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2013年11月

2013年11月27日 (水)

元連邦準備銀行の分析官が911に先立つM1通貨部門の急増に関して疑問を提起

以下は、http://www.visibility911.org/former-fed-analyst-questions-m1-currency-component-spike-prior-to-911/の日本語訳です。

 

 

元連邦準備銀行の分析官が911に先立つM1通貨部門の急増に関して疑問を提起
2007年7月31日、Michael著

 

元連邦準備銀行の分析官が911に先立つM1通貨部門の急増に関して疑問を提起
Ed Haas著

MUCKRAKER REPORT

 

2007年5月22日– William Bergmanは1990年7月から2004年初頭までシカゴ連邦準備銀行で働いていた。彼は8年間エコノミストとして務めた後、金融市場と決済システムの危機管理方針に関する事項を検証する新しい部署での上級分析官の役職へと異動した。2003年の暮れに、彼はマネーロンダリングの分野での職務を受託するか考えるように求められた。Bergmanはその職務を受託し、業績調査を受け、内密の銀行業務情報にアクセスすることの出来る信任許可を受け取り、その分野で働き始めた。彼は自分は「テロリズムに対する戦いの一部」であると告げられ、「いい質問をしている」と告げられた。

Backofusseal
このマネーロンダリングの分野での職務の一つは、受理された場合には、連邦準備制度の参考情報としての役割を果たすことになる論文をBergmanが作成することであった。

Bergman は自分の新しい職務を、自分自身やマネーロンダリングになじみのない人をマネーロンダリングという話題に通じるようするために、40のQ&Aを作成することから始めた。彼はこのQ&Aが、マネーロンダリングの歴史、この分野での法的進展、金融当局の役割を含む基本原理を扱った、入門教材の役割を果たすことが出来ると考えたのである。

自分の草稿を上司に提出した後、Bergmanは自分の仕事の了承を得、それは参考資料としてみなされうると告げられた。しかしながらBergmanは、彼のQ&Aの中の、一つの疑問には答えがないままにしていた。つまりBergmanは40の疑問に対して39の答えしか提示していなかったのである。その草稿を受け取った上司はBergmanに草稿では答えられていない唯一の疑問に答えて、彼の仕事を続けねばならないと告げた。
何がBergmanが草稿に取り入れた疑問を答えられないものにしていたのであろうか。Bergmanは連邦準備制度理事会が2001年9月11日から数週間後に、12の準備銀行に対して指令書簡を発布し、テロリズムの活動や資金提供の追跡に関する疑わしき活動の報告の精査を促していたことに気が付いていた。しかしながら、Bergmanはまた、理事会が明白にはテロリズムには言及していないものながら、同様な書簡を2001年8月2日に発布していたことにも気が付いた。[1] Bergmanによれば、テロリズムやテロリストへの資金提供は「疑わしき活動」の一部として知られており、2001年8月2日の指令書簡は疑わしき活動の報告の精査をはっきりと求めており、テロリズムの活動や資金提供を追跡することを示唆し、求めたものであったいう。Bergmanの40のQ&Aの中で答えの見つからなかった疑問とは、なぜ理事会は2001年8月2日に書簡を発布したのかという‐極めてまっとうな、論理的で、重要な、そしてまた今日まで答えられていない疑問である。
上司が彼に許可を与え、2001年8月2日の指令書簡に関する答えを見つけるよう指示したという事実を踏まえて、Bergmanは答えを見つける最善の方法は連邦準備制度理事会のメンバーに直接接触することだとの結論に達した。2003年12月に彼は理事会に電話をし、2001年8月2日の書簡の背景にある意味や動機について尋ねた。2週間もしないうちに彼の職務は突然打ち切られ、彼の信任許可は取り消された。
Bergman は説明する:

その頃私は通貨流量のことも調べ、疑問に思っていました。私はこれらの疑問は追及するに値すると考え、私が前述の理事会への電話をした時、問題提起する予定でした。M1通貨部門(銀行以外を流通している連邦準備券)は特に2001年7月、8月に急速に上昇していました。事実、2001年8月までの中で、その月(2001年8月)は、季節ごとに調整された基準では、2001年7月のかなり平均を上回った成長のすぐ後であったのですが、1947年以降のM1通貨部門の最速成長月の三つのうちの一つでした。7月‐8月の急上昇(平均を50億ドル超えていた)は100ドル札単位だったと思われるのです。他にも解釈はありますが、差し迫ったテロリストの攻撃を知り、1979年のイラン人質危機や1998年の大使館爆発の後に発生したような資産没収の可能性について懸念していた人間が、2001年7月と8月に自分達の銀行口座を清算していた可能性があるのです。このマネーを追跡すると、攻撃に責任があったとまでは言いませんが、攻撃を知っていた人間についての重要な鍵を提供することが可能でしょう。この件に関する内部データを調べてみました。このデータは連邦準備制度の内部コンピューターネットワーク内の誰でも参照可能であったのです;1週間か2週間後に再びこうした重要なデータを調べてみると、自由に参照可能ではなくなっており、パスワードで保護されていました。

彼のマネーロンダリングに関する仕事が、理事会のメンバーへの接触による所定手順の言語道断な侵害と当時説明された理由のため打ち切られてからおよそ1ヶ月後に、Bergmanの部署は他の部署に吸収され、彼の14年間の連邦準備制度での職は終わった。彼は、連邦準備制度における彼の役職からの排除は彼個人とは直接関係はなく‐組織上の事情であったと告げられた。彼は退職手当の申し出を受け、それを受け入れ、2004年3月にシカゴ連邦準備銀行を去った。

911に先がけて異常に多く発生したアメリカン航空やユナイテッド航空のような航空会社のプットオプションや、Axa、 Allianzのような世界貿易センター複合ビルの保険会社のプットオプション、あるいは他の利害のあった保険会社のプットオプション(こうした会社の株式価値が911の後に急落した結果、これらのプットオプションで内通者は数十億ドルを手にした可能性が高い)について調べようとも調べなくても、もしくは100ドル紙幣で50億ドルを示していたと見られる2001年7月/8月のM1通貨部門の異常な急上昇について調べようとも調べなくても‐読者に残されているのは、911の予備知識が合衆国内に広く存在しており、その事件は防ぐことが可能であったにも関わらず、その事件は可能とされ、利用されたことを示すさらなる証拠である。

 

そして2001年8月2日の指令書簡とは何であったのだろうか?何がその書簡を書かせた背景にあったのであろうか?悲しいことに、アメリカ人はここでも再び途方に暮れ、自分自身でそれを究明するしかないのである‐なぜなら感情や偏見から離れて法の支配を支持するべく委ねられている人が誰一人、誰が何を、いつ知っていたのかを調べる‐徹底的な断固とした犯罪調査を開始しようとはしないからである。

 

911の予備知識がありながらそれが起きることを防ぐ行動と/あるいは取り組みをしなかったことは、控えめに述べても‐犯罪的に怠慢な殺人行為‐重罪である。アメリカ政府内部や海外情報筋の、また銀行カルテル内部の多くの人間に対して、また広範囲にわたる未起訴の共謀者に対して、正義が待たれており、必ず成し遂げられねばならない。

 

[1] 連邦準備制度理事会, SR 01-18
(SUP), 疑わしき活動に関する報告データベース, August 2, 2001,

http://www.federalreserve.gov/boarddocs/srletters/2001/sr0118.htm,
[Accessed March 21, 2007]

オリジナル記事は
こちら

2013年11月25日 (月)

付随的被害 5/5

以下は、http://www.wanttoknow.info/911/Collateral-Damage-911-black_eagle_fund_trust.pdf#search='colateral+damage+911+ep+heidner'の日本語訳です。(p39からp41)脚注は割愛しています。

 

 

付随的被害 第五部

 

Mohammed Attaの西側情報機関との協力関係

 

最後に、攻撃のリーダーと資金提供者の協力関係を調べると、アメリカの秘密作戦とアメリカの情報組織の同盟者へと続く多くのつながりを目にすることになる。

 

· 攻撃をお膳立てした責任があったと報じられたMohammed Attaは、部下と自分自身をHuffman Aviation -Flight Training schoolにて訓練した。この学校はOryx Corporation並びにWally Hilliardから資金提供を受けていた。214 Oryx はAdnan Khashoggiとサウジアラビアの情報機関の長官 (1963-79)であったSheik Kamal Adhamによって設立されていた。KhashoggiはテロリストとYeltsin一族との間の会合を仲介した人物であった。215 Khashoggiはまた以下のBushの作戦行動に大規模に関与していた:October Surprise、 Iran-Contra、Azerbaijan、 Barrick Gold、 Marcos Gold。

 

· Mohammed Attaはアメリカにいた間、明らかにCIAエージェントであったWolfgang Bohringerの親しい友人であり続けていた。216

 

· テロリストの隠れ蓑として機能した訓練施設の名目上のオーナーであったHilliardは、Californiaの小さな防衛/電子工学会社(Spatialight, Inc.))に対して、Iran-Contra/Azerbaijanに関与したもう一つの集団Farhad Azimaと共に、大規模に投資していた。Azimaの役割はIran-Contraや Azerbaijanといったアメリカの秘密情報工作活動のために航空輸送を手配することであった。

 

· Hilliardは、KGBの大佐を父親に持つCIAのエージェント、Mark Schubinの親しい友人であったと報じられている。217

 

· HilliardはまたFloridaのJeb Bushの政治機構と強く結び付いており、彼の商業輸送業務はそうした集団によって支援を受けていた。218

 

· Mohammad Attaは、判明した通り、アメリカの情報機関と提携を結んでいた3つの海外の情報機関から資金提供を受けていた:その3つの機関とは、パキスタン、シリア、ドイツの機関である。彼の父は、彼が実際には4つ目の機関‐モサドのために働いていたと主張した!

 

- ISI(パキスタンの情報機関)の長官はLt-Gen Mahmud Ahmadであったが、General Ahmadは911が起きた週に、Bob Graham、Porter Goss 、Richard Armitageらと会合を持っていた。219 Gen Mahmud AhmadはMohammed Attaに100,000ドルを送金する責任者であった。220

 

- ドイツにいる間Attaは、シリアのGeneral Intelligence Directorateの元局長であったMohamad Majed Saidが所有するTatex Tradingの従業員として働いていた。221

 

- ドイツに来ると、Attaは奨学金を支給され、Carl Duisberg Gesellschaftとして知られる機関から家庭教師として雇用された。222 その後のインターネット上の調査報告によれば、Carl Duisberg Societyを米国情報庁による運営機構であると関連付けていたが、このことはいかなる政府文書によっても確認されなかった。この奨学金はUS AIDと合同で支給されたとするインターネット上の調査報告が存在する。Carl Duisberg Gesellschaftに関するさらに興味深い側面は、そこのManaging DirectorはBernd Schleichといい、InWEnt (Internationale Weiterbildung und Entwicklung)のManaging DirectorであったBernd Schleichと同一人物であることである。InWEntの活動や研究を調べると、南アフリカ、中央アジア、アフリカといった地域でのマネーロンダリング、兵器取引、麻薬密輸、炭疽菌の管理というような事象を研究する民間での情報収集活動を行っていたと考えられる。223 Carl Duisberg Gesellschaftには、元George H.W. Bushの政権運営者であったEd Rogers とLanny Griffithがアメリカでは代表しているロシアの銀行、Alpha Groupによって資金提供された奨学金制度がある。224

 

- Mohammed Attaの父は息子はモサドのために働いていたと主張した。225 この考えを裏付けるように、Attaは「Virtual Prototypes」という名前の会社への電話通話記録を残していたと報じられた。226 Virtual Prototypes Inc. は後にその名称を eNGENUITY Technologiesへと変更することになる。イスラエルは3年後にeNGENUITYから大規模の購入をすることになるのだから、eNGENUITYでなされていた類の研究はAl Qaedaのような集団に役立つよりもイスラエル政府にとってより興味深いものであったように思われる。227

 

· Mohammed Attaは、アメリカの防衛機関と民間警備会社の主要なリクルート組織であるAllied Media Groupにモロッコアメリカ商工会議所を通じて関係していた、Hassan Erroudaniの合法的なビジネスパートナーであったことが明らかになる。228

 

彼らの顧客には以下が含まれる:

 

p.40
- USAF
- US Army
- FBI
- US Treasury
- Department of Justice
- Department of State
- CACI
- Young & Rubicam
- Burson Marsteller

