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2013年11月10日 (日)

ブッシュはJFK暗殺チームを調整したのか?

以下は、http://www.veteranstoday.com/2013/03/30/did-george-h-w-bush-coordinate-a-jfk-hit-team/の日本語訳です。


ブッシュはJFK暗殺チームを調整したのか?

by Richard Hooke (with Jim Fetzer)

 

01_ghwbfeaturedimage_2元CIA長官で第41代アメリカ合衆国大統領、George H.W. Bushが我々の第35代大統領の死に関与していたことが示されるのは、これが最初ではなく、また間違いなく最後でもないであろう。我々の以前の記事、例えば、“Was George H.W. Bush involved in the assassination of JFK?”(George H.W. Bush はJFK暗殺に関与していたのか)において、John Hankey と私は双方共にこの疑問を扱っている。そこで彼はGHWB (第41代大統領George H.W. Bush)のDealey Plazaにおける狙撃事件での役割を裏付ける大量の証拠を提供している。この新しい検証において、Richard Hookeはその主張を具体的に実証し、彼自身のさらなる証拠を提起するものである。私はそれらは正しいと信じている。

 

GHWB がYale 大学時代からMalcolm “Mac” Wallace を知っていたことは特に驚くべきことである。”Mac” Wallaceは LBJ(リンドン・ベイ・ジョンソン第36代大統領)が私的に雇っていた殺し屋で、Lyndonのために一ダースもの多くの人々を殺害したのである。その中には、彼の仕事に口をはさみ過ぎたため、話すことを続けさせることが出来なくなった、彼自身の姉妹の一人も含まれていた。LBJが大統領暗殺に関与していたことを示すかなりな量の証拠が存在している。彼の生活は「全ての人々の大統領」になることに捧げられていたのである。Phil Nelsonが、著書 LBJ: Mastermind of JFK’s Assassination (2nd revised edition, 2011) において文書で示しているように、彼はこの追求に際して容赦なかった。Madeleine Duncan Brownの著書 Texas in the Morning (1997),、Barr McClellanの著書 Blood, Money & Power (2003)、Billy Sol Estesの著書 A Texas Legend (2004)もまたLBJを中心人物であったと名指ししている。このことは、E. Howard Huntの著書“Last Confessions” (2007)によっても確認されている。E. Howard Huntは、LBJ、Cord Meyer、David Atlee Phillips、William Harvey、 David Sanchez Morales らを「指揮系統」にいたと確定している。

(画像下の字幕:George W. BushとMalcolm Wallaceの写った1947年のYale 大学の Skull & Bonesの写真は、私達に与えられている、1947年にニューヨークのColumbia大学で学んでいたことになっているMalcolm Wallaceに関する定型的な歴史は、おそらく全面的には正しくはないことを示している。)

 

知る立場にいたJack Rubyまでもが、もし他の人物が副大統領であったなら、暗殺は決して起きなかっただろうと主張していた。McClellan は、Clint MurchisonH. L. Huntのようなテキサスのオイルマンが、石油減耗控除を27.5パーセントに維持するために、暗殺の資金を提供したと結論付けた。この控除率はLBJ政権下で変わらずに維持されたのだった。

 

私は、1948年にLyndonとの不倫関係を始め、彼の息子Steven(彼だけが結婚生活における子供ではなかったが、唯一の男子子孫であった)を1950年に出産した、Madeleine Duncan Brownと100回以上の対話を持った。彼女は私に、暗殺からわずか6週間後の大晦日のテキサス州オースティンのDriskill Hotelでの彼らの面会について語った。その時彼女は彼に、誰も彼以上に得をする人物はいなかったのだから、彼が暗殺に関与していたのではないかという噂を持ちかけたという。するとすぐLyndon は激昂し、彼女にCIAとオイル関係者がJFKを除去することに決めたのだと語ったという。こうしてMac Wallace が関与していたことには、深刻な疑いがないのである

 

Wallace はHarry Lewis and L & G Oilで働くことになった。1970年に彼はダラスに戻り、John F. Kennedy暗殺における彼の役割に対してさらに金をEdward Clark に要求し始めた。Barr McClellan によれば、このとき、Wallace を殺す決定が下されたという。「彼は除去されねばならなかった。テキサス州のトループに娘に会いに車で出かけた後、彼はテキサス州ロングヴューのL & Gのオフィスに立ち寄った。そこで車中に排気ガスが流入するように彼の車の排気管が操作された。」1971年1月7日、Malcolm Wallace はテキサス州ピッツバーグへ車で向かう途中には死亡した。彼は居眠りし、道路から外れた後に、衝突したものと考えられた。Wallace は大規模な頭部の損傷により死亡したのだった。

