カテゴリー「E.P. Heidner」の記事

2013年11月25日 (月)

付随的被害 5/5

以下は、http://www.wanttoknow.info/911/Collateral-Damage-911-black_eagle_fund_trust.pdf#search='colateral+damage+911+ep+heidner'の日本語訳です。(p39からp41)脚注は割愛しています。

 

 

付随的被害 第五部

 

Mohammed Attaの西側情報機関との協力関係

 

最後に、攻撃のリーダーと資金提供者の協力関係を調べると、アメリカの秘密作戦とアメリカの情報組織の同盟者へと続く多くのつながりを目にすることになる。

 

· 攻撃をお膳立てした責任があったと報じられたMohammed Attaは、部下と自分自身をHuffman Aviation -Flight Training schoolにて訓練した。この学校はOryx Corporation並びにWally Hilliardから資金提供を受けていた。214 Oryx はAdnan Khashoggiとサウジアラビアの情報機関の長官 (1963-79)であったSheik Kamal Adhamによって設立されていた。KhashoggiはテロリストとYeltsin一族との間の会合を仲介した人物であった。215 Khashoggiはまた以下のBushの作戦行動に大規模に関与していた:October Surprise、 Iran-Contra、Azerbaijan、 Barrick Gold、 Marcos Gold。

 

· Mohammed Attaはアメリカにいた間、明らかにCIAエージェントであったWolfgang Bohringerの親しい友人であり続けていた。216

 

· テロリストの隠れ蓑として機能した訓練施設の名目上のオーナーであったHilliardは、Californiaの小さな防衛/電子工学会社(Spatialight, Inc.))に対して、Iran-Contra/Azerbaijanに関与したもう一つの集団Farhad Azimaと共に、大規模に投資していた。Azimaの役割はIran-Contraや Azerbaijanといったアメリカの秘密情報工作活動のために航空輸送を手配することであった。

 

· Hilliardは、KGBの大佐を父親に持つCIAのエージェント、Mark Schubinの親しい友人であったと報じられている。217

 

· HilliardはまたFloridaのJeb Bushの政治機構と強く結び付いており、彼の商業輸送業務はそうした集団によって支援を受けていた。218

 

· Mohammad Attaは、判明した通り、アメリカの情報機関と提携を結んでいた3つの海外の情報機関から資金提供を受けていた:その3つの機関とは、パキスタン、シリア、ドイツの機関である。彼の父は、彼が実際には4つ目の機関‐モサドのために働いていたと主張した!

 

- ISI(パキスタンの情報機関)の長官はLt-Gen Mahmud Ahmadであったが、General Ahmadは911が起きた週に、Bob Graham、Porter Goss 、Richard Armitageらと会合を持っていた。219 Gen Mahmud AhmadはMohammed Attaに100,000ドルを送金する責任者であった。220

 

- ドイツにいる間Attaは、シリアのGeneral Intelligence Directorateの元局長であったMohamad Majed Saidが所有するTatex Tradingの従業員として働いていた。221

 

- ドイツに来ると、Attaは奨学金を支給され、Carl Duisberg Gesellschaftとして知られる機関から家庭教師として雇用された。222 その後のインターネット上の調査報告によれば、Carl Duisberg Societyを米国情報庁による運営機構であると関連付けていたが、このことはいかなる政府文書によっても確認されなかった。この奨学金はUS AIDと合同で支給されたとするインターネット上の調査報告が存在する。Carl Duisberg Gesellschaftに関するさらに興味深い側面は、そこのManaging DirectorはBernd Schleichといい、InWEnt (Internationale Weiterbildung und Entwicklung)のManaging DirectorであったBernd Schleichと同一人物であることである。InWEntの活動や研究を調べると、南アフリカ、中央アジア、アフリカといった地域でのマネーロンダリング、兵器取引、麻薬密輸、炭疽菌の管理というような事象を研究する民間での情報収集活動を行っていたと考えられる。223 Carl Duisberg Gesellschaftには、元George H.W. Bushの政権運営者であったEd Rogers とLanny Griffithがアメリカでは代表しているロシアの銀行、Alpha Groupによって資金提供された奨学金制度がある。224

 

- Mohammed Attaの父は息子はモサドのために働いていたと主張した。225 この考えを裏付けるように、Attaは「Virtual Prototypes」という名前の会社への電話通話記録を残していたと報じられた。226 Virtual Prototypes Inc. は後にその名称を eNGENUITY Technologiesへと変更することになる。イスラエルは3年後にeNGENUITYから大規模の購入をすることになるのだから、eNGENUITYでなされていた類の研究はAl Qaedaのような集団に役立つよりもイスラエル政府にとってより興味深いものであったように思われる。227

 

· Mohammed Attaは、アメリカの防衛機関と民間警備会社の主要なリクルート組織であるAllied Media Groupにモロッコアメリカ商工会議所を通じて関係していた、Hassan Erroudaniの合法的なビジネスパートナーであったことが明らかになる。228

 

彼らの顧客には以下が含まれる:

 

p.40
- USAF
- US Army
- FBI
- US Treasury
- Department of Justice
- Department of State
- CACI
- Young & Rubicam
- Burson Marsteller

 

Atta と彼のスポンサー達は jihadists(聖戦を戦う者)ではなかった。「テロリストパイロット」として彼はアメリカでの最後の年を2人のCIAパイロット(Schubin とBhoringer)と交際して過ごした。彼はCIA工作への出資者として知られる人物(Khashoggi)に資金提供を受けた施設で自分のチームを訓練した。彼はCIAのリクルーター(Erroudani)のビジネスパートナーであった。彼は最大4つの親CIA‐情報機関によって資金提供を受けていた。229

 

結論

 

歴史には多くの解釈がある。このレポートは多くの解釈の一つ‐インサイダーの勇気ある告白や暴露からつなぎ合わされた解釈である。彼らの話は主流メディア機構によって無視され、隠されてきた。これは、西側資本主義を守るために確固たる意思を持った少数の人物達が世界を変えようともくろんだことを示す歴史の解釈である。彼らはそのやり方は一般大衆には隠しておく必要があると感じていた。自分達の行動を一般大衆には隠す原因となった感情や論理がどのようなものであったにせよ、彼らにそうした振る舞いを妨げるほど健全なものではなかった。こうした犯罪は世界を変えながら、アメリカの一般市民には何を最善策と自分達が考えるかについて発言させずに、アメリカの一般市民の利益のために実行された。これらの犯罪を隠蔽するために、数千人の無辜の民が殺戮されねばならなかった。世界中の数百万の人々がこの作戦によって資金提供された戦争の恐怖にさらされ続けている。これらの出来事に責任のあったこの「少数の善良な人間達」は、誰に責任があるのか誰も知ることがないように手はずを整えている。なぜなら彼らも心の中では、自分達が行っていることはアメリカの一般市民に受け入れられないことを知っているからである。Bush と Reaganが述べたと言われる以下の発言はこの点を示す証言である:

 

Sarah McClendon:「人々がIraq-gate や Iran contraについて知ってしまった場合、彼らはどうするでしょう。」
George H.W. Bush:「Sarah、もしアメリカ人が我々が行ったことを知ってしまった場合、彼らは我々を追跡し、我々を私刑(絞首刑)にするだろう。」230

 

「もしこのような話が表に出た場合、我々は全員ホワイトハウスの前でつるし首になるだろう…」231

 

彼らの犯罪をアメリカ式の生活水準を守るための戦争の付随的被害として正当化し、彼らはアメリカの一般市民に仕えるために自分達の命を危険にさらしているのだから、彼らには戦争の戦利品を摘み取る「資格」があると合理的に考える方が公正かも知れない。数百万人の生活を豊かにし、彼らの自由を保証するために、もし数千人が死なねばならなかったのであれば、それは容認可能な犠牲ではなかったかということである。

 

これらのエージェント達は、暴力という手段を用いて自分達自身を豊かにすることに躍起になっており、数千人を殺戮し、数万人の生活を破壊し、海外の地に永遠の悲惨、痛み、死をもたらした反社会的人間と精神病質者の犯罪結社に過ぎないことを示す方が、また公正かも知れない。戦時における兄弟愛が常にそうであるように、彼らは「いかなる犠牲を払っても結果を出す」というモットーの元に生きており、彼らはアメリカの一般市民に彼らの犯罪を容認させる欺瞞のネットワークを作り出しているということである。

 

彼らと自分達の両種の人間が存在することを受け入れ、アメリカの一般市民を守り、保護するために彼らを利用する政治家を「リアリスト」として見なし、市民の利益のために「困難な決断」を迫られる戦時の将軍のように考える方が公正かも知れない。

 

自分達自身の個人的利得のためにこうしたエージェント達を利用する政治家を、「日和見主義者」と見なす方が、また公正かも知れない。こうした政治家の大多数は、彼らが欺瞞を通じて、他人に不本意な形で強いた戦争による死と悲惨を最大限利用することで自分達の富を築いたということである。彼らは、実際にはアメリカの一般市民のものである秘密債券についてのインサイダー取引の知識と、そうした資金源への無制限のアクセスを持っている。

 

p.41
個人的解釈はどうであれ、アメリカの一般市民の価値観との調和を示す形で真実を解明するプロセスは、検察側と弁護側が法に従い、事実の公正で公平な聞き取りを行う、陪審裁判である。このレポートは伝聞証拠に基付いたものであるため、結果として、何も実証するものではない。願わくばこのレポートが、この後の公文書記録調査によって実証されることになる仮説を明確にしていることを願うものである。

 

アメリカ人には1980年代に法律を施行し、Iran-Contraの犯罪に責任のあった人間を訴追し、このシステムを正しく戻すチャンスがあった。アメリカ人はこのアメリカの指導者による犯罪行為は受忍不可能であるというメッセージを知らせることが出来なかった。その時点でこの組織を停止させなかったことで、議会とアメリカの一般市民はアメリカの「英雄達」のこうした犯罪シンジケートが、アメリカの一般市民の名の下でさらに大規模な破壊を世界にもたらし続けることを許してしまった。こうした憲法に対する、自由に対する、民主主義に対する、ジュネーブ協定に対する、国内法及び国際法の支配に対する攻撃は50年以上にわたって衰えずに続いている。911委員会と呼ばれる広範囲に信頼を失っている調査の再開を拒むことで、こうしたシンジケートを太らせる説明責任のない秘密資金提供に対処することを拒むことで、議会は過去並びに未来の犯罪の共謀者となっているようである。以下のように述べたRonald Reaganは正しかった:「…アメリカは決してテロリストに譲歩しない;そうすることはさらなるテロリズムを招くだけなのだ。」一度その方針を採ると、終局は見えず、無辜の民の苦しみが果てしなく続き、文明国全てが支払うべき血まみれの代価の限度がなくなるのである。232

 

死を前にして、Erle Cockeは工作活動全体があまりにも大きくなり過ぎたため、どのように終結させるかを誰も決めることが出来なくなり、その終結を望んだ者もすぐに断念したのだと自分は考えると証言した。この秘密を保持するために殺戮された数千人の人々のことを考慮すると、またこの集団の関与を示すことの出来た参考人がどのように扱われたのかを考慮すると、おそらく断念した者はそうするように仕向けられたのであろう。2つの疑問が残る:1)アメリカの一般市民はこの秘密戦争を終結させたいと望むのであろうか。そして2)これを終結させる方法はあるのだろうか、というものである。

 

2人のアメリカの大統領‐Kennedyと Carter‐はこうした組織を管理下に置こうと試みたが、両人ともマシーンによって打ち負かされた。願わくば、彼らの失敗からの教訓により第三の試みの際に成功がもたらされることを願うものである。

 

From the Hagakure:

 

To tell others that
It is a rumor
Will not do.
When your own heart asks,
How will you respond?

 

EP Heidner
28 June, 2008

 

著者の注記:これはこの話の集約版である。可能な限り多くの参考資料によって話の筋の整合性を確認しようと取り組んだものではあるが、著者には原資料の正確さを保証することは出来ない。この話が依拠している単独の事実や参考資料というものは存在しない。著者は記述の細かな点が反論されることを期待するが、それでも話の筋は事実であると主張するものである。

付随的被害 4/5

以下は、http://www.wanttoknow.info/911/Collateral-Damage-911-black_eagle_fund_trust.pdf#search='colateral+damage+911+ep+heidner'の日本語訳です。(p28からp39)

 

付随的被害 第四部

 

 

911でのBlack Eagle Trustと Project Hammerに対する隠蔽工作

 

債券は市場に出され、まるで時限爆弾のように、おとなしく10年間待った。ある時点で、2001年9月11日にそれらは清算、つまり換金される必要があった。それらを扱っていた可能性が最も高いアメリカの企業はCantor Fitzgerald とEurobrokersである。‐彼らは全米最大の2つの証券会社である。こうした取引についての捜査に主に従事していた連邦政府機関が米海軍情報部であった。

 

あの日、こうした3つの組織:アメリカの政府発行有価証券を扱う2つの最大ブローカーと米海軍情報部がほとんど直接的な攻撃を受けた。実際に、ジェット旅客機が標的とされたオフィスの真下を直撃し、炎が上の階を飲み込むことになった。こうした標的選びの戦術がノースタワーの23階に対しても用いられたが、そこには発生したと言われる不法な金取引に関する情報を保持していたFBIの証拠保管所があった。

 

この攻撃には相互に関係したアジェンダがあった。 1989年に開始された秘密理の冷戦作戦が金融不正に対する一連の海外、またアメリカでの申し立てを引き起こし、その結果少なくとも9つの連邦政府による捜査がこれらの取引に関連した銀行口座に対して実施されていた。こうした捜査は全て、1997年から1998年の期間に開始された。これはOsama Bin Laden が‐20年間にわたりアメリカの秘密戦争のためのイスラム戦士の採用活動を行った後に‐アメリカに対して fatwa(死刑宣言)を宣告したのと同じ年であった。(ここでの理解の鍵は、連邦政府機関による捜査は、公式の捜査が一般に宣言される前に、「静かな」捜査の期間として既に行われているということである。)

 

1)Marcosの金に関する公聴会は1997年8月にLos Angelesで開始された。この公聴会で関与が示された銀行は以下のスイスの銀行であった:UBS、 Bank Julius Baer。

 

2)  Eizenstatz ReportとSimon Wiesenthal Centerによって仕掛けられた一般向けの3つのスイスの銀行に対する訴訟へのキャンペーンが開始された。

 

3) Reginald Howeによる訴訟‐ここではアメリカのブリオンバンクがアメリカ財務省の金をマーケットへ不法に投売りした容疑で訴えられた。Reginald Howe & GATAによる訴訟は2000年1月8日に提訴され、被告としてDeutschebank(別名 Deutschebank Alex Brown)、アメリカ財務省、Alan Greenspan、 Federal Reserve、Citibank、Chaseの名前が挙げられた。またこの企ての非公開の知識を持っていたとして名前が挙げられたのは、Gerald Corriganと Barrick Goldであった。(2000年の提訴は捜査がそのかなり前に始まっていたことを示唆する。)

 

4)The Bank of New Yorkのマネーロンダリングスキャンダル:司法省は、こうした取引から利益を得た以下の人物の口座を捜査するよう圧力を受けていた:Loutchansky、Marc Rich、Berezovsky (Berezovskii。) FBIの捜査は1998年の秋に開始された。投資家による訴訟は1999年9月に始まった。これらの捜査は、Credit Suisse、Union Bank of Switzerland (UBS)、Dresdner Bank、Westdeutsche Landesbank and Banque Internacionale of Luxembourgの口座を対象としていた。これらの銀行の口座は全て、Bank of New Yorkのマネーロンダリングスキャンダルにおいて役割を果たしていたとしてある時点で言及されることになる。Bank of New Yorkは、Bank of New Yorkのマネーロンダリングが、George Bush大統領と非常に関係の深い連邦検察官、Mary Jo Whiteによって3年間にわたって葬られた後に、最終的に2002年に再開することになる。

 

5) Avismaによる訴訟は1999年8月19日に提訴され、被告としてBank Menatep、 Harvard Institute for International Development、the Bank of New Yorkの名前が挙げられた;

 

6) Konanykhineの所有する European Union Bankに対する連邦政府の捜査:Konanykhineに対する捜査は1999年2月にINS(米国移民帰化局)によって開始された。この捜査に含まれていた他の銀行は、European Union Bank、Bank Menatepであった。

 

7) Richard Giffen/Mobil Oilのスキャンダル‐FBIの捜査は1999年に始まり、Credit Suisse、 Bank of New York、 Cayman Islands、the Deutsche Bank (別名 Deutschebank Alex Brown)を対象とすることになった。

 

p.29
8)YeltsinのUSBの口座は賄賂の疑いで捜査されていた。

 

9)Kevin Ingramは自身がBob Grahamに前もって世界貿易センターが攻撃されることになっていると伝えたと証言した。このDeutsche Bankの重役はパキスタンのエージェントを通じたイスラム教テロリスト向けの兵器購入のためのマネーロンダリングで有罪判決を受けた;Ingramへの捜査は1999年7月という早い段階で開始されており、Deutschebank (別名 Deutschebank Alex Brown)を対象としていた。

 

こうした捜査記録の一部が第6ビル、第7ビル、ノースタワーの23階のFBIオフィスにはあった。アメリカの情報機関によって整えられたこうした会計構造は、9つの異なる方向からの捜査を受けていた。これらはいずれも、この資金の提供源を明るみに出し、Black Eagle Fundという起源にたどり着いてしまう可能性があった。このような捜査は回避される必要があった。

世界貿易センタービルに何が起きたのか見極めることは困難ではあるが、不可能ではない。政府は、911委員会を調べることで集積される証言を封印し、政府職員にこの件に関して話さないよう、さもなければ厳しい刑罰を受けることになると指示しているが、あの日それらのビルに何が起きたのかについては数多くの個人的証言がインターネット上には投稿されている。こうした証言を注意深く再構築すると、ビルを攻撃の標的として狙うことによるだけでなく、炎や爆発を意図することで証拠を計画的に破壊したことが示される。ハイジャックが失敗したり、ビルが破壊されない場合には、証拠は炎によって破壊されることになっていた。捜査証拠が破壊されたことに加えて、連邦政府官報はブローカーが地下金庫に保持していた物理的な証券そのものが破壊されたと伝えた。

 

さらに意味深いことは、連邦準備銀行と証券取引委員会のその日と直後の余波の中での行動である。9月11日に同時発生したことの一つであるが、連邦準備銀行は中心街の本部からではなく、遠隔のバックアップサイトから情報システムを稼動していたのであった。証券取引委員会と連邦準備制度は911の攻撃によってもビクともしなかった。それらのシステムは全て稼動を続けたのであった。前述の主要な2つの証券取引会社は取引データを遠隔システム上にバックアップしていた。にもかかわらず、証券取引委員会は初めて証券取引法12項(k)の下での緊急事態権限を行使し、一時的に特定の規定制約を緩める命令を発布した。

 

規則を一時保留する連邦準備銀行

 

危機の最初の日に、証券取引委員会は“規則第15条c3-3項 - 顧客保護積立金と証券保管”を解除した。これは以下のプロセスとして取引規則を定めている:

 

[売り手]が他の証券とこの協定の制約を受ける証券を置換することは許されないこととする。そのため、この協定において[買い手]が[売り手]に他の証券を置換する権利を認めない限り、[売り手]は[買い手]の証券を常に分別して保管しておかねばならない。

 

所要の預け入れが不履行である場合の通知。

 

証券の物理的所有または管理。

 

所要の情報公開。
証券の管理/証券を所有または管理する上での要件。

 

簡単に言えば、GSCC(政府証券決済公社)は攻撃の際に破壊された物理的な証券そのものを他の証券で代用することが許されることになったのである。

 

「…担保の代用は直ちに満期を迎える担保に関して実施可能であり、また実施すべきである。」191

 

こうした決定の後に、GSCCはブラインドブローカーによる解決を拡張する別の覚書を発布した。「ブラインドブローカー」とは取引の両サイドの関係者の匿名性を維持するディーラー間での取引のための仕組みである。このブローカーが取引者本人の代理人としての役割を果たす。

 

「ブラインドブローカーによって締結されたレポ取引だけが、精算と調停の取り組みを直接的に促進する際になされるべきものであらねばならない。新たなブラインドブローカーによる取引は実施されるべきではない。」192

 

この時点において、連邦準備銀行とその傘下のGSCCは管理と報告を免れた清算状況を生み出したのであった‐この状況においては満期の来た、不法な債券を有効な、新しい政府証券で代用することが可能となり、不法な債券がどこから来たのか、どこに新しい債券が行ったのかを記録する必要がなくなったのである‐これは全て、アメリカ政府証券を扱う主要なブローカーの書類が消し去られたからである。

 

p.30
しかしながらこうした行動のみでは、問題を解決するには不十分であった。なぜなら連邦準備制度には新しい10年物の中期債の充分な「引き受け手」がいなかったからである。単に売り注文と買い注文を一致させるのではなく、これは「未決済」問題を解決するには不可欠であったが、Fedは売り買いを一致させ、均衡を保つ以上のことを行っていたようである‐Fedは特別オークションで新しい中期債券をマーケットに出していたのだった。受益者の一部は売却を望んでいたようである!

