあったCIA高官もまた含まれていた。同氏の興味深い書、Mary's Mosaicにおいて、Peter は我々の大半が想像も出来ない現実の悪の大きさに光を当てている。

 

Gerald McKnight はメリーランドのフード大学の高く評価されている歴史の教授である。同教授はHarold Weisbergの知的、物理的相続人であった。Harold Weisbergが自身の全ての論文をMcKnight博士にゆだね、McKnight博士がそれらを特別保管記録としてフード大学に寄贈したのである。McKnight博士は、絶賛を受けているウォレン委員会の不手際に関する「Breach of Trust」という本の著者である。博士はOswald が出入り口にいたという数十年にわたる提唱者で、2012年のクリスマスの日のCPANでのディベートにおいて全国放送のテレビでそう発言した。

 

Larry Rivera は、軍のCID 将校として働いていた職業軍人のアラスカで生まれた息子である。同氏は1963年11月22日にドイツにおり、6歳であったが、JFK殺害を聞いた際の父親の反応(「ジョンソン!」との発言")を忘れないという。Larryは有資格のネットワークエンジニアで、また自動車の卸部品ビジネスを所有してもいる。同氏はJFK暗殺に関する生涯にわたる研究を開始しており、1991年にデイリープラザへの初めての旅をした。同氏は1993年の30周年のASKシンポジウムに出席した。同氏はスペインのメディアから暗殺に関してのインタヴューを受けた。Larry は、Billly Nolan Loveladyに関する史上最も徹底的な調査書をまとめている。

Roy Schaefferは1960年に海兵隊の航空電子工学学校を卒業した。同氏は卒業後、Oswaldと同じくキャルフォルニアのエルトロ航空基地に配属された。1963年に、同氏がデイトンデイリーニュース紙で写真処理担当者として働いていた時、Altgens6 写真のファックスを直接受け取った。直ちに、同氏には「マスキング」や「不明瞭化」といった改ざんのしるしが分かった。 こうしてJFKの真実という大義に対する生涯にわたる献身が始まった。Roy はJFK暗殺に関する3冊の本(未刊行)、並びに9つの記事の著者である。また同氏の多くのJFKのスクラップブックはデイトン大学に寄贈されている。Roy は出入り口にいたのはOswaldであったと述べた最初の研究者の一人であった。

 

Dennis Cimino はアメリカ海軍のパイロットで電気信号の専門家であった。同氏のJFKに対する関心は10代の頃に始まった。同氏の義理の父親は軍におり、トルコに配属されていた。父親は殺害の直後に、Oswaldに関する情報が連続して発表されるのを見たのだった。明らかに前もって準備されていたようだったという。父親はまた、暗殺の数時間前に爆撃機が通常手順から逸脱した非常事態時の動きで出撃したのも見たという。単なる偶然であろうか?父親はそうは思わなかった-また義理の息子もそうは思わなかった。Dennis はJim Fetzerと共に911の真実、上院議員Wellstoneの真実を求めるために熱心に活動しており、今回はJFKの真実を求めるため、ここに加わっている。

 

Ted Coeyman は、同氏が両親にJFKの葬儀に連れて行かれて以来、JFK暗殺に関心を持っている。同氏は世界で最大級のJFKに関する文献コレクションの一つを所有している。長年にわたり、同氏はPenn Jones、Harold Weisbergやその他の主要な人物達と直接交流している。Ted は RalphにJFK暗殺に関するいくつもの重要な研究を提供している。

 

Donald Fallon はテレビ向けのビデオ制作の分野で数年間働いており、画像を見る鋭い眼力を持っている。DonaldはOswald と出入り口の男を比較した最も興味深いコラージュ数枚を作成している。それらを見た後、正常な、正直な人間には彼らが同一人物であることを否定出来なくなる。

 

Staffan H. Westerberg は、スウェーデンのストックホルム出身のフリーランスジャーナリストであり、1970年代後半からJFK暗殺を積極的に研究している。同氏はJFKに関して複数の記事を発表しており、スウェーデン陸軍連隊の狙撃兵を利用して、Oswaldの離れ業であった狙撃の再現を実施した。いうまでもなく、狙撃兵は誰も、 Staffan 自身を含めて、誰もOswald が成したと言われる狙撃結果を再現することは出来なかった。

 

Donald Millerは一流の心臓血管外科医で、ワシントン大学の心臓外科手術の教授である。同教授はまた、一流の栄養学の医師でもある。そしてまた、教授はJFK暗殺に対して長年にわたり関心を持っている。これは一つには、教授のMalcolm Perry医師との親交によってもたらされたものである。Perry医師は教授に、パークランド病院で見られたJFKの首の傷に関する真実を語ったのだった。