 

程なく、Clifton C. Carter が53歳で死亡した。1971年はまた、Billie Sol Estes が刑務所から出ることになっていた年でもあった。オースティンに拠点を置いていたテキサスレンジャーズの一人、Clint Peoplesによれば、Billie Sol Estes は、自分が自由を手にした際に、 Henry Marshallの死について詳しい話を語ると約束していたという。

 

1984年8月9日、Estesの弁護士、Douglas Caddyがアメリカ合衆国司法省のStephen S. Trott 宛てに手紙を書いた。その手紙の中でCaddy は、Wallace、 Billie Sol EstesLyndon B. JohnsonCliff CarterHenry MarshallGeorge KrutilekHarold Orr、 Ike Rogers、 Coleman WadeJosefa JohnsonJohn KinserJohn F. Kennedy、の殺害に関与していたと主張した。Caddy は以下のように加えた:「Estes 氏は、LBJが一連の殺害を命令し、彼の命令をCliff Carterを通じてMac Wallaceに伝え、Wallaceが殺害を実行したものであると証言する意思があります。」

 

これは、Billy Solに対するフランス人調査報道記者William Reymondによるインタヴュー内容と一致するものである。そのインタヴューにおいて、彼はLyndon が自身の最高責任アシスタント、Cliff Carterをダラスに送り込み、暗殺の手配が成されるのを確認させたと説明している。このことを彼はA Texas Legend (2004)においても再主張している。Billy Sol はCliff Carterと“Mac” Wallace の双方を個人的に知っており、直接の対話から彼らの関与を推測していた。The Education Forum上でのJohn Simkin とDouglas Caddyの間のeメールのやり取りのコピーをamazon.com上で見ることが出来る。これは、LyndonがCliff Carterを利用し、“Mac” Wallaceにこうした犯罪を実行するよう指示を伝えていたことを具体的に示すものである。それ故に私はGHWB と“Mac” WallaceがYale大学のSkull & Bones のメンバーであったことを発見して衝撃を受けるのである。

http://www.youtube.com/watch?v=pxJop1MWmpk

 

なぜDal-Tex が問題となるのか

Warren 報告書 (1964)によれば、暗殺の間3発が放たれたという。 暗殺当日にFBIとシークレットサービスは、一発目がJFKの背中に、二発目がJohn Connallyの背中に、三発目がJFKの後頭部に命中し、大統領の命を奪ったとの結論を下した。発砲された一発がそれて、離れた所にいた見物人James Tagueを負傷させていたことが、後に明らかになった。 4発以上が放たれていたことを信じる者にとっては、これは特に問題となる事象ではなかった。六箇所の異なった地点から八発、九発ないし十発が放たれていたと考えられることが判明している。(例えば、“Dealey Plaza Revisited: What happened to JFK?”を参照いただきたい。)しかし三発のみが発砲されたと信じている者にとっては、これは微妙に困難な状況を示すことになる。こうして、背中に命中した弾丸は実際には大統領の首の後ろに命中したものであり、大統領の喉から侵出し、Connally.の背中に侵入したとする「魔法の弾丸」説というでっち上げに至ることになった。

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証拠は全てそれに反するものである:まぎれもなく、それは偽りであることが実証可能であるのみならず、解剖学的に不可能でもあるのだ。私が“Reasoning about Assassinations”において説明しているように、頚椎が介在しているからである。それでもなおこれが「公式説明」の支柱となったのは、そうしなければ、大統領の喉の傷とConnally の複数の傷を他の弾丸、他の狙撃者に基づいて説明しなければならないからである。徹底的な、詳細な細部にわたる医学的、弾道学的検証、そして目撃証言は、JFKが四度撃たれていたという結論を支持するものである。-背中を一回(後方から);喉を一回(前方から);頭部を二回(後頭部を後方から一回、右のこめかみを右側/前方から一回)。これらの弾丸のうち一発も、テキサス教科書倉庫ビル六階の「暗殺者の巣」からは放たれてはいなかったと考えられるが、Dal-Texから放たれた三発には、テキサス教科書倉庫ビルから放たれたものであるかのように響く音響効果があった。Richardの検証は、GHWB がこのDal-Texの窓に見えることを示しているのである:

 

 

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(画像下の字幕:最も可能性の高い一連の順序は以下である;Country Records Buildingから発射された一発が大統領の背中に命中し、直後にTriple Underpass(三線高架下道路)の南側末端部から一発が発射され喉へ命中した。その後Dal-Tex から発射された一発はそれ、Tagueを負傷させた。教科書倉庫から発射された一発がJohn Connallyに当たった。運転手がリムジンを左に寄せ、停止させた。Dal-Texから発射された二発目がJFKの後頭部に命中した。大統領は前方に倒れこみ、Jackieが抱きかかえた。彼女が大統領の顔を見ているとTriple Underpass(三線高架下道路)の北側末端部から発射された炸裂性弾丸が右のこめかみに命中した。Dal-Texから発射された三発目はそれ、クロム製の縁に当たった。その他の弾丸がおそらくJohn Connallyに当たったり、それてクロム製の縁に当たったりして、芝生で発見された。一発も「暗殺者の巣」からは発射されなかった。)

これは一連の発砲についての私の分析であると強調することをお許しいただきたい。私はこれを“
What happened to JFK–and why it matters today” (UW-Madison, 22 November 2011)を含む、複数箇所で詳細に説明してきた。私達は双方ともDal-Texから三発が放たれたと信じるものではあるが、一連の発砲に関してRichardは必ずしも私に同意してはいない。Dal-Texから三発が放たれたこと、これは下の彼の検証で彼が扱っている題材である。一発がそれてJames Tague.を負傷させたと考えられる。別の一発がリムジンのフロントガラス上部のクローム製の縁に当たったと考えられる。そして三発目がJFKの後頭部に当たったと考えられるのである。特にRichard は、もう一発が抗柵の後方から放たれたと信じている。これは、Ed Hoffmanやその他の人物も支持していることである。さらに別の狙撃者がいたであろうことには私も同意している。

http://www.youtube.com/watch?v=zLL8diz-7bw

 

George H.W. Bush がDal-Tex の暗殺チームを調整した
by Richard Hooke

 

04_ghwbattsbdGeorge H.W. Bush は少なくとも1961年という早い時期にCIAのために活動していた;おそらく彼は、Skull and Bones 結社に属していたYale大学での大学時代に、リクルートされたのであろう。彼と彼の妻Barbaraはヒューストンに引越し、海底石油採掘ビジネス、Zapata Offshore Co.を経営した。これは採掘設備を世界中に配備していたCIAのトンネル会社であり、何を行っているのか疑われるCIAのビジネスで彼が一度に数週間姿を消す上では都合が良かったのである。Bush は、ZAPATA. Col.作戦とのコードネームで呼ばれていたピッグス湾侵攻作戦の主要な組織まとめ役、リクルート担当者であった。元ペンタゴンの高位にあった高官、Fletcher ProutyはOliver Stoneの映画「JFK」中の「X大佐」のモデルになった人物であったが、彼はこの作戦のために二艘の海軍船舶を調達していた。この二艘は非海軍色に塗り替えられ、HOUSTON 、BARBARAと改名されたのだった。

 

George H.W. “Poppy” Bush はJFKが暗殺された時に自分がどこにいたか、何をしていたかを思い出すことが出来ない少数者の一人である;事実、20年以上にわたり、彼はその詳細を全く思い出せないのである。彼は当時39歳で、ハリス郡(ヒューストン)の共和党の議長であり、JFKに対する辛らつな批評家であった。しかし1963年11月21日に、GHWB はダラス中心街のシェラトンホテルに滞在しており、その日の夜、石油採掘契約者アメリカ協会にむけて講演していたのであった。しばらくして、彼は報じられる所によれば、Clint Murchison, Srの自宅での「承認のための会合」に出席しており、暗殺実行の前夜に最終指示を受け、JFK殺害の祝杯を上げていたという。[注記: Madeleine Duncan Brown が自身の著書Texas in the Morning (1997)においてこの出来事を記述している。これは、Nigel Turner制作の"The Men who Killed Kennedy"のパート9、"The Guilty Men"でも裏づけられている。]

http://www.youtube.com/watch?v=jgNfQYpS1gQ

 