 

直近発行の10年中期債券に関する深刻な決済の問題により、 アメリカ財務省は10月4日に新たな10年債券の発行を再開し、新たな10年債券の例外的な「スナップ」 オークションを開催することになった。」193

 

準備制度が2,400億ドルの秘密債券の清算を隠蔽しなければならなかったとしても、彼らは通貨危機の時期にあって資本量をそれほどの規模で収縮させることは出来なかったのである。彼らは過剰流動資金をマーケットに出し、段階的にソフトランディングさせねばならなかった。これが実際に起きたことであったと考えられる。約2ヶ月の間に、マネーサプライは911以前に水準に戻った。どのようにして連邦準備制度がこの偉業を果たしたのかは、次のセクションで説明される。

 

連邦準備制度とスリーカード・モンテ

 

現代アメリカの路上で最もよくある詐欺の一つはスリーカード・モンテ(訳者注:イカサマで金を巻き上げる賭博)の仕掛けである。 この詐欺の細部は多数あるが、本質的にはカモをだますディーラーの手口が三枚のカードの急速な回転(目くらまし)によって隠されているということである。911の余波の中での証券決済の不履行という急速な回転(目くらまし)が、Bank of New YorkとFederal Reserve が証券の借り換えに携わることを許し、元々は一大ルーブル詐欺に用いられた2,400億ドルに対してアメリカ人納税者に資金補充させる結果となったと考えられる。

 

911の後の連邦準備制度の行動についての説明を再検討すると、分析と推理から驚くほど複雑なクモの巣が明らかになる。連邦準備制度が発表した報告書は、マネーサプライを3,000億ドルを超えるほど増大した連邦準備制度の行動は金融部門の業務上の問題を克服するために正当化されると主張している。この報告書は印象的ではあるが、何気なく読む者が気付くのは、連邦準備制度の分析は全て、「だったであろう」、「らしい」、「おそらく」、「であったはずである」との表現を用いたもので、推測的で暗示的であることである。連邦準備制度の対応の根本的理由とその妥当性についての明確な表現は‐たとえあったとしても‐わずかしかない。

 

この業界の全般的な見方は以下のようなコメントとして表現されている:

 

「攻撃の破壊力それ自体によりアメリカの銀行システムに、特に銀行の支払い送信能力に、厳しい混乱が生じた。攻撃による物理的混乱には、マンハッタン南端部の金融地区の電話交換装置の機能停止、個々の銀行の記録処理プロセスや通信システムの機能停止、大手銀行の支払い業務のための場所であったビルからの避難、航空便による小切手の受渡しの中断、が含まれていた。」194

 

「9月11日の後の、公開市場操作は深刻に混乱した政府証券ディーラー集団の金融上の必要を満たす狙いがあり、目標レートでの需要を満たすために柔軟に差引残高を提供する業務を割引窓口に任せた。9月11日後の巨額の資金追加はそのため、翌日物のフェデラルファンドレートを目標として設定された操作手順の副産物であった。」[3]”195

 

「未決済が当初、取引記録と通信施設の破壊のせいで、増大した。未決済を避ける、あるいは未決済を改善するために通常採られる手法‐SCレポを通じた証券の借り換え‐が証券の受渡しの不履行と同程度に高くつくことが分かったため、それらは高いままであった。」196

 

このような表現を読むと、システムに大規模な、広範囲の混乱があったことが示唆されていることが分かる。これらが、「政策立案者が以前の債務管理慣行から大きく逸脱しなければならなかった」事情であった。197

 

連邦準備制度の分析を示す報告書が提示した事実は事実であるとはいえ、示されるように彼らは攻撃の余波の中で何が本当に起きたのか歪曲する傾向がある。実際、分析は800以上の銀行での混乱を報告しているものの、報告書を詳細に見ると、ごく「わずか」のみが深刻に混乱していたことが示されている。

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銀行の混乱の規模は、一つの例外を除いて定量化されていなかった。前述の表現も、混乱は基本的に一つの銀行に集中していたことを示すデータを取り上げていない‐その銀行とはBank of New Yorkであった。(このBank of New Yorkは、犯罪的新興財閥によるロシアからの経済的略奪と関係するマネーロンダリング容疑で捜査されていた銀行であり、彼らは911の余波の中でロンダリングされていたと考えられる秘密債券によって資金提供を受けていたと思われる。)これが、Fed が一日当たり1,000億ドルを超える未払い勘定残高を報告する一方で(関係していた銀行名は特定していないが)、Wall Street Journalが以下のように報じた理由である:

 

「911後の一週間のある時点で、BoNYは1,000億ドルの支払いの遅滞を公に伝えた。」198

 

世界貿易センター内にあり、完全に破壊されたDeutschebankは、そのような勘定残高の増大を伝えておらず、またBank of New Yorkと同じ取引通信ハブを利用していた、二つだけのclearing banksのうちの一つであった、JP Morganもそのような勘定残高の増大を伝えていなかった。誰も公に以下のように尋ねるものはいなかった:建物への被害のなかった‐Bank of New Yorkが業務の遂行が出来なかったと思われるのに、なぜこれらの2つの銀行は深刻に混乱していなかったのかと。BoNYで何が起きたのか理解することは、債券決済に関する問題点を理解する上で重要な意味を持っている。

 

「GSCCと複数のディーラーは、BoNYにあった彼らの管理口座に何が入ってきて、何が出て行ったのか、確認出来なかった。彼らはBoNY に彼らが受け取ることを想定していた証券について知らせることが出来なかった。彼らはBoNYに証券の受渡しの指示を与えることが出来なかった。加えて、GSCCはBoNYにあった自分達の口座への、また自分達の口座からの資金の動きを確認することも出来なかった。(GSCC Important Notice GSCC068.01)」199

 

無数の偶然の中で、Bank of New York(中心街の所在地に8,000人を超える従業員がいた)はその日3人の従業員を失った。これらの3人の従業員の一人は、どのように攻撃がBoNYに影響を与えたのか説明する上で最適な立場にいた。彼の名前はMichael Diaz-Piedra IIIといい、陸軍士官学校の卒業生でキューバからの亡命者の息子であった。Michael はBank of New Yorkの災害復旧計画部の次長であった。911の余波の中で、彼はBank of Americaの従業員として、つまりBoNYとは別の職についていた人物として報じられた。

 

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最後に、Bank of New Yorkの業務と911において経験した混乱のレベルに関して、ある重要な要素に光を当てる必要がある。金融システムの混乱はManhattan商業地区の通信ハブの喪失に原因があったとされた。電話ネットワーク運営センター(NOC)つまりハブが、WTCがその上に崩壊した時に、破壊されたという。しかしながら、Fedとの通信が不可能であったと報じられたBoNYの資金振替業務は、New York州のUticaで行われており、通信能力は全く損なわれてはいなかった。さらに、4つのBoNYのバックアップデータセンターは全てマンハッタンから46マイル以内に位置しており、配信設備を通じてテープ上のデータを規定通りFedへ配信可能であり、実際に配信していた。

 

事実として見えるように仕向けられた連邦準備制度の分析による真実と推測の混合した報告の中の、911の金融上の影響に関する報告を再検討すると以下のことが示される:

 

· アメリカの金融システムの混乱は連邦準備制度の報告書が一般市民に信じ込ませようとした程には広範囲に及ぶものではなかったが、一般市民は国家的金融的緊急事態を宣言し、連邦準備制度法の主要な規定を一時的に停止し、「10年債券の特別レート」をほとんどゼロに下げるための広範囲の必要性を理解するべく仕向けられていた。

 

· 連邦準備制度の主要な未判明の人物達がBank of New Yorkの主要な未判明の人物達と「共謀」し、ソビエト連邦を打倒する公式の秘密作戦の一部として1991年に作られた2,400億ドルの簿外の証券を、公にはその存在を認められることなく、清算することの出来る状況を生み出した可能性がある。

 

· 当初Cantor Fitzgeraldによって運用されていたこれらの証券は、911の余波の中でBoNYを通じて決済され、清算された。BoNYが経験したとしてWall Street Journal が報じた1,000億ドルの勘定残高のバブルは、これらの証券が簿外からバランスシートに移動された3日間の作戦行動の一部であった。(こうした簿外の処理プロセスは、アメリカ大統領の銀行取引アドバイザーであり、宣誓証書のもとで、これらの不法な証券の源である疑いのある –Project Hammer fundsを運用していたことを認めているEarl Cockeによって説明されている。)

 

· 「10年債券の特別レート」をほとんどゼロに引き下げることで、Fedは構造的に借り換え(レポ)決済の不履行の件数を増加させた。こうした人工的に生み出された統計上の未決済の上昇を隠れ蓑にして、2,400億ドルのロンダリングに起因する高水準の未決済は気付かれずに処理されることが可能となった。

 

· このバブルに対する言い訳はBoNY年次報告書と四半期報告書の脚注に見られる。それはBoNYが2001年の6月から10月の間にU.S. Trustから3300億ドルの商業証券のビジネス取引を、2000年のU.S. Trustの管理下にあった資産は2つの情報源によれば800億ドルか860億ドルであったと伝えられているにもかかわらず、引き継いだと報告している。200

 

連邦準備制度の911の余波への対応

 

2つの主要な混乱が金融マーケットでは報告されていた:

 

少数の銀行の余剰勘定残高が、報じられるところによれば、連邦準備制度を安定化させるためにクレジットの大規模な流入を必要としていた幅広い銀行の勘定残高の増加の原因であったという。こうした増加は9月12日に現れ始め、18日まで続いた。それらは3,000億ドルをアメリカのマネタリーサプライに加える結果となり、これがサブプライムマーケットの発端となった。

 

2)報告された証券決済における過剰な数の未決済により、決済の規制を解除することが必要となった。これらの未決済の2つの理由は以下のように報じられた:

 

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· コミュニケーションとデータが失われたことにより取り引きデータが行方不明となったこと。

 

· 10年中期債券の特別レートがほとんどゼロに下がったために、借り換え(レポ)決済が未決済を回避する金融上のインセンティブを失ったこと。

 

未決済の第一波の原因はBoNYの状況にあったとされている。

 

「9月11日のBoNYの口座への受渡しと、そこからの受渡しに関する完全な情報が欠如している中で、ブラインドブローカーによるレポの開始段階における決済不履行を引き受ける形で、GSCCは(9月11日の取引終了後)決済不履行となったとみられる取引は2,660億ドルになると記録した…継続していた接続に関する問題により、GSCCは9月11日の取引終了の後、BoNYに受渡しの指示を与えることが妨げられ、また9月12日のBoNYの口座での動きに関する情報を入手することも妨げられた。その結果、CGCCは9月12日の取引終了の時点で4,400億ドルの決済不履行を記録した。」201

 

マネーサプライを増大させた余剰差引き残高

 

Fedの911の余波に対する対応を検討すると、最も重要なことは連邦準備制度における勘定残高の集中であった。

 

「連邦準備制度における勘定残高の集中が‐テロリストの攻撃の後数日間は通常の14倍以上にレベルに上昇しており‐最も異常な出来事であったことは明白である…銀行システムの差引き残高の大部分が一つの銀行の口座に集中した場合、他の銀行は、全て等しく、支払いコストが高くなるか、あるいは、借り入れに対する流動性制約に直面することになる。 こうして彼らのさらなる支払いの実施の妨げとなった可能性がある。」202

 

些細な記述に見えるも知れないが、以下の修飾表現に注意していただきたい:「全て等しく」。代替となる説明は、簿外の負債をバランスシートに移動し、相殺する債権は世界貿易センターの瓦礫の中にあると主張するものと考えられる。

 

33_2   

 

 

[Liquidity Effects of the Events of September 11, 2001, James J. McAndrews and Simon M. Potter,Federal Reserve Bank of New York Economic Policy Review, November 2002, p.64.]から抜粋した表

 

重要な考慮すべき事項は911以前のこうした差引残高の毎日の平均である:「商業銀行にとっては、こうした差引残高は義務付けられた支払い準備金残高と超過準備金残高つまり業務に関連した残高で構成されている。3 こうした差し引き残高と業務に関連した残高34 の2001年8月の平均は一日当たり146億5千万ドルであった。203 

 

p.34
こうして攻撃に起因する実際の急騰は、その週の残りの間の勘定残高での3,520億ドルという純影響を示すことになる。

 

1_2

事実と考えられることは、余波の中で3日連続で報告されていた連邦準備制度の不均衡は大部分がBank of New Yorkに集中していたということである。Bank of New Yorkは不均衡の90%以上を示していたと伝えられており、この銀行が大規模な資金振替の受け手であり、 振替の送信を実施出来なかったことが示されている。

 

「911の攻撃の後の一週間のある時点で、BoNYは1,000億ドル以上の支払いが遅滞していると公表した。204

 

これは大きなコミュニケーションとシステムの機能不全に起因していたと想定されている。

 

「重要な国債の処理過程には、例えば、第二コンピューターがメインコンピューターに伝達する全てのデータを受信し、処理するシステムがあり、即座にデータを取り出せるようにしていた…しかし、この高価なバックアップシステムが国債取引を円滑に稼動させることが出来なかったことが判明した。これは主に、顧客からの取引に関する情報を受信し、彼らに取引状況を伝える通信回線の維持に関する問題がその理由である。「多くの場面において、私達のバックアップサイトは私達の顧客のバックアップサイトと取引していました。」Mr. Renyi は述べた。銀行が前もってこうした様々なバックアップセンターとの接続を確立していたとしても、それらはしばしば容量が足りないことがあり、概して完全にテストされたものでも、不具合を修正されたものでもなかった。攻撃の一週間後であっても、Bank of New Yorkは、国債マーケットの中心部分である、Government Securities Clearing Corporation(政府証券決済公社)への接続のような重要な通信回線の一部に問題があった。その週の数日間、Bank of New Yorkは取引に関するコンピューターテープをG.S.C.C.のオフィスまで車で輸送しなければならなかった。」205

 

「私達の資金振替ビジネス部門はNew York州のUticaにありますので、9月11日にも、マンハッタン南端部の通信回線がその日の遅くに機能停止するまでは、私達は処理を続けることが可能でした。その後、私達には証券や現金の取引を通常のやり方で処理することが出来なくなったため、過剰な流動資金が急速に蓄積されました。しかしながら、私達が金曜日までに通常の取引処理に戻り、週末にかけて未処理分を処理すると、バランスシート上の増大は急激に解消しました。」206

 

実際のところ、BoNYのシステムは全く機能不全にも、不稼動にも陥っていなかったのである。

 

「銀行の重役は、マンハッタン南端部のコンピューターセンターの中心的バックアップはマンハッタン南端部とは別の場所にあったのだから、一部の批判は、特に銀行が混乱の中にあったという考えは、都市伝説の色相を帯びていると主張している。マンハッタンの複数のコンピューターセンターは緊急時を想定して街の外のセンターに常にデータを送信するようになっており、9月11日にも実際にそうしたとBoNYは言うのである。」207

 

さらに核心をついているのは、BoNYの資金振替業務は New York州のUticaで行われており、そこの通信システムは手付かずであったことである。

 

矛盾する報告の興味をそそられる部分は、BoNYのTodd Gibbonsが9月11日の証券の取引量の「増加」を伝えている部分である。

 

p.35
「非常事態の現場でも、通常のビジネス取引量に順応出来るだけでなく、私達が株式市場において最初の日に見たような、ビジネス取引の際立った急上昇にも順応出来ることは間違いありません。私達の非常事態計画には大量の過剰な取引を処理することの出来る能力が含まれていました;だから私達は取引量の増大に対処することが出来たのです…」208

 

しかしながら、その日の全体的な量は通常よりも25%少なく、全体量の3分の1、つまり4,000億ドルは通常のビジネス取引の後に極めてわずかな取引の中で取引されたのであった。下の表において見られるように、その日の全体的な取引は見たところ出来高よりもかなり顕著に減っているが、取引終了後になされた取引は極端に大きく、平均すると一まとめで350億ドルかそれ以上の大きさになる。これは2,400億ドルの証券が人目を忍んでマネーサプライの中に流し込まれたとの仮説と一致することである。加えて、BoNY と Fedの矛盾する情報は、BoNY の行動が一般市民に伝えられていたものとは異なっていたことを示している。

 

「2001年8月に、Fedは約1,500億ドルを口座に保持していたが、連邦電信決済通信網で振替送金された資金の額は一日当たり平均で1兆6,000億ドルを超えていた。9月11日に振替送金された資金の額は1兆2,000億ドル、基準期間の平均の約4分の3であった。しかしながら、量とは異なり、振替送金された資金の額は12日には通常の水準に戻り、そしてその後の7営業日の間に高い水準となった。」209

 

37   

 

[Liquidity Effects of the Events of September 11, 2001, James J. McAndrews and Simon M. Potter, Federal Reserve Bank of New York Economic Policy Review, November 2002, p65. ]

 