 

Atta と彼のスポンサー達は jihadists(聖戦を戦う者)ではなかった。「テロリストパイロット」として彼はアメリカでの最後の年を2人のCIAパイロット(Schubin とBhoringer)と交際して過ごした。彼はCIA工作への出資者として知られる人物(Khashoggi)に資金提供を受けた施設で自分のチームを訓練した。彼はCIAのリクルーター(Erroudani)のビジネスパートナーであった。彼は最大4つの親CIA‐情報機関によって資金提供を受けていた。229

 

結論

 

歴史には多くの解釈がある。このレポートは多くの解釈の一つ‐インサイダーの勇気ある告白や暴露からつなぎ合わされた解釈である。彼らの話は主流メディア機構によって無視され、隠されてきた。これは、西側資本主義を守るために確固たる意思を持った少数の人物達が世界を変えようともくろんだことを示す歴史の解釈である。彼らはそのやり方は一般大衆には隠しておく必要があると感じていた。自分達の行動を一般大衆には隠す原因となった感情や論理がどのようなものであったにせよ、彼らにそうした振る舞いを妨げるほど健全なものではなかった。こうした犯罪は世界を変えながら、アメリカの一般市民には何を最善策と自分達が考えるかについて発言させずに、アメリカの一般市民の利益のために実行された。これらの犯罪を隠蔽するために、数千人の無辜の民が殺戮されねばならなかった。世界中の数百万の人々がこの作戦によって資金提供された戦争の恐怖にさらされ続けている。これらの出来事に責任のあったこの「少数の善良な人間達」は、誰に責任があるのか誰も知ることがないように手はずを整えている。なぜなら彼らも心の中では、自分達が行っていることはアメリカの一般市民に受け入れられないことを知っているからである。Bush と Reaganが述べたと言われる以下の発言はこの点を示す証言である:

 

Sarah McClendon:「人々がIraq-gate や Iran contraについて知ってしまった場合、彼らはどうするでしょう。」
George H.W. Bush:「Sarah、もしアメリカ人が我々が行ったことを知ってしまった場合、彼らは我々を追跡し、我々を私刑(絞首刑)にするだろう。」230

 

「もしこのような話が表に出た場合、我々は全員ホワイトハウスの前でつるし首になるだろう…」231

 

彼らの犯罪をアメリカ式の生活水準を守るための戦争の付随的被害として正当化し、彼らはアメリカの一般市民に仕えるために自分達の命を危険にさらしているのだから、彼らには戦争の戦利品を摘み取る「資格」があると合理的に考える方が公正かも知れない。数百万人の生活を豊かにし、彼らの自由を保証するために、もし数千人が死なねばならなかったのであれば、それは容認可能な犠牲ではなかったかということである。

 

これらのエージェント達は、暴力という手段を用いて自分達自身を豊かにすることに躍起になっており、数千人を殺戮し、数万人の生活を破壊し、海外の地に永遠の悲惨、痛み、死をもたらした反社会的人間と精神病質者の犯罪結社に過ぎないことを示す方が、また公正かも知れない。戦時における兄弟愛が常にそうであるように、彼らは「いかなる犠牲を払っても結果を出す」というモットーの元に生きており、彼らはアメリカの一般市民に彼らの犯罪を容認させる欺瞞のネットワークを作り出しているということである。

 

彼らと自分達の両種の人間が存在することを受け入れ、アメリカの一般市民を守り、保護するために彼らを利用する政治家を「リアリスト」として見なし、市民の利益のために「困難な決断」を迫られる戦時の将軍のように考える方が公正かも知れない。

 

自分達自身の個人的利得のためにこうしたエージェント達を利用する政治家を、「日和見主義者」と見なす方が、また公正かも知れない。こうした政治家の大多数は、彼らが欺瞞を通じて、他人に不本意な形で強いた戦争による死と悲惨を最大限利用することで自分達の富を築いたということである。彼らは、実際にはアメリカの一般市民のものである秘密債券についてのインサイダー取引の知識と、そうした資金源への無制限のアクセスを持っている。

 

p.41
個人的解釈はどうであれ、アメリカの一般市民の価値観との調和を示す形で真実を解明するプロセスは、検察側と弁護側が法に従い、事実の公正で公平な聞き取りを行う、陪審裁判である。このレポートは伝聞証拠に基付いたものであるため、結果として、何も実証するものではない。願わくばこのレポートが、この後の公文書記録調査によって実証されることになる仮説を明確にしていることを願うものである。

 

アメリカ人には1980年代に法律を施行し、Iran-Contraの犯罪に責任のあった人間を訴追し、このシステムを正しく戻すチャンスがあった。アメリカ人はこのアメリカの指導者による犯罪行為は受忍不可能であるというメッセージを知らせることが出来なかった。その時点でこの組織を停止させなかったことで、議会とアメリカの一般市民はアメリカの「英雄達」のこうした犯罪シンジケートが、アメリカの一般市民の名の下でさらに大規模な破壊を世界にもたらし続けることを許してしまった。こうした憲法に対する、自由に対する、民主主義に対する、ジュネーブ協定に対する、国内法及び国際法の支配に対する攻撃は50年以上にわたって衰えずに続いている。911委員会と呼ばれる広範囲に信頼を失っている調査の再開を拒むことで、こうしたシンジケートを太らせる説明責任のない秘密資金提供に対処することを拒むことで、議会は過去並びに未来の犯罪の共謀者となっているようである。以下のように述べたRonald Reaganは正しかった:「…アメリカは決してテロリストに譲歩しない;そうすることはさらなるテロリズムを招くだけなのだ。」一度その方針を採ると、終局は見えず、無辜の民の苦しみが果てしなく続き、文明国全てが支払うべき血まみれの代価の限度がなくなるのである。232

 

死を前にして、Erle Cockeは工作活動全体があまりにも大きくなり過ぎたため、どのように終結させるかを誰も決めることが出来なくなり、その終結を望んだ者もすぐに断念したのだと自分は考えると証言した。この秘密を保持するために殺戮された数千人の人々のことを考慮すると、またこの集団の関与を示すことの出来た参考人がどのように扱われたのかを考慮すると、おそらく断念した者はそうするように仕向けられたのであろう。2つの疑問が残る:1)アメリカの一般市民はこの秘密戦争を終結させたいと望むのであろうか。そして2)これを終結させる方法はあるのだろうか、というものである。

 

2人のアメリカの大統領‐Kennedyと Carter‐はこうした組織を管理下に置こうと試みたが、両人ともマシーンによって打ち負かされた。願わくば、彼らの失敗からの教訓により第三の試みの際に成功がもたらされることを願うものである。

 

From the Hagakure:

 

To tell others that
It is a rumor
Will not do.
When your own heart asks,
How will you respond?

 

EP Heidner
28 June, 2008

 

著者の注記:これはこの話の集約版である。可能な限り多くの参考資料によって話の筋の整合性を確認しようと取り組んだものではあるが、著者には原資料の正確さを保証することは出来ない。この話が依拠している単独の事実や参考資料というものは存在しない。著者は記述の細かな点が反論されることを期待するが、それでも話の筋は事実であると主張するものである。

付随的被害 4/5

以下は、http://www.wanttoknow.info/911/Collateral-Damage-911-black_eagle_fund_trust.pdf#search='colateral+damage+911+ep+heidner'の日本語訳です。(p28からp39)

 

付随的被害 第四部

 

 

911でのBlack Eagle Trustと Project Hammerに対する隠蔽工作

 

債券は市場に出され、まるで時限爆弾のように、おとなしく10年間待った。ある時点で、2001年9月11日にそれらは清算、つまり換金される必要があった。それらを扱っていた可能性が最も高いアメリカの企業はCantor Fitzgerald とEurobrokersである。‐彼らは全米最大の2つの証券会社である。こうした取引についての捜査に主に従事していた連邦政府機関が米海軍情報部であった。

 

あの日、こうした3つの組織:アメリカの政府発行有価証券を扱う2つの最大ブローカーと米海軍情報部がほとんど直接的な攻撃を受けた。実際に、ジェット旅客機が標的とされたオフィスの真下を直撃し、炎が上の階を飲み込むことになった。こうした標的選びの戦術がノースタワーの23階に対しても用いられたが、そこには発生したと言われる不法な金取引に関する情報を保持していたFBIの証拠保管所があった。

 

この攻撃には相互に関係したアジェンダがあった。 1989年に開始された秘密理の冷戦作戦が金融不正に対する一連の海外、またアメリカでの申し立てを引き起こし、その結果少なくとも9つの連邦政府による捜査がこれらの取引に関連した銀行口座に対して実施されていた。こうした捜査は全て、1997年から1998年の期間に開始された。これはOsama Bin Laden が‐20年間にわたりアメリカの秘密戦争のためのイスラム戦士の採用活動を行った後に‐アメリカに対して fatwa(死刑宣言)を宣告したのと同じ年であった。(ここでの理解の鍵は、連邦政府機関による捜査は、公式の捜査が一般に宣言される前に、「静かな」捜査の期間として既に行われているということである。)

 

1)Marcosの金に関する公聴会は1997年8月にLos Angelesで開始された。この公聴会で関与が示された銀行は以下のスイスの銀行であった:UBS、 Bank Julius Baer。

 

2)  Eizenstatz ReportとSimon Wiesenthal Centerによって仕掛けられた一般向けの3つのスイスの銀行に対する訴訟へのキャンペーンが開始された。

 

3) Reginald Howeによる訴訟‐ここではアメリカのブリオンバンクがアメリカ財務省の金をマーケットへ不法に投売りした容疑で訴えられた。Reginald Howe & GATAによる訴訟は2000年1月8日に提訴され、被告としてDeutschebank(別名 Deutschebank Alex Brown)、アメリカ財務省、Alan Greenspan、 Federal Reserve、Citibank、Chaseの名前が挙げられた。またこの企ての非公開の知識を持っていたとして名前が挙げられたのは、Gerald Corriganと Barrick Goldであった。(2000年の提訴は捜査がそのかなり前に始まっていたことを示唆する。)

 

4)The Bank of New Yorkのマネーロンダリングスキャンダル:司法省は、こうした取引から利益を得た以下の人物の口座を捜査するよう圧力を受けていた:Loutchansky、Marc Rich、Berezovsky (Berezovskii。) FBIの捜査は1998年の秋に開始された。投資家による訴訟は1999年9月に始まった。これらの捜査は、Credit Suisse、Union Bank of Switzerland (UBS)、Dresdner Bank、Westdeutsche Landesbank and Banque Internacionale of Luxembourgの口座を対象としていた。これらの銀行の口座は全て、Bank of New Yorkのマネーロンダリングスキャンダルにおいて役割を果たしていたとしてある時点で言及されることになる。Bank of New Yorkは、Bank of New Yorkのマネーロンダリングが、George Bush大統領と非常に関係の深い連邦検察官、Mary Jo Whiteによって3年間にわたって葬られた後に、最終的に2002年に再開することになる。

 

5) Avismaによる訴訟は1999年8月19日に提訴され、被告としてBank Menatep、 Harvard Institute for International Development、the Bank of New Yorkの名前が挙げられた;

 

6) Konanykhineの所有する European Union Bankに対する連邦政府の捜査:Konanykhineに対する捜査は1999年2月にINS(米国移民帰化局)によって開始された。この捜査に含まれていた他の銀行は、European Union Bank、Bank Menatepであった。

 

7) Richard Giffen/Mobil Oilのスキャンダル‐FBIの捜査は1999年に始まり、Credit Suisse、 Bank of New York、 Cayman Islands、the Deutsche Bank (別名 Deutschebank Alex Brown)を対象とすることになった。

 

p.29
8)YeltsinのUSBの口座は賄賂の疑いで捜査されていた。

 

9)Kevin Ingramは自身がBob Grahamに前もって世界貿易センターが攻撃されることになっていると伝えたと証言した。このDeutsche Bankの重役はパキスタンのエージェントを通じたイスラム教テロリスト向けの兵器購入のためのマネーロンダリングで有罪判決を受けた;Ingramへの捜査は1999年7月という早い段階で開始されており、Deutschebank (別名 Deutschebank Alex Brown)を対象としていた。

 

こうした捜査記録の一部が第6ビル、第7ビル、ノースタワーの23階のFBIオフィスにはあった。アメリカの情報機関によって整えられたこうした会計構造は、9つの異なる方向からの捜査を受けていた。これらはいずれも、この資金の提供源を明るみに出し、Black Eagle Fundという起源にたどり着いてしまう可能性があった。このような捜査は回避される必要があった。