保安官代理Roger Craig はDealey Plaza でその日にあった12件の拘束について自分は知っていたとJim Garrison に報告した。その内の一つは、特に、ダラス警察署のR.E. Vaughn によってなされたもので、Dal-Tex ビルから出て来る男の拘束であった。彼は自分のことを「テキサス州ヒューストンの自営石油操業者である」と述べたという。この拘束された人物はダラス警察署の刑事によってVaughnのもとから連行され、彼がその人物を見たのはそれが最後であったという:この謎の人物の存在については、顔写真も撮影されず、インタヴューも行われず、指紋も取られず、名前も分からなかった。「ヒューストンの自営石油操業者」は常にGeorge Bushの(CIAの)隠れ蓑であった。実際の所なぜ彼は拘束されたのであろうか。Garrisonはその人物がDal-Tex ビルから走って出て来たのであり、当局は見物人の騒ぐ声のため、拘束せざるを得なかったのだと述べた。彼は取調べのため保安官オフィスに連行されたというが、取調べの記録は存在していない。その後、二人の警官が彼に同伴しビルから外に出てきて、待ち受ける群集のやじに直面した。彼らは彼をパトカーに乗せ、走り去った;おそらくDealey Plazaへと戻ったのであろう。なぜならそこで彼は、アメリカ空軍将軍Edward Lansdaleと共に写真に撮影されることになるからである。

 

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Ed Landsdale は「三人の浮浪者」(真ん中の写真)のそばを歩いている人物であると、秘密活動のためのペンタゴンとCIAの連絡役であり-またOliver Stoneの映画「JFK」中の「X大佐」のモデルでもあった-L. Fletcher Proutyや元アメリカ海兵隊司令官、 Victor Krulakほどの当局者によって確認されたのである。両人共にLandsdale のことをよく知っていたのである。

 

06_lansdalewaitingforbush279x320_2GHWBの本人確認に関しては、私達にはプロのカイロプラクターで、人物の身体や服装に対処する専門家であるRalph Cinqueによる観察がある。「George HW がそこにいるということの確定は簡単です。他にどんなまじめな代替案があるのですか。全く彼に似た人物がたまたま偶然そこにいたという全く驚くべき偶然が起きたというのですか。何度V(映画「V for Vendetta」中のVendetta =復讐)は私達に、自身は神と同様、サイコロ遊びをするものではなく、偶然を信じるものではないと告げねばならないのでしょう。私も、あるいは殺害についての他の真剣な研究者は誰も、JFK暗殺に際しては、特にそのような偶然はないと言わざるを得ないのです。」私達には、テキサス教科書倉庫ビルの前にBushが立っている写真がある;私達には、その時Dealey Plaza でEd Lansdaleを写した写真がある;そして私達には、世界中で暗殺を準備したことで有名なLansdaleが彼に話すのを待っている姿を写したもう一枚の写真があるのだ。この件については、「これらの写真にはまぎれもなく千の言葉以上に値する」と言っても過言ではないであろう。

 

偽りのアリバイ

次に私達が1963年11月22日のGeorge H.W. Bush について知るのは、FBIの覚書メモによってである。それによれば、GHWBはダラスの保安官オフィスでの記録には残っていない取調べから解放され、ヒューストンのFBIオフィスのSAC Graham W. Kitchel のもとに電話をかけたという。これは、ここ数週間の間に、James Parrottという名の人物が大統領がヒューストンに来た時大統領を殺害すると話していたことを思い出したと述べるもので、偽りのアリバイを確立しようとしていたものであった。Bushがこの電話をかけた直後に、FBI職員がParrot の自宅へと派遣された。別のFBIメモでは、Parrotの母親は、JamesはFBIが自宅に到着した時自宅にいなかったが、彼は一日中自宅におり、彼女が息子Gary.の面倒を見るのを手伝っていたと語ったという。

 

Parrot 夫人は、午後1時直後にReynolds 氏が訪れて、Waugh Driveの共和党本部の看板を塗ることについて息子に話したと報告した。要点は、Kerney Reynoldの助けとGeorge Bushの助けがParrot にアリバイを与え、Parrot がBushのアリバイであったというものである;全員がお互いをかばい合っているのだ。Bushの共和党看板描きの一人であった暗殺者志望者について通報する偽りの電話;彼自身もまたBushの仲間の一人によるアリバイによって見逃されるもので、実際にはうまく機能していない;これはCIAのアリバイテキストの101番である。こうした類のものが歴史の代役を務めることは許されないのである;もしBushがそれほど看板絵描きについて懸念していたのであれば、なぜ彼はKennedy大統領がダラスに来る前に、FBIに警告の電話をしなかったのであろうか。