連邦準備制度は、自分達の主張を立証するために必要な具体的詳細を提供することなく、一般市民に広範囲にわたって資金流動性に関して問題があったと信じさせようとしたのである。実際、こうした事項は、単独ではなかったとしても主に、長年にわたり進展中の大きなマネーロンダリングの捜査を受けていたBoNYに特に集中していた。これらの勘定残高に関する事項はマネタリーマネーサプライの事実上の拡張という結果を招いた。この詳細は連邦準備制度によって報告されていない。こうしたマーケットの機能不全として報じられている原因は見たところ疑わしい。ちなみに、世界貿易センター内にあったDeutschebankはそのような勘定残高の増加を伝えておらず、同じ取引通信ハブを利用していた2つの clearing banksの片方であったJP Morganも、勘定残高の増加を伝えていなかった。加えて、こうした問題はBoNY とGCSSの間では文書化されていたが、他の金融機関にはそのような問題はなかったのである。

 

p.36
「…11日並びにその後の数日間にも主要な民間セクターの決済システム(the Depository Trust & Clearing Corporation and the Clearing House Inter-bank Payments System [CHIPS])で多額の決済がされていたことは注目に値する。」210

 

911の余波の中でのBoNYの行動が疑うに値するものであると信じるあらゆる理由が存在するのである。

 

未決済

 

911の余波の中で、Fedの分析は証券の決済の不履行は以下の2つが原因であるとした:

 

· 当初の機能不全により取引と対応するデータを一致させることが出来なかったこと。そして

 

· 証券の特別レートが低かったため、借り換えにより未決済を回避するインセンティブのない余波の中でブローカーによって「戦略的」に未決済が活用されたこと。

 

この特別レートの縮小は、上のセクションにおいて論じられた過剰な差引残高に関する事項に対応した、資金の流動性を増大するオペレーションに原因があったとされた。

 

その結果一人の主要な連邦準備制度の調査員はこれを以下のようにまとめた:

 

「未決済が当初、取引記録と通信施設の破壊のせいで、増加した。未決済を回避する、あるいは未決済を改善するために用いられる手立て‐SCレポを通じた証券の借り換え‐が証券の受渡しの不履行と同程度に高くつくことが分かったため、それらは高いままであった。アメリカ財務省は直近発行の10年債券を追加発行することで未決済問題に対処した。増大した供給が債券の借り換えを未決済よりもより魅力あるものにした。」211

 

未決済に対する標準的改善措置‐SCレポを通じた証券の借り換え‐は、Fedが特別レートをほとんどゼロに引き下げた時に、効力を失った。結果として、第二の、継続する「未決済」の「波」が、通常の取引者に未決済を回避させるインセンティブを取り除くことで発生した。秘密の資金調達中期債券の喪失に起因する基底にあった未決済の波を隠したのは、この構造的に生み出された第二の波である。

 

「『デスク』は十分な規模のレポを手配するために、提案の圧倒的大部分を‐新しい目標水準の3%よりもかなり低いレートで提示されたものまでも‐認めなければならなかった.」
(Markets Group of the Federal Reserve Bank of New York 2002, p. 24)
水曜日に、デスクは提議された提案を全て認めたが、そのうちの最低のものは0.75%であった:表2を参照。(Markets Group of the Federal Reserve Bank of New York 2002, p. 24)
実質的なFFレートは木曜日には1.25%にまで下がり、水曜日よりも低くなった。」212

 

「未決済を回避する、あるいは未決済を改善するために証券を借りる売り手のインセンティブは、証券の特別レートと共に落ち込んだ。特別レートがゼロに近くなると、必要な証券を借りるためにマネーを(ほとんどゼロ金利で)貸す売り手には得るものがほとんどない。13 これは証券の特別レートがほとんどゼロの時には、マーケットの参加者には、一連の相場操縦や仲間内での取引を切り抜けるインセンティブがほとんどないことを示している。マーケットのこのような局面は911の後の未決済の問題を理解する上で重要である…FF金利、よってGCレートが低い場合には、証券の特別レートは、より頻繁に最低限度にまで落ち込むことになる。こうしたことが起こるのは、いかなる特別レートにおいても証券の貸し手が得る報酬の総計は、GCレートと特別レートの差にあるからである。」213

 

次の表に示されているように、特別レートが2%から3%の幅で下がり、短期のレポにより未決済を解消する上での阻害要因を生み、統計上の相次ぐ未決済を生み出したのであった。

 

p.37
35      
[When the Back Office Moved to the Front Burner: Settlement Fails in the Treasury Market after 9/11, Michael J. Fleming and Kenneth D. Garbade, FRBNY Economic Policy Review / November 2002, p 41.]

 

この時点で新しく発行した債券をマーケットに出したFedの対応が、思いがけない形で(これは反論されるべき仮定である)、10年もの中期債券の引き続く低い「特別レート」の原因となり、未決済問題をその年の終わりまで続かせ、悪化させたようである。高水準の決済不履行が拡大した状況においては、直後には決済されなかったであろう残された2,400億ドルの決済を「統計上隠す」ことにはほとんど努力を必要とはしなかった。10月の3週間の未決済の小康状態はおそらく、債務の30日の短期借り換えを示していたのであろう。長期的な借り換えを求めて債務がマーケットに戻ってくるにつれて、投資者の不足によりさらなる未決済の結果を招くことになった。

 

p.38
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[When the Back Office Moved to the Front Burner: Settlement Fails in the Treasury Market after 9/11, Michael J. Fleming and Kenneth D. Garbade, FRBNY Economic Policy Review / November 2002, p]

 

ここで重要な観点は、2,400億ドルの秘密中期債券の原本を世界貿易センターの瓦礫の中に消失させながら、金融界の注意を引くことなく数日間でそれらに資金を補充するということは考えられないということである。中期債券は想定上、レポ市場で30日間の借り換えが可能であったと考えられるが、最終的な借り換えは数週間、あるいは数ヶ月間に拡張したのであろう。

 

911の攻撃の中心として、1991年に発行されたソビエト連邦の崩壊に資金提供するために用いられた2,400億ドルの秘密債券の隠蔽を誰かが計画していたという主張が存在している。911の金融上の影響を取り巻く事実は、こうしたことが可能であったことを示すだけでなく、その影響を説明する報告が意図的に誤解を招くものになっていたこともまた示している。

 

· アメリカドルのマネーサプライは911の余波の中で顕著に増大していた;

 

· 元ソビエトの犯罪者による不法なマネーロンダリングの中核にあった銀行が増大したマネーサプライの源であった(BoNY);

 

· BoNYの業務上の問題の根本原因として一般的に広まっている事象は、他の銀行には同様な作用、あるいは規模で影響を及ぼしていなかったようであり、また余波の中でのBoNYの業務に関する報告と整合性がない;

 

· これらの事項について洞察を提供する可能性のある重要な証人は統計上の異常な死者である;

 

· BoNYの資産の3,300億ドルの増加の原因は「民間銀行業」という特権の元で隠されている;

 

· 金融システムに起こったと言われている唯一の「深刻な」混乱は連邦準備制度の勘定残高と証券取引の未決済であった‐両システムとも2,400億ドルの秘密証券のロンダリングを隠すために必要であった。

 

p.39
これは2,400億ドルがロンダリングされたことを示す「証拠」ではないが、それが間違いなく起きたというDurhamの主張に真剣な注意を払うもっともな理由を提供するものである。秘密工作活動と秘密の資金提供という謎めいた暗い影‐Durhamの夫の世界‐を深く見つめると、1991年から2001年の出来事についての彼女の主張が信憑性を帯び始めることになる。

 

付随的被害 3/5

以下は、http://www.wanttoknow.info/911/Collateral-Damage-911-black_eagle_fund_trust.pdf#search='colateral+damage+911+ep+heidner'の日本語訳です。(p24からp28)

 

付随的被害 第三部

 

 

新興財閥と西側

 

1980年代後半、Gorbachevの下にいた、将校Bobkovと Kondaurovは数人の聡明で若い「ロシア人」企業家のスポンサーとなり、彼らが Riggs-Valmetとして知られるスイスのコンサルタント集団と共に働くことが出来るように調整した。170 これは1988年にGeorge Bushによって彼の兄弟と元国家安全保障会議責任者の用心深い監視の下で調整されたRiggs工作活動と全く同じであった。これらの新興財閥の第一世代の名前は以下である。

 

· Mikhail Khordokovsky
· Alexander Konanykhine
· Boris Berezovsky (Berezovskii)
· Roman Abramovich

 

p.25
Alexander Konanykhineは、Boris Yeltsinとして知られるロシアの辺境出身の無名のロシア議員のキャンペーンの資金提供の半分を受け持つことになる。Yeltsin は選挙に勝ち、ロシア大統領になる。KGBの保護の下で、Konanykhineはロシアのマネーをロシアから運び出すために利用されることになる一連の銀行を開いた。最も顕著だったのはRussian Exchange Bank、European Union Bank、そしてBank Menatepでの自身のMikhail Khordokovsky との提携関係であった。European Union BankはAntiguaでインターネット銀行として稼動しながら実際にはマネーロンダリング活動をしていた。この銀行を稼動するために利用されたコンピューターから、Washington DC.のPennsylvania Avenue 1429 Suite 347の、Konanykhineの知人であったVal Kulkovへと辿り着いた。この銀行のインターネットアドレスはAegisと呼ばれる会社によって所有されるインターネットアドレスのブロックのものであった。Pennsylvania Avenue1445 の当時Aegisを支配していたThayer Equity Investorsは同じビルの3階にあった。Thayer Equityの住所はまたかつてHohlt Groupによっても利用されていた。Hohlt Groupは現在はPennsylvania Avenue 1433にあり、実質的に玄関先にある。こうした集団には興味が引かれる。なぜなら彼らを支配する人物は以下のアメリカ共和党の金融面での影の実力者であるからである:Frederick Malek (Thayer Equity ) そしてRichard Hohlt (Hohlt Group)。Hohlt はRichard Armitageの知人であると伝えられている。

新興財閥 Mikhail Khordokovskyはロシアからマネーを移動する担当であり、またロシアの石油とガス産業の乗っ取りのための主要な金融組織を設置する担当でもあった:その組織とはBank Menatepである。時と共に、RiggsはそのBank Menatepに対する支配を51%から公開された4%へと弱めることになる。もっともこの機関の全体的な所有権はプライバシーのため秘密にされたままであるが。
Khordokovskyの取引はまた以下のガス産業の乗っ取りも伴っていた:Gazpromと元々はPalmer and Lauderによって支配されていた現代的なAEBである。

 

新興財閥Roman Abramovichはシベリアの巨大石油企業Sibneftの株を買うためにValmet-Riggsと共に活動した。171 Abramovichは Runicomと呼ばれるエネルギー取引会社を興したが、これは完全に Valmet-Riggsによって所有されていた。Runicomの実際の受益株主は全く公開されなかった。172 Abramovichは、かつてBCCIとIran-Contraに関与した銀行家であったBruce Rappaportの所有するスイスの従属会社の一つのオフィスから、自分の活動を運営した。彼らが興したビジネスは石油とガスの取引であった。自分の取引の一環として、彼は間もなく新興財閥Boris Berezovskyと関わり、提携を結ぶことになる。

 

新興財閥Boris Berezovskyは伝えられる所によれば、マフィアとの強いつながりのある中古車販売業者として自分の経歴を開始したという。彼はまたRiggs-Valmetから指導を受け、Roman Abramovichと提携を結ぶようになったと伝えられている。彼の役割は様々な金融上の乗っ取りの背後で販売をためらう際に「圧力」を与えることであったと考えられる。

 

彼らのうちのこの4人目の人物がロシアの石油とガス産業を支配し、Riggs-Valmetのコンサルタントの指導の下で手はずが整えられた隠れた受益者のために表に立つ人物となるのであった。このレポートは、この隠れた受益者が万が一見つかれば、Black Eagle Trust、Project Hammer等の不法な受益者を明らかにすることになり、彼らと911の余波の中での2400億ドルの債券の決済による受益者は同一であろうと推測するものである。

 

ロシアの南、カザフスタンでは、Nursultan Nazarbayev が当初James Giffenと共に、西側経済への石油の流れを開くために活動していた。Giffen が足場を築いた直後、Nazarbayev はShaul Eisenberg、Marc Rich、 Dick Cheney、George Sorosと共に活動した。アメリカの腐敗行為防止法を侵害していた恐れのあったJames Giffenの活動に対するFBIの捜査は、その記録を世界貿易センターのFBIの23階オフィスに保管していた。Giffenの裁判の範囲は、Giffenの弁護団の抗議に反して、裁判所によって1994年から以降の活動に限定された。弁護団はGiffenがホワイトハウスの指示の下で活動していたことを示すことが出来るため、Giffenの活動の範囲を1991年にまで遡って公開する必要があると主張した。Pulitzer 賞受賞経験を持つSeymour HershはNazarbayev大統領の初期に多くの不法な石油スワップがなされたと報じたが – Giffenの裁判の際にはこうしたことは全く明らかにされなかった。173

 

大いなるルーブル詐欺

 

ソビエト連邦に対して仕掛けられた経済戦争を理解すると共に、George Bush大統領に1991年9月11日にこの攻撃の一環として2400億ドルの秘密債券を発行した責任があったという報告に焦点を当てる必要がある。

 

 

p.26
これがまぎれもなく事実であったことを示す8つの情報筋からの6つの証拠がある。こうした事実の多くは、こうした主張をする人々によって発表されたインターネット上で入手可能な文書によって裏付けられる。174

 

 未判明の資金源により、1991年から1992年の間にルーブルが大掛かりな攻撃を受けていたことを示す多数の調査報告が存在する。アメリカドルでのソビエト連邦からの資本逃避は、Fidel Castroによれば5000億ドル、Gorbachevによれば1兆ドルと推定された。誰かがこうしたドルへの資金提供といううまい部分を仕組んだに違いなかった。こうした主題に関して最も信頼出来る情報筋、Claire Sterlingがこの攻撃の背後には未判明の情報工作活動があったと記している。

 

 

「ロシアの外にいた人間はほとんど誰も一大ルーブル詐欺について聞いたことがないという事実は、ある程度は一見した程度では信じられない詳細のためであるとして説明可能であろうが、またある程度は、西側がかなり微妙な政治的話題に触れることをためらったということで説明可能であろう。悪の帝国の崩壊を喜んでいた西側政府は、新たに生まれつつある民主主義における悪は全て、堕落した共産国と同一視されていた政治家に端を発していたと想定することを望んでおり、また外見上、実際にそのように想定していた。誰もそれとは反対を示す不埒な証拠を認める準備は出来ていなかった。そのような地球規模の工作活動を仕掛ける3、4人の人物の能力、依然として世界の超大国であった国家に対する彼らの非常に強い影響力、事の初めから終わりまで終始一貫した彼らの特異な免罪力から、導き手は一つではなく、複数の情報機関であったことが示唆される。」175

 

1991年と1992年にロシアにこうした規模の「現金」が出回っていたという主張を裏付ける文書はまたStephen Handelmanの著書 Comrade Criminalにおいても見られる。 Handelmanは、ソビエト連邦の崩壊の後にアメリカに持ち込まれたKGBのファイルにアクセス出来たと考えられるが、1991年以前に、ロシアの共産党が4350億ルーブルの「自由に交換可能な通貨」を保有しており、クーデターの後の夏、ロシアには一箇月前の事前通知で3000億ルーブルまでも提供出来る無名の人物がいたことを記している。176 前者の事例の4350億ルーブルは1991年7月の2400億ドルに換算される。この資金が換金されソビエトから運び出されたのであった。このルーブル詐欺にはこれ程大きな規模で強いドルを提供することが必要であったことになる。1年後の、Handelmanの示す第二の事例は犯罪者が直ちに30億ドルから45億ドルを自由に出来たことを示している。177 比較して言えば、同じ時期に、アメリカ議会は予算上限制約のために100億ドルの歳出予算案を通過させることが出来なかったのである。

 

 ロシアの中央銀行の第一副総裁であったAndrei Kozlovは損失についての調査の指揮を執っていたが、1991年に中央銀行から4000億ルーブルが盗まれたと伝えた。(1992年にチェチェンで発生したはるかに小規模の同様な詐欺と混同しないよう注意していただきたい)こうしたルーブルは、ロシアへの貸付の担保として交換可能通貨の債券を遠く離れたチェチェンの銀行に預け、そして資金が撤収されると同時に、その遠く離れた銀行からその担保付手形を消滅させた何者かによって盗まれたのであった。178 闇市場での1ルーブルの価格は約1ドルであったが、当時の「公式な」交換レートは1.8ルーブル/1ドルであった。4000億ルーブルに対して公式のアメリカドルでの対応値を用いると、この盗みは2220億ドルに換算される。Kozlovはこの4000億ルーブルがどこに行ったのか理解に近づいたと発表した直後に狙撃された。当時の中央銀行の代表は‐元KGB将校であったGeorgy Matyuhinで‐Yeltsinの利益のためにYeltsinのFirst DeputyであったKhasbulatovの要請を受け、彼がこうしたクレジットを承認したのであるが、MatyuhinはCIAの情報提供者であると報じられた後に引退した。179

 

 

 CIAの秘密資金の資金管理者であったRussell Hermanの妻、Mrs.V.K. Durhamは宣誓証言においてGeorge H.W. Bush、Oliver North、 Alan Greenspan が夫に債券を手放すよう強要したと主張した。彼らは後に関連する金融取引でHermannのサインを偽造したという。180 彼女はまた彼らに3年後の夫の死の責任があったとも主張する。つまりHermannがそれらの資金はBushの取り巻きの私的不正資金ではなくアメリカ市民の財産であったと信じ、それらが使われる方法に抗議したことが彼の死の原因であったという。Wantaもその後、彼の秘密作戦からの収益はアメリカ大統領によって使用される秘密の不正資金ではなく公的資金とならねばならないという同様な立場を維持している。181

 

 海軍情報部(ONI)の複数の情報筋が数千億ドルの規模の取引の詳細を示す100ページを超える銀行取引の資料を公表している。これらはDerek Vreelandがカナダの刑務所から発表したファイルと同じものである。刑務所から彼は看守に世界貿易センターへのやがて来る攻撃について提言したのであった。Vreelandは自分はONIの情報員だと主張していた。182 こうしたファイルはソビエト連邦に対する一連の秘密戦争と呼応する3つの取引期間を対象としていた;この取引は債券がソビエト連邦に動いていたことを直接示すものではないが、Bushの Vulcans が当時のアメリカ連邦予算の支出上限と矛盾するやり方で大規模な現金を使い、大規模の資金を主要な資金運用のための秘密口座に‐最も顕著なのはPilgrim Investmentsの「Jorge」Bushという口座に動かしていたというセオリーを裏付けるものである。(JorgeはGeorgeを表すスペイン語である)

 

 

p.27
.1989年8月から9月の最初の取引期間はメキシコとラテンアメリカの債務再清算の時期と一致している。この期間Bushには他の国々の債務担保を数ヶ月間消滅させることで不法な収益として300兆ドルを生み出した責任があったと主張されている。またこの担保を保有していた者は、このめったにない「逆利回り曲線」の期間として知られる8月11日から10月6日の間に利益を上げたという。