世界貿易センタービルに何が起きたのか見極めることは困難ではあるが、不可能ではない。政府は、911委員会を調べることで集積される証言を封印し、政府職員にこの件に関して話さないよう、さもなければ厳しい刑罰を受けることになると指示しているが、あの日それらのビルに何が起きたのかについては数多くの個人的証言がインターネット上には投稿されている。こうした証言を注意深く再構築すると、ビルを攻撃の標的として狙うことによるだけでなく、炎や爆発を意図することで証拠を計画的に破壊したことが示される。ハイジャックが失敗したり、ビルが破壊されない場合には、証拠は炎によって破壊されることになっていた。捜査証拠が破壊されたことに加えて、連邦政府官報はブローカーが地下金庫に保持していた物理的な証券そのものが破壊されたと伝えた。

 

さらに意味深いことは、連邦準備銀行と証券取引委員会のその日と直後の余波の中での行動である。9月11日に同時発生したことの一つであるが、連邦準備銀行は中心街の本部からではなく、遠隔のバックアップサイトから情報システムを稼動していたのであった。証券取引委員会と連邦準備制度は911の攻撃によってもビクともしなかった。それらのシステムは全て稼動を続けたのであった。前述の主要な2つの証券取引会社は取引データを遠隔システム上にバックアップしていた。にもかかわらず、証券取引委員会は初めて証券取引法12項(k)の下での緊急事態権限を行使し、一時的に特定の規定制約を緩める命令を発布した。

 

規則を一時保留する連邦準備銀行

 

危機の最初の日に、証券取引委員会は“規則第15条c3-3項 - 顧客保護積立金と証券保管”を解除した。これは以下のプロセスとして取引規則を定めている:

 

[売り手]が他の証券とこの協定の制約を受ける証券を置換することは許されないこととする。そのため、この協定において[買い手]が[売り手]に他の証券を置換する権利を認めない限り、[売り手]は[買い手]の証券を常に分別して保管しておかねばならない。

 

所要の預け入れが不履行である場合の通知。

 

証券の物理的所有または管理。

 

所要の情報公開。
証券の管理/証券を所有または管理する上での要件。

 

簡単に言えば、GSCC(政府証券決済公社)は攻撃の際に破壊された物理的な証券そのものを他の証券で代用することが許されることになったのである。

 

「…担保の代用は直ちに満期を迎える担保に関して実施可能であり、また実施すべきである。」191

 

こうした決定の後に、GSCCはブラインドブローカーによる解決を拡張する別の覚書を発布した。「ブラインドブローカー」とは取引の両サイドの関係者の匿名性を維持するディーラー間での取引のための仕組みである。このブローカーが取引者本人の代理人としての役割を果たす。

 

「ブラインドブローカーによって締結されたレポ取引だけが、精算と調停の取り組みを直接的に促進する際になされるべきものであらねばならない。新たなブラインドブローカーによる取引は実施されるべきではない。」192

 

この時点において、連邦準備銀行とその傘下のGSCCは管理と報告を免れた清算状況を生み出したのであった‐この状況においては満期の来た、不法な債券を有効な、新しい政府証券で代用することが可能となり、不法な債券がどこから来たのか、どこに新しい債券が行ったのかを記録する必要がなくなったのである‐これは全て、アメリカ政府証券を扱う主要なブローカーの書類が消し去られたからである。

 

p.30
しかしながらこうした行動のみでは、問題を解決するには不十分であった。なぜなら連邦準備制度には新しい10年物の中期債の充分な「引き受け手」がいなかったからである。単に売り注文と買い注文を一致させるのではなく、これは「未決済」問題を解決するには不可欠であったが、Fedは売り買いを一致させ、均衡を保つ以上のことを行っていたようである‐Fedは特別オークションで新しい中期債券をマーケットに出していたのだった。受益者の一部は売却を望んでいたようである!

 

直近発行の10年中期債券に関する深刻な決済の問題により、 アメリカ財務省は10月4日に新たな10年債券の発行を再開し、新たな10年債券の例外的な「スナップ」 オークションを開催することになった。」193

 

準備制度が2,400億ドルの秘密債券の清算を隠蔽しなければならなかったとしても、彼らは通貨危機の時期にあって資本量をそれほどの規模で収縮させることは出来なかったのである。彼らは過剰流動資金をマーケットに出し、段階的にソフトランディングさせねばならなかった。これが実際に起きたことであったと考えられる。約2ヶ月の間に、マネーサプライは911以前に水準に戻った。どのようにして連邦準備制度がこの偉業を果たしたのかは、次のセクションで説明される。

 

連邦準備制度とスリーカード・モンテ

 

現代アメリカの路上で最もよくある詐欺の一つはスリーカード・モンテ(訳者注:イカサマで金を巻き上げる賭博)の仕掛けである。 この詐欺の細部は多数あるが、本質的にはカモをだますディーラーの手口が三枚のカードの急速な回転(目くらまし)によって隠されているということである。911の余波の中での証券決済の不履行という急速な回転(目くらまし)が、Bank of New YorkとFederal Reserve が証券の借り換えに携わることを許し、元々は一大ルーブル詐欺に用いられた2,400億ドルに対してアメリカ人納税者に資金補充させる結果となったと考えられる。

 

911の後の連邦準備制度の行動についての説明を再検討すると、分析と推理から驚くほど複雑なクモの巣が明らかになる。連邦準備制度が発表した報告書は、マネーサプライを3,000億ドルを超えるほど増大した連邦準備制度の行動は金融部門の業務上の問題を克服するために正当化されると主張している。この報告書は印象的ではあるが、何気なく読む者が気付くのは、連邦準備制度の分析は全て、「だったであろう」、「らしい」、「おそらく」、「であったはずである」との表現を用いたもので、推測的で暗示的であることである。連邦準備制度の対応の根本的理由とその妥当性についての明確な表現は‐たとえあったとしても‐わずかしかない。

 

この業界の全般的な見方は以下のようなコメントとして表現されている:

 

「攻撃の破壊力それ自体によりアメリカの銀行システムに、特に銀行の支払い送信能力に、厳しい混乱が生じた。攻撃による物理的混乱には、マンハッタン南端部の金融地区の電話交換装置の機能停止、個々の銀行の記録処理プロセスや通信システムの機能停止、大手銀行の支払い業務のための場所であったビルからの避難、航空便による小切手の受渡しの中断、が含まれていた。」194

 

「9月11日の後の、公開市場操作は深刻に混乱した政府証券ディーラー集団の金融上の必要を満たす狙いがあり、目標レートでの需要を満たすために柔軟に差引残高を提供する業務を割引窓口に任せた。9月11日後の巨額の資金追加はそのため、翌日物のフェデラルファンドレートを目標として設定された操作手順の副産物であった。」[3]”195

 

「未決済が当初、取引記録と通信施設の破壊のせいで、増大した。未決済を避ける、あるいは未決済を改善するために通常採られる手法‐SCレポを通じた証券の借り換え‐が証券の受渡しの不履行と同程度に高くつくことが分かったため、それらは高いままであった。」196

 

このような表現を読むと、システムに大規模な、広範囲の混乱があったことが示唆されていることが分かる。これらが、「政策立案者が以前の債務管理慣行から大きく逸脱しなければならなかった」事情であった。197

 

連邦準備制度の分析を示す報告書が提示した事実は事実であるとはいえ、示されるように彼らは攻撃の余波の中で何が本当に起きたのか歪曲する傾向がある。実際、分析は800以上の銀行での混乱を報告しているものの、報告書を詳細に見ると、ごく「わずか」のみが深刻に混乱していたことが示されている。

p.31
銀行の混乱の規模は、一つの例外を除いて定量化されていなかった。前述の表現も、混乱は基本的に一つの銀行に集中していたことを示すデータを取り上げていない‐その銀行とはBank of New Yorkであった。(このBank of New Yorkは、犯罪的新興財閥によるロシアからの経済的略奪と関係するマネーロンダリング容疑で捜査されていた銀行であり、彼らは911の余波の中でロンダリングされていたと考えられる秘密債券によって資金提供を受けていたと思われる。)これが、Fed が一日当たり1,000億ドルを超える未払い勘定残高を報告する一方で(関係していた銀行名は特定していないが)、Wall Street Journalが以下のように報じた理由である:

 

「911後の一週間のある時点で、BoNYは1,000億ドルの支払いの遅滞を公に伝えた。」198

 

世界貿易センター内にあり、完全に破壊されたDeutschebankは、そのような勘定残高の増大を伝えておらず、またBank of New Yorkと同じ取引通信ハブを利用していた、二つだけのclearing banksのうちの一つであった、JP Morganもそのような勘定残高の増大を伝えていなかった。誰も公に以下のように尋ねるものはいなかった:建物への被害のなかった‐Bank of New Yorkが業務の遂行が出来なかったと思われるのに、なぜこれらの2つの銀行は深刻に混乱していなかったのかと。BoNYで何が起きたのか理解することは、債券決済に関する問題点を理解する上で重要な意味を持っている。

 

「GSCCと複数のディーラーは、BoNYにあった彼らの管理口座に何が入ってきて、何が出て行ったのか、確認出来なかった。彼らはBoNY に彼らが受け取ることを想定していた証券について知らせることが出来なかった。彼らはBoNYに証券の受渡しの指示を与えることが出来なかった。加えて、GSCCはBoNYにあった自分達の口座への、また自分達の口座からの資金の動きを確認することも出来なかった。(GSCC Important Notice GSCC068.01)」199

 

無数の偶然の中で、Bank of New York(中心街の所在地に8,000人を超える従業員がいた)はその日3人の従業員を失った。これらの3人の従業員の一人は、どのように攻撃がBoNYに影響を与えたのか説明する上で最適な立場にいた。彼の名前はMichael Diaz-Piedra IIIといい、陸軍士官学校の卒業生でキューバからの亡命者の息子であった。Michael はBank of New Yorkの災害復旧計画部の次長であった。911の余波の中で、彼はBank of Americaの従業員として、つまりBoNYとは別の職についていた人物として報じられた。

 

31

 

p.32
32

最後に、Bank of New Yorkの業務と911において経験した混乱のレベルに関して、ある重要な要素に光を当てる必要がある。金融システムの混乱はManhattan商業地区の通信ハブの喪失に原因があったとされた。電話ネットワーク運営センター(NOC)つまりハブが、WTCがその上に崩壊した時に、破壊されたという。しかしながら、Fedとの通信が不可能であったと報じられたBoNYの資金振替業務は、New York州のUticaで行われており、通信能力は全く損なわれてはいなかった。さらに、4つのBoNYのバックアップデータセンターは全てマンハッタンから46マイル以内に位置しており、配信設備を通じてテープ上のデータを規定通りFedへ配信可能であり、実際に配信していた。

 

事実として見えるように仕向けられた連邦準備制度の分析による真実と推測の混合した報告の中の、911の金融上の影響に関する報告を再検討すると以下のことが示される:

 

· アメリカの金融システムの混乱は連邦準備制度の報告書が一般市民に信じ込ませようとした程には広範囲に及ぶものではなかったが、一般市民は国家的金融的緊急事態を宣言し、連邦準備制度法の主要な規定を一時的に停止し、「10年債券の特別レート」をほとんどゼロに下げるための広範囲の必要性を理解するべく仕向けられていた。

 

· 連邦準備制度の主要な未判明の人物達がBank of New Yorkの主要な未判明の人物達と「共謀」し、ソビエト連邦を打倒する公式の秘密作戦の一部として1991年に作られた2,400億ドルの簿外の証券を、公にはその存在を認められることなく、清算することの出来る状況を生み出した可能性がある。

 

· 当初Cantor Fitzgeraldによって運用されていたこれらの証券は、911の余波の中でBoNYを通じて決済され、清算された。BoNYが経験したとしてWall Street Journal が報じた1,000億ドルの勘定残高のバブルは、これらの証券が簿外からバランスシートに移動された3日間の作戦行動の一部であった。(こうした簿外の処理プロセスは、アメリカ大統領の銀行取引アドバイザーであり、宣誓証書のもとで、これらの不法な証券の源である疑いのある –Project Hammer fundsを運用していたことを認めているEarl Cockeによって説明されている。)

 