 

Bushはこのメモによって自分の頭部を銀の皿にのせて私達に差し出したのである;Bushは自身が目撃されたことを懸念していたため、パニックになり、その日にDal-Tex ビルの前で拘束されたのは彼ではなかったことを示す証拠を提示することで自分は賢明であると考え、愚かにもFBIに電話をかけたのだ。これはその時点では、良い考えのように思えただろう。しかし彼は実際には自身の関与の永遠に残る記録を創造していたのである。このメモはBushを、テキサス州のタイラーから長距離電話をかけてきた、ヒューストンのオイルマンとして確定している。Bushは暗殺の間、あるいは暗殺の直後にダラスにいなかったことを確証しようとしていた。彼は、誰かが自身を、Dal-Tex ビルから走り出て来るところを拘束され、ダラス保安官オフィスに連行され、そのビルから連れ出されたオイルマンとして特定することを懸念するべきであったのだ。

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この1963年11月22日の日付のあるFBIメモは、Bushがテキサス州タイラーから電話したと述べている。しかし彼が実際にそこにいたという証拠は存在していない。暗殺の後20年以上にわたり、Bushはダラスで12時30分に暗殺が起きた時、自分はどこにいたのか記憶していないと言っていた。私がそのような話を聞いたことのある唯一の人物はRichard Nixonであった。彼はJFKが飛来するわずか2時間前にLove Fieldから飛び立っていたのである。
(訳者注:このメモの日本語訳が
こちらにあります。)

 

顕著なことであるが、このFBIメモはGeorge Bush が実際にどこにいたのかに対する答えを提供出来ないのである。このメモは、しかしながら、Bushが自由になり、偽りのアリバイを創作した最初の瞬間は午後1時45分であったことを私達に告げるものである。BushはDealey Plazaからわずか数ブロック離れた、ダラス中心街のシェラトンホテルに滞在していたにもかかわらず、午後1時45分にテキサス州タイラーにいたと私達に言おうとしているのである。

 

George BushのCIAの任務はダラスにおいてあからさまであった。そのために彼はダラスに滞在していたのだから、彼がタイラーで何をしていたというのだろう。JFKは午後12時30分に撃たれた。他の全ての人と同じように、Bushも午後12時30分にダラスにいなかったのだろうか。そのめにおそらく彼はダラスシェラトンホテルにいたのではないだろうか。Bushは他の全の人と同じように、大統領の状態を確認するためにパークランド病院に車を走らせることはなかったのであろうか;保安官のオフィスで取り調べを受けていたのでなければの話であるが。

 

FBIの覚書メモ

Bush は国家反逆として起訴される候補者であると考えられるのである:彼の1963年11月22日のアリバイは捏造されたものであり、彼がそこにいたことを示す証拠が我々にはあるのだ。テキサス州タイラーからの電話についてのFBIメモは、彼がCIAのテキスト式アリバイをでっち上げていたのであり、彼が嘘をついており、おそらくJFK殺害への共犯者であったことを示す以外に、彼が電話をかけてきた場所を証明するものではない。Bush は暗殺後20年以上にわたり、暗殺時に自分が何をしていたのか全く記憶していないと主張していた。実際の所、彼は自分の自叙伝でも説明しなかったのである;そしてその後、突然、彼はテキサス州タイラーでロータリークラブに対して講演していたという話をでっち上げたのだ。Aubrey Irby は、Bushが講演している時、ホテルのベルボーイがやって来て、Aubrey にJFKが死亡したことを連絡したと述べた。 Aubrey 氏はこの情報をWendell Cherry Irby氏に渡し、彼がそれをBushに渡し、Bushは講演を中止したという。Irby氏によれば、Bushはこの状況の下では政治に関する講演は不適切であると考えると説明し、講演を終わらせ、すぐに着席したのだという。

 