 

Pat Shannan は作家そしてSpotlight、Media Bypass、American Free Pressの記者として長年にわたりJFK暗殺を研究している。同氏の業績には、Marina Oswaldを含む、重要人物へのインタヴューが含まれている。同氏の最新作は、Ralphが最高傑作であると証言する、「The JFK Assassination and the Uncensored Story of the Two Oswalds」である。

 

Graham Waite は英国のTeeside大学のメディア制作の上級講師である。同氏は、BBCラジオやTamarineフィルムスタジオでのプロジェクトにおいて実話のドラマ化に従事している。現在同氏は、出入り口にいるOswaldやJudyth Vary Baker著の「Me and Lee」からの素材を含んだ、Lee Harvey Oswaldに関するドラマ台本に取り組んでいる。

 

Tyler Newcomb は第一世代JFK研究者で、「Murder from Within」の共著者、Fred Newcombの息子である。同書は、暗殺におけるLBJの役割に初めてスポットライトを当てた本であった。Ty は今日、JFKに関する講演者、発言者として活動的であり、またプロの音楽家でもある。

 

Valerie Newcomb Woods はFred Newcombの娘であるが、兄弟Ty と同様、彼女も彼女の父親の遺産を守り、JFKの真実を広めることに極めて活動的である。Valerieは父親の研究資料の管理人である。その資料には、Mary Moormanのようなこの事件の鍵となる証人に対する録音インタヴューが含まれている。Tyと共に、彼女は「Murder from Within」を再刊行した。

 

Orlando Martin はアメリカ海軍で20年を過ごし、そこで同氏は小火器と弾道学の専門家であった。教練教官として、同氏は同氏が指導した隊の優れた業績を評価され、海軍/海兵隊業績勲章を授与された。同氏は砂漠の嵐作戦とその後のクウェートの解放に従事した。Orlandoはまた熱心なJFK暗殺の研究者でもあり、「 JFK: Analysis of a Shooting」という本の著者である。

 

Jerry Kroth博士は、カリフォルニアのサンタクララ大学の心理学の名誉準教授である。同博士は、JFK暗殺に関する2冊、「 Conspiracy in Camelot」、「Coup d’Etat」を含む、多くの本を書いている。博士はまたJFKに関しても広範囲にわたって講義しており、博士のビデオはネット上で広く見られている。 Jerry はOswaldの無罪、Oswaldは出入り口にいたこと、LBJ、CIA、マフィアが関与した大規模な陰謀があったことの強固な提唱者である。

 

Craig Roberts は、軍と警察の元射撃の名手であり、海兵隊とタルサ警察署での長い経歴を持っている。同氏は「Kill Zone: A Sniper Looks at Dealey Plaza」という本の著者である。Craig はまた、有資格の小火器指導者、ヘリコプターパイロット、カラテの黒帯でもある。Craig のダラスの暗殺記念館を訪問した際の説明は、このため「Kill Zone」の分量が増加したのだが、極めて興味深いものである。Craigには直ちにOswaldには暗殺は不可能であったことが分かったのだった。

 

Pete Mellorはイングランドに住んでいる。同氏は退職した、Lee Oswald が日本で行っていた仕事と酷似した海事電子工学(無線やレーダー)の大学講師である。Pete は1990年からJFK暗殺の熱心な研究者であり、アメリカに赴き、40周年を記念する2003年のダラスでのJFKランサーシンポジウムを含む、複数のJFK会議に出席した。同氏はまた、Mary Ferrell 財団のメンバーでもある。Pete がオズワルド無罪キャンペーンのホームページを編集している。

 

オズワルド無罪キャンペーンにご参加を!費用も義務もありません。以下を受託する旨をRalph に連絡するだけで良いのです:

 

メンバーの声明

 

我々、オズワルド無罪キャンペーンのメンバーは、ケネディ大統領の暗殺時に、 Lee Harvey Oswald はテキサス教科書倉庫ビルの出入り口に立っており、そこで彼はJames "Ike" Altgensによって写真に撮影されており、このことはこの写真の詳細な検証により全く明らかであると主張するものである。この発見によりOswald は大統領を狙撃したという容疑から完全に放免されることになる。我々はメディアに対して-陰謀によるでっち上げである、「魔法の弾丸」説を含めて-彼に疑いをかける公式説明を否認することを求める。また我々はアメリカ政府に対して、うそに基づいた全くの偽りの促進によって正義を妨害することをやめることを要求する。このため真の殺人犯は起訴されず、処罰されず、自由の身であり続けることが許されているのである。

 

oswaldinnocent@yahoo.com.管理人:Ralph Cinque。コメントや疑問がある場合、またはオズワルド無罪キャンペーンに参加を希望する場合、以下でRalphに連絡をとって下さい。oswaldinnocent@yahoo.com.