 

.1990年の9月24日から10月10日の間の第二の取引期間はソビエトの金の財宝購入のための資金提供、そして共産主義者の資金のソビエト連邦からの移動を示している可能性が高い。Leo Wanta はこの時自分の取り組みを開始したと伝えている。

 

.1991年5月27日‐28日の第三の取引期間は彼のルーブル不安定化プログラムに対する資金提供を示している可能性が高い。

 

Leo Wantaのファイルから発表されたこれらの債券についての文書がこのソビエトでの取引に関して重要な詳細を提供している:

 

 

•これらの債券はロシアとの未特定の「共同事業」に資金提供するために利用された。183

 

偶然にも、1991年9月14日に、最後のFirst Deputyソビエト連邦首相Vladimir Shcherbakovは他の2つの提携者と共にInternational Foundation for Privatization and Private Investment [FPI]を創設した。第二の提携者は決して明らかにされなかった。第三の提携者は今では悪名高いオーストリアの会社Nordex GmbHであった。International Foundation for Privatization and Private Investment [FPI]はBank of New York のマネーロンダリングスキャンダルに関与した主要な組織の一つであり、主要な犯罪の隠れ蓑であった。Interpol はMarc RichをNordexの創設者の一人と見なしていると報じられることになる。Marc RichはWilliam Clinton大統領によって恩赦されることになる。彼の恩赦の理由は公表されなかったが、おそらくソビエト連邦の崩壊を調整した彼のアメリカに対する働きのためであろう。

 

• これらの債券はスイスのKlotenの自由貿易地域にある金庫室に保管されているスイスの金によって裏書きされていた。184

 

Klotenの貯蔵所はZurich空港にあり、ここにMarcosの貯めた金は、盗まれたソビエト国庫の金同様貯蔵されていると伝えられた。

「…追放される前にFerdinand Marcosによって数トンの略奪品が手放された。
数十億相当の富がアメリカの情報組織のエージェントとマフィアによって海外に運ばれた。貯蔵品の多くは動かされず、厳重な警備のZurich空港地下の隠し保管所に埋もっていた。185」

 

• この債券がソビエト連邦の政府高官による貸付承認の条件とされた。186

 

• これらの債券が、部分的に、Lehmanからの不定期間一日当たり少なくとも1億ドルの通貨支払いをもたらした。187

 

• これらの債券が、Deutschebankを通じてロシアに流れた現金をもたらした。188

 

6.Project Hammerに関する証言録取書は、Vreeland、ONI、Wantaによって文書化された情報通りの同じ銀行と資金へと密接に結び付くものと見られる:

 

• General Earl Cockの2000年4月の死ぬ間際の証言録取書はCitibankと John Reedの1991年の最終四半期におけるProject Hammerへの中心的な関与について述べ、2230億ドルが資金提供され、大部分がCIAのマネーであったと記述している。Cockeはまたこれらの資金を担保するための、小額債券の利用にも言及しており、それは10年中期債券であったという。Cockeはこうした資金の源を「口座、参画者つまりプレイヤー」であると説明しており、この口座は管理している関係者の死に際して所有権が銀行に変わり、次に政府へと変わるという。これはアメリカのエージェントによって開設された金口座に起こることであるとSterling Seagrave とPeggy Seagrave が主張していることと正確に一致する;189

 

• 1995年のRoelfo Van Rooyenの証言録取書はProject Hammerを1991年のCIA作戦として記述している。190

 

9つの独自の情報源からの情報と文書は全て同じ話に収斂する。

 

1.Leo Wanta – 口封じのためにでっち上げられた脱税疑惑により投獄された。

p.28

 

2.U.S. Office of Naval Intelligence – 口封じのために911で破壊された。

 

3.Derek Vreeland–口封じのために投獄され、現在は身を隠している。

 

4.Major Colonel Erle Cocke – 共謀者としての臨終の告白をした。

 

5.Andrei Kozlov– ロシア中央銀行のdirectorであったが、口封じのために凶弾に倒れた。

 

6.Claire Sterling – CIAにより選ばれ、雇われた国際的特派員であったが、死去している。

 

7.V.K. Durham – 無視されているが、沈黙させられてはいない。

 

8.Sterling SeagraveとPeggy Seagrave – 著述家で歴史家、Marcosの金に関する本の刊行を阻止するため多くの死の脅迫を受けた。–現在は身を隠している;

 

9.David Guyatt、独立報道家で刊行された本の著者。

付随的被害 2/5

以下は、http://www.wanttoknow.info/911/Collateral-Damage-911-black_eagle_fund_trust.pdf#search='colateral+damage+911+ep+heidner'の日本語訳です。(p13からp24)

 

付随的被害 第二部

 

p.13
主要なアメリカの情報工作活動の戦後世代
13

 

p.14
支配力の獲得

 

他の大統領政権とは異なり、Reagan政権は副大統領‐当時はGeorge H.W. Bushであった‐に海外政策を支配させていたことで独自の特徴を持っていた。このような支配は彼らの選挙に先立つBush とReaganの間の取り決めによって確立されていた。79 この取り決めは後に大統領命令12333によって定式化された。80 William Caseyの伝記作家が指摘しているように、Reaganは「海外政策についてはほとんど分からず、構わなかった…」そしてその結果大統領の周辺の切れ者が彼を乗っ取り、動かすのであった。81

 

1980年11月、Ronald Reaganは僅差で現職のJimmy Carterを破り、大統領に選ばれた。投票でReaganとBushに勝利をもたらした要因であった僅かのパーセンテージは、イランで拘束されていた人質を救出し解放することをCarter大統領が出来なかったことに起因していた。82 この失敗した人質救出の取り組みは、この救出作戦を計画し、管理したOliver North、Richard Secord、Albert Hakimに責任があったと伝えられた。83  一方、イランによる人質の解放は、George BushとアメリカのCIAに相当するイスラエルのモサドのDavid Kimcheとサウジアラビアの実業家Adnan Khashoggiによる交渉によって意図的に遅らせられたと伝えられている。4千万ドルで、イラン側は人質の解放を選挙が終わるまで遅らせたのであった。84 歴史のチャプターでは「October Surprise」と称される、この作戦に関与した人物は以下である:

 

· George HW Bush
· Adnan Khashoggi
· Oliver North
· David Kimche
· Bob Gates
· Richard Secord
· William Casey

 

就任の69日後に、John HinkleyがReagan大統領の暗殺を企てた。この企ての8日前、先例のない一連の政策変更があり、George Bushを海外政策と国家安全保障の担当に置いていた。1981年3月22日の閣議において、Bushが「Emergency Crisis Management Staff」の支配権を握ることになった。この任務はBushに「副大統領として先例のない権限」を含め、新しい役割と権限を与えた。85  副大統領George Bushは国家安全保障会議システムの一部としての、アメリカ合衆国「crisis management」部署のリーダーに任命されたのであった。86 こうして、1981年3月30日、このような権限がBushに与えられた8日後に、Reagan大統領が狙撃された。その日、National Security Directive 1 (NSDD1)には実際のところ、2つのサインされていないヴァージョンがあった。その一つは国家非常事態の際の「緊急電話」の管理人をAl Haigとするものであり、もう一方はGeorge Bushとするものであったという。いずれのヴァージョンであれ内容は一般には公開されていない。

 

就任の69日後、その人物の配下にあった工作員がアメリカの政策と法を侵害してテロリストに賄賂を与えた人物が、その人物と近い関係にあった仲間やアドバイザーがアメリカ兵の命を犠牲にした失敗した救出の試みを計画した人物が‐全てはアメリカの大統領を支配する目的でなされたのであったが、このような人物がアメリカの海外政策の支配権を握ったのであった。87

 

Bushを政権の座につかせた暗殺者の父は、Vanderbilt Oilの所有者であったJohn (別名Jack) Hinckley, Sr.であった。Hinckley はBushが下院議員選挙に出馬して以来、毎年最高額の寄付をGeorge H.W. Bushに与えていた。「Hinckley の石油会社、Vanderbilt Oilが1960年代に倒産しかけた際、Bush, Sr.のZapata OilがHinckley の会社を財政的に救済した。 Hinckley は6つの涸れた油田で操業していたが、Bushによる救済の後には、毎年数百万ドルを生み出し始めた。」John Hinckley, Sr.は、CIAが隠れ蓑としている工作活動と広く伝えられるU.S. Ministries for World Visionの管理職的仕事に広範囲にわたり携わっていた。Jonestownの大量虐殺の後、World VisionがJonestownを乗っ取った。In The Black Hole of Guyana: The Untold Story of the Jonestown Massacreにおいて、John Judgeは苦心の末、Jonestown は人々を立ち退かせ、行き場のない避難民となった人々を暗殺者に変えるCIAの工作活動であったことを文書化している。議会の調査を受ける工作活動では、証拠は除去されねばならず-ほとんど全ての住民が情報の露呈を防ぐために殺戮された。88

 

暗殺者John Hinckleyの兄弟Scott HinckleyとNeil Bushは友人であっただけでなく、最近も一緒にパーティをしており、まさに暗殺の当日も一緒に夕食をとる予定であった。

 

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また、John HinckleyがReaganの殺害を企てたまさにその日、エネルギー省の3人の監査役がHinckleyの兄弟Scottに対して2百万ドルの罰金を支払うよう圧力をかけていた。この罰金は後に消失するのであった。89  新たに形成された「緊急事態」権限を持つGeorge H.W. Bushは暗殺の企てに対する調査を求めるAl Haigの公式な要請を却下するのであった。

 

このイラン人とイスラエル人を相手にした秘密のビジネス取引は、1980年7月のHamburgでの October Surpriseの調整の際のKashoggi とKimcheに端を発するものであったが、年月と共により大きな秘密工作活動へと進展し、1991年のGorbachevに対するクーデターへのアメリカの資金提供を可能とし、ソビエトのKGBに仕事の空きを提供するまでになる。こうした工作活動において、数多くのBushの政策アドバイザーや工作員が集合として見た場合には「高貴で正しい」アメリカの海外政策であるはずの措置を実行に移したが、それは議会が法によってそのような政策がどうあるべきか決めたものではなかった。October Surprise作戦は大きくなり、より大きなIran-Contra作戦によって影が薄くなった。Bushの秘密の情報組織中核のメンバーは、アメリカの敵と公言したイランに兵器を販売し、その利益を不法に利用して、ニカラグアの反共反乱軍、Contrasに資金提供を続けた。反共主義者と見られてはいたが、CIA長官は彼らは貪欲に突き動かされているとその特徴を述べた。90 冷戦と戦うために秘密の財源を利用するという基調は、わずか数年後にBushの組織中核がソビエト連邦を取り込むことに決めた際に、再び浮上することになる。

 

全Iran-Contra作戦は1986年にほとんど破綻し、ニカラグア政府がContra 反乱軍に兵器を輸送するアメリカ機を撃墜し、アメリカ人パイロット- Eugene Hasenfusを捕らえた時に一般に明らかになった。このような輸送の発見 - アメリカの法の侵害 - によって一連の議会調査と独立調査会による調査が始まった。October Surpriseが発覚することを防ぐために開かれたHamburgとParis での会合には言及されず、Bush をParisに運んだ2人のパイロットは直ちに拘束され、議会で証言しようとした際には信用を落とされた。裁判所は後にパイロットに対する告訴は裏付けがないことが分かったが、その時までに彼らの証言は阻害され、信用が落とされていた。

 

「Gunther Russbacherは…自分がOctober Surpriseの会合の一つにGeorge Bushを飛行機で運んで行ったことを示すビデオテープの証拠と16人の目撃者がいると主張した。」91

 

こうした取引の主要な調整役であったイスラエル人、Ari Ben-MenasheもまたParisでの会合で直接Georgen H.W. Bushを見たと証言した。

 

「6月に、私もまた上院外交委員会を前にした非公開の会議で、宣誓証言をしました。私は ParisでBushを見たと、はっきりと述べました。」92

 

こうした取引の主要なイスラエル人調整役であったAri Ben-Menasheによれば、イランに武器を渡すために設けられた5つの供給プロセスのうちの4つは調査されておらず、Iran Contraに対する議会聴聞会の最中にも操業を続けたという。

 

「…Towerには武器のチャンネルが継続していたことが完全に分かっていました。しかしTower委員会はその件について言及しませんでした。1987年2月に、Towerがイランへの武器販売のささいな部分を調査している間にも、イスラエルとイランの共同委員会はRobert Gatesと共に、イランへの最大規模の武器提供を実行していました。公式の調査は煙幕よりはましといった程度でした。」93

 

簡単に言えば、Iran-Contraチームは、議会の調査を受けている間にも、法を侵害し続けていたということである。Iran-Contraの結果として起訴や有罪判決はわずかにあったが、概して言えば、関与した者は免罪されたのであった。Bushはこのわずかな起訴され有罪判決を受けた下位レベルの政府役人を後に放免した。Dick Cheney は犯罪はなく、Bushは関与していなかったと結論付けた議会の委員会のメンバーの一人であった。Robert Muellerは、( Iran-Contraの調査に関連して)Noriega94 とBCCI95 の調査を指揮したアメリカ人弁護士であったが、George H.W. Bushの非合法な振る舞いを示す証拠を見つけることはなかった。彼のその後のEnronに対する調査ではEnronによる不正行為は見つからなかった。96 Mueller は後にWTCの調査の指揮を執るよう要請された。

 

このIran-Contra作戦の隠蔽工作を支援するために、目撃者は沈黙せねばならなかった。

 

「海軍Lt. Commander Alexander Martinは、海兵隊 Lt. Col. Oliver NorthがNational Programs Office(国家プログラムオフィス)との名称のホワイトハウスの国家安全保障会議の人目に付かない部門を通じて運営していたReagan/Bushの麻薬工作の実質的な会計主任であった。

 

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司会者Tom Valentineとのラジオインタヴューで、先ごろ7月に、Martinは麻薬と金だけでなく、死についても語った。「Iran-Contraに当初関与していたおよそ5,000人のうち、およそ400人が、1986年以来、自殺したか、事故死したか、自然な死因かによって命を失っています。こうした死の半数以上において、死亡証明書が発行されませんでした。187の事例において、家族が連絡を受ける前に遺体は火葬されていました。」Martinはそして自分は身を潜めていると語った。97

 

「(BCCIの)アメリカ支店を閉鎖させたマンハッタン地方検事は、BCCIのCIAの秘密工作活動との関係、イラクへの武器密輸、マネーロンダリング、児童買春を調べる過程で16人の参考人が死亡したと発表した。」 98

 

10月30日からクリスマスイヴまでに、私達の友人であり、誰もが高位の海軍情報将校であると考える、William Smithと私を殺害する4回の企てがありました。これと同じ時期に50を超えるCIAの工作員、彼らの妻、家族が、Clintonのチームが力を得る前に痕跡を隠すために、CIAのRobert Gatesの一派による企てによって殺害されたのです。私の命を奪おうとした最後の企ての後に、私の夫のSEALチームが私のためにオーストリアのウィーンへの安全な道筋を調整してくれ、私はCIA長官の職からRobert Gatesが去るまでそこに留まりました。」99

 

Amiran NirはOliver Northの裁判における彼の証言を防ぐために暗殺されたとAri Ben Menasheは記している。この証言はGeorge H.W. Bushの関与を示すことになっていたであろう。100  John Heinz上院議員とTowers上院議員は後にAmiran Nirと同じ運命に直面することになった‐航空機墜落による死である。こうした国家安全保障工作活動を明るみに出す危険性を持つ人物の命を奪うというパターンが1991年、さらに2001年にも再び繰り返されたのであった。

 

Iran-Contraのスキャンダルに関与した人物の名前には以下が含まれる:

 

· George H.W. Bush
· Adnan Khashoggi
· Oliver North
· David Kimche
· Richard Secord
· Richard Armitage
· Russell Hermann
· Bob Gates
· Shiek Kamal Adham
· Khalid bin Mahfouz
· Dick Cheney
· Farhad Azima
· Alton G. Keel Jr.
· Bruce Rappaport
· Alfred Hartmann
· Porter Goss
· Richard Armitage
· Shaul Eisenberg
· Robert Mueller

 

これらの人物のほとんどがソビエト連邦に対する秘密戦争における主要な工作員となるのであった。

 

Iran-Contra 作戦が展開する間、世界の反対側では、もう一つの重要な発展が起きていた。フィリピンの親米独裁者であったFerdinand Marcoが、Bushの海外政策マシーンにより突き動かされ、一部では73000トンもの規模と推定されるGolden Lily Treasureをアメリカに移譲したのであった。当時、この財宝は5,000億ドルから6,000億ドルの価値があったと推定された。101

 

この作戦に関係していた個人は以下であった:
· George HW Bush
· Adnan Khashoggi
· Oliver North
· Russell Hermann
· Paul Wolfowitz

 

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アメリカの情報工作活動は30年間にわたりMarcosの金を吸い上げていた。しかしながら、Ferdinand Marcosはさらに埋められていた財宝を発見し続けていた。 MarcosはAdnan Khashoggiの支援を受けて、1970年代にそれを少しずつ市場に販売し始めていた。102 何か未判明の理由により、Enterpriseは1986年にそれを全て手に入れることに決めた。この理由は分かっていないが‐ソビエト連邦に対する戦争に資金提供するためであったかも知れない。副大統領George Bush が最終的に1986年に、Marcosが公職の座を追い出された時にMarcosから金を奪い取った。Marcosは当時73,000トンの金を所有していたと推定されている。103
Marcosを公職の座から追放する際、アメリカはMarcos配下のGeneral で、Marcos側の高い地位から離脱しCorazon Aquinoを支持する側に回ったFidel Ramosによる支援を受けた。Fidel Ramosは後にCarlyle Groupの取締役員メンバーとなった。Marcosの金は一連の銀行に移転されたが、最も顕著だったのはCitibank、Chase Manhattan、Hong Kong Shanghai Banking Corporation、UBS 、Banker’s Trustであった。またKloten Switzerlandの保管場所にも保管された。Marcosの強制退去に関与したBush側の行政官はRichard Armitage と Paul Wolfowitzであった。Adnan Khashoggiもまた関与しており、金の移転を支援した。Khashoggi 、Shiek Kamal Adham、Khalid bin Mahfouz、Peter MunkがBarrick Goldと呼ばれるカナダの金採掘会社を創設したのはこの時期であった。

 

· Adnan Khashoggi は国際的な武器商人でOctober Surprise と Iran-Contraの取引を支援し、Marcosが自分の金を市場に販売する手助けをした;

 

· Shiek Kamal Adham はサウジアラビアの情報機関の長官であった;

 

· Khalid bin Mahfouz はサウジアラビアの投資家で、 Bush一族の複数の会社…特にHarken Energyに投資しており、BCCIの20%の株式所有者であった。

 

かなり後に、Kashoggi とAdhamはOryxという名称のDubai を拠点とする会社の主要な投資者となる。Oryxは、アメリカ人投資家Wally Hilliardと並んで、Mohammad Attaと数人の911のハイジャック犯が飛行訓練を受けたHuffman Aviation の所有者となる。104 105  Hilliardは後にBush一族、特にJeb Bushの支援を受けていたことが分かる。106

 

Barrick は数多くの主要な銀行にとって金を生む物言わぬパートナーとなり、その活動はFBIの金価格操作に対する捜査対象となるのであった。この捜査に関する記録はノースタワーの23階のFBIオフィスに保管されており、タワーが崩壊する直前の爆発物の爆発により破壊された。Golden Lily Treasureの最終的な到達地点と10年間にわたり市場に流れ出た「貸し付けられた」金の源は、公式には説明されていない。

 

Marcosの金の主要なプレイヤーはBanker’s Trustとなるが、1990年代中盤にロシアへの貸付によりBanker’s Trustが財政的に苦境に立つことになった後に、Alex Brown & Sonsに吸収合併されることになる。こうしたロシアへの貸付は1993年の8月に始まり、Enronによって促進されたが、これはProject Hammer のソビエト産業の乗っ取りの一部であった可能性が極めて高い。Alex Brownの関与からこの謎において多くの役割を果たす中心的な3人の人物の名前へと辿り着くことになる:

 

· Buzz Krongard
· Mayo Shattuck
· J Carter Beese Jr.