George Bush がこの出来事を20年以上にわたり思い出せなかったとは、想像出来ないことである。JFKが死亡したというWalter Cronkiteの世界に対する発表は午後1時38分になされた。大統領と知事Connally が午後12時30分に撃たれたことが判明していた後に、Bushがその時、テキサス州タイラーでロータリークラブに対して講演していたと考える人がいるのであろうか。Kennedy 大統領はDealey Plazaを通過した後に、ダラス貿易マートで昼食時のスピーチを行う予定になっていた。ダラス周辺にいた人は皆そのスピーチに参列しようとしていた;そしてJFKが撃たれた後大部分の人々は、重傷を負った大統領と知事に関する最新ニュースを知るために、パークランド病院へと殺到した。右派人物が所有するビル内でのJFK嫌いの共和党集団に対するテキサス州タイラーでの講演は、Bushがダラスにはいなかった証拠とは認められないのである。入手可能な証拠が、BushはCIAの任命を受けており、Dal-Tex 暗殺チームの監督をしていたことを示しているためである。Dal-Tex からはMannlicher-Carcanoを用いて三発が放たれたと考えられており、この銃は使用された凶器のうちで唯一消音装置を取り付けていない凶器であったと考えられている:

 

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次に、George Bush を暗殺の直後にDealey Plazaで撮影された写真中で、テキサス教科書倉庫ビル出入り口の隣、そしてEd Lansdaleの隣に見ることが出来る(下を参照)。これらの写真は、紛れもなくGeorge Bushを写しており、彼がダラス保安官オフィスを出て行った後に、どこに行ったのかを告げるものである:見逃した最新情報を得るために犯罪現場に戻ったのである。彼は James Parrot について通報するFBIへの電話を、ダラス保安官オフィスから午後1時45分にかけたに違いない。なぜなら Bush を Dealey Plaza で、午後2時頃 Dealey Plazaを立ち去り、「三人の浮浪者」のそばを通り過ぎ、駐車場へと向かうことになるLansdaleと共に見ることが出来るからである。Bushが、Oswald が午後1時50分にテキサス劇場で捕らえられるまでDealey Plaza周辺に留まっていたLansdaleと共に写真に収められるには、いうまでもなく彼はDealey Plaza に直接戻らねばならない。もしLee が捕らえられなかった場合には、Lansdaleが「プランB」として、有蓋貨車に行くよう指示されていた三人の浮浪者–Charles Rogers、Charles Harrelson、 Chauncey Marvin Holt(しばしばE. Howard Huntと誤認されている)–を罠に嵌めていたのであろう。暗殺が彼らのせいにされることもあった。帽子をかぶった浮浪者Holt (CIA)は、自分達は有蓋貨車中で発見され、Oswald が捕らえられた直後にplazaを通って連行されたと述べた。彼はOswaldの逮捕を、このおなじみの写真で彼が手に持っている紙袋の中に隠していたCIAが提供した無線で盗み聞きしていたため、知っていたのだった。

 

有罪を示す覚書メモ

09_memomentioninggeorgebush1988年にJohn McBride が発見した、 J. Edgar Hooverによる FBI の覚書メモ(右)は暗殺のわずか7日後に書かれたものであるが、1963年にGeorge H.W. Bush が CIAの関係者であり、反Castro 派キューバ人に関する最新情報を与えられていたという根拠を提供するものである。George Bush は当時自分はCIA にいなかったため、このメモは別の「George Bush」について言及しているものであると述べている。しかし同名の人物がいたにせよ、その人物は文書係であり、ピッグス湾作戦についての覚書メモを受け取るはずはなかったのである。そしてまた、この文書中のGeorge Bushは間違いなくGeorge H.W. Bush であり、同じ住所であったことを示す別の情報も明らかになっている。1976年、Ford 大統領はWilliam Colbyの後任としてGeorge Bush を CIA長官に任命した。Bushはこの役職を、
1976年1月30日から1977年1月20日まで、357 日間にわたり務めた。Bush は自分はCIAのために活動したことはないと議会の前で偽りの証言を行い、また民間人が同局の運営に任命されることは初めてであると広く報じられた。しかしこれはばかげた以上にたわ言であった。George Bush はおそらく、Yale大学から直接リクルートされた、CIA に捉えられた終身雇用の囚人であったと考えられる。
(訳者注:このメモの日本語訳が
こちらにあります。)

 