· 「10年債券の特別レート」をほとんどゼロに引き下げることで、Fedは構造的に借り換え(レポ)決済の不履行の件数を増加させた。こうした人工的に生み出された統計上の未決済の上昇を隠れ蓑にして、2,400億ドルのロンダリングに起因する高水準の未決済は気付かれずに処理されることが可能となった。

 

· このバブルに対する言い訳はBoNY年次報告書と四半期報告書の脚注に見られる。それはBoNYが2001年の6月から10月の間にU.S. Trustから3300億ドルの商業証券のビジネス取引を、2000年のU.S. Trustの管理下にあった資産は2つの情報源によれば800億ドルか860億ドルであったと伝えられているにもかかわらず、引き継いだと報告している。200

 

連邦準備制度の911の余波への対応

 

2つの主要な混乱が金融マーケットでは報告されていた:

 

少数の銀行の余剰勘定残高が、報じられるところによれば、連邦準備制度を安定化させるためにクレジットの大規模な流入を必要としていた幅広い銀行の勘定残高の増加の原因であったという。こうした増加は9月12日に現れ始め、18日まで続いた。それらは3,000億ドルをアメリカのマネタリーサプライに加える結果となり、これがサブプライムマーケットの発端となった。

 

2)報告された証券決済における過剰な数の未決済により、決済の規制を解除することが必要となった。これらの未決済の2つの理由は以下のように報じられた:

 

p.33
· コミュニケーションとデータが失われたことにより取り引きデータが行方不明となったこと。

 

· 10年中期債券の特別レートがほとんどゼロに下がったために、借り換え(レポ)決済が未決済を回避する金融上のインセンティブを失ったこと。

 

未決済の第一波の原因はBoNYの状況にあったとされている。

 

「9月11日のBoNYの口座への受渡しと、そこからの受渡しに関する完全な情報が欠如している中で、ブラインドブローカーによるレポの開始段階における決済不履行を引き受ける形で、GSCCは(9月11日の取引終了後)決済不履行となったとみられる取引は2,660億ドルになると記録した…継続していた接続に関する問題により、GSCCは9月11日の取引終了の後、BoNYに受渡しの指示を与えることが妨げられ、また9月12日のBoNYの口座での動きに関する情報を入手することも妨げられた。その結果、CGCCは9月12日の取引終了の時点で4,400億ドルの決済不履行を記録した。」201

 

マネーサプライを増大させた余剰差引き残高

 

Fedの911の余波に対する対応を検討すると、最も重要なことは連邦準備制度における勘定残高の集中であった。

 

「連邦準備制度における勘定残高の集中が‐テロリストの攻撃の後数日間は通常の14倍以上にレベルに上昇しており‐最も異常な出来事であったことは明白である…銀行システムの差引き残高の大部分が一つの銀行の口座に集中した場合、他の銀行は、全て等しく、支払いコストが高くなるか、あるいは、借り入れに対する流動性制約に直面することになる。 こうして彼らのさらなる支払いの実施の妨げとなった可能性がある。」202

 

些細な記述に見えるも知れないが、以下の修飾表現に注意していただきたい:「全て等しく」。代替となる説明は、簿外の負債をバランスシートに移動し、相殺する債権は世界貿易センターの瓦礫の中にあると主張するものと考えられる。

 

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[Liquidity Effects of the Events of September 11, 2001, James J. McAndrews and Simon M. Potter,Federal Reserve Bank of New York Economic Policy Review, November 2002, p.64.]から抜粋した表

 

重要な考慮すべき事項は911以前のこうした差引残高の毎日の平均である:「商業銀行にとっては、こうした差引残高は義務付けられた支払い準備金残高と超過準備金残高つまり業務に関連した残高で構成されている。3 こうした差し引き残高と業務に関連した残高34 の2001年8月の平均は一日当たり146億5千万ドルであった。203 

 

p.34
こうして攻撃に起因する実際の急騰は、その週の残りの間の勘定残高での3,520億ドルという純影響を示すことになる。

 

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事実と考えられることは、余波の中で3日連続で報告されていた連邦準備制度の不均衡は大部分がBank of New Yorkに集中していたということである。Bank of New Yorkは不均衡の90%以上を示していたと伝えられており、この銀行が大規模な資金振替の受け手であり、 振替の送信を実施出来なかったことが示されている。

 

「911の攻撃の後の一週間のある時点で、BoNYは1,000億ドル以上の支払いが遅滞していると公表した。204

 

これは大きなコミュニケーションとシステムの機能不全に起因していたと想定されている。

 

「重要な国債の処理過程には、例えば、第二コンピューターがメインコンピューターに伝達する全てのデータを受信し、処理するシステムがあり、即座にデータを取り出せるようにしていた…しかし、この高価なバックアップシステムが国債取引を円滑に稼動させることが出来なかったことが判明した。これは主に、顧客からの取引に関する情報を受信し、彼らに取引状況を伝える通信回線の維持に関する問題がその理由である。「多くの場面において、私達のバックアップサイトは私達の顧客のバックアップサイトと取引していました。」Mr. Renyi は述べた。銀行が前もってこうした様々なバックアップセンターとの接続を確立していたとしても、それらはしばしば容量が足りないことがあり、概して完全にテストされたものでも、不具合を修正されたものでもなかった。攻撃の一週間後であっても、Bank of New Yorkは、国債マーケットの中心部分である、Government Securities Clearing Corporation(政府証券決済公社)への接続のような重要な通信回線の一部に問題があった。その週の数日間、Bank of New Yorkは取引に関するコンピューターテープをG.S.C.C.のオフィスまで車で輸送しなければならなかった。」205

 

「私達の資金振替ビジネス部門はNew York州のUticaにありますので、9月11日にも、マンハッタン南端部の通信回線がその日の遅くに機能停止するまでは、私達は処理を続けることが可能でした。その後、私達には証券や現金の取引を通常のやり方で処理することが出来なくなったため、過剰な流動資金が急速に蓄積されました。しかしながら、私達が金曜日までに通常の取引処理に戻り、週末にかけて未処理分を処理すると、バランスシート上の増大は急激に解消しました。」206

 

実際のところ、BoNYのシステムは全く機能不全にも、不稼動にも陥っていなかったのである。

 

「銀行の重役は、マンハッタン南端部のコンピューターセンターの中心的バックアップはマンハッタン南端部とは別の場所にあったのだから、一部の批判は、特に銀行が混乱の中にあったという考えは、都市伝説の色相を帯びていると主張している。マンハッタンの複数のコンピューターセンターは緊急時を想定して街の外のセンターに常にデータを送信するようになっており、9月11日にも実際にそうしたとBoNYは言うのである。」207

 

さらに核心をついているのは、BoNYの資金振替業務は New York州のUticaで行われており、そこの通信システムは手付かずであったことである。

 

矛盾する報告の興味をそそられる部分は、BoNYのTodd Gibbonsが9月11日の証券の取引量の「増加」を伝えている部分である。

 

p.35
「非常事態の現場でも、通常のビジネス取引量に順応出来るだけでなく、私達が株式市場において最初の日に見たような、ビジネス取引の際立った急上昇にも順応出来ることは間違いありません。私達の非常事態計画には大量の過剰な取引を処理することの出来る能力が含まれていました;だから私達は取引量の増大に対処することが出来たのです…」208

 

しかしながら、その日の全体的な量は通常よりも25%少なく、全体量の3分の1、つまり4,000億ドルは通常のビジネス取引の後に極めてわずかな取引の中で取引されたのであった。下の表において見られるように、その日の全体的な取引は見たところ出来高よりもかなり顕著に減っているが、取引終了後になされた取引は極端に大きく、平均すると一まとめで350億ドルかそれ以上の大きさになる。これは2,400億ドルの証券が人目を忍んでマネーサプライの中に流し込まれたとの仮説と一致することである。加えて、BoNY と Fedの矛盾する情報は、BoNY の行動が一般市民に伝えられていたものとは異なっていたことを示している。

 

「2001年8月に、Fedは約1,500億ドルを口座に保持していたが、連邦電信決済通信網で振替送金された資金の額は一日当たり平均で1兆6,000億ドルを超えていた。9月11日に振替送金された資金の額は1兆2,000億ドル、基準期間の平均の約4分の3であった。しかしながら、量とは異なり、振替送金された資金の額は12日には通常の水準に戻り、そしてその後の7営業日の間に高い水準となった。」209

 

37   

 

[Liquidity Effects of the Events of September 11, 2001, James J. McAndrews and Simon M. Potter, Federal Reserve Bank of New York Economic Policy Review, November 2002, p65. ]

 

連邦準備制度は、自分達の主張を立証するために必要な具体的詳細を提供することなく、一般市民に広範囲にわたって資金流動性に関して問題があったと信じさせようとしたのである。実際、こうした事項は、単独ではなかったとしても主に、長年にわたり進展中の大きなマネーロンダリングの捜査を受けていたBoNYに特に集中していた。これらの勘定残高に関する事項はマネタリーマネーサプライの事実上の拡張という結果を招いた。この詳細は連邦準備制度によって報告されていない。こうしたマーケットの機能不全として報じられている原因は見たところ疑わしい。ちなみに、世界貿易センター内にあったDeutschebankはそのような勘定残高の増加を伝えておらず、同じ取引通信ハブを利用していた2つの clearing banksの片方であったJP Morganも、勘定残高の増加を伝えていなかった。加えて、こうした問題はBoNY とGCSSの間では文書化されていたが、他の金融機関にはそのような問題はなかったのである。

 

p.36
「…11日並びにその後の数日間にも主要な民間セクターの決済システム(the Depository Trust & Clearing Corporation and the Clearing House Inter-bank Payments System [CHIPS])で多額の決済がされていたことは注目に値する。」210

 

911の余波の中でのBoNYの行動が疑うに値するものであると信じるあらゆる理由が存在するのである。

 

未決済

 

911の余波の中で、Fedの分析は証券の決済の不履行は以下の2つが原因であるとした:

 

· 当初の機能不全により取引と対応するデータを一致させることが出来なかったこと。そして

 

· 証券の特別レートが低かったため、借り換えにより未決済を回避するインセンティブのない余波の中でブローカーによって「戦略的」に未決済が活用されたこと。

 

この特別レートの縮小は、上のセクションにおいて論じられた過剰な差引残高に関する事項に対応した、資金の流動性を増大するオペレーションに原因があったとされた。

 

その結果一人の主要な連邦準備制度の調査員はこれを以下のようにまとめた:

 

「未決済が当初、取引記録と通信施設の破壊のせいで、増加した。未決済を回避する、あるいは未決済を改善するために用いられる手立て‐SCレポを通じた証券の借り換え‐が証券の受渡しの不履行と同程度に高くつくことが分かったため、それらは高いままであった。アメリカ財務省は直近発行の10年債券を追加発行することで未決済問題に対処した。増大した供給が債券の借り換えを未決済よりもより魅力あるものにした。」211

 

未決済に対する標準的改善措置‐SCレポを通じた証券の借り換え‐は、Fedが特別レートをほとんどゼロに引き下げた時に、効力を失った。結果として、第二の、継続する「未決済」の「波」が、通常の取引者に未決済を回避させるインセンティブを取り除くことで発生した。秘密の資金調達中期債券の喪失に起因する基底にあった未決済の波を隠したのは、この構造的に生み出された第二の波である。

 

「『デスク』は十分な規模のレポを手配するために、提案の圧倒的大部分を‐新しい目標水準の3%よりもかなり低いレートで提示されたものまでも‐認めなければならなかった.」
(Markets Group of the Federal Reserve Bank of New York 2002, p. 24)
水曜日に、デスクは提議された提案を全て認めたが、そのうちの最低のものは0.75%であった:表2を参照。(Markets Group of the Federal Reserve Bank of New York 2002, p. 24)
実質的なFFレートは木曜日には1.25%にまで下がり、水曜日よりも低くなった。」212

 

「未決済を回避する、あるいは未決済を改善するために証券を借りる売り手のインセンティブは、証券の特別レートと共に落ち込んだ。特別レートがゼロに近くなると、必要な証券を借りるためにマネーを(ほとんどゼロ金利で)貸す売り手には得るものがほとんどない。13 これは証券の特別レートがほとんどゼロの時には、マーケットの参加者には、一連の相場操縦や仲間内での取引を切り抜けるインセンティブがほとんどないことを示している。マーケットのこのような局面は911の後の未決済の問題を理解する上で重要である…FF金利、よってGCレートが低い場合には、証券の特別レートは、より頻繁に最低限度にまで落ち込むことになる。こうしたことが起こるのは、いかなる特別レートにおいても証券の貸し手が得る報酬の総計は、GCレートと特別レートの差にあるからである。」213

 

次の表に示されているように、特別レートが2%から3%の幅で下がり、短期のレポにより未決済を解消する上での阻害要因を生み、統計上の相次ぐ未決済を生み出したのであった。

 

p.37
35      
[When the Back Office Moved to the Front Burner: Settlement Fails in the Treasury Market after 9/11, Michael J. Fleming and Kenneth D. Garbade, FRBNY Economic Policy Review / November 2002, p 41.]