 

Buzz Krongardは、Alex Brownで彼らが共に過ごした時からのBeese とShattuckの師と伝えられている。加えて、彼はBankers Trustと Deutschebank Alex Brownの間の合併を取り持ったのであった。ZurichのBankers TrustはMarcosの金の主要な保有者であった。Krongard は後に投資銀行 A.B. Brownの会長、Banker's Trustの副会長、911当時のCIAのExecutive Directorとなるのであった。

 

Mayo Shattuck は、彼らがBarrick Goldで協力関係にあった際の、Adnan Khashoggi と Edgar Bronfmannの私的銀行家であったと報じられることになる。107 彼は後にDeutschebankのCEOとなるが、タワーが崩壊した日にはWTCのオフィスには居合わせず、911の翌日に説明されざる理由によりCEOの職を辞するのであった。911の悲劇を利用したインサイダートレーディングがあったことを示す不法なストックオプションの発生源であったと特定されたのは彼の銀行であった。911の後に、彼は直ちに、主として石油と金のテリバティヴのトレーダーとしてEnronに換わることになる会社‐Constellation Energyに移ることになる。

 

Carter Beeseは、Alex Brownで働く前は、アメリカ士官学校のCIAの訓練施設とJohn Hopkins大学で教育を受けていた。George H.W. Bushは彼を Overseas Private Investment Corporation(海外民間投資公社)の重役に任命した。1992年以降、OPICはロシアでの140以上のプロジェクトに45億ドル以上を融資と保険の形で提供している。彼はまたRiggs Bankの会長でもあり、(Bushによって任命された)証券取引委員会の委員でもあった。加えて、彼は1994年から1997年までAlex Brownの会長で、そこからさらにBankers Trustの副会長にもなるのであった。彼はまたRiggs Capital Partnersの社長ともなった。

 

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Riggs は、ロシアの新興財閥とならず者KGBのための国際的金融装置を仕組み、彼らにソビエトの財宝を奪い、ロシア経済を破壊することを可能にした有名なRiggs-Valmetのコンサルタントを支配していた。Carter Beeseの死は2006年に自殺として報じられた。

 

1986年にアメリカ政府のエージェントによって没収された後にMarcosの金に何が起きたのかは伝えられていないが、1990年代初頭を通じて、世界の金市場は金価格を抑えたと見られる謎に満ちた数千トンの金が出現したことにより、混乱することになった。アメリカ政府に対する最初の訴訟は名高い弁護士Mel Belliにより開始されたが、彼はCitibankから金を取り戻すことを求める、死去したSanta Romanaの親類を代表していた。108 この訴訟は2007年でも開かれたままであった。その後アメリカで数多くの金融機関とAlan Greenspanを相手取って二つの訴訟が起こされ、この金の源を突き止めようとした。金のトレーダーは米財務省がこの金の源であったと疑い、アメリカの金保有高は私的利益のためにブリオンバンクによって不正に操作されていると主張した。Reginald Howeによる第一の訴訟はメリットと大義があるものと見られたが、司法上の理由のため裁判所により却下された。BlanchardのDonald W. Doyle による第二の訴訟は、Barrick Goldが主要な被告となっていたものであったが、2006年に示談の形で解決し、同意の下で封印された。Barrick はまたHoweの訴訟でも情報に通じていた関係者として言及されていた。1992年に、BarrickはGeorge H.W. Bushから彼の大統領任期の最後の数日間に特別待遇を受けた。その時Barrickは、10,000ドルでNevada州の公有地の100億ドルの「価値」があると見積もられる堆積物を採掘する権利を受け取ったのであった。109 この取り決めには何も不法なことはなかったが、Bush大統領によって導入された特別なプロセスにより Barrickはこの堆積物の評価価値をコントロールすることが可能となり、最高の専門家を利用して、主張する価値を決定することが可能となったのである。 この特別なプロセスは他の採掘志願者には利用不可能とされた。この直後に、George H.W. BushはBarrick Goldの懇談会の一員を務めることになった。長期的に見れば、Barrickの業務は「金のデリバティヴ」を生むことで、数十億ドルの紙の金を生み出すものであった。こうしたNevadaについての主張は、業界の専門家によればその可能性は疑われていたが、実際に富を生み出したことを示す報道に基づいている。110 Barrickの金の先物取引販売の主要な販売チャネルはEnronであった。Enronはまた、元ソビエト連邦からの石油とガスの契約が処理される媒体(ソビエトのマネーロンダリングの媒体)ともなるのであった。そしてこれもまた冷戦の付随的被害となったのである。

 

興味深いことに、ヨーロッパでは採掘業務を行っていないBarrickがスイスの2つの精錬所を利用しているのである:その2つとはMKS Finance S.A. と Argor-Heraeus S.A. である。双方ともミラノに近いイタリアとの国境付近にあり、Zurichの金保管所から数時間の距離である。Barrickと他の銀行が答えることを避ける必要があった疑問は以下である:彼らはその地域に鉱山を持っていないのに、どのような金をBarrickは精錬していたのか。

 

Vulcanのソビエト連邦に対する秘密経済戦争

 

自分達を「 Vulcans」と呼んでいたBushの「戦時内閣」はソビエト連邦に対する経済戦争の資金源を見出だし、4段階の戦略を計画していたと考えられる。こうしたVulcansは長老Bushと Dick Cheneyの指揮の下で、数年後にGeorge Bush Jrによって公職に復帰する人物と全く同じであった。

 

共産主義に対する彼らの戦争を準備する中で、またGorbachevを終焉に導き、 Yeltsinの台頭をもたらした1991年8月の失敗した‐偽りのクーデターへと至る年月において、Bushとならず者KGB将校の中核は、ソビエト経済の所有権を乗っ取るために利用されることになる銀行と持ち株会社の複雑な国際的ネットワークを構築した。この作戦を支持した300人を超えるこうしたKGBの反逆者は後に1990年代初頭にアメリカへ移住し、恩給を受けた。111  定期的なCIAの議会への報告書は犯罪分子によるロシアの乗っ取りへのKGBと犯罪組織の共謀を精査したものであったが、アメリカの恐るべき役割については全く言及されず、議会の監視や公式記録から消し去られることになった。112

 

ソビエト連邦に対する経済戦争という第一段階において、George Bush は Leo Wantaと数名にルーブルの不安定化の権限を認め、ソビエト/ロシア国庫の盗みを促進した。こうしてロシア国庫から2,000トンから3,000トンの金塊(当時で350億ドル)を吐き出させる結果となった。113 このステップはルーブルの通貨としての防衛力をそぎ、通貨を不安定化させる上で決定的なものとなった。金が1991年3月に「盗まれ」、Leo Wantaによって促進され、Boris Yeltsinの右腕であった人物によって承認されたのである。CIAとFBIからリークした報告の大部分はロシア国庫の盗みはKGBと共産党の工作活動であったと示唆しているが、こうした報告が省いていたのはBoris Yeltsin、アメリカのCIA、アメリカの銀行業界の広範囲に及ぶ関与であった。

 

 

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Wantaと共に盗みを働いたソビエト側の主要なプレイヤーはGregori (別名 Georgy、 Georgii) Matyukhinであった。彼は元KGB将校で、中央銀行の初代総裁となったが、経済の崩壊後「健康上の理由から」その職を退くことになった。114

 

In fact, it was Matyukhin who authorized large capital transfers to
Chechnya, the source of the Chechen ‘advice notes’
that Kozlov attributed to as the source of the theft of the Soviet
Treasury.
実際、チェチェンへの大規模な資本移転を認可したのはMatyukhin であり、Kozlovがソビエト国庫の盗みの原因と考えたチェチェン語の「案内状」の発信元であった。

 

「全ては1991年の夏、Boris Yeltsin の第一副首相であり、RSFSRの最高ソビエトの当時の議長であったRuslan Khasbulatovが自国の人々を助けようと決め、RSFSRの中央銀行の長であったGrigory Matyukhin にチェチェンの小作農の農地にクレジットを与えるよう指示した時に始まった…Khasbulatovの指示を実現した後には、小さな共和国はRSFSRで最大の発行体となった。通貨発行を通じて得られた住民の収入の割合は40%を超えていた(全国平均は17%)。銀行との協力作業によって受け取った現金の総計は彼らが50倍でリターンした‐これもまた他の地域よりもかなり高いものであったが‐現金を超えていた。」115

 

後に、Matyukhinは実際にはCIAのために行動していたことが発覚した。116

 

第二段階において、Wanta、George Soros並びにBushが指定した人間の集団がルーブルの不安定化を開始することになった。2つの主要な工作活動があった:最も大規模なものはAlan Greenspan、Oliver Northによって調整されたもので、Leo Wantaによって実行された。彼らは秘密債券での2400億ドル調達の指揮を執り、この計画の様々な局面を支援したかどで告発されている。117 こうした債券は元OSS/CIA高官、Colonel Russell Hermannが運営していた秘密主義のDurham Trustにより(部分的にあるいは全部)作り出されたものであった。この軍資金はMarcosの金を使って生み出されており、おそらく1989年の全世界規模の債務再清算の間にアメリカが保有していた担保の不法な利回り曲線利益によって増大したものであったと考えられる。118

 

クーデターは第三段階を迎えることになる。KGBにはGorbachevの失脚を望むBush大統領の熱意がよく分かっていた。このクーデターを観察した多くの人間はそれを、成功を意図していなかった偽りのクーデターとして説明した。Yeltsin自身、自分の回顧録で実際にクーデターはヴェールで隠された親Yeltsinのクーデターであったと書いている。119 クーデターを実行した将校も同じように述べた。120

 

1991年のGorbachevに対するクーデターは将校Victor Cherbrikovに仕えていたKGB将校Vladimir Kruchkov121 によって工作されたものであった。彼らは双方ともRobert Maxwellのビジネスパートナーであった。Maxwellはイギリスの金融関係の重要人物で、イスラエルのシークレットサービス職員であることが文書で示されており、アメリカの情報組織の利害を代表していた。彼はIran Contra の取引の間Cherbrikovが軍事兵器をイランとニカラグアのContrasに販売する際に支援し、Cherbrikovのロシアの銀行に数百万ドルを利用可能とさせた。122 1991年の試みられたクーデターの直後に、MaxwellはKGB将校Vladimir KruchkovにMaxwell のヨット上で面会した。123 その1年前、Kruchkovにクーデターについての話し合いを持ちかけたのはMaxwellであった。124  クーデターのあった同じ月に、Maxwellはロシアにおり、イスラエル人を通じてCIAから将校Kruchkovに渡すために7億8000万ドルを受け取った。125  Maxwellのアメリカとの主要な接点はJohn Tower上院議員であった。彼はGeorge H.W. Bushの長年にわたる腹心の友で、October Surpriseへの参画者でもあった。上院議員としての経歴の後に、Towerは実際にMaxwellのためにMaxwellの所有する比較的小さな出版社の一つ‐Pergamon-Brasseyで取締役として働いた。この工作活動において、Maxwellは元退役アメリカ空軍大将 、退役イギリス軍Major Generalによる支援を受けていた。126 Towerの委員会が予定されていた参考人の3分の1もインタヴューしないうちに、BushがOctober Surpriseに関与した疑いを晴らす発表をしたのは、Towerであった。委員会にはBushを会合で見たという2人の目撃者の証言、さらに16人の目撃者とビデオテープまでもが提供されたのだから、この発表は今では一層厚かましいと見なされる。127 128 Towerは1998年にイスラエル政府が10億ドルの貸付をMaxwellに提供出来るように調整していた。129 また寛大にもアメリカの財政支援をイスラエルに与えていたが、これも貸付でなされたことを示すのが公平というものかも知れない。130 Towerは、MaxwellをBushとソビエト情報機関の間の仲介人として利用するという唯一の目的で、Maxwellを1976年にGeorge Bushに紹介していた。131 クーデターの直後に、アメリカとイスラエルの情報工作活動を脅迫しようと企てた後に、Maxwellはヨット上で謎めいた死を遂げた。CIAかモサドのエージェントが彼が期待していた脅迫に対する支払いをするかわりに彼を暗殺したと広くうわさされている。MaxwellのGeorge Bushへと遡るつながりは全く謎めいた形で途絶えた。Tower 上院議員は1991年4月に疑わしい状況の航空機墜落で死亡した。Maxwellの妻はCIAのエージェントから、もし彼女が自分の命を大切に思うのであれば、夫の死について調査するのを思いとどまるように忠告された。132 彼が保管していたKruchkov との電話での会話の録音テープは消失した。133

 

 

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メディアではクーデターは無計画な、強固な反対派による組織化が不完全であった取り組みとして提示され、経験ある、鍛えられた軍将校の集団が酒に酔い、瞬間的な放心状態で、政府を打倒することに決めたのだと示された。

 

「捕らえられた3人の共謀者が述べたと伝えられる説明では、彼らのクーデターは行き当たりばったりで計画されたと示されている。例えば、Mr. Pavlovは共謀者は最高ソビエトが自分達の行動を承認し、その後『物事はうまく行くであろう』と期待していたと述べた。Mr. Yazov はクーデターが計画された8月18日の会合において、彼とMr. Kryuchkovと3人目の共謀者で元内務大臣で、後に自殺したBoris K. Pugoは、皆酒に酔っていたと述べた。Mr. Pavlovは質問者に彼もまたその会合では「かなりな量のアルコール」を飲んだと語った。」134

 

9人の主要な共謀者のうち3人がその失敗した取り組みの後に自殺したと広く伝えられている。ほとんど言及されなかったことは、こうした経験豊かなベテランのうち2人が窓から身を投げ、3人目のBoris Pugoは頭部を自分で3回撃ったということである。

 

「自殺の最も難しい方法とは何であろう。頭部を3回撃つことは間違いなく上位にあるであろう。モスクワ警察筋によれば、8月の反乱が失敗に終わった際、「自殺」したと公式に説明されたソビエト内務大臣で、クーデターの共謀者であったBoris Pugoの死因がそれであった。あと2人の窓から身を投げて自殺したと公式には伝えられた共産党高官について、情報筋はおそらく彼らは沈黙を守るために押し出されたのであろうと述べている。彼らは、党が崩壊する際の国からの共産主義者の富の密輸について間違いなく知り過ぎていた。」135

 

Boris Pugo の死と公式に関連付けられた唯一の人物は、直接Boris Pugoの「逮捕」に関与したViktor Erinであった。136 Erin は後にBank Menatepの最高責任者となり、Yeltsinギャングに対するPutinの取り締まりの一環として、貸し付け詐欺と盗みにより告訴されることになる。137 このクーデターは「方針と名誉」をめぐるクーデターではなく、Project Hammerと関連した多くの出来事と同様、マネーが全てであった。CIAはクーデターの前にRobert Maxwellを通じて将校達に数百万ドルを与えていた。138 こうした取引を最も説明出来たであろう人間は明らかに殺戮されたと見られる。こうした殺戮を担当した集団は後にBank Menatepを通じて、クーデターに資金提供した金融集団と結び付いている。クーデターの際の他の反逆者について言えば、彼らは皆2年後にYeltsinによって刑務所から釈放されたのであった。139

 

1991年6月のアメリカ訪問の際にYeltsinはBushとクーデターについて話し合っており、クーデターは実際には計画に長い時間をかけていたと考えられる。140同年の夏、Yeltsinは、他のモスクワ使節団がGorbachevと共に食事をしていた間、
New York Federal ReserveのChairmanであったGerald Corriganと「個別に」食事をした。141  クーデターにおけるKruchkovの利害に関してMaxwellによって促された話し合いは1990年の夏にまで遡る。142

 

クーデターによってソビエト連邦の解体143、そしてBoris Yeltsinと彼のロシアマフィア新興財閥「一族」並びにカザフスタン大統領Nursultan Nazarbayevによる支配が始まった。その時点で、ソビエト連邦の解体に必要な3つの票のうちの2つが George H.W. Bushの懐にあったことになり、それらはYeltsin とNazarbayevへの票であった。

 

この最終段階において、George H.W. Bush大統領によって配属された一連の工作員が貴重なロシアとCIS(独立国家共同体)の石油、金属、防衛領域の産業資産の乗っ取りを始めることになる。これはBank of New York、AEB 、Riggs Bankを通じてロシアの新興財閥のためのマネーロンダリングに資金を提供し、運営することでなされた。それらの全て、特にBlackstone Investmentは、自分達の懐を潤そうとした。144  Blackstoneは911の攻撃の6週間前のLarry SilvermanのWTC第7ビル購入の背後にあった投資者であることが最終的に判明することになる。145 WTCの喪失の際の金融上の利害をコントロールすることで、この集団はWTCの攻撃の背後にいた犯罪者への調査を求める投資業界の声を沈静化することが出来たのであった。

 

こうした局面へと導いた他の活動を詳細に見ていくと、これは初めからアメリカが指揮を執った情報工作活動であったことが明白となる。この経済戦争にはまた、NY連邦準備銀行のGerald Corrigan、数年前の英国のポンドの値崩れに対する責任のあった国際的通貨投機者George Soros、元駐ドイツ大使R. Mark Palmer、Este Lauder estateへの投資者でその継承者であったRonald Lauderも関与していた。

 

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Palmerと Lauderは後にCentral European Development Corporationと呼ばれる事業において、アメリカ人投資家集団を率いて、George Soros や NM Rothschild Continuation Trustと協力することになる。146 Riggsの集団が巨大企業Yukosを支配することになる一方で、この集団は最終的にロシアの天然ガス巨大企業Gazpromを支配することになる。両社の所有者は今日でも大部分が「隠されて」おり、その代表者は刑務所で過ごし、ロシアの復讐という困難な時を耐え忍んでいる。

 