George H.W. Bush (CIA) はまたGeorge De Mohrenschildt (CIA)の親しい友人でもあった。両人はダラス石油クラブのメンバーであった。1970年代後半にJFKと MLK(キング牧師)の死を調査するHSCA(暗殺に関する上院調査委員会)のため、Gaeton Fonzi による聞き取りが行われる前日に、De Mohrenschildt が撃たれて死亡しているのが発見された後、De Mohrenschildtの住所録中に以下のBushの名前と住所が発見されたのだ:“Bush, George H.W. (Poppy) 1412 W. Ohio also Zapata Petroleum Midland.” CIA の文書により、ピッグス湾作戦(オペレーションZapata)の計画の最中、De Mohrenschildt はメキシコとパナマを頻繁に旅し、 CIAに報告書を提出していたことが明らかにされている。彼の義理の息子もまた、Warren 委員会に対してDe Mohrenschildt はキューバ侵攻のためのスパイ活動をしていたと自分は信じると告げていた。George De Mohrenschildtはとりわけ、Lee Harvey Oswaldの親友であり、またOswald が1963年の秋にダラスに出て来て、テキサス教科書倉庫ビルでの仕事を見つけた後の彼の側近であったと考えられている。

 

Bush は窓にいたのか?

著書
The Killing of a President (1994)において、Robert Grodenは窓に外見の暗い人物が見えると述べている。この人物の身元をJames Richards はJim Fetzer に対して、フロリダ州マイアミの「リトルハバナ」のフリーダム公園に彫像が建てられている Nestor “Tony” Izquierdoであったと特定している。彼は反Castro 派のキューバ人で、 GHWBはピッグス湾の時から彼を知っていたと思われている。Dal-Texビルからライフルにより三発が放たれたと考えられるという、この場所について最も示唆に富む解釈を提供するDuncan MacRaeの以前の研究“Dal-Tex Shooter 2nd floor”を基に、私はさらに以下のように発展させた:

 

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Bushがその時そのビルにいたのであれば、彼は出しゃばらずに、Dal-Texビルの二階にあったウラン採掘会社(CIA の所有物)の物置の窓の内側にいたと私は推測する。私の解釈はGHWB風の大きな左耳、高い身長、ボディランゲージ(首の傾げ方)、髪の生え際、額の特徴を持つお坊ちゃん髪型をした人物が、Dal-Tex 暗殺チームを監督していたというものである(下のコラージュを参照)。彼はある理由のためダラスにいたのだ。その理由とは、大統領の車両パレードを見るためではなく、狙撃者としてでもなく監督者として、無線装置を用いて監視人と通信するためであった可能性が高い。この監視人は、(上のAltgens6 写真で)ヒューストン通りでJohnny Roselli (CIA/マフィア)の隣に立って携帯無線機に話しかけている姿が見られるDanny Arce (CIA)であったと考えられる。Arce は、数発が放たれた間、誰かと話していたのであった。Ruth Ann (CIA) はタイミングを数えており、携帯無線機でテキサス教科書倉庫ビルの六階から情報を受け取っていたのだと、(共謀を認めた参考人 Loy Factor)によって告発された。

 

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傘の男の同伴者は、 Orlando Bosch (CIA)であった可能性があるが[注記: あるいはFilipe Vidal Santiago]、リムジンがStemmons Freeway の標識を通過し、傘の男が自分の傘を上げ下げする間、無線で話しているのではない。傘の上げ下げは、まだ標的が生きているので「射撃を続けろ」という合図であったと考えられる。[注記: そこは、私が上に確定した全ての発砲箇所から目に見える場所であった。]最年長の浮浪者Chauncey Holt (CIA)は、自分は茶色の紙袋の中にCIAが支給した無線を隠し持っており、Rock Island鉄道の有蓋貨車内からであっても事件の最新情報を入手出来ていたと述べた。Holtは15組の偽のシークレットサービスの身分証明書を作成し、grassy knoll(芝生の丘)の後ろにある、その日の朝ダラス警察署が使用していた駐車場に駐車してあった赤色の小型トラック車中に置いており、grassy knoll(芝生の丘)の狙撃者の逃亡の手助けとなったのだった。それから鉄道塔転轍手、Lee BowersもまたWarren 委員会に対して、奇妙な人々が抗柵の後で車を運転していたのを自分が見て、一人が携帯無線機を使っていたことに気付いたと証言した。

 

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GWHBがそこにいたという証拠の概略

(1) Bushが1963年11月22日午後1時45分に電話をかけており、テキサス州ヒューストンのオイルビジネスマンであると身元確認されたことを示すFBIの報告書(覚書メモ)。彼が訪れたFBIオフィスはヒューストンオフィスであった。

(2) 11月22日の12時35分頃Dal-Tex ビルから走り出てくるところを拘束された男は、(副保安官Roger Craigによれば)自身の身元を「ヒューストンのオイルマンである」と認めたと言われている。Bushはダラス警察署のR.E. Vaughn によって拘束されたのだった。