 

この時点で新しく発行した債券をマーケットに出したFedの対応が、思いがけない形で(これは反論されるべき仮定である)、10年もの中期債券の引き続く低い「特別レート」の原因となり、未決済問題をその年の終わりまで続かせ、悪化させたようである。高水準の決済不履行が拡大した状況においては、直後には決済されなかったであろう残された2,400億ドルの決済を「統計上隠す」ことにはほとんど努力を必要とはしなかった。10月の3週間の未決済の小康状態はおそらく、債務の30日の短期借り換えを示していたのであろう。長期的な借り換えを求めて債務がマーケットに戻ってくるにつれて、投資者の不足によりさらなる未決済の結果を招くことになった。

 

p.38
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[When the Back Office Moved to the Front Burner: Settlement Fails in the Treasury Market after 9/11, Michael J. Fleming and Kenneth D. Garbade, FRBNY Economic Policy Review / November 2002, p]

 

ここで重要な観点は、2,400億ドルの秘密中期債券の原本を世界貿易センターの瓦礫の中に消失させながら、金融界の注意を引くことなく数日間でそれらに資金を補充するということは考えられないということである。中期債券は想定上、レポ市場で30日間の借り換えが可能であったと考えられるが、最終的な借り換えは数週間、あるいは数ヶ月間に拡張したのであろう。

 

911の攻撃の中心として、1991年に発行されたソビエト連邦の崩壊に資金提供するために用いられた2,400億ドルの秘密債券の隠蔽を誰かが計画していたという主張が存在している。911の金融上の影響を取り巻く事実は、こうしたことが可能であったことを示すだけでなく、その影響を説明する報告が意図的に誤解を招くものになっていたこともまた示している。

 

· アメリカドルのマネーサプライは911の余波の中で顕著に増大していた;

 

· 元ソビエトの犯罪者による不法なマネーロンダリングの中核にあった銀行が増大したマネーサプライの源であった(BoNY);

 

· BoNYの業務上の問題の根本原因として一般的に広まっている事象は、他の銀行には同様な作用、あるいは規模で影響を及ぼしていなかったようであり、また余波の中でのBoNYの業務に関する報告と整合性がない;

 

· これらの事項について洞察を提供する可能性のある重要な証人は統計上の異常な死者である;

 

· BoNYの資産の3,300億ドルの増加の原因は「民間銀行業」という特権の元で隠されている;

 

· 金融システムに起こったと言われている唯一の「深刻な」混乱は連邦準備制度の勘定残高と証券取引の未決済であった‐両システムとも2,400億ドルの秘密証券のロンダリングを隠すために必要であった。

 

p.39
これは2,400億ドルがロンダリングされたことを示す「証拠」ではないが、それが間違いなく起きたというDurhamの主張に真剣な注意を払うもっともな理由を提供するものである。秘密工作活動と秘密の資金提供という謎めいた暗い影‐Durhamの夫の世界‐を深く見つめると、1991年から2001年の出来事についての彼女の主張が信憑性を帯び始めることになる。

 

付随的被害 3/5

以下は、http://www.wanttoknow.info/911/Collateral-Damage-911-black_eagle_fund_trust.pdf#search='colateral+damage+911+ep+heidner'の日本語訳です。(p24からp28)

 

付随的被害 第三部

 

 

新興財閥と西側

 

1980年代後半、Gorbachevの下にいた、将校Bobkovと Kondaurovは数人の聡明で若い「ロシア人」企業家のスポンサーとなり、彼らが Riggs-Valmetとして知られるスイスのコンサルタント集団と共に働くことが出来るように調整した。170 これは1988年にGeorge Bushによって彼の兄弟と元国家安全保障会議責任者の用心深い監視の下で調整されたRiggs工作活動と全く同じであった。これらの新興財閥の第一世代の名前は以下である。

 

· Mikhail Khordokovsky
· Alexander Konanykhine
· Boris Berezovsky (Berezovskii)
· Roman Abramovich

 

p.25
Alexander Konanykhineは、Boris Yeltsinとして知られるロシアの辺境出身の無名のロシア議員のキャンペーンの資金提供の半分を受け持つことになる。Yeltsin は選挙に勝ち、ロシア大統領になる。KGBの保護の下で、Konanykhineはロシアのマネーをロシアから運び出すために利用されることになる一連の銀行を開いた。最も顕著だったのはRussian Exchange Bank、European Union Bank、そしてBank Menatepでの自身のMikhail Khordokovsky との提携関係であった。European Union BankはAntiguaでインターネット銀行として稼動しながら実際にはマネーロンダリング活動をしていた。この銀行を稼動するために利用されたコンピューターから、Washington DC.のPennsylvania Avenue 1429 Suite 347の、Konanykhineの知人であったVal Kulkovへと辿り着いた。この銀行のインターネットアドレスはAegisと呼ばれる会社によって所有されるインターネットアドレスのブロックのものであった。Pennsylvania Avenue1445 の当時Aegisを支配していたThayer Equity Investorsは同じビルの3階にあった。Thayer Equityの住所はまたかつてHohlt Groupによっても利用されていた。Hohlt Groupは現在はPennsylvania Avenue 1433にあり、実質的に玄関先にある。こうした集団には興味が引かれる。なぜなら彼らを支配する人物は以下のアメリカ共和党の金融面での影の実力者であるからである:Frederick Malek (Thayer Equity ) そしてRichard Hohlt (Hohlt Group)。Hohlt はRichard Armitageの知人であると伝えられている。

新興財閥 Mikhail Khordokovskyはロシアからマネーを移動する担当であり、またロシアの石油とガス産業の乗っ取りのための主要な金融組織を設置する担当でもあった:その組織とはBank Menatepである。時と共に、RiggsはそのBank Menatepに対する支配を51%から公開された4%へと弱めることになる。もっともこの機関の全体的な所有権はプライバシーのため秘密にされたままであるが。
Khordokovskyの取引はまた以下のガス産業の乗っ取りも伴っていた:Gazpromと元々はPalmer and Lauderによって支配されていた現代的なAEBである。

 

新興財閥Roman Abramovichはシベリアの巨大石油企業Sibneftの株を買うためにValmet-Riggsと共に活動した。171 Abramovichは Runicomと呼ばれるエネルギー取引会社を興したが、これは完全に Valmet-Riggsによって所有されていた。Runicomの実際の受益株主は全く公開されなかった。172 Abramovichは、かつてBCCIとIran-Contraに関与した銀行家であったBruce Rappaportの所有するスイスの従属会社の一つのオフィスから、自分の活動を運営した。彼らが興したビジネスは石油とガスの取引であった。自分の取引の一環として、彼は間もなく新興財閥Boris Berezovskyと関わり、提携を結ぶことになる。

 

新興財閥Boris Berezovskyは伝えられる所によれば、マフィアとの強いつながりのある中古車販売業者として自分の経歴を開始したという。彼はまたRiggs-Valmetから指導を受け、Roman Abramovichと提携を結ぶようになったと伝えられている。彼の役割は様々な金融上の乗っ取りの背後で販売をためらう際に「圧力」を与えることであったと考えられる。

 

彼らのうちのこの4人目の人物がロシアの石油とガス産業を支配し、Riggs-Valmetのコンサルタントの指導の下で手はずが整えられた隠れた受益者のために表に立つ人物となるのであった。このレポートは、この隠れた受益者が万が一見つかれば、Black Eagle Trust、Project Hammer等の不法な受益者を明らかにすることになり、彼らと911の余波の中での2400億ドルの債券の決済による受益者は同一であろうと推測するものである。

 

ロシアの南、カザフスタンでは、Nursultan Nazarbayev が当初James Giffenと共に、西側経済への石油の流れを開くために活動していた。Giffen が足場を築いた直後、Nazarbayev はShaul Eisenberg、Marc Rich、 Dick Cheney、George Sorosと共に活動した。アメリカの腐敗行為防止法を侵害していた恐れのあったJames Giffenの活動に対するFBIの捜査は、その記録を世界貿易センターのFBIの23階オフィスに保管していた。Giffenの裁判の範囲は、Giffenの弁護団の抗議に反して、裁判所によって1994年から以降の活動に限定された。弁護団はGiffenがホワイトハウスの指示の下で活動していたことを示すことが出来るため、Giffenの活動の範囲を1991年にまで遡って公開する必要があると主張した。Pulitzer 賞受賞経験を持つSeymour HershはNazarbayev大統領の初期に多くの不法な石油スワップがなされたと報じたが – Giffenの裁判の際にはこうしたことは全く明らかにされなかった。173

 

大いなるルーブル詐欺

 

ソビエト連邦に対して仕掛けられた経済戦争を理解すると共に、George Bush大統領に1991年9月11日にこの攻撃の一環として2400億ドルの秘密債券を発行した責任があったという報告に焦点を当てる必要がある。

 

 

p.26
これがまぎれもなく事実であったことを示す8つの情報筋からの6つの証拠がある。こうした事実の多くは、こうした主張をする人々によって発表されたインターネット上で入手可能な文書によって裏付けられる。174

 

 未判明の資金源により、1991年から1992年の間にルーブルが大掛かりな攻撃を受けていたことを示す多数の調査報告が存在する。アメリカドルでのソビエト連邦からの資本逃避は、Fidel Castroによれば5000億ドル、Gorbachevによれば1兆ドルと推定された。誰かがこうしたドルへの資金提供といううまい部分を仕組んだに違いなかった。こうした主題に関して最も信頼出来る情報筋、Claire Sterlingがこの攻撃の背後には未判明の情報工作活動があったと記している。

 

 

「ロシアの外にいた人間はほとんど誰も一大ルーブル詐欺について聞いたことがないという事実は、ある程度は一見した程度では信じられない詳細のためであるとして説明可能であろうが、またある程度は、西側がかなり微妙な政治的話題に触れることをためらったということで説明可能であろう。悪の帝国の崩壊を喜んでいた西側政府は、新たに生まれつつある民主主義における悪は全て、堕落した共産国と同一視されていた政治家に端を発していたと想定することを望んでおり、また外見上、実際にそのように想定していた。誰もそれとは反対を示す不埒な証拠を認める準備は出来ていなかった。そのような地球規模の工作活動を仕掛ける3、4人の人物の能力、依然として世界の超大国であった国家に対する彼らの非常に強い影響力、事の初めから終わりまで終始一貫した彼らの特異な免罪力から、導き手は一つではなく、複数の情報機関であったことが示唆される。」175

 

1991年と1992年にロシアにこうした規模の「現金」が出回っていたという主張を裏付ける文書はまたStephen Handelmanの著書 Comrade Criminalにおいても見られる。 Handelmanは、ソビエト連邦の崩壊の後にアメリカに持ち込まれたKGBのファイルにアクセス出来たと考えられるが、1991年以前に、ロシアの共産党が4350億ルーブルの「自由に交換可能な通貨」を保有しており、クーデターの後の夏、ロシアには一箇月前の事前通知で3000億ルーブルまでも提供出来る無名の人物がいたことを記している。176 前者の事例の4350億ルーブルは1991年7月の2400億ドルに換算される。この資金が換金されソビエトから運び出されたのであった。このルーブル詐欺にはこれ程大きな規模で強いドルを提供することが必要であったことになる。1年後の、Handelmanの示す第二の事例は犯罪者が直ちに30億ドルから45億ドルを自由に出来たことを示している。177 比較して言えば、同じ時期に、アメリカ議会は予算上限制約のために100億ドルの歳出予算案を通過させることが出来なかったのである。

 