 

また読者が著名なJFK暗殺の研究者や作家であり、オズワルド無罪キャンペーンの上級メンバーとなることを希望する場合も、上のeメールにてRalphに連絡をとって下さい。私達はJFK研究集団の可能な限り多くの著名人を団結させたいと望んでいます。上級メンバーとして、JFK暗殺に関する事実、記事、報告をこのホームページ上に自由に投稿可能となります。私達は Lee Harvey Oswald がケネディ大統領を殺害したのではなかったという真実を支持する事象は何でも歓迎します。

 

しかしながら、私達の中心的論点は Altgens 写真とLee Harvey Oswaldのその写真における存在であり、焦点をそこに絞り続けるものである。JFK暗殺には重要視するに値する多くの局面が存在するが、単に以下の理由のため、私達はAltgens 写真に焦点を絞るものである:一枚の写真は千のことばに値するからである。狙撃の間にLee Harvey Oswaldが出入り口に立っていることを確認することは、彼の無罪と陰謀を証明する上で他のいかなる証拠にも勝るものである。向こう側にいる連中にとって、これは最も忌まわしく、痛手となる写真上の証拠である。-連中にはそのことが分かっていると私達は確信している!これはこの事件全体において最も説得力あり、最も興味深く、最も決定的な事実である。

 

このホームページにあるWrapページ-制作中である-にはJFK暗殺研究の他の分野に関連する記事が含まれることになっており、一方ResourcesページにはJFK暗殺研究の多くの様々な局面に通ずる数多くのリンクが含まれていることに留意していただきたい。

 

しかし、このキャンペーンが巻き起こす旋風は、Lee Harvey Oswaldは出入り口に立っていたというものである。この一つの紛れもない事実が、嘘を、歪曲を、でっち上げを吹き飛ばすのである。そうしたものはこの事実に耐えられないのだ。私達はこの事実を用いて半世紀にわたる嘘の破壊を求めているのであり、私達は全ての人に参加を呼びかけるものである。

 

嘘に終わりを!OSWALDに光を!

2013年11月 1日 (金)

ケネディを殺した男達 決定的証拠 5/5

以下は、http://www.youtube.com/watch?v=9Dn5h0AGNZwの日本語訳です。

 

 

パート5 35分43秒頃から

 

Liggetの生活様式のためLoisは1966年に彼と離婚することになった。

しかし彼らは近い関係を保ち続けた。

 

1974年、突然、Liggetは殺人未遂で逮捕された。

 

このダラスの家が凶悪犯罪の現場であった。

 

John Ligggetの友人、Dorothy Peckが酷い怪我を負い、死亡したものとして放置された。

しかし彼女は生存しており、Liggetが襲撃者であったと名指しした。

警察は迅速に彼をダラス地域での他の残忍な殺人事件と結び付けた。

彼は郡刑務所に投獄されたが、警察は彼を取り調べることが許されなかった。

Johnはほとんど一年間留置されたままであった。

 

その頃彼の兄、MalcomはLoisとのオースティンの公園での面会を求めていた。

 

Lois
John Liggetの元妻

「その面会には秘密めいた雰囲気がありました。

そして彼は歩きたがっており、私の車の中で私に話そうとはしませんでした。

そうして彼は私にJohnとはもう連絡を取らないように、そうしないことが私には重要であると告げました。

事実彼は、『子供達や自分自身のことを考えるのであれば、もう二度とあなたは彼に会ったり、彼と連絡を取り合ってはいけない』と言ったのです。

ですから私は、Malcomは、私がJohnと話すと、Johnが、Malcom自身あるいはMalcomが知っている誰かがJohnに話して欲しくないことを、私に言ってしまうのではないかと感じていたと考えています。

私はそのように強く感じます。

私はそうした行動にとても怖くなりました。

そして私はTexasのLovefieldに引越しました。

数週間後に私はそこで友人から電話をもらい、Johnが背中を撃たれて、死亡したと教えられたのです。」

 

1975年2月14日の朝、Liggetはダラス中心部の裁判所から近くの郡刑務所に他の囚人と共に護送されていた。

 

警察車両がガレージに入ると、Liggetは隠し持っていた鍵を使って、手錠を外し、逃走を試みた。

 