(3) Bushは、James ParrotについてのFBIに対する警告を、ヒューストンのFBIオフィスの彼の友人であったFBI特別捜査官Graham W. Kitchelに長距離電話で知らせた。

(4) James Parrot には破壊分子としての履歴はなく、George Bush共和党上院選挙運動の際の看板描きであった。

(5) James Parrot には、Bushの支援者でもあった別の友人、Kerney Reynoldsから速やかにアリバイが与えられた。

(6) George Bushはダラス中心街のシェラトンホテルに滞在しており、そこで前日の夜(21日の夜)を過ごしていた。

 

(7) 午後12時30分にJFKが撃たれた直後にDealey Plaza でGeorge Bush (CIA) が警察と話している姿を写した写真が、少なくとも2枚の存在している。

(8)そうした写真の一枚は、Bush(CIA)がEd Lansdale (CIA)の隣に立っている姿を写している。

 

(9)そうした写真の一枚は、警察が封鎖しており、特別な身元証明書(CIA)がなければ入れない区域内のテキサス教科書倉庫ビルの出入り口付近にいるBushの姿を写している。

(10) Lansdale の隣にいる写真は、FBIメモでBushが電話したという午後1時45分から、Lansdaleが三人の浮浪者の横を通ってplaza を出て行く姿が撮影された午後2時の間に撮影された可能性が高い。この浮浪者が有蓋貨車から連れ出された午後1時50分頃、Oswaldがテキサス劇場で逮捕された。

(11) 20年以上にわたり、George H.W. Bush は、暗殺の際に自分が何をしていたのか記憶していないと述べていた。しかし突然彼は、自分が午後1時38分にタイラーのロータリークラブで講演をしていたことを思い出したのであった。一方、James Parrot を通報する彼のFBIへの電話は午後1時45分になされていた。

(12) 彼が、LBJが私的に雇っていた暗殺者であった、Malcolm “Mac” Wallace とYale大学で同席していたこと並びに、Clint Murchison, Sr.の自宅での承認のための会合に出席していたことは、JFK暗殺における彼の共謀を示す力強い状況証拠である。

 

あとがき

注目に値することであるが、(DCA フィルム中に)ヒューストンとエルム通りの角から、「ヒューストンのオイルマン」(George H.W. Bush)が数分前に拘束されたDal- Tex ビルに向かって歩いている人物がいる。この人物は彼の息子、17歳のGeorge W. Bushに酷似している。この人物の耳、鼻(これらの三枚の画像の二枚目では鼻を改ざんするがさつな処理がなされている)、鼻梁の形状、下あごの輪郭はGeorge W. Bushのものとかなり一致している。彼が着用しているお坊ちゃん風のローファーと白い靴下はチアリーダーにふさわしいものである。W.Bushもまたそこにいたように見えるのである。

 

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(画像下の字幕:
私の見解はこの人物は彼(George H.W. Bush )であるというものである。
父親が保安官の事務所に連行されたため、彼は途方に暮れていた;彼は父親を探していたのだ...
身長、体重、体格、鼻、耳、年齢、顎、歩き方;
数分前に父親が逮捕されたビルに向かって歩きながら...
白い靴下とお坊ちゃん風ローファー...
これが事実である確率はどれくらいか...かなり高いと私は思う...

 

JFK研究者Richard M.Hooke  2013年3月28日  )


Richard M. Hooke
はキャリフォルニア大学サンタバーバラ校の文化人類学研究者で、Bank of Americaの元システム分析者であり、またJohn F. Kennedy大統領の死に関する著述家、研究者でもある。 

Jim Fetzerは元海兵隊将校のミネソタ大学のマックナイト名誉教授で、Veterans Todayのコラム執筆者、編集者である。

 

 

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コメント

生き残りは
首謀者の、「パパ」ブッシュGeorge H. W. Bushと
暗号名ボーアの多重スパイ【ウラン調達係キッシンジャー】。

このニ名が逝けばアメリカは
[JFK暗殺者George H. W. Bush]を[国家反逆者として世界へ公表しますか?]

本来は『R.FのCIA』、

CIAもCSISも、ホワイトハウスを運営するマークチッチ主導下。
ならば、マーク.リッチが「[JFK暗殺者ブッシュ]の世界公表を
遣ってみせますか?

はて、石油利権やら?原子力利権やら?
【核融合】は【原発最大級】で【大量石油使用】

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