 ロシアの中央銀行の第一副総裁であったAndrei Kozlovは損失についての調査の指揮を執っていたが、1991年に中央銀行から4000億ルーブルが盗まれたと伝えた。(1992年にチェチェンで発生したはるかに小規模の同様な詐欺と混同しないよう注意していただきたい)こうしたルーブルは、ロシアへの貸付の担保として交換可能通貨の債券を遠く離れたチェチェンの銀行に預け、そして資金が撤収されると同時に、その遠く離れた銀行からその担保付手形を消滅させた何者かによって盗まれたのであった。178 闇市場での1ルーブルの価格は約1ドルであったが、当時の「公式な」交換レートは1.8ルーブル/1ドルであった。4000億ルーブルに対して公式のアメリカドルでの対応値を用いると、この盗みは2220億ドルに換算される。Kozlovはこの4000億ルーブルがどこに行ったのか理解に近づいたと発表した直後に狙撃された。当時の中央銀行の代表は‐元KGB将校であったGeorgy Matyuhinで‐Yeltsinの利益のためにYeltsinのFirst DeputyであったKhasbulatovの要請を受け、彼がこうしたクレジットを承認したのであるが、MatyuhinはCIAの情報提供者であると報じられた後に引退した。179

 

 

 CIAの秘密資金の資金管理者であったRussell Hermanの妻、Mrs.V.K. Durhamは宣誓証言においてGeorge H.W. Bush、Oliver North、 Alan Greenspan が夫に債券を手放すよう強要したと主張した。彼らは後に関連する金融取引でHermannのサインを偽造したという。180 彼女はまた彼らに3年後の夫の死の責任があったとも主張する。つまりHermannがそれらの資金はBushの取り巻きの私的不正資金ではなくアメリカ市民の財産であったと信じ、それらが使われる方法に抗議したことが彼の死の原因であったという。Wantaもその後、彼の秘密作戦からの収益はアメリカ大統領によって使用される秘密の不正資金ではなく公的資金とならねばならないという同様な立場を維持している。181

 

 海軍情報部(ONI)の複数の情報筋が数千億ドルの規模の取引の詳細を示す100ページを超える銀行取引の資料を公表している。これらはDerek Vreelandがカナダの刑務所から発表したファイルと同じものである。刑務所から彼は看守に世界貿易センターへのやがて来る攻撃について提言したのであった。Vreelandは自分はONIの情報員だと主張していた。182 こうしたファイルはソビエト連邦に対する一連の秘密戦争と呼応する3つの取引期間を対象としていた;この取引は債券がソビエト連邦に動いていたことを直接示すものではないが、Bushの Vulcans が当時のアメリカ連邦予算の支出上限と矛盾するやり方で大規模な現金を使い、大規模の資金を主要な資金運用のための秘密口座に‐最も顕著なのはPilgrim Investmentsの「Jorge」Bushという口座に動かしていたというセオリーを裏付けるものである。(JorgeはGeorgeを表すスペイン語である)

 

 

p.27
.1989年8月から9月の最初の取引期間はメキシコとラテンアメリカの債務再清算の時期と一致している。この期間Bushには他の国々の債務担保を数ヶ月間消滅させることで不法な収益として300兆ドルを生み出した責任があったと主張されている。またこの担保を保有していた者は、このめったにない「逆利回り曲線」の期間として知られる8月11日から10月6日の間に利益を上げたという。

 

.1990年の9月24日から10月10日の間の第二の取引期間はソビエトの金の財宝購入のための資金提供、そして共産主義者の資金のソビエト連邦からの移動を示している可能性が高い。Leo Wanta はこの時自分の取り組みを開始したと伝えている。

 

.1991年5月27日‐28日の第三の取引期間は彼のルーブル不安定化プログラムに対する資金提供を示している可能性が高い。

 

Leo Wantaのファイルから発表されたこれらの債券についての文書がこのソビエトでの取引に関して重要な詳細を提供している:

 

 

•これらの債券はロシアとの未特定の「共同事業」に資金提供するために利用された。183

 

偶然にも、1991年9月14日に、最後のFirst Deputyソビエト連邦首相Vladimir Shcherbakovは他の2つの提携者と共にInternational Foundation for Privatization and Private Investment [FPI]を創設した。第二の提携者は決して明らかにされなかった。第三の提携者は今では悪名高いオーストリアの会社Nordex GmbHであった。International Foundation for Privatization and Private Investment [FPI]はBank of New York のマネーロンダリングスキャンダルに関与した主要な組織の一つであり、主要な犯罪の隠れ蓑であった。Interpol はMarc RichをNordexの創設者の一人と見なしていると報じられることになる。Marc RichはWilliam Clinton大統領によって恩赦されることになる。彼の恩赦の理由は公表されなかったが、おそらくソビエト連邦の崩壊を調整した彼のアメリカに対する働きのためであろう。

 

• これらの債券はスイスのKlotenの自由貿易地域にある金庫室に保管されているスイスの金によって裏書きされていた。184

 

Klotenの貯蔵所はZurich空港にあり、ここにMarcosの貯めた金は、盗まれたソビエト国庫の金同様貯蔵されていると伝えられた。

「…追放される前にFerdinand Marcosによって数トンの略奪品が手放された。
数十億相当の富がアメリカの情報組織のエージェントとマフィアによって海外に運ばれた。貯蔵品の多くは動かされず、厳重な警備のZurich空港地下の隠し保管所に埋もっていた。185」

 

• この債券がソビエト連邦の政府高官による貸付承認の条件とされた。186

 

• これらの債券が、部分的に、Lehmanからの不定期間一日当たり少なくとも1億ドルの通貨支払いをもたらした。187

 

• これらの債券が、Deutschebankを通じてロシアに流れた現金をもたらした。188

 

6.Project Hammerに関する証言録取書は、Vreeland、ONI、Wantaによって文書化された情報通りの同じ銀行と資金へと密接に結び付くものと見られる:

 

• General Earl Cockの2000年4月の死ぬ間際の証言録取書はCitibankと John Reedの1991年の最終四半期におけるProject Hammerへの中心的な関与について述べ、2230億ドルが資金提供され、大部分がCIAのマネーであったと記述している。Cockeはまたこれらの資金を担保するための、小額債券の利用にも言及しており、それは10年中期債券であったという。Cockeはこうした資金の源を「口座、参画者つまりプレイヤー」であると説明しており、この口座は管理している関係者の死に際して所有権が銀行に変わり、次に政府へと変わるという。これはアメリカのエージェントによって開設された金口座に起こることであるとSterling Seagrave とPeggy Seagrave が主張していることと正確に一致する;189

 

• 1995年のRoelfo Van Rooyenの証言録取書はProject Hammerを1991年のCIA作戦として記述している。190

 

9つの独自の情報源からの情報と文書は全て同じ話に収斂する。

 

1.Leo Wanta – 口封じのためにでっち上げられた脱税疑惑により投獄された。

p.28

 

2.U.S. Office of Naval Intelligence – 口封じのために911で破壊された。

 

3.Derek Vreeland–口封じのために投獄され、現在は身を隠している。

 

4.Major Colonel Erle Cocke – 共謀者としての臨終の告白をした。

 

5.Andrei Kozlov– ロシア中央銀行のdirectorであったが、口封じのために凶弾に倒れた。

 

6.Claire Sterling – CIAにより選ばれ、雇われた国際的特派員であったが、死去している。

 

7.V.K. Durham – 無視されているが、沈黙させられてはいない。

 

8.Sterling SeagraveとPeggy Seagrave – 著述家で歴史家、Marcosの金に関する本の刊行を阻止するため多くの死の脅迫を受けた。–現在は身を隠している;

 

9.David Guyatt、独立報道家で刊行された本の著者。

付随的被害 2/5

以下は、http://www.wanttoknow.info/911/Collateral-Damage-911-black_eagle_fund_trust.pdf#search='colateral+damage+911+ep+heidner'の日本語訳です。(p13からp24)

 

付随的被害 第二部

 

p.13
主要なアメリカの情報工作活動の戦後世代
13

 

p.14
支配力の獲得

 

他の大統領政権とは異なり、Reagan政権は副大統領‐当時はGeorge H.W. Bushであった‐に海外政策を支配させていたことで独自の特徴を持っていた。このような支配は彼らの選挙に先立つBush とReaganの間の取り決めによって確立されていた。79 この取り決めは後に大統領命令12333によって定式化された。80 William Caseyの伝記作家が指摘しているように、Reaganは「海外政策についてはほとんど分からず、構わなかった…」そしてその結果大統領の周辺の切れ者が彼を乗っ取り、動かすのであった。81

 

1980年11月、Ronald Reaganは僅差で現職のJimmy Carterを破り、大統領に選ばれた。投票でReaganとBushに勝利をもたらした要因であった僅かのパーセンテージは、イランで拘束されていた人質を救出し解放することをCarter大統領が出来なかったことに起因していた。82 この失敗した人質救出の取り組みは、この救出作戦を計画し、管理したOliver North、Richard Secord、Albert Hakimに責任があったと伝えられた。83  一方、イランによる人質の解放は、George BushとアメリカのCIAに相当するイスラエルのモサドのDavid Kimcheとサウジアラビアの実業家Adnan Khashoggiによる交渉によって意図的に遅らせられたと伝えられている。4千万ドルで、イラン側は人質の解放を選挙が終わるまで遅らせたのであった。84 歴史のチャプターでは「October Surprise」と称される、この作戦に関与した人物は以下である:

 

· George HW Bush
· Adnan Khashoggi
· Oliver North
· David Kimche
· Bob Gates
· Richard Secord
· William Casey

 

就任の69日後に、John HinkleyがReagan大統領の暗殺を企てた。この企ての8日前、先例のない一連の政策変更があり、George Bushを海外政策と国家安全保障の担当に置いていた。1981年3月22日の閣議において、Bushが「Emergency Crisis Management Staff」の支配権を握ることになった。この任務はBushに「副大統領として先例のない権限」を含め、新しい役割と権限を与えた。85  副大統領George Bushは国家安全保障会議システムの一部としての、アメリカ合衆国「crisis management」部署のリーダーに任命されたのであった。86 こうして、1981年3月30日、このような権限がBushに与えられた8日後に、Reagan大統領が狙撃された。その日、National Security Directive 1 (NSDD1)には実際のところ、2つのサインされていないヴァージョンがあった。その一つは国家非常事態の際の「緊急電話」の管理人をAl Haigとするものであり、もう一方はGeorge Bushとするものであったという。いずれのヴァージョンであれ内容は一般には公開されていない。

 

就任の69日後、その人物の配下にあった工作員がアメリカの政策と法を侵害してテロリストに賄賂を与えた人物が、その人物と近い関係にあった仲間やアドバイザーがアメリカ兵の命を犠牲にした失敗した救出の試みを計画した人物が‐全てはアメリカの大統領を支配する目的でなされたのであったが、このような人物がアメリカの海外政策の支配権を握ったのであった。87

 

Bushを政権の座につかせた暗殺者の父は、Vanderbilt Oilの所有者であったJohn (別名Jack) Hinckley, Sr.であった。Hinckley はBushが下院議員選挙に出馬して以来、毎年最高額の寄付をGeorge H.W. Bushに与えていた。「Hinckley の石油会社、Vanderbilt Oilが1960年代に倒産しかけた際、Bush, Sr.のZapata OilがHinckley の会社を財政的に救済した。 Hinckley は6つの涸れた油田で操業していたが、Bushによる救済の後には、毎年数百万ドルを生み出し始めた。」John Hinckley, Sr.は、CIAが隠れ蓑としている工作活動と広く伝えられるU.S. Ministries for World Visionの管理職的仕事に広範囲にわたり携わっていた。Jonestownの大量虐殺の後、World VisionがJonestownを乗っ取った。In The Black Hole of Guyana: The Untold Story of the Jonestown Massacreにおいて、John Judgeは苦心の末、Jonestown は人々を立ち退かせ、行き場のない避難民となった人々を暗殺者に変えるCIAの工作活動であったことを文書化している。議会の調査を受ける工作活動では、証拠は除去されねばならず-ほとんど全ての住民が情報の露呈を防ぐために殺戮された。88

 

暗殺者John Hinckleyの兄弟Scott HinckleyとNeil Bushは友人であっただけでなく、最近も一緒にパーティをしており、まさに暗殺の当日も一緒に夕食をとる予定であった。