背中へ一発の弾丸が保安官代理によって放たれ、即座に彼は射殺された。

 

Lois
John Liggetの元妻

「何かが起ころうとしていたことをMalcomは知っていたと、私は感じています。

彼は彼が私に話していた以上のことを知っていたと、私は感じています。

ですから自分自身と子供達のことを考えると、怖くなりました。」

 

しかし謎はLiggetの死によって終わることはなかった。

 

1992年、Debraは初めて、Johnが死亡した時の彼の妻Lionaと会った。

 

彼女達は話すことをためらっていたが、LionaはRestlandを訪れ、埋葬の前にLiggetの遺体を見た時のことを詳しく語った。

 

Debra Godwin
John Liggetのまま娘

「彼女は西テキサスからダラスに出てきました。

そして彼女は衝撃を受け、驚いたのです。

なぜなら彼女にとって、その遺体はJohnではなかったからです。

そこにいた、棺に収められていた、自分が見せられた人物には、口ひげがあったと彼女は言いました。

これも彼女にとって、その人物がJohnではなかったことを示す特徴でした。

私もまた、そう考えざるを得ません。

私は何年もの間Johnを知っていましたが、口ひげを生やすことなどなかったのですから。

LeonaがJohnの死とそこで埋葬された人物がJohnではなかったのではないかという彼女の懸念について1992年に私に話した時にも、彼女はとても不安がっていたことがはっきりと私には分かりました。

そしてそれはおそらく当然のことだと思います。

私もまたそれを知って不安になりました。

今もそうです。」

 

Johnの兄Malcomが射殺の三日後に行われた葬儀を執り仕切った。

 

Johnのかつての同僚Charles Smithもそこにいた。

 

Charles Smith
葬儀士

「私達が葬儀を行った人物、私達が死後措置を施し、私が服を着せ、棺に収め、葬儀を行った人物は、間違いなくJohn Liggetではありませんでした。

こうした事件が起きる前に私達が数年間知っていたJohn Liggetではなかったのです。」

 

しかし物語はここで終わらなかった。

 

Loisと離婚した後、Johnはラスベガスで三年間ディーラーとして働いた。

 

彼はそこで密接な連絡を取った。

 

最近になってLoisは孫娘といっしょにベガスで休日を過ごした。

 

その時彼女は最も驚くべき体験をした。

 

Lois
John Liggetの元妻

「私達はカジノに行って、John Liggetに全くそっくりな人物を見たのです。

そして彼は振り向き、私の方を見て、私が孫娘の一人の名前を呼ぶのを聞いていました。

私が彼女の名前を呼ぶと、彼は彼女の方を見るのでした。

その後彼は、彼といっしょに歩いていた人々の一人の方に向きを変え、私に背中を向けました。

そして彼は彼に私について何か言っていました。

というのは彼は私を指差して彼に示していたからです。

しかし私達はそこにとどまって、その人物がJohnであったのか突き止めようとはしませんでした。

私はこの出来事によってとても動揺しました。

その人物の後頭部の姿から、振り向いて、私の方を見た姿から、その人物はJohn Liggetであったと私は強く信じています。

Vegasにいたのですから、少しも驚くことはありません。

そこは彼がいると私に想定出来る、最も筋の通った場所だったのですから。」

 

John Liggetと暗殺のつながりについてのLoisとDebraの疑念は、最近になって出てきた一枚の写真によって強められている。

 

その写真はJack Rubyのナイトクラブ、Carouselにおいて、暗殺やRubyのOswald射殺の前に撮影されたものであった。

 

Debra Godwin
John Liggetのまま娘

「Jack Rubyがいるのがここにはっきりと分かります。

彼のすぐ右に、John Liggetの兄、Malcomがいます。

彼の妻、金髪のSuzanneが彼の右にいます。

彼女が私達の家に来た時に、私達は彼女に数回会ったことがあります。

私が最後にMalcom Liggetを見たことを思い出すのは、ダラスの私の母の家でのことで、それはJohnがまだダラスの刑務所に入っていた時のことでした。

写真の中央にいる、黒いドレスを着た黒髪の女性は、Iris Campbell です。

この写真が撮られた頃ではなく、数年後ですが、私の母はIris と知り合いました。

彼女達はテキサス西部のLubbockに住んでいたのです。

母はLubbockの聖パウロ米国聖公会教会のメンバーでした。

そしてある日Irisがやって来て、米国聖公会派になって、教会に属することに興味があると述べたのです。

そして彼女と母はとても仲の良い友人になりました。

その後彼女は、私の娘の名づけ親にもなってくれました。

そこでの数年間、彼女は母と密接に連絡を取り合って、頻繁に行き来していました。

そしてその後、姿を消したのです。

全く姿を消したのです。

ですから私と母はIris Camble に何年もの間会っていません。

まさに姿を消したのです。

この写真を見る前には、自分が知っている人々とJack Rubyと間のつながりについて、私は全く知りませんでした。

ですからこの写真が、彼らはJack Rubyの知り合いであったという背景を示しているのです。」

 