1988年に、Riggs Bank はJonathon Bush とJ Carter Beeseの指揮の下で、 Valmetと呼ばれるスイスの企業の支配的過半数株式を購入することになった。Dubai出身の弁護士、Stephen CurtisがValmetを支配していた。Curtisは友人にもし自分が近い将来死ぬことがあれば、それは事故ではないと告げた後間もなくして、2005年にヘリコプターの墜落により死亡した。147  1989年の初頭、Riggs-Valmetと呼ばれるRiggsの新しい子会社が元ソビエト圏の国々からマネーを移動させる国際的ネットワークを開設するために、KGBの将校とKGBの表だった人間達の集団と接触を始めた。148 1989年に、Jonathon Bushは自分の兄弟の「公式な」代表として東ヨーロッパとウクライナに赴いた。1989年にGeorge H.W. Bush は国家安全保障局の長官でIran-Contraスキャンダルで端役を務めたAlton G. Keel Jrに、自分の兄弟がexecutive Vice Presidentであった‐Riggs Bankに行って働くよう調整したと考えられる。Keel はInternational Banking Groupを率いることになった。149 この銀行は後にRichard Perleによってボスニアのmujahedin(イスラム戦士)テロリストに資金を注ぐために利用されるのであるが150、ここでの狙いはValmetとして知られる小さなスイスの銀行業者の支配的所有者となることであった。このRiggs-Valmetの活動は、判明したように、世界銀行の「コンサルタント」並びに将来の新興財閥Khordokovsky、Konanykhine、 Berezovsky、Abromovich が実行する複数のKGBの偽装作戦の「コンサルタント」となることであった。Riggs-Valmetのエージェントがこの頂点に立つ4人の新興財閥に対して、どのように彼らの莫大なマネーロンダリングの企みを構築すればよいのか提言し、また西側投資家に対してはロシアの石油とガス操業を視察させ、投資に関する指導を与えるのであった。151 これらの間もなくロシアの新興財閥となる者は、KGB将校のGenerals Aleksey (別名 Alexei) Kondaurov; そしてAnton Surikovのスポンサーでもあり、また西側情報組織のエージェントであったことが伝えられるFillipp (別名Phillip) Bobkovによって、表側に立つ人間として仕組まれていたのであった。152 Kondaurovと Bobkov の両人は、Robert Maxwellと共に行動していたVictor Cherbrikovに以前は仕えていた。Bobkov と Kruchkovの両人(8月のクーデターの指導者)はイデオロギー的に協調しており153、1990年の10月に始まる共産党の経済的活動を構築する上で共に行動した。154  Kondaurovと Alexandre Konanykhine はYeltsinの選挙キャンペーン資金の50%を提供するというキャンペーンへの惜しみない資金提供を通じて、ロシア奥地のBoris Yeltsinという名のそれまで無名の政治家で建設現場監督であった人物をロシアの政治の最前線に担ぎ出すことになる。その間、Riggs Bankは迅速にさらに2人のかつてのIran-Contra スキャンダルへの参画者との銀行業務関係を固めていた:その2人とはスイスの銀行家 Bruce Rappaportと Alfred Hartmannである。当時ルーブルに対する第二の正面攻撃を開始していたGeorge Sorosが関与したのはこの集団を通じてであった。Rappaportと Hartmannはまた自分達の活動のネットワークを Bank of New YorkとイスラエルのThe Eisenberg Groupを含むまでに拡張するのであった。 Rappaportと Hartmannによってさらに3つの集団がこの計画に引き込まれることになったのは活動のこの段階である:その3つの集団とは、ロシアマフィア、イスラエルのモサド、Jacob Rothschildによって代表されるロスチャイルド一族の利害関係者であった。

 

Soros と Rapportはロスチャイルドの金融利害関係者が数多くの未公開の取引の活動に対する口をはさまない資金提供主となるよう取り計らった。例を言えば、10年後Vladimir Putin がKhordokovskyをマネーロンダリングと脱税の容疑で刑務所に送る際、Khordokovskyは刑務所に行く前に、彼はJacob Rothschild を出資だけして活動には口をはさまない自分の主要なパートナーとして名指しし、巨大石油企業Yukosの自分の株をロスチャイルドに「署名して譲渡」することになる。155 ロスチャイルドの利害関係者は、ロシアとフィリピンの金財宝をロンダリングするために利用された可能性のあったBarrick Goldの取締役会にも見られ、また後には傭兵業務を受け持つDiligenceの重役会にも見られることになる。Farwest Ltdとして知られるロシアの傭兵業務はこのDiligenceのロシア部門である。156 FarwestはBobkov と Kondaurovがスポンサーを務めていたもう一人の前KGB/CIA エージェント Anton Surikovによって支配されていた。

 

Rappaportはまた「Bob Klein」という名のアメリカ人紳士をロシア側とBank of New Yorkの彼のパートナーに紹介するのであった。Kleinは数年間この活動に携わったが、1990年代後半にFedがBank of New Yorkのマネーロンダリングについて調査を開始した際には、誰も彼が存在していたことを実証出来なかった。彼は全く姿を消し去ったのである。157 この「幽霊」の存在がこうしたことがそもそもの初めから情報工作活動であったことを示唆するものであったとは誰も想像しなかった。

 

この秘密戦争の第4段階において、Enterpriseは複数の領域で主要なエネルギー産業の乗っ取りに取り掛かった。この戦争のカスピ海前線では、James Giffenがカザフスタンに送り出され、世界最大の未開発の石油埋蔵量であると推定されていたカスピ海のKazak の石油の支配のための様々な合法的、非合法的な取り組みにおいてNazarbayev大統領と共に活動した。それとは反対の多くの証言にもかかわらず、アメリカ政府はGiffenがこうした利益のために活動していたことを否定するのであった。158 Giffen は後に、マネーロンダリングと買収のためアメリカで裁判に掛けられることになる。

 

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Giffenは有罪であったが見たところ判決は言い渡されなかったようである。これは有罪である関係者の沈黙が求められる際にアメリカ司法省によって用いられるよくある技法である。様々な石油会社からの非合法的なマネーの流れは数多くの銀行に行き着くことになる。こうした同じ石油利害関係者がMarch Rich、そしてモサドの主要な工作員の一人であったShaul Eisenbergが所有していたイスラエルの Eisenberg Groupに関与し、石油を動かすことになった。(Eisenberg Groupはある時点ではZim Shippingの株式のほとんど50%を所有していた。このZim Shippingは不思議なことにどうしたわけか911の攻撃の数週間前に世界貿易センターから立ち退いていた。)

 

 

一方、カスピ海の向こう側では、Bushが広範囲に及ぶかつてのIran-Contra工作員を、1)ロシアへの石油の流れを中断する、2)カスピ海から黒海までのパイプラインを構築する機会を創出する、3)カスピ海西棚での石油構想の権利を乗っ取る、との目的の任務を果たすために、アゼルバイジャンに配属していた。初めに、彼はモサドの彼らのかつての僚友David Kimcheと共に活動したことのあった秘密工作員Richard Armitageと Richard Secord、そして彼らの武器密輸のかつての僚友Adnan KashoggiとFarhad Azima を送り込んだ。Al Qaedaの数千人の傭兵を雇い、輸送し、トレーニングし、アゼリー人自由戦士のために戦わせるためであった!159 Osama Bin LadenはArmitageと Secordによって仕込まれた傭兵軍の一部であったと報じられた。160 Osama Bin Laden は1979年からアフガニスタンの傭兵を採用するためにCIAによって保持されていた。161 傭兵採用の役割は後にBin LadenからAllied Media Corp.と呼ばれる会社に移されることになる。162 偶然にも、Allied Media Corp.は、モロッコの米国商工会議所を通じて、伝えられる所によれば911攻撃に責任があったというエージェント、Mohammed AttaのFloridaのビジネスパートナーであったHassan Erroudaniへと結び付くのであった。アゼリ工作の第二波において、Bushはアメリカのアゼルバイジャン‐アメリカ商工会議所の創設を支援し、その懇談会にはDick Cheney、 Richard Armitage、Richard Perle、Riggs BankのKarl Mattisonが含まれることになる。163

 

これらがソビエト経済を崩壊させ、その主要な資産を乗っ取るために開始された主な工作活動であった。こうした作戦は広範囲に及ぶBushの戦略の同盟者とソビエト連邦への反逆者によって支援された。ソビエト連邦が崩壊する際、彼らは自分達の懐と彼らへの西側資金提供主の懐を潤すのであった。

 

こうした活動のソビエト‐ロシア側では、初期の新興財閥には以下の2人のKGB将校がスポンサーとなり、保護していたことを記録が示している。

 

 

· Generals Aleksey (別名 Alexei) Kondaurov;
· Fillipp (別名 Phillip) Bobkov.

 

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ロシア乗っ取りの主要プレイヤー
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1991年のソビエトクーデター 真の目的
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これらの将校が、次には、Yeltsin一族の新興財閥のスポンサーとなり、Yeltsin一族の政治的未来を強めるイスラム教徒テロリストの活動を調整したとして間接的に非難されることになる。164 私的軍隊活動を調整するために彼らがスポンサーとなった人物はAnton Surikovであった。彼はFarwest Ltd. という名のロシアの私的軍事集団の創設者となる。Farwestは元はKGB/ロシアの軍事作戦であり、この作戦はYeltsin一族のロシア経済への支配力を強める目的で偽の「イスラム教徒テロリスト」を雇うためにYeltsin一族によって利用されたと伝えられるのであった。Far WestのメンバーはCIAが資金提供したアフガニスタンとパキスタンのキャンプで訓練を受けたShamil Basayevと取引を行っていたと、フランスとアメリカの政府機関によって伝えられることになる。165 さらに彼のアフガニスタンとのつながりに加えて、Basayevは Al Qaedaの工作員Abu Hafsの知人でもあった。166 地方の報道によれば、Abu Hafs はアメリカ軍によって逃げることが許されたという。また一つの報道では、彼は実際にGeorgiaのアメリカ軍によって捕らえられ、解放されたという。167

 

Basayev はロシア市民に対するイスラム教徒の攻撃を仕掛けるためにFar Westから支払いを受けたと伝えられることになる。168 Adnan Khashoggi は地中海の彼の別荘で会合を開いており、こうした調整の仲介者であると伝えられた。FarwestはSurikovが勤めていたInstitute of Globalization Studies (IPROG) を通じて金融面で Alexei KondaurovとKhordokovskyとつながりがある。Far West はCIAから特別許可を受け、Halliburton やDiligenceのために活動していた。169

 

Diligence とその関連会社 New Bridge がYeltsin一族と連動していた西側の政治的、金融的影響力を具体的に実証することになる。その主要なメンバーには以下が含まれる。

 

· Chairman Richard Burt、Deutschebank Alex BrownのDirector、従ってCarter Beese、Mayo Shattuck、Buzz Krongardへと結び付く;

 

· Neil Bush、George HW Bush大統領の息子;

 

· Ed Rogers、ロビイスト、Shiek Kamal AdhamとAdnan Khashoggi、並びにロシアのAlpha Groupのアメリカでの代弁者。Alpha Groupの代弁者として、この高レベルのロビイストはロシアの犯罪組織の一つの代表を務めた;

 

· Lord Powell、かつてBarrickの懇談会として報じられたことがあったが、広くはRothschild一族の出資金の代弁者として報じられている;

 

· William Webster、元CIA長官、元FBI長官。

 

こうした人物が、Halliburtonと共に、Far Westの雇用主となるのであった。そうして、彼らは政治的テロリストを雇い、保持する自分達の積極性を示すことになる。最終的にBushの組織とFarwestとの提携関係は以下のことを具体的に実証している:

 

· Adnan Khashoggiが、911の目的と計画の多くの局面での主要参画者であり、政治的テロと大量殺戮をもたらす工作活動を明らかに、ためらうことなく手助けしたこと、そしてそのことを示す文書化された記録があること!

 

· Dick Cheneyを含むBush一族の金融装置が、 Al Qaedaと同じ背景を持つイスラムテロリストを用いた政治的テロの契約を準備しており、また主要な麻薬ルートでもある、ある組織(Farwest)とのビジネスを継続していること!

 

· 1991年以来、Bushの贈り物として数十億ドルを受け取っているロシア/イスラエルのマフィア一族(特にYeltsin一族)が、Bushが率いた情報工作活動でも利用された同じプロの政治的テロリストを利用していること!

 

· Bushの 戦争装置がArmitageやSecord の他にも Al Qaedaが訓練した傭兵を雇うチャンネルを持っていたこと!

 

付随的被害 1/5

以下は、http://www.wanttoknow.info/911/Collateral-Damage-911-black_eagle_fund_trust.pdf#search='colateral+damage+911+ep+heidner'の日本語訳です。(p1からp12)

 

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付随的被害:アメリカの秘密工作活動と2001年9月11日のテロリストの攻撃

 

2001年9月11日、大部分のアメリカ人にとって国家安全保障の定義が変わった。
全戦後世代にとって、「国家安全保障」は核攻撃からの保護を意味していた。その日、アメリカ人はこうした脅威を再定義した。2001年9月11日、3機のハイジャックされた旅客機が、多くの観察者がその機はコックピットの未熟なハイジャック犯以外の何かによってコントロールされていたと信じるほどの精確さと技術で、3つの個別のビルに衝突した。このレポートはビルが標的であったと主張するだけでなく、それぞれのビル内の特定のオフィスが決められていた標的であったと主張するものである。 それらのオフィスは、もし発表されれば、結果的に想像出来ない規模の国家安全保障機密を明らかにすることになる情報を、知らないうちに保持していた。この機密を保護することが911の攻撃の動機であった。このレポートはこの安全保障機密に関するものである:その起源と影響に関するものである。このレポートの目的は、あの日に何が正確なところ起きたのかを明確にすることではなく、911事件を理解する文脈を提供することである。

 

当初、世界貿易センターの全面的な破壊、ペンタゴンの部分的破壊、4機の民間旅客機の破壊、2,993人の生命の喪失以外には911の破壊のパターンを理解することは困難であった。しかしながら、読み取られた攻撃の目的を、テロリストの攻撃や「新しい真珠湾」という一般に示された「象徴的」記号から見直し、(政治的行動とは対照的に)特定の目的を持った単なる犯罪として見ることを始めるならば、破壊のパターンには説得力のある論理が存在することが分かる。この記事は、911の攻撃は海軍情報部(ONI)によって調査されていた金融犯罪の隠蔽工作としての意味を持っていたというDick Eastman、Tom Flocco、V.K. Durham、Karl Schwarzによる初期の主張に対する検証を提供するものである。このONIはペンタゴンにオフィスがあり、911で破壊された。1  6年間の検証を経て、このレポートは彼らの主張を裏付ける確実な証拠を提示し、911の攻撃の新しい理論的解釈を提案するものである。そうすることで、この事件を取り巻く多くの異常点‐あるいは不都合な事実‐がEastmanらの主張と一致する意味を持つことになる。このレポートの前提は以下のようなものである:911の攻撃はソビエト連邦に対する秘密の経済戦争に資金供給するために1991年9月に秘密裏に作成された2,400億ドルの債券の清算を隠蔽するためであった。その経済戦争の間に「未知の」西側投資家がソビエト産業を、石油とガスを中心として買い占めていた。911の攻撃はまた、1991年の秘密工作活動と関連する犯罪から多くの連邦政府の調査の矛先をそらす働きもした。そうすることで、この攻撃は「自身の財産を守れ」という情報機関の鉄則のもとで正当化された。2 またこの攻撃はより大きな大義のために人命を犠牲にする情報機関のやり口とも一致する。

 

細心を払った攻撃の標的選びを示す事実をペンタゴンへの攻撃の分析から始める。ペンタゴンのONIのオフィスを標的に選んだことは無作為なことではなかった– この情報は後に提示される3– との結論を下した後には、以下のように尋ねなければならない:世界貿易センターに衝突した航空機と第1ビル、第6ビル、第7ビル内部、タワー地下で爆発したと様々な目撃者によって伝えられた爆発物が、この驚くほどの大きな規模の犯罪の遂行を促進するために意図的に配置されたものであった可能性があるのかと。この疑問を考察する中で、パターンが浮かび上がってくる。Eastman、Flocco、Durham、 Schwarzが主張する犯罪が成功するには、世界貿易センター地下金庫室とその保管物が -10億ドルの金のみならず、数兆ドルの政府発行有価証券が -破壊されねばならなかった。ツインタワーにあった主要な政府証券の仲介業務を行うブローカーの重要な部分が、政府発行有価証券市場にカオスを生み出すために除去されねばならなかった。誰にも疑問視されずに、2,400億ドルの秘密債券の電子的な「清算」が可能となる状況が生み出される必要があった。- 実際にそうした状況が発生し、まさにその日の午後、連邦準備制度は緊急事態を宣言し、その「緊急事態権限」を行使した。4 一連の債券によって資金援助されていた犯罪に対して進展中であった連邦政府の調査は、第6、第7、第1ビルにあった証拠が破壊されたことで、終焉あるいは中断されねばばらなかった。5 最終的には、以下の信じられないことを理解し、実証することになる: 2,400億ドルの秘密の、おそらく非合法である政府の資金援助が1991年9月に生み出されたこと。このパズルの最後のコマを埋めるには、アメリカ合衆国の主要な金融機関の50年の歴史を理解すること、どのようにしてアメリカの情報機関が彼らの簿外の口座の主要な源になったのかを理解すること、そしてなぜこれがTruman以来の全ての大統領によって是認されたのかを理解することが必要とされる。6 そうして、政府指導者と諜報活動員に3,000人の市民の死をもたらした決定の「合理化」を可能とした動機のパターンが明確にされる。

 

 

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世界貿易センター
世界貿易センターには3つの大きな証券ブローカーがあった:Cantor Fitzgerald、Eurobrokers、Garbon Inter Capitalである。9月11日の朝、8時46分に11便がノースタワーのCantor Fitzgeraldがあった階の真下に衝突した。Cantor Fitzgerald は全米最大の証券ディーラーであり7、おそらく間違いなく主要な標的であった。8

 

その直後に、ノースタワーの25階のGarbon Inter Capitalと23階のFBIのオフィスの真下で大きな爆発が、また第1タワーの地下でも、大きな爆発が発生した。爆発により22階から25階までが猛火に包まれた。9 8時47分に22階での炎が伝えられた。10 その後、間もなく、9時03分に175便がサウスタワーのEuro Brokersがあった階の真下に衝突した。(42ページの表を参照。)これら3つの事例において、爆発、炎による破壊が上の数階のオフィスを焼き尽くした。9時37分に77便が、ペンタゴンの新しく改装された部分に移動した数少ないオフィスの一つを標的として、ペンタゴンに衝突した:それは海軍情報部であった。11 海軍情報部の職員は金融取引の調査をしていた。このレポートのおいてはこの金融取引と、世界貿易センターにあり、標的とされた一連の証券ディーラーが運用していた有価証券との関連を示していく。12 幸運なことに、他の大部分の機関はペンタゴンの標的となった部分に移動してはいなかった。ツインタワーの犠牲者の41パーセントがアメリカ政府発行証券を運用していた2つの企業の従業員であった:その2つとはCantor Fitzgeraldと Eurobrokersである。13 ペンタゴンの125人の犠牲者の31パーセントが海軍情報部のあったNaval Command Centerの職員であった。海軍情報部の40人の職員中39人が死亡した。世界貿易センターのタワーの地下金庫室にあった債券の証明書は破壊された。14