 

p.15 
また、John HinckleyがReaganの殺害を企てたまさにその日、エネルギー省の3人の監査役がHinckleyの兄弟Scottに対して2百万ドルの罰金を支払うよう圧力をかけていた。この罰金は後に消失するのであった。89  新たに形成された「緊急事態」権限を持つGeorge H.W. Bushは暗殺の企てに対する調査を求めるAl Haigの公式な要請を却下するのであった。

 

このイラン人とイスラエル人を相手にした秘密のビジネス取引は、1980年7月のHamburgでの October Surpriseの調整の際のKashoggi とKimcheに端を発するものであったが、年月と共により大きな秘密工作活動へと進展し、1991年のGorbachevに対するクーデターへのアメリカの資金提供を可能とし、ソビエトのKGBに仕事の空きを提供するまでになる。こうした工作活動において、数多くのBushの政策アドバイザーや工作員が集合として見た場合には「高貴で正しい」アメリカの海外政策であるはずの措置を実行に移したが、それは議会が法によってそのような政策がどうあるべきか決めたものではなかった。October Surprise作戦は大きくなり、より大きなIran-Contra作戦によって影が薄くなった。Bushの秘密の情報組織中核のメンバーは、アメリカの敵と公言したイランに兵器を販売し、その利益を不法に利用して、ニカラグアの反共反乱軍、Contrasに資金提供を続けた。反共主義者と見られてはいたが、CIA長官は彼らは貪欲に突き動かされているとその特徴を述べた。90 冷戦と戦うために秘密の財源を利用するという基調は、わずか数年後にBushの組織中核がソビエト連邦を取り込むことに決めた際に、再び浮上することになる。

 

全Iran-Contra作戦は1986年にほとんど破綻し、ニカラグア政府がContra 反乱軍に兵器を輸送するアメリカ機を撃墜し、アメリカ人パイロット- Eugene Hasenfusを捕らえた時に一般に明らかになった。このような輸送の発見 - アメリカの法の侵害 - によって一連の議会調査と独立調査会による調査が始まった。October Surpriseが発覚することを防ぐために開かれたHamburgとParis での会合には言及されず、Bush をParisに運んだ2人のパイロットは直ちに拘束され、議会で証言しようとした際には信用を落とされた。裁判所は後にパイロットに対する告訴は裏付けがないことが分かったが、その時までに彼らの証言は阻害され、信用が落とされていた。

 

「Gunther Russbacherは…自分がOctober Surpriseの会合の一つにGeorge Bushを飛行機で運んで行ったことを示すビデオテープの証拠と16人の目撃者がいると主張した。」91

 

こうした取引の主要な調整役であったイスラエル人、Ari Ben-MenasheもまたParisでの会合で直接Georgen H.W. Bushを見たと証言した。

 

「6月に、私もまた上院外交委員会を前にした非公開の会議で、宣誓証言をしました。私は ParisでBushを見たと、はっきりと述べました。」92

 

こうした取引の主要なイスラエル人調整役であったAri Ben-Menasheによれば、イランに武器を渡すために設けられた5つの供給プロセスのうちの4つは調査されておらず、Iran Contraに対する議会聴聞会の最中にも操業を続けたという。

 

「…Towerには武器のチャンネルが継続していたことが完全に分かっていました。しかしTower委員会はその件について言及しませんでした。1987年2月に、Towerがイランへの武器販売のささいな部分を調査している間にも、イスラエルとイランの共同委員会はRobert Gatesと共に、イランへの最大規模の武器提供を実行していました。公式の調査は煙幕よりはましといった程度でした。」93

 

簡単に言えば、Iran-Contraチームは、議会の調査を受けている間にも、法を侵害し続けていたということである。Iran-Contraの結果として起訴や有罪判決はわずかにあったが、概して言えば、関与した者は免罪されたのであった。Bushはこのわずかな起訴され有罪判決を受けた下位レベルの政府役人を後に放免した。Dick Cheney は犯罪はなく、Bushは関与していなかったと結論付けた議会の委員会のメンバーの一人であった。Robert Muellerは、( Iran-Contraの調査に関連して)Noriega94 とBCCI95 の調査を指揮したアメリカ人弁護士であったが、George H.W. Bushの非合法な振る舞いを示す証拠を見つけることはなかった。彼のその後のEnronに対する調査ではEnronによる不正行為は見つからなかった。96 Mueller は後にWTCの調査の指揮を執るよう要請された。

 

このIran-Contra作戦の隠蔽工作を支援するために、目撃者は沈黙せねばならなかった。

 

「海軍Lt. Commander Alexander Martinは、海兵隊 Lt. Col. Oliver NorthがNational Programs Office(国家プログラムオフィス)との名称のホワイトハウスの国家安全保障会議の人目に付かない部門を通じて運営していたReagan/Bushの麻薬工作の実質的な会計主任であった。

 

p.16
司会者Tom Valentineとのラジオインタヴューで、先ごろ7月に、Martinは麻薬と金だけでなく、死についても語った。「Iran-Contraに当初関与していたおよそ5,000人のうち、およそ400人が、1986年以来、自殺したか、事故死したか、自然な死因かによって命を失っています。こうした死の半数以上において、死亡証明書が発行されませんでした。187の事例において、家族が連絡を受ける前に遺体は火葬されていました。」Martinはそして自分は身を潜めていると語った。97

 

「(BCCIの)アメリカ支店を閉鎖させたマンハッタン地方検事は、BCCIのCIAの秘密工作活動との関係、イラクへの武器密輸、マネーロンダリング、児童買春を調べる過程で16人の参考人が死亡したと発表した。」 98

 

10月30日からクリスマスイヴまでに、私達の友人であり、誰もが高位の海軍情報将校であると考える、William Smithと私を殺害する4回の企てがありました。これと同じ時期に50を超えるCIAの工作員、彼らの妻、家族が、Clintonのチームが力を得る前に痕跡を隠すために、CIAのRobert Gatesの一派による企てによって殺害されたのです。私の命を奪おうとした最後の企ての後に、私の夫のSEALチームが私のためにオーストリアのウィーンへの安全な道筋を調整してくれ、私はCIA長官の職からRobert Gatesが去るまでそこに留まりました。」99

 

Amiran NirはOliver Northの裁判における彼の証言を防ぐために暗殺されたとAri Ben Menasheは記している。この証言はGeorge H.W. Bushの関与を示すことになっていたであろう。100  John Heinz上院議員とTowers上院議員は後にAmiran Nirと同じ運命に直面することになった‐航空機墜落による死である。こうした国家安全保障工作活動を明るみに出す危険性を持つ人物の命を奪うというパターンが1991年、さらに2001年にも再び繰り返されたのであった。

 

Iran-Contraのスキャンダルに関与した人物の名前には以下が含まれる:

 

· George H.W. Bush
· Adnan Khashoggi
· Oliver North
· David Kimche
· Richard Secord
· Richard Armitage
· Russell Hermann
· Bob Gates
· Shiek Kamal Adham
· Khalid bin Mahfouz
· Dick Cheney
· Farhad Azima
· Alton G. Keel Jr.
· Bruce Rappaport
· Alfred Hartmann
· Porter Goss
· Richard Armitage
· Shaul Eisenberg
· Robert Mueller

 

これらの人物のほとんどがソビエト連邦に対する秘密戦争における主要な工作員となるのであった。

 

Iran-Contra 作戦が展開する間、世界の反対側では、もう一つの重要な発展が起きていた。フィリピンの親米独裁者であったFerdinand Marcoが、Bushの海外政策マシーンにより突き動かされ、一部では73000トンもの規模と推定されるGolden Lily Treasureをアメリカに移譲したのであった。当時、この財宝は5,000億ドルから6,000億ドルの価値があったと推定された。101

 

この作戦に関係していた個人は以下であった:
· George HW Bush
· Adnan Khashoggi
· Oliver North
· Russell Hermann
· Paul Wolfowitz

 

p.17
アメリカの情報工作活動は30年間にわたりMarcosの金を吸い上げていた。しかしながら、Ferdinand Marcosはさらに埋められていた財宝を発見し続けていた。 MarcosはAdnan Khashoggiの支援を受けて、1970年代にそれを少しずつ市場に販売し始めていた。102 何か未判明の理由により、Enterpriseは1986年にそれを全て手に入れることに決めた。この理由は分かっていないが‐ソビエト連邦に対する戦争に資金提供するためであったかも知れない。副大統領George Bush が最終的に1986年に、Marcosが公職の座を追い出された時にMarcosから金を奪い取った。Marcosは当時73,000トンの金を所有していたと推定されている。103
Marcosを公職の座から追放する際、アメリカはMarcos配下のGeneral で、Marcos側の高い地位から離脱しCorazon Aquinoを支持する側に回ったFidel Ramosによる支援を受けた。Fidel Ramosは後にCarlyle Groupの取締役員メンバーとなった。Marcosの金は一連の銀行に移転されたが、最も顕著だったのはCitibank、Chase Manhattan、Hong Kong Shanghai Banking Corporation、UBS 、Banker’s Trustであった。またKloten Switzerlandの保管場所にも保管された。Marcosの強制退去に関与したBush側の行政官はRichard Armitage と Paul Wolfowitzであった。Adnan Khashoggiもまた関与しており、金の移転を支援した。Khashoggi 、Shiek Kamal Adham、Khalid bin Mahfouz、Peter MunkがBarrick Goldと呼ばれるカナダの金採掘会社を創設したのはこの時期であった。

 

· Adnan Khashoggi は国際的な武器商人でOctober Surprise と Iran-Contraの取引を支援し、Marcosが自分の金を市場に販売する手助けをした;

 

· Shiek Kamal Adham はサウジアラビアの情報機関の長官であった;

 

· Khalid bin Mahfouz はサウジアラビアの投資家で、 Bush一族の複数の会社…特にHarken Energyに投資しており、BCCIの20%の株式所有者であった。

 

かなり後に、Kashoggi とAdhamはOryxという名称のDubai を拠点とする会社の主要な投資者となる。Oryxは、アメリカ人投資家Wally Hilliardと並んで、Mohammad Attaと数人の911のハイジャック犯が飛行訓練を受けたHuffman Aviation の所有者となる。104 105  Hilliardは後にBush一族、特にJeb Bushの支援を受けていたことが分かる。106

 

Barrick は数多くの主要な銀行にとって金を生む物言わぬパートナーとなり、その活動はFBIの金価格操作に対する捜査対象となるのであった。この捜査に関する記録はノースタワーの23階のFBIオフィスに保管されており、タワーが崩壊する直前の爆発物の爆発により破壊された。Golden Lily Treasureの最終的な到達地点と10年間にわたり市場に流れ出た「貸し付けられた」金の源は、公式には説明されていない。

 

Marcosの金の主要なプレイヤーはBanker’s Trustとなるが、1990年代中盤にロシアへの貸付によりBanker’s Trustが財政的に苦境に立つことになった後に、Alex Brown & Sonsに吸収合併されることになる。こうしたロシアへの貸付は1993年の8月に始まり、Enronによって促進されたが、これはProject Hammer のソビエト産業の乗っ取りの一部であった可能性が極めて高い。Alex Brownの関与からこの謎において多くの役割を果たす中心的な3人の人物の名前へと辿り着くことになる:

 

· Buzz Krongard
· Mayo Shattuck
· J Carter Beese Jr.