Lois
John Liggetの元妻

「おそらくJohnは政府の仕事と何か関係を持っていたのだと、私は強く考えます。

彼の『死』はJohn F Kennedyと何かつながりがあったのだと、強く信じています。

正確にどのようなものであったのかは、私には分かりません。

しかし私はそう信じています。」

 

多くが依然として明らかになっておらず、多くの疑問が答えを待っている。

 

しかしますます多くの勇気あるアメリカ人が声を挙げるにつれ、霧は晴れ、John F Kennedy大統領暗殺の背後に横たわる隠された真実が白日の下にさらされているのである。

ケネディを殺した男達 決定的証拠 4/5

以下は、http://www.youtube.com/watch?v=9Dn5h0AGNZwの日本語訳です。

 

 

パート4 26分46秒頃から

 

Kennedy殺害に対する隠蔽工作が徐々に解明され、真相が明らかになるにつれて、新しい決定的証拠が白日の下にさらされている。

 

ここはダラスにあるRestland霊園の名誉の園である。

ここに一人のプロの葬儀士が1974年2月17日、同僚の手によって横たえられた。

このプレートはその謎の多い人物の人生を示している。

彼のKennedy暗殺とのつながりは明らかになり始めたばかりである。

 

彼の名前はJohn Liggetという。彼は極めて腕のよい葬儀士として、元友人、同僚であったChales Smithに記憶されている。

 

Chales Smith
葬儀士

「顔を銃撃されたり自動車事故で死亡した人の唇や鼻や眼窩や耳を修復しなければならない場合、彼は一晩中そうした修復措置をとっていました。

彼は最高でした。

自分でも彼は最高だと言い、修復が完了した時には家族が彼は最高だと言っていました。」

 

同僚には人気があったが、彼はまた秘密の生活を持っていた。

 

Chales Smith
葬儀士

「Johnが電話をしてきて、出かけなくてはならないので、仕事には来れないということがありました。

こうしたことがしばしばありました。

私達はJohnがどこにいるのか分かりませんでした。

私は彼の計画を知りませんでした。

彼はただ電話してきて、出かけなくてはならないというだけで、計画については何も話しませんでしたし、私達も尋ねませんでした。

同僚は彼がなぜ彼が2週間も3週間も仕事を離れて、何もなかったように戻って来れるのか、疑問に思っていました。」

 

大都市に喧騒から離れたオクラホマの小さな街で、John Liggetは元妻、Loisによって
記憶されている。

彼女は激しい恋の後に、彼とダラスでKennedyの暗殺のわずか三ヶ月前に結婚したのだった。

 

Lois
John Liggetの元妻

「Johnはとても魅力的な人物で、私には彼がとても思いやりがあって思慮深い人だと分かり、私にとってはとても愛しい人でした。

私は彼を愛していました。

私は彼に恋したのです。」

 

Debra Godwin
John Liggetのまま娘

「Johnは私達の元々の父、Charles Godwinが自家用飛行機の事故で死去してからわずか一年もしないのうちに、私達の生活に入ってきました。

ですからJohnは本当の所は、私の二人の姉妹、私の兄弟、私自身から歓迎されてはいませんでした。

私達は家族だったのですから。

そして彼は便利な埋め合わせを持ったに過ぎないのです。

これが私が常に考えていたのは、私達はそうしたものを必要とする男性にとって都合のよい埋め合わせでしかないということでした。」

 

暗殺の当日、JohnはLoisと共に、彼女の亡くなったおばの葬儀に出席していた。

 

彼は急に墓地側からの電話に呼び出された。

 

Lois
John Liggetの元妻

「Johnが事務所に行って、すぐに戻って来ると、私にアメリカ大統領が撃たれて、彼がパークランド病院に呼び出されたことを説明しました。

私が葬式から帰宅すると、午後2時頃でしたが、Johnがパークランドから電話してきました。

私には背後の喧騒が聞こえました。

私がどうなっているのか彼に尋ねると、彼は大統領が死亡したと言いました。

そして私がRestlandが仕事を得たのか聞くと、彼は『いや。どこか別の葬儀社が仕事を得た。』と言い、『私はやるべき仕事がたくさんあるので、私に電話をしないように。出来るだけ速く私から電話するから。』と言いました。