 

様々な主張により時間は異なるが、9時00分から9時30分の間のいずれかの時点で、第7ビルから人々は避難していた。いずれかのタワーが崩壊する前に、炎と爆発がビル内部の多くの場所で自然発生的に始まった。こうした観察結果は、火災についての公式説明が崩壊するタワーから飛来した物体が災を発生させて火災が始まったというものであるため、重要である。ビルから逃れた目撃者は火災が既に始まっており、死体も見たと主張している。15 ビルは最終的に破壊され、その方法は今では多くの非公式の観察者が制御解体であったと信じている。第7ビルはこの歴史と関連した金融犯罪の捜査に重要な以下の機関を収納していた:

 

 

アメリカ輸出入銀行      6階

 

アメリカシークレットサービス 9階、10階

 

証券取引委員会        11階、12階、13階

 

国税局            24階、25階

 

CIA             25階

 

国防総省           25階

 

そのオフィスの第三の人物、アメリカシークレットサービス特別捜査官David Curranによれば、「私達が第7ビルに保管していた、全ての事案の証拠が、ビルと共に破壊されました」という。「私達は私達がシークレットサービスとして使用するネットワークを、全てのコンピューターを、全ての装備を失いました。私達が使用するマシンガンからショットガンから電子装置まで全てです。」そのビルを失った結果として多くの事案を終結せねばなりませんでした。16(追加された参考資料の注を参照)

 

こうした最中に、タワーが瓦礫の中に埋まる前に、第6ビルが内部からの爆発により破壊された。17 災害の調査を受け持つFEMAはこのビルに関するデータを収集しなかった。第6ビルはアメリカ関税局と、1992年に創設された55の機関を仲介し、マネーロンダリングを調査する機関であるEl Dorado Task forceの所在地であった。El Dorado Task forceは全米の主要なマネーロンダリングを統合する担当機関であった。911の直後に、これらの集団はテロリストへの資金援助の捜査を再任命されることになった。18 同日、証券取引委員会は国家緊急事態を宣言し、アメリカの歴史上初めて証券取引法第12項(k)に基づきその緊急事態権限を行使し、続く15日間証券取引の清算、決算に対する規定の制約事項を緩和した。こうした変更により2,400億ドルの秘密の政府証券は、所有者の認定をめぐる通常の規定された規制なしで、満期で清算されることが可能となった。19 (これが成し遂げられたやり方はこのレポートの後半で説明される。)

 

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ペンタゴン
その日旅客機の直接攻撃を被ったペンタゴンの海軍情報部は、疑いなく、破壊のために選ばれた標的であったことに留意しなければならない。これが事実であることを示す点が数多く存在する:

 

· アメリカ軍のコマンドセンターと国防長官の執務室はペンタゴンの北に面した部分、River面とMall面に位置していた。20 これは公式な情報である。充分に計画された攻撃においてはこれらの面のいずれかが主要な標的であったはずである。911に責任がある人間達は3年近い時間をかけ自分達の攻撃を計画していたことを思い出す必要がある。彼らの標的と方法は無計画なものではなかったのである。

 

· 攻撃されたペンタゴンの西に面した部分は2年近くにわたり改築されていた箇所であり、そこが明確な理由によって標的とされたのでない限り、標的とは考えられない。

 

· Naval Command Centerはそのペンタゴンの新しく改装された部分に1ヶ月前に移動していた21;

 

· 攻撃した航空機は、北西から接近した後に270度でペンタゴンの周りの旋回飛行をしたのであれ、西から接近し360度の旋回飛行をしたのであれ、いずれのシナリオであっても、ペンタゴンの西側に衝突するには多大な労力を払った。いずれのシナリオであっても、付け加えられた旋回飛行が、余計な飛行時間のために防衛システムが攻撃する航空機を迎撃可能となる機会を生み出し、ハイジャック犯はこの曲芸飛行を遂行することで撃墜されるかなりのリスクを負うことになる。22 (図1、2を参照)

 

· 図1で見られるKoeppelによる接近航路をよく見ると、攻撃中の接近航路はホワイトハウスの真上を飛行し、主要な標的と考えられる標的を迂回し、ペンタゴンの無価値と想定される部分に向かっている。国家運輸安全委員会が示したもう一つの接近航路では、旋回飛行の際の余分な距離のため、真っ直ぐに飛行を続けておれば、ホワイトハウスか議事堂のいずれかに衝突が可能となっていたことになる。

 

· 海軍情報部の職員であったと主張したDerek Vreelandは攻撃の数週間前に攻撃を予測していた23;

 

· ONIは複数の情報筋により、1989年から1991年の非合法取引を文書で示すファックスのコピーを漏洩した責任があったと考えられている。24

 

3

 

図1(上)は2つの旋回飛行の航路を示している。左は、元空軍パイロットSteve Koeppel25 が地図で示した航路であり、右は国家運輸安全委員会が示した公式の接近航路である。26

 

 

p.4
図2(下)はONIに衝突する西側からの接近航路を示し、北側から接近する直接の航路では初めにある主要標的であるMallと River入り口を度外視している。

 

4

 

77便はペンタゴンの空の部分として知られていたはずの箇所に正確に衝突するために、3つの主要な標的(ホワイトハウス、議事堂、ペンタゴンの北面のコマンドセンター)を「通過」したのだろうか。「たぐい稀な技術」を持っていたと説明されたパイロットは、数年の計画の後に、無価値な標的に衝突したのだろうか。パイロットは自分が衝突を望んだまさにその箇所に衝突したと想定すべきであろう。 サウスタワーとペンタゴンに衝突した航空機は正確に標的に衝突するために、最後の最後で曲芸飛行を果たしたのである。攻撃可能な標的が数多くある中で、なぜこれらの標的を選んだのであろうか。

 

アメリカ人の大多数にとって、あの日に関する答えられていない疑問は数多くある。そうした疑問の多くは答えられていないが、WTCの特定箇所が経験したただならぬ破壊とペンタゴンの特異な標的選びは、全てEastman、Durham、 Flocco、Schwarzの主張の鍵となる箇所の意図的な破壊のパターンを裏付けている。大部分のメディアの報道は、一連の攻撃の背後にはOsama Bin Laden がいたというアメリカ政府の主張に従ったものであるが、海外メディアはAl Qaedaの背後にあった「本当の力」は分かっていないと示唆する報道を提供していた。27 見ていくように、この攻撃の背後にあった金融の力は一連の債券を生み出したのと同じ力であり、またAl Qaedaに資金援助したのと同じ力であった。

 

世界貿易センター攻撃の起源
大多数の歴史家は911の歴史を、Osama Bin Ladenが fatwa(死刑宣言)つまり jihad(聖戦)をアメリカに対して宣言し、Mohammed Attaが率いる「Hamburg Group」がAl Qaedaにサービスを「申し出た」と伝えられる1998年に遡る。28 しかしながら、911の攻撃の動機を特徴付ける歴史はさらに以前にまで遡る。WTCへの攻撃の原因を取り巻く疑問に対する答えは、George H.W. Bushが大統領であった1990年あるいは1991年にまで遡る出来事の中に見出すことになる。

 

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この期間の活動について知ることは、かなりの部分が、George H.W. Bushの息子、George W. Bushが2001年11月1日に発令した大統領命令13233によって隠されている。この大統領命令には、一般市民の過去の大統領の記録を見る権利と国家安全保障を保護する必要との均衡を保つ意図があった。結果として、1990年と1991年の活動を明らかにする可能性のある公式記録は国家安全保障とそれを支持する人間の利益のために一般のアクセスから保護されたままである。そのため、この1980年代後半から1990年代初頭の出来事の再構築はニュース報道、書物、記事に基付いている。

 

公けの記録が示唆するのは、1989年に第一期Bush政権が始まった際George H.W. Bushがソビエト連邦の崩壊をもたらすための秘密裏の経済的戦争プログラムを起動させたということである。このプログラムの名称は、その出資金が隠されている「第三世界投資プログラム」であり数十億ドルの秘密工作活動と以前は伝えられていた、Project Hammerであると考えられる。29 このプログラムは以下の4つの秘密工作活動からなっていた:

 

1)ソビエトの資産の盗み
2)ルーブルの通貨不安定化
3)Gorbachevに反対する1991年8月のKGB将校のクーデターへの資金援助
4)ソビエト連邦の主要なエネルギーと防衛産業の乗っ取り

 

当初、このプログラムはBush副大統領が作成し、Ronald Reagan大統領がサインした複数の大統領命令によって規定された通りのアメリカ政府の政策的枠組みの範囲内で実施された。この計画は当初ReaganのCIA 長官であったWilliam Caseyによって立てられていたと信じるに十分な理由がある。第二次世界大戦の最中、Casey はヨーロッパでOSSの指揮を取る前、Board of Economic Warfareで働いており、彼の役割は「Hitlerの経済的急所を特定し、どうすればそこを締め上げることが可能かを調べること」であった。30 この計画の工作員の多くはおそらくCIAや国家安全保障のチャンネルを通じて関与したと思われる。しかしながら、Bushの閣僚が得た経験やIran-Contra やFerdinand Marcosの金工作(これらについては短く説明する)の際に民間部門のカウンターパートが得た経験の結果、この計画の実施には以下の2つの新しい条件が付随することになった:

 

1)議会によって承認されていない方針に秘密裏の非合法的資金を用いることを受容されたままとすること。George H.W. Bushのもとで、秘密裏の工作活動は議会の監視から見逃され、免罪されることが可能とすること;

 

アメリカの一般市民と彼らの議会での代表が自分達の生活に気を取られており、海外の土地で起きることに、たとえそれらの行動が法や憲法を侵害するとしても、気にかけないこと。

 

Iran-Contraスキャンダルの際にアメリカ合衆国憲法を覆し、国際法を破っても重大な結果とならなかったことに勢いを得て、「Vulcans」として知られるBush政権の集団は共産主義の精神を徹底的に叩き潰すさらに大きな行動を計画した。この集団はローマ人の戦争の神– Vulcanにちなんで、自分達にこの名称を与えていた。彼らはGeorge H.W. Bushのもとでソビエト連邦とイラクに対して、George W. Bushのもとでイラクとアフガニスタンに対して戦争を仕掛けた。この集団に属する者は31 以下である。

 

· Dick Cheney
· Don Rumsfeld
· Colin Powell
· Paul Wolfowitz
· Richard Armitage
· Condoleezza Rice

 

Vulcanの冷戦を終結させる行動は議会の監視には見えない秘密の軍資金によって支えられていた。32 この軍資金は以下の複数の名称で知られることになる:Black Eagle Trust、Marcos gold、Yamashita’s Gold、 Golden Lily Treasure、Durham Trust、 Project Hammerという名称である。 33 これらの同じVulcansメンバーが2000年にGeorge H. W. Bushの息子のGeorge W. Bush大統領の政権で、権力の座に戻ることになった。

 

Vulcansが実施したこの秘密裏の工作活動は‐控えめに見ても‐有価証券詐欺、マネーロンダリング、海外腐敗行為防止法の侵害行為の可能性を伴っていた。34 数多くの状況において、殺戮、偽りの拘束が後悔の念にかられたこの計画の参加者が話を一般に公開することを防ぐ取り組みの主要な柱であったと考えられる。35 ソビエト連邦の崩壊をもたらすという‐その目的を達成する一方で、このプログラムはまた同時に、アメリカの納税者の費用を使って、この方針を実施した個人の懐を潤したと考えられる。これは秘密の非合法と言われる債券での2,400億ドルという巨額な規模でなされたのであった。この債券は911の余波の中でアメリカの納税者によって裏付けられた中期国債と摩り替わっていたと考えられる!

 

 

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17年後の2008年に、一連の秘密債券から直接利益を得た個人的金融帝国の利益は数兆ドルになっているに違いないが、それらは正当には様々な市民の財産である。Putinの選出した新興財閥の追放はこの話と一致する。

 

この冷戦を終結させるという当初の国家安全保障の目的を達成するために利用された秘密債券は最終的に世界貿易センターのブローカーの地下金庫室に行き、2001年9月11日に破壊されたのであった。36 それらは9月12日に清算と決済の満期が訪れた。これらの債券を調査していた連邦政府関係機関‐海軍情報部‐は911で破壊されたペンタゴンの部分にあった。37 1991年の経済的冷戦の勝利に関与した国家安全保障の上級関係者の主要集団にとっては、WTC、ペンタゴン、4機の旅客機、人々は冷戦の終結における「付随的」被害となるのであった。彼らの死は、Black Eagle Trustの存在やそれが50年以上にわたり資金供給してきた秘密裏の活動の存在を隠すために、必要であった。一連の出来事を別の観点で見ると、彼らの命やビルの破壊は、1980年代にしばしば「Enterprise」と称されたが、依然として影に潜んでいる実業家と犯罪者の仲間意識や兄弟意識によって継続されている無法状態を隠蔽する工作の構成要素であったことが示されることになる。

 

軍資金
一連の債券とその資金源の話は数年の間にインターネット上で発表されており、38 この債券自体が訴訟や刑事手続きの渦中にあるものの、この話は実際には信頼が得られてはいない。一見した所インターネット上の冷戦に関する伝説の類とみなされる話の起源を理解しようとすると、歴史が1991年9月に実際にGeorge H.W. Bush とAlan Greenspanが、ソビエト連邦の経済に対する攻撃を通じて冷戦を終結させるというより広範囲のプログラムの一部として、ソビエト連邦の買い占めに債券で2,400億ドルを資金提供したことを示唆している。さらに、George H.W. Bush大統領はソビエトの経済の特定部門を乗っ取るために数多くの関連した秘密工作を開始していた。そして10年後の2001年に一連のプログラムは最終的にアメリカの政策発案者のもとへ戻ってきたのであった。一連のプログラムの全てではないとしても、大部分が法の境界線の外側にはみ出していたと考えられる。結果として、英国、スイス、ロシア、カザフスタン、フィリピンの捜査機関が議会とアメリカ司法省に、海外の裁判所では犯罪活動と見なされた、一連の秘密活動に資金提供するために利用された銀行の口座を明らかにするべく圧力を加えていた。Alan Greenspan、財務省、アメリカとヨーロッパの主要な銀行は、金価格操作つまり非合法的金販売で訴えられていた。この金価格操作の起源は、この戦争を仕掛けるために用いられた秘密の軍資金にあると考えられる。39 同時に、Marcos体制の大量虐殺の生存者による訴訟と親イスラエルロビイストの影響下にあったアメリカ議会が、スイスの銀行業カルテルに公開調査のためにその金塊の記録の明らかにするべく圧力を加えていた。調査の際のこれらの銀行による全面公開は、1980年代と1990年代初頭の大規模な金融詐欺の一部へのアメリカ政府の共謀を、無数のアメリカとイギリス政府機関のよる50年にわたる金塊の盗みと共に、大きく明らかにする結果となっていたであろう。さらに、これらの口座に対する調査はBlack Eagle fundとして知られる国家安全保障の秘密と第二次世界大戦以降の実質的に全ての秘密工作活動を明らかにするものでもあろう。一連の調査を終結させ、そのような情報の公開を防ぐことが、WTCとペンタゴンの破壊の唯一の目的であった。

 

このような調査と法的圧力は1997年に蓄積が始まり、1998年2月にOsama Bin Ladenが fatwaを宣言し、Attaが911の攻撃の計画を始めたのであった。この1998年になされた世界貿易センターの攻撃をもたらした決定を理解するには、歴史を遡り、一連の銀行家や政府関係者が直面していた情報公開の規模を理解しなければならない。Attaが開始した計画に先立つ10年前、ソビエト連邦に対する経済的戦争の計画が始まっていた。この秘密戦争の資金源は第二次世界大戦の終わりにまで遡るが、その軍資金の規模が1991年のソビエト連邦に対する攻撃を実行可能とするほどの規模になるのは1986年になってからであった。この資金源を理解することは、なぜ2001年に世界貿易センターが破壊されたのかを理解する上で決定的に重要である。

 

数多くの情報筋が第二次大戦の終わりに、大日本帝国の財宝がフィリピンでGeneral MacArthurのchief of Intelligenceであった、General Charles Willoughbyの部下によって発見されたことを文書で示している。その後Golden Lily Treasureとして知られることになる、この大量の富は50年を超える間の東南アジアや中国で日本軍の略奪により蓄積されたものであった。それはアメリカの潜水艦による日本封鎖のためにフィリピンに蓄えられていた。報告は異なるが、公有財産にある文書は回収された財宝は、宝石やダイヤモンドを含めず、金で280,000トンを超えていたことを示している。40 戦後、そのstaff member直属の部下であったEdward Lansdaleと Severino Garcia Diaz Santa Romana は山下奉文陸軍大将の運転手であった‐小島香椎少佐を拷問し、金のありかを吐かせ、地図を作らせた。41

 

 

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LansdaleがAssistant Secretary of WarであったJohn J. McCloyにこの発見についてブリーフィングすると、その金を没収し、その発見を隠蔽するアメリカの閣僚レベルでの決定がなされた。この金はBlack Eagle  トラストに加えられることになった。Black Eagle トラストを創設したのは、Secretary of the Navy であったRobert B. AndersonやSecretary of War であったHenry L Stimsonと並んで、McCloyであった。42 John McCloyはAdolph Hitlerと1939年のオリンピックでボックス席を共にしたことがあったが、世界銀行の総裁になった。Robert Andersonはイギリスの西インド諸島のCommercial Exchange Bankを運営することになり、非合法的な銀行業務と脱税で有罪判決を受け、刑務所送りとなった。43 その集団の第4のメンバーであった – William ‘Wild Bill’ Donovan – はCIAを創設することになり、この金を彼の部下が代表となっていた主要な銀行に分配し、CIAの秘密工作活動での主要なパートナーとしてAIGを設立した。

 

第二次大戦に始まるアメリカ情報機関の商業銀行業への関与
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アメリカの情報機関の銀行業の歴史
(Black Eagle Trust とGolden Lily という起源から)
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彼らが創設したトラストは第三帝国の金の延べ棒に刻印されていたナチスの黒い鷹からその名称を取っている。第三帝国から没収された金塊はその正当な所有者やその相続人には返還されず、このトラストの資金源となった。44 長年にわたり、このナチスの金の意義は日本の財宝と比較すると劣っていた。資金は増大するにつれて、100を超える全世界の個人口座に分配され、Trumanから Clintonに至る全ての大統領の財政顧問であったGeneral Earle Cockeによって、彼が死ぬまで管理された。45 これらの口座を管理していた大多数の人物はかなり以前に死亡しており、それらの相続人による口座へのアクセスの試みは強固な拒絶、偽りの拘束、あるいは疑わしい状況での死に直面してきた。Santa Romanoの相続人はその一つの例である。46 Mrs. V. K. Durhamはそうした人間の一人である。彼女の夫、Colonel Russell HermanはDurham Trustを管理していた。このレポートはしばらく彼らの話に戻ることにする。