それからおよそ24時間後に彼から連絡がありました。

彼が帰宅し、ドアに入って来たとき、私は彼を見ましたが、彼は身体的にとても悲痛な体験をしてきたように見えました。

彼のこぎれいな衣服は乱れていおり、彼らしからぬことでした。」

 

Debra Godwin
John Liggetのまま娘

「彼は見るからに疲労困憊していましたが、高揚しており、母に私達は町を去らねばならない、街から出て行かねばならないと知らせました。」

 

Lois
John Liggetの元妻

「私がどこに行くのかと聞くと、彼は私達はこの騒ぎが収まるまで、しばらく町を出なければならないと言いました。

そう言ったのです。

ですから私は、騒ぎが収まるとは何のことだろうと思いました。」

 

困惑する家族は大急ぎの旅でまず最初にオースティンに、それから次にサンアントニオへと行った。

 

Jhonは途中で短時間停車し、様々な連絡先と内輪での会話を交わした。

 

Lois
John Liggetの元妻

「この旅を通じて、Johnと彼の親類や友人との間では、私には秘密の会話が交わされていました。

彼らは私が知らない何かを知っていたようです。

ですから私には何が起きているのか分かりませんでした。」

 

11月24日、日曜日の早い時刻に、Corpus Christi近くのモーテルに家族はやっとチェックインした。Johnはさらに会合を持った。

今回は彼の兄、Malcomとであった。

 

Lois
John Liggetの元妻

「ここでも彼らは会話を交わしましたが、この会話も、私には自分が属していない感じがしました。

彼らは私が知らない何かを知っているようでした。

私にはなぜ私達がそこにいたのか分かりませんでしたが、私達がそこにいたことはJohnにとってとても重要であったようでした。」

 

Debra Godwin
John Liggetのまま娘

「私が部屋でJohnを見るといつも彼はベッドの端に座って、テレビを、ニュースを熱心に見ていたことを、それから彼はチェーンスモークしていたので、チェーンスモーキングしていたことを、私は思い出します。

Johnはイライラすると、頬がすこし引きつることを私は既に知っていましたが、彼は少しイライラしていました。」

 

Lois
John Liggetの元妻

「その時彼はOswaldがJack Rubyに撃たれたのを見たのです。

彼がそれを見た瞬間、彼は私の方を見て、全てうまくいったと言いました。

彼の表情から、まるで全てのプレッシャーが彼から取り除かれたようなのが見えました。」

 

Debra Godwin
John Liggetのまま娘

「突然、彼は安堵のため息をついて、『これで帰宅出来る』と言いました。

すぐに荷物をまとめて、帰宅しました。」

 

Lois
John Liggetの元妻

「私達がダラスに戻ると、全ては通常に、大統領の死という状況のもとでは可能な限り通常に戻っていました。」

 

しかしその後、彼らの生活様式は変化した。

 

暗殺の後、Johnには大金が入るようになり、家族は豪華な家に引っ越した。

Liggetは一流ギャンブラーになり、ダラスの荒くれものポーカー集団をもてなすようになった。

 

Lois
John Liggetの元妻

「John Kennedyが撃たれた瞬間から、生活様式の全てにおいて、度重なる混乱が続きました。

警察が彼の行っていたことに関与してきたり、彼の行っていたことに賭博が関与していたり、私には対処出来ませんでした。

彼の持っていた会社、人々、プレッシャー、これらは私の手には負えませんでした。」

 

Debra Godwin
John Liggetのまま娘

「私の姉妹Bennieと私の母の両人が記憶している、Johnのかなり変わったニューオリンズの一人の友人が訪ねてきた場面があります。

その人物はかなり奇抜な格好をしており、私達兄弟姉妹はその人物のとてつもないファンになったと、私の姉妹は言います。

なぜならその人物は眉を描いて、かつらをつけており、かなり奇妙で奇抜な姿だったからです。

Johnは私達に、この人物は彼の民間航空哨戒部隊時代いっしょにいた友人であると言いました。

そして私達はこの人物はDavid Ferrieだったと信じています。」

 

David Ferrieは1967年のGarisonのKennedy暗殺についての調査での主要参考人であった。

 

取調べを受ける前に彼は、ニューオリンズのアパートで死亡しているのが発見された。

 

Lois
John Liggetの元妻

「私はJohnLiggetがJohn F Kennedyの暗殺に何らかの形で関与していたと本当に信じています。

私は彼の役割は大統領に遺体に何かをすることであったと思います。

どのように修正したのか、どう修復したのか、私には分かりません。

また彼はべスラ病院にまでいった可能性もあると思います。

彼にはそうする十分な時間がありました。

私は彼の仕事はJohn F Kennedyの遺体に何かをすることであったと思います。」

ケネディを殺した男達 決定的証拠 3/5

以下は、http://www.youtube.com/watch?v=9Dn5h0AGNZwの日本語訳です。

 

 

パート3 19分03秒頃から

 

陰謀と隠蔽工作の双方を示す暗殺に関する最も重要な決定的証拠の一つがここ(National Archives=国立公文書館)に保管されている。

 

大統領が死亡した夜にベスダ海軍病院で撮影されたKennedy の検死写真のオリジナル版は常に単独狙撃犯説を裏付けるために利用されてきた。

 

David Mantik
光学的濃度測定の専門家

「私はNational Archivesに保管されている一連の検死時の写真を今までに何度も見たことがあります。

私は実際に個別に九回そこを訪れました。

検死時の後頭部の写真を16人のParkland病院の医師に見せたところ、その16人の医師は皆、その写真が自分達がParkland病院の緊急処置室で見たことを示す写真であるとは分からなかったと述べたのです。

何人の人にその写真がそうしたものであると分かったのでしょうか。

ゼロです。

私はNational Archivesに行き、一連の後頭部の写真を見ました。

写真は対になっており、私はステレオヴューアーを使いました。

そこで私が見たものは全く衝撃的なものでした。後頭部の髪の毛が逆立っていた箇所全体が、まるで空間中の一つの平面に貼り付けられていたかのように見えたのです。

そこは平面的だったのです。

一方写真の他の部分は立体的でした。

そして3D効果が実際に他の全ての写真の対で起こっていました。

それは特徴が際立っていました。

後頭部のこの部分、髪の毛が逆立っていた部分は全く平面的に、まるで空間中の一つの平面に貼り付けられていたかのように見えたのです。

それは全く奇妙でした。

それは何を意味するのでしょう。

捏造写真です。

それ以外の全ての画像では3D効果を目にするのですが、その部分では3D効果が生じていませんでした。

それが編集されていたからです。

つまり彼らは穴があった部分を取り除き、その代わりに写真紙を用いて同じ画像をこの後頭部の写真の対それぞれに挿入したということです。

そうして後頭部には被害がなかったように見えることになりました。

もし右の後頭部に大きな穴があったのであれば、それは前方からの狙撃を意味します。

Oswaldには不可能です。

ですから犯人達は、この点において大いに困り、彼らは右の後頭部の大きな穴を取り除かねばなりませんでした。

そうしなければ、前方からの狙撃が、また単独狙撃犯には不可能であったことが明白に示されてしまうからです。」

 

第二次大戦の退役写真家であるJoe O'Donnell から検死時の写真に関する注目に値する証言が初めて現れた。

 

彼は国務省、続いて米国情報庁で勤務し、23年間写真を撮り、6人の大統領の下で功績を挙げてきた。

 

彼はKennedyの死によって疲労困憊していた。

 

Joe O'Donnell
写真家

「大統領は素晴らしい人物でした。

本当にそうでした。

つまり、私が大統領が本当に好きでした。

実際彼は素晴らしい人間でした。」

 

Joe O'Donnell の長年にわたる親しい同僚が、海軍写真家の故Robert Knudsen であった。

 

彼はホワイトハウスに対して変わらぬ愛着を持っていた。

 

Joe O'Donnell
写真家

「彼には報道関係にではなく、多くの友人がいました。

彼らは彼のことをうらやましがっていました。

しかし彼はとても好人物でした。

私達はいつもいい関係を持っていました。」

 

Kennedy の暗殺の夜、Robert Knudsen は帰宅しなかった。

 

彼は三日後に深く動揺した様子で家族のもとへ戻って来た。

 

彼はベセスダ海軍病院の遺体安置所でKennedy 大統領の遺体の多くの写真を撮ったと家族に語った。

 

そしてそれは彼がそれまで受け持った中で最も困難な任務であったと語った。

 

彼はシークレットサービスが全てのフィルムの管理に当たっていたと述べた。

 