 

ナチスと日本の財宝の金の没収を開始し、実施した担当者達は第二次世界大戦末期のアメリカと英国の最上級の情報将校とアメリカ合衆国の大統領の閣僚を代表している。Office of Strategic Services(戦略諜報局) – OSS -でのこうした意思決定者は以下であった:

 

 

· Wild Bill Donovan、第一次世界大戦で最も勲章を受けた兵士で、OSSの長官であった。彼の部下には以下の人物が含まれていた:

 

· Allen Dulles、将来のCIA長官で、Bank of New Yorkの社長、Brown Brothers, Harrimanの法律上の代表者。47

 

· Henry S Morganと Spencer Morgan。Henryと Spencerは JP Morganの息子であったが、金融帝国を運営する業務から戻ったのであった。この帝国はJP Morganに端を発し、‘Morgan and Chase’、‘Chase Manhattan’へと発展し、最終的には2008年にChaseとして知られることになる。

 

· Paul Helliwellはアメリカの情報組織の秘密工作活動の主要な銀行家となり、Nassau Castle Bankを設立し、その後Mercantile Bank and Trustを設立する。Castle Bankが閉鎖しなければならなくなった際に、彼はNugan Hand Bankを設立した。Nugan Hand Bankが閉鎖した際、彼はその銀行業務をIllinois州ChicagoのHousehold Bankと悪名高いBCCI 銀行に移す支援をした。彼を代表する表向きの人物がBill Donovanの知人、General Earle (別名Erle) Cockeであった。48

 

· General Earl Cockeは2000年に死去するまで、Trumanから始まる全ての大統領の金融アドバイザーとなる。Cockeは古典的な意味での真のアメリカの英雄であった:Silver Star、4つのBronze Star、4つのPurple Heartの受賞者であった。彼はまた、ソビエト連邦の転覆とソビエトの石油とガス資源を西側投資家の管理の下に置こうとする企みのために用いられることになるBlack Eagle FundとProject Hammerの調整者でもあった。

 

· George S Moore;Citibankへと発展することになるFirst National City Bank of New Yorkの将来のPresident 、CEO。Citibankは116,000トンを超えるMarcos の金の後始末をした。49

 

· General George Olmsted;もう一人の第二次世界大戦の英雄で、後にアメリカ軍の軍事援助を分配する責任者となる。その後International Bankとして知られるWashington DCに活動拠点を置く銀行持ち株会社のPresidentとなり、CIAが所有するバハマのMercantile Bank and Trust を引き継いだ。50 Olmstedの指揮の下で、International Bankは当時First Americanとして知られていたFinancial General Bankshares (FGB) をBCCIに売却した。51

 

· William Colby、将来のCIA長官、Helliwellが所有する秘密工作銀行の弁護士。

 

· William Casey、勲章を受けた第二次世界大戦の退役軍人、将来のCIA長官。
Caseyは1945年にPaul Helliwellから、OSSのヨーロッパの“Secret Intelligence Branch”を引き継いだ。52

 

これらの人物が「戦争装置」を生み出すために働いたOSSの中核を形成しており、53 実質的に彼ら全員が世界の最も重要な銀行において支配的役割を演じることになった。

 

British Special Operations Executive(SOE)からは、Jardine Matheson BankのJohn Keswickと William Keswickが参画し、OSSを支援した。54

 

Keswick 一族はまたHong Kong Shanghai Banking Corporation (HSBC)も支配することになった。55 50年後に、これらの人物が代表する金融機関は、彼らが自分達の金を隠したスイス‐ドイツの銀行と並んで、世界の主要な金融銀行となるのであった。

 

Lansdaleと Santa Romanaが財宝の回収を受け持つことになった。彼らは金の大部分が埋められていた土地を没収し、その後採掘するために、Hukbalahak の反乱による「共産主革命」をでっち上げた。56 いくつかの埋蔵地はClark 空軍基地上にあった。57  年月が過ぎると、Zurich のLansdaleの個人口座は30,000トンを超えるほどに増大し– いかなる近代国民国家の国庫よりも巨大な規模になった。Santa Romanaは複数の口座を持っており、最大の単体口座は20,000トンと見積もられていた。これらの口座は彼らの名前で開設されたものであったが、時が過ぎるにつれ、これらは実際には政府の口座であったことが示されることになった。参照基準として記すと、世界の金の年産量は1,200 トンと見積もられており、1980年のアメリカのFort Knoxにおける金の貯蔵はわずかに8,221トンを保有するのみであった。1980年以降はFort Knoxの金保有を示す公式報告がない。

 

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David Guyatt 、Sterling Seagrave、Peggy Seagraveによれば、Yamashita goldは
Black Eagle Fundの基盤となり、そこからアメリカの情報筋が関与した多くの秘密工作活動は資金提供を受けることになったという。58 最も一般的な国際法の解釈は金は(ナチスの金に対してなされたように59)それが盗まれた国に返還されるべきであると、あるいは米国財務省に取り入れられるべきであるというものである。明確な言い方をすれば、アメリカ政府のこの件に関するニュースを抑圧しようとの継続した取り組みはこの金の没収が非合法であった明白な証拠を提供するものである。

 

Lansdaleのフィリピンでの工作活動はアメリカ情報筋が関与する現代の秘密工作活動に共通する多くの特徴を生み出した:つまり賄賂、窃盗、拷問、偽旗作戦である。アメリカの情報組織とイスラエルの情報組織の間のつながりを創出することになったのはLansdaleであったと思われる。情報組織がアメリカの犯罪組織の働きを保持する先例を示したのはLansdaleであったと思われる。Lansdaleは1961年のFidel Castroに対するアメリカの戦争の際に、アメリカのマフィア一族のボス、Carlos Marcello、Santos Trafficante、Meyer Lansky、Lucky Lucianoを雇うことになった。彼がイタリアのマフィア一族を雇って、イタリアの共産党に対する非合法工作活動を仕掛けたのと同様であった。

 

 

「…Lansdaleの雇ったギャングはまさしくFBN(連邦麻薬局)が追っていたギャング--Carlos Marcello、Santos Trafficante、Meyer Lansky、Lucky Luciano …であった。CIAとのつながりは、もちろん、‘Wild Bill’ Donovanが率いたかつてのOSSと同組織がLucky Lucianoとコルシカ島人マフィアを登用し、マルセイユや地中海沿岸の他の場所の共産主義者労組の港湾労働者を打ちのめし、殺戮し、シチリア島を共産主義者から奪い返したことに始まるものであった。CIAの承認を受け、麻薬密売を活動の資金源として利用しながら、マフィアはアメリカへの麻薬供給ルートのお膳立てをした。多くのFBN(連邦麻薬局)の活動は麻薬の供給源をマフィアに遡っているが、一方レバノン、 トルコ、 アフガニスタン、中東のいずれかの場所を経由した供給は、国家安全保障上の理由による極めて強力なCIAの介入によって、ただ阻止されるばかりであり、捜査は終了することになる。」60

 

海外の地の侵略を支持するアメリカ市民の同意を集めるために、無辜のアメリカ市民を犠牲にすることを提案し、それを正当化したのはLansdaleのチームであったと思われる。これはCuba projectのためにLansdaleに仕えた陸軍准将William H. Craigによって運営されたプログラムのもとでなされた。61 このプロジェクトはOperation Northwoodsと呼ばるものであった。このプロジェクトを示す文書は40年程過ぎた後にRobert McNamaraのファイルから誤って一般に公開されることになり、Lansdaleの配下の工作員は戦争を仕掛けるほどであったことを明らかにした。62 これらの文書において、アメリカ軍はキューバへの第二の侵略を正当化するためにアメリカ市民に対して「テロ」キャンペーンを仕掛けることもあることを認めていたのであった。これはアメリカの情報工作活動がテロリストの戦術を用いたことをはじめて公式に認めるものであった。

 

Fidel Castro を狙った暗殺班のお膳立てを監督していたのは、Floridaからではあったが、Lansdaleであった。暗殺ビジネスにおけるLansdaleの弟子の一人がTed Shackleyであり、Operation Phoenixのもとでベトナムでの暗殺班のお膳立てに取り掛かることになった。63 ShackleyはCuba Projectからベトナムを支援する秘密戦争のために、Felix Rodriguezを従えてラオスに行くことになった。Felix Rodriguezは元CIA長官George H.W. Bushの腹心の友であり、BushがRonald Reaganのもとで副大統領になった時にも、Bushと直通電話で連絡する関係を維持した。64 アメリカの情報機関が資金提供していたIran-Contraの兵器弾薬密輸のパイロットがニカラグアで撃ち落とされた時に、George Bushに電話し、パイロットが生きたまま捕らえられたと彼に知らせたのはRodriguezであった。 ベトナムで、ShackleyとRodriguezは自分達の工作員のサークルを拡張し、Oliver North、Richard Secord、Richard Armitageを含むまでになるのであった。North、Secord、Armitageは自分達がルールの外側で活動することで共産主義者を相手に「好成績を挙げる」ことが出来る人間であることを実証していた。彼らがアメリカの秘密工作活動指導部の第二世代をもたらすことになった。これらの人物が自分達の国の軍務で育成した「是が非でも」という熱意はアメリカ軍事裁判所におけるMai Lai の大虐殺の裁判では、許容不可能であるとの判決を受けた。65 しかしWild Bill Donovanが生み出した「戦闘装置」によって放免された。

 

東南アジアにいる間に、North、Secord、Armitage、Rodriguez、Shackleyは自分達の工作活動に対して、議会の監視下にある資金によってではなく、オーストラリアのNugan Hand bankを通じて資金提供することになった。66 Nugan Hand Ltd. は1973年にSydneyで(世評ではマフィアと関係があると言われている)オーストラリア人弁護士Frank NuganとPhoenix Projectの一環として北ラオスでの活動経験のある元アメリカ軍グリーンベレーのMichael Jon Hand によって創設された。彼らは創設の際、当初のYamashita gold の回収作戦行動における主要なOSS職員の一人であった、Paul Helliwellにより支援を受けていた。67 Frank Nuganの一族はフィリピンのアメリカ海軍基地とオーストラリアの間の主要生活必需品の輸送業務を行っていた。68

 

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Marcosの財宝の一部の流れについて洞察が得られるのは、Frank Nuganと彼のビジネスパートナーであったPeter Abelesを通じてである。Peter Abelesはオーストラリアでハンガリー人マフィアとして知られる集団のメンバーであり、Henry Keswickのパートナーであるとの評判を得ていた。Sir Henry KeswickはSOEの将校John Keswickの息子であった。Keswickの一族はJardine Mathesonの 支配的過半数株式を持っていた。Jardine Mathesonは1970年代中盤に始まった、Ferdinand Marcoの金の精錬事業所を所有し、操業していた。69 Keswickの一族はまたHong Kong and Shanghai Banking Corporation (HSBC)の支配的過半数株式も持っていた。Citibankが没収された財宝の最大の受け入れ口となるのであるが、このHSBCはSanta Romanaの判明している金の口座の最大の保管者であった。70 Romanaが死亡した時、この銀行は彼の口座を彼の相続人に譲渡することを拒み、彼の口座を没収した。71

 

カナダ人実業家Peter Munkを1967年のカナダでの恥ずべきインサイダートレード訴訟から表舞台のビジネスに連れ戻したのはPeter AbelesとSir Henry Keswickであった。Munkは 最終的にBarrick Goldへと発展する一連の業務において、Adnan Kashoggi、Sheik Kamal、Edgar Bronfmannと提携を結ぶことになった。72 Barrick GoldはMarcos の金の回収と関係するほとんど全てのブリオンバンクの投資者となった。

 

こうした銀行がBarrickに、借りた金は彼らの金採掘事業と置換されるとの契約で金を貸付けると、Barrickはその借りた金をデリバティヴとして販売するのであった。こうした取引の多くを示す記録は、Enronが崩壊し、取引業務とその全ての記録がMarcosの金のもう一つの主要な受け入れ口であったUBSに引き継がれた際に、消失した。報じられる所によれば、FBIはこうした取引に対して捜査を実施しており、その捜査ファイルはWTCのノースタワーの23階に保管されていたという。911に関する一人一人の話を再調査すると、WTCの崩壊の前に爆発物によってオフィスが意図的に標的とされていたことが示唆される。73

 

Nugan Hand BankはMarcosの金をフィリピンから秘密工作活動に移転するために利用された多くの銀行の一つとなった。陸軍准将Earle CockeはNugan Hand のWashington支店を受け持つPresidentであったが、Project Hammerと Black Eagle Trustの主要な管理者となった。アメリカの情報工作活動出身のNugan Hand Bankの従業員には以下の人物が含まれていた:

 

 

· General Leroy J. Manor(Manila支店の支配人)U.S. Pacificの元chief of staff;対暴徒特別活動のCommand and deputy director;Marcosの義理の兄弟とオフィスを共有していた;

 

· General Edwin F. Black(Hawaii支店のpresident)タイの米軍の元司令官

 

· Richard Secord(Iran-Contra、ベトナムでの暗殺を全面的に受け持った工作員、アフガニスタンと中央アジアでMujahadeen(イスラム戦士)軍を創設した);

 

· Dale Holmgreen(CIAの所有するCivil Air Transportのchairman 、Taiwan支店の支配人);

 

· Richard L. Armitage(タイでのペンタゴン特別コンサルタント、インドネシアからテヘランのShackleyの口座へのヘロイン利益の譲渡を監督した);

 

· William Colby (弁護士でありCIAの元長官);

 

· Rear-Admiral Earl P. Yates、Policy and Plans of the U.S. Pacific Command の元Chief of Staff、対暴徒活動の専門家、同社のpresident となった;

 

· Walter McDonald(引退したCIA副長官、Annapolis支店の代表);

 

· Dr. Guy Parker(RAND Corporationの専門家、銀行コンサルタントとなった)
共和党の外交政策の上級アドヴァイザー;

 

この銀行はアメリカの秘密工作活動のための資金調達部門としてオーストラリアで創設されたものであり74、またMarcosの金のルートでもあった。この「銀行」の目的の一つはオーストラリアの労働党政府を早期に終焉させることであった。Whitlam政府は静かにアメリカ企業の子会社を国有化する恐れがあった。

 

「その後の調査によりNugan-Hand bankはTask Force 157という工作活動の隠れ蓑として利用された組織であることが確定した。Task Force 157 は Henry Kissingerによって設置された集団であったが、極めて奇妙な方法で設置された。
それは小型CIAであったが実際にはCIAから分離しており、おそらくKissingerがTask Force 157が行っていたこととCIAの間のつながりを否定出来るように、Kissingerによって設置されたのであろう。それでも、Task Force 157の要員にはCubaに対するサボタージュ工作のリーダーの一人であり、ベトナム戦争の際のサイゴンのStation Chiefであり、CIAの西半球部局の局長であったTed Shackleyが含まれていた。つまりこのように彼とCIAが行っていたことを切り離すことは極めて困難であることを示す申し分のないCIAの記録があるのである。Task Force 157の構想には2つの要素があったと考えられる:第一に、Whitlam政府に対する工作活動を仕掛けること。そして第二に、武器取引や禁制品の密輸のようなある種のアメリカの工作活動の拠点としてオーストラリアを利用することを強行することである。」75

 

 

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Nugan Hand Bankは1980年1月、Frank Nuganの未解決の殺害あるいは自殺の数日後に閉鎖した。彼の死亡の理由は特定されていないが、その当時、この工作活動は露呈する危険性があった。

 

「国家安全保障局の元副長官で、CIAの副長官でもあったBobby Inmanは2つの場面で 、Nugan-Handに対する調査がWhitlam政府(オーストラリア労働党政府)に対して仕掛けられた一連の汚い手口を明らかにすることになるのではないかとの深い懸念を表明した。」76

 

(足跡を隠すために殺人を用いるというアメリカの情報機関の手口は、このレポートでのちにIran-ContraとOctober Surprise事件を再検証する際に、さらに実証される。)
John HandはFrank Nuganの死の数日後に行方不明となり、再び姿を現すことはなかった。銀行業務はIllinois州ChicagoのHouseHold Bankに移されたが、そこはWilliam Colbyが非公式のアドバイザーとなるのであった。そして、Herman Skolnickによれば、Household BankはNugan Handの業務を継承することになったという。

 

その役割には、秘密工作活動の資金の移転、暗殺チームへの資金提供、麻薬の横取り、ギャンブル、密輸品の武器火薬類の略奪があった;軍人、民間人、多国籍の人間が関与していた。「退役」あるいは「休暇中」と想定される、情報機関の職員と並んでアメリカの軍人、司令官、将軍が、Nugan-Handを操業しており、その後Householdとその無数の関連部署や従属会社を支援した。この「マネーを追跡する」プロジェクトは、伝えられる所によれば元々はArkansasを拠点とする業務を受け持つ子会社であり、銀行業務コンピューターサービス会社であったSystematicsの支援を受けて、Household Internationalによって全般的に実施されたという。対象となったのは友人側と敵対側の双方の銀行であった。(Vince) Fosterと彼のチーム --Hillary (Rodham Clinton)と Webster (Hubbell) --は自分達がSystematicsの「弁護士」と想定されるという隠れ蓑を利用した…ここでのVincent と Hillaryの役割はChicagoを拠点とする法律会社Hopkins & Sutterによって調整され、監督されていた…77

 

Household Financeの多くの部門はその後間もなくHarris Bankに吸収合併され、Harris BankはBank of Montrealに吸収合併された。Bank of MontrealはBronfmann一族によって支配されることになるが、Bronfmann一族はBarrick Goldに大規模に投資していた。スイスの銀行カルテルと1998年に取引を結び、ホロコーストとMarcosの金の口座に対する調査を求めるアメリカ議会とイスラエルの圧力を頓挫させることになるのは、Edgar Bronfmannであった。

 

1980年代後半までに、自分達のエージェントとして第二次世界大戦末期のOSSの情報工作活動におけるエージェントがいた銀行が、2001年までに地球規模で支配的な銀行となっていた。

 

· Morgan Guaranty Trust
· Chase Manhattan
· Citibank
· Jardine Matheson
· UBS
· Deutschebank
· HSBC

 

1960年代と1970年代にBlack Eagle Trustによって資金提供された秘密工作活動は、それらを秘密にしようとの企てにも関わらず、アメリカの世界的なイメージの目に見える汚点となった。ホワイトハウスを浄化しようとの取り組みにおいて、Jimmy Carterは800人の秘密作戦工作員の退職を命じた。78  こうした工作員は民間コンサルティング会社や警備会社に移り、秘密工作活動の下請け契約者として雇われた。こうして後に「Enterprise」と称されることになる民間人工作員の緩やかな結びつきが始まった。CIA長官であったGeorge H.W. Bushはこの集団に多くの知人を持っており、彼らと共にアメリカの外交政策に対する、また外交政策が自分達の利益のために生み出す海外投資の機会に対する自分達の影響力と支配力を取り戻すために活動することになった。

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