Joe O'Donnell
写真家

「暗殺の2、3日後、私はホワイトハウスを訪れ、報道関係者室に行きました。

するとKnudsen が私のところに来て、『Joe 、君に見せたいものがある。』と言うのです。

ですから私は彼のいうなれば仕事部屋とでもいう所に行きました。

そこで彼は封筒を取り出して、私におよそ12枚の5×7の写真を見せたのです。

それは全て大統領の写真でした。

腹部の、背中の、頭部の約8分の3インチの穴が見える写真でした。

そして後頭部には、襟の上の高さに、およそグレープフルーツ程の大きさの穴がありました。

そして2、3日後、翌日だったかも知れませんが、彼はこう言ったのです。

『Joe、君にちょっとしたものを見せたい。これは君に先日見せた写真だが、ちょっと違うんだ。』

私は『君は何を言いたいんだ』と言いました。

彼は『君に見せよう。』と言いました。

まず最初に分かったことを私は言いました。

『穴がない。』

穴はなく、彼らは隠したのです。

後頭部を見ると、穴はきれいに隠されていました。

私は『誰がやったんだ。』と言いました。

彼は『いや、私じゃないよ。』と言いました。

私は『君がやったとは言ってないよ。』と言いました。

しかし私は驚きました。」

 

Robert Knudsen がKennedy 大統領の検死に立ち会っていたことを示す記録は存在していない。

 

しかし彼は自分の所有物として、大統領が前方から狙撃されたことを隠すために、明らかに改ざんされていた写真を所有していたのであった。

 

David Mantik
光学的濃度測定の専門家

「これらの写真は常にシークレットサービスに管理されていました。

ですから誰がそれを変更したのであれ、誰がそれを修正したのであれ、政府内部にいた者か、そうする承認を政府から得ていた者であったに違いありません。

例えば、マフィアがそうしたとは全く想像出来ません。

あるいはソビエトにも全く同様に不可能です。

それは政府の承認を得た人物であったに違いありません。」

 

政府は検死時の写真が示した傷とダラスの医師が実際に見たこととの間の矛盾につきまとわれ続けることになった。

 

Gary Aguilar 医師
医学専門家

「1970年代の後半に、HSCA(下院暗殺調査特別委員会)はKennedy暗殺に関する証拠を調べたのですが、彼らが調べた証拠に関して最も憂慮すべきことは、大統領がダラスで撃たれた直後に措置する立場にあった医師チームがおり、この悲痛な経験をしたダラスの医師達が、大統領の後頭部に穴が開いていたと言っていたという事実です。

HSCA(下院暗殺調査特別委員会)はそれはOswaldがやったのであり、後頭部の穴は後方から撃たれたもので、弾丸が前方に出て行ったと言おうとしていました。

彼らの話は一致していませんでした。

つまりHSCA(下院暗殺調査特別委員会)が報告したことは、ダラスの医師達から反論されていたのです。

ダラスの医師達に間違いはありませんでした。

なぜなら彼らには証言があったからです。

彼らの証言は検死時の遺体安置所での証言です。

しかしHSCA(下院暗殺調査特別委員会)は彼らがインタヴューした26人の証言者は、全員右前頭部の傷を示す検死時の写真を承認しており、誰も後頭部に傷があったとは認めていなかったと述べました。」

 

G. Robert Blakey
下院暗殺調査特別委員会の主席顧問、委員長

「大統領が前方から右側を撃たれたことを示す医学的証拠は存在しません。」

 

Gary Aguilar 医師
医学専門家

「しかし彼らは私達にインタヴューを見せませんでした。

彼らは私達に彼らが作成した文書を見せなかったのです。

実際、HSCA(下院暗殺調査特別委員会)の情報の公開は2028年まで封印されました。

そして1990年中盤に明らかにされた文書によって、同委員会がインタヴューした検死時の証言者はダラスの医師達と同じことを、後頭部には穴が開いていたと述べていたことが明らかになったのです。

彼らが作成した図表は、実際に後頭部の穴を示していました。

こうして、HSCA(下院暗殺調査特別委員会)はこれらの人々にはインタヴューをしただけで、彼らの証言は封印し、報告書では偽りを述べていたことが、全く明らかになったのです。」

 

G. Robert Blakey
下院暗殺調査特別委員会の主席顧問、委員長

「法医学委員会は、もし大統領が前方から右側を撃たれていたとしても、その弾丸は当たらなかったと、明白に述べるものである。」

 

Gary Aguilar 医師
医学専門家

「HSCA(下院暗殺調査特別委員会)のために医学的証拠を評価することになっていた医師達は、こうした封印されたインタヴューを見ることはなかったのです。

ダラスの医師達だけが後頭部に穴が開いていたと述べていたのではなく、多くの証言者もまた後頭部に穴が開いていたと述べていたのです。

ですからこれは全く嫌悪すべきことであり、おそらく今までなされた中で最も不誠実なことですが、確かになされたことなのです。

Oswaldをシナリオにおける中心人物にしておくためにです。」

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