 

Buzz Krongardは、Alex Brownで彼らが共に過ごした時からのBeese とShattuckの師と伝えられている。加えて、彼はBankers Trustと Deutschebank Alex Brownの間の合併を取り持ったのであった。ZurichのBankers TrustはMarcosの金の主要な保有者であった。Krongard は後に投資銀行 A.B. Brownの会長、Banker's Trustの副会長、911当時のCIAのExecutive Directorとなるのであった。

 

Mayo Shattuck は、彼らがBarrick Goldで協力関係にあった際の、Adnan Khashoggi と Edgar Bronfmannの私的銀行家であったと報じられることになる。107 彼は後にDeutschebankのCEOとなるが、タワーが崩壊した日にはWTCのオフィスには居合わせず、911の翌日に説明されざる理由によりCEOの職を辞するのであった。911の悲劇を利用したインサイダートレーディングがあったことを示す不法なストックオプションの発生源であったと特定されたのは彼の銀行であった。911の後に、彼は直ちに、主として石油と金のテリバティヴのトレーダーとしてEnronに換わることになる会社‐Constellation Energyに移ることになる。

 

Carter Beeseは、Alex Brownで働く前は、アメリカ士官学校のCIAの訓練施設とJohn Hopkins大学で教育を受けていた。George H.W. Bushは彼を Overseas Private Investment Corporation(海外民間投資公社)の重役に任命した。1992年以降、OPICはロシアでの140以上のプロジェクトに45億ドル以上を融資と保険の形で提供している。彼はまたRiggs Bankの会長でもあり、(Bushによって任命された)証券取引委員会の委員でもあった。加えて、彼は1994年から1997年までAlex Brownの会長で、そこからさらにBankers Trustの副会長にもなるのであった。彼はまたRiggs Capital Partnersの社長ともなった。

 

p.18
Riggs は、ロシアの新興財閥とならず者KGBのための国際的金融装置を仕組み、彼らにソビエトの財宝を奪い、ロシア経済を破壊することを可能にした有名なRiggs-Valmetのコンサルタントを支配していた。Carter Beeseの死は2006年に自殺として報じられた。

 

1986年にアメリカ政府のエージェントによって没収された後にMarcosの金に何が起きたのかは伝えられていないが、1990年代初頭を通じて、世界の金市場は金価格を抑えたと見られる謎に満ちた数千トンの金が出現したことにより、混乱することになった。アメリカ政府に対する最初の訴訟は名高い弁護士Mel Belliにより開始されたが、彼はCitibankから金を取り戻すことを求める、死去したSanta Romanaの親類を代表していた。108 この訴訟は2007年でも開かれたままであった。その後アメリカで数多くの金融機関とAlan Greenspanを相手取って二つの訴訟が起こされ、この金の源を突き止めようとした。金のトレーダーは米財務省がこの金の源であったと疑い、アメリカの金保有高は私的利益のためにブリオンバンクによって不正に操作されていると主張した。Reginald Howeによる第一の訴訟はメリットと大義があるものと見られたが、司法上の理由のため裁判所により却下された。BlanchardのDonald W. Doyle による第二の訴訟は、Barrick Goldが主要な被告となっていたものであったが、2006年に示談の形で解決し、同意の下で封印された。Barrick はまたHoweの訴訟でも情報に通じていた関係者として言及されていた。1992年に、BarrickはGeorge H.W. Bushから彼の大統領任期の最後の数日間に特別待遇を受けた。その時Barrickは、10,000ドルでNevada州の公有地の100億ドルの「価値」があると見積もられる堆積物を採掘する権利を受け取ったのであった。109 この取り決めには何も不法なことはなかったが、Bush大統領によって導入された特別なプロセスにより Barrickはこの堆積物の評価価値をコントロールすることが可能となり、最高の専門家を利用して、主張する価値を決定することが可能となったのである。 この特別なプロセスは他の採掘志願者には利用不可能とされた。この直後に、George H.W. BushはBarrick Goldの懇談会の一員を務めることになった。長期的に見れば、Barrickの業務は「金のデリバティヴ」を生むことで、数十億ドルの紙の金を生み出すものであった。こうしたNevadaについての主張は、業界の専門家によればその可能性は疑われていたが、実際に富を生み出したことを示す報道に基づいている。110 Barrickの金の先物取引販売の主要な販売チャネルはEnronであった。Enronはまた、元ソビエト連邦からの石油とガスの契約が処理される媒体(ソビエトのマネーロンダリングの媒体)ともなるのであった。そしてこれもまた冷戦の付随的被害となったのである。

 

興味深いことに、ヨーロッパでは採掘業務を行っていないBarrickがスイスの2つの精錬所を利用しているのである:その2つとはMKS Finance S.A. と Argor-Heraeus S.A. である。双方ともミラノに近いイタリアとの国境付近にあり、Zurichの金保管所から数時間の距離である。Barrickと他の銀行が答えることを避ける必要があった疑問は以下である:彼らはその地域に鉱山を持っていないのに、どのような金をBarrickは精錬していたのか。

 

Vulcanのソビエト連邦に対する秘密経済戦争

 

自分達を「 Vulcans」と呼んでいたBushの「戦時内閣」はソビエト連邦に対する経済戦争の資金源を見出だし、4段階の戦略を計画していたと考えられる。こうしたVulcansは長老Bushと Dick Cheneyの指揮の下で、数年後にGeorge Bush Jrによって公職に復帰する人物と全く同じであった。

 

共産主義に対する彼らの戦争を準備する中で、またGorbachevを終焉に導き、 Yeltsinの台頭をもたらした1991年8月の失敗した‐偽りのクーデターへと至る年月において、Bushとならず者KGB将校の中核は、ソビエト経済の所有権を乗っ取るために利用されることになる銀行と持ち株会社の複雑な国際的ネットワークを構築した。この作戦を支持した300人を超えるこうしたKGBの反逆者は後に1990年代初頭にアメリカへ移住し、恩給を受けた。111  定期的なCIAの議会への報告書は犯罪分子によるロシアの乗っ取りへのKGBと犯罪組織の共謀を精査したものであったが、アメリカの恐るべき役割については全く言及されず、議会の監視や公式記録から消し去られることになった。112

 

ソビエト連邦に対する経済戦争という第一段階において、George Bush は Leo Wantaと数名にルーブルの不安定化の権限を認め、ソビエト/ロシア国庫の盗みを促進した。こうしてロシア国庫から2,000トンから3,000トンの金塊(当時で350億ドル)を吐き出させる結果となった。113 このステップはルーブルの通貨としての防衛力をそぎ、通貨を不安定化させる上で決定的なものとなった。金が1991年3月に「盗まれ」、Leo Wantaによって促進され、Boris Yeltsinの右腕であった人物によって承認されたのである。CIAとFBIからリークした報告の大部分はロシア国庫の盗みはKGBと共産党の工作活動であったと示唆しているが、こうした報告が省いていたのはBoris Yeltsin、アメリカのCIA、アメリカの銀行業界の広範囲に及ぶ関与であった。

 

 

p.19
Wantaと共に盗みを働いたソビエト側の主要なプレイヤーはGregori (別名 Georgy、 Georgii) Matyukhinであった。彼は元KGB将校で、中央銀行の初代総裁となったが、経済の崩壊後「健康上の理由から」その職を退くことになった。114

 

In fact, it was Matyukhin who authorized large capital transfers to
Chechnya, the source of the Chechen ‘advice notes’
that Kozlov attributed to as the source of the theft of the Soviet
Treasury.
実際、チェチェンへの大規模な資本移転を認可したのはMatyukhin であり、Kozlovがソビエト国庫の盗みの原因と考えたチェチェン語の「案内状」の発信元であった。

 

「全ては1991年の夏、Boris Yeltsin の第一副首相であり、RSFSRの最高ソビエトの当時の議長であったRuslan Khasbulatovが自国の人々を助けようと決め、RSFSRの中央銀行の長であったGrigory Matyukhin にチェチェンの小作農の農地にクレジットを与えるよう指示した時に始まった…Khasbulatovの指示を実現した後には、小さな共和国はRSFSRで最大の発行体となった。通貨発行を通じて得られた住民の収入の割合は40%を超えていた(全国平均は17%)。銀行との協力作業によって受け取った現金の総計は彼らが50倍でリターンした‐これもまた他の地域よりもかなり高いものであったが‐現金を超えていた。」115

 

後に、Matyukhinは実際にはCIAのために行動していたことが発覚した。116

 

第二段階において、Wanta、George Soros並びにBushが指定した人間の集団がルーブルの不安定化を開始することになった。2つの主要な工作活動があった:最も大規模なものはAlan Greenspan、Oliver Northによって調整されたもので、Leo Wantaによって実行された。彼らは秘密債券での2400億ドル調達の指揮を執り、この計画の様々な局面を支援したかどで告発されている。117 こうした債券は元OSS/CIA高官、Colonel Russell Hermannが運営していた秘密主義のDurham Trustにより(部分的にあるいは全部)作り出されたものであった。この軍資金はMarcosの金を使って生み出されており、おそらく1989年の全世界規模の債務再清算の間にアメリカが保有していた担保の不法な利回り曲線利益によって増大したものであったと考えられる。118

 

クーデターは第三段階を迎えることになる。KGBにはGorbachevの失脚を望むBush大統領の熱意がよく分かっていた。このクーデターを観察した多くの人間はそれを、成功を意図していなかった偽りのクーデターとして説明した。Yeltsin自身、自分の回顧録で実際にクーデターはヴェールで隠された親Yeltsinのクーデターであったと書いている。119 クーデターを実行した将校も同じように述べた。120

 

1991年のGorbachevに対するクーデターは将校Victor Cherbrikovに仕えていたKGB将校Vladimir Kruchkov121 によって工作されたものであった。彼らは双方ともRobert Maxwellのビジネスパートナーであった。Maxwellはイギリスの金融関係の重要人物で、イスラエルのシークレットサービス職員であることが文書で示されており、アメリカの情報組織の利害を代表していた。彼はIran Contra の取引の間Cherbrikovが軍事兵器をイランとニカラグアのContrasに販売する際に支援し、Cherbrikovのロシアの銀行に数百万ドルを利用可能とさせた。122 1991年の試みられたクーデターの直後に、MaxwellはKGB将校Vladimir KruchkovにMaxwell のヨット上で面会した。123 その1年前、Kruchkovにクーデターについての話し合いを持ちかけたのはMaxwellであった。124  クーデターのあった同じ月に、Maxwellはロシアにおり、イスラエル人を通じてCIAから将校Kruchkovに渡すために7億8000万ドルを受け取った。125  Maxwellのアメリカとの主要な接点はJohn Tower上院議員であった。彼はGeorge H.W. Bushの長年にわたる腹心の友で、October Surpriseへの参画者でもあった。上院議員としての経歴の後に、Towerは実際にMaxwellのためにMaxwellの所有する比較的小さな出版社の一つ‐Pergamon-Brasseyで取締役として働いた。この工作活動において、Maxwellは元退役アメリカ空軍大将 、退役イギリス軍Major Generalによる支援を受けていた。126 Towerの委員会が予定されていた参考人の3分の1もインタヴューしないうちに、BushがOctober Surpriseに関与した疑いを晴らす発表をしたのは、Towerであった。委員会にはBushを会合で見たという2人の目撃者の証言、さらに16人の目撃者とビデオテープまでもが提供されたのだから、この発表は今では一層厚かましいと見なされる。127 128 Towerは1998年にイスラエル政府が10億ドルの貸付をMaxwellに提供出来るように調整していた。129 また寛大にもアメリカの財政支援をイスラエルに与えていたが、これも貸付でなされたことを示すのが公平というものかも知れない。130 Towerは、MaxwellをBushとソビエト情報機関の間の仲介人として利用するという唯一の目的で、Maxwellを1976年にGeorge Bushに紹介していた。131 クーデターの直後に、アメリカとイスラエルの情報工作活動を脅迫しようと企てた後に、Maxwellはヨット上で謎めいた死を遂げた。CIAかモサドのエージェントが彼が期待していた脅迫に対する支払いをするかわりに彼を暗殺したと広くうわさされている。MaxwellのGeorge Bushへと遡るつながりは全く謎めいた形で途絶えた。Tower 上院議員は1991年4月に疑わしい状況の航空機墜落で死亡した。Maxwellの妻はCIAのエージェントから、もし彼女が自分の命を大切に思うのであれば、夫の死について調査するのを思いとどまるように忠告された。132 彼が保管していたKruchkov との電話での会話の録音テープは消失した。133

 

 

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メディアではクーデターは無計画な、強固な反対派による組織化が不完全であった取り組みとして提示され、経験ある、鍛えられた軍将校の集団が酒に酔い、瞬間的な放心状態で、政府を打倒することに決めたのだと示された。

 

「捕らえられた3人の共謀者が述べたと伝えられる説明では、彼らのクーデターは行き当たりばったりで計画されたと示されている。例えば、Mr. Pavlovは共謀者は最高ソビエトが自分達の行動を承認し、その後『物事はうまく行くであろう』と期待していたと述べた。Mr. Yazov はクーデターが計画された8月18日の会合において、彼とMr. Kryuchkovと3人目の共謀者で元内務大臣で、後に自殺したBoris K. Pugoは、皆酒に酔っていたと述べた。Mr. Pavlovは質問者に彼もまたその会合では「かなりな量のアルコール」を飲んだと語った。」134

 

9人の主要な共謀者のうち3人がその失敗した取り組みの後に自殺したと広く伝えられている。ほとんど言及されなかったことは、こうした経験豊かなベテランのうち2人が窓から身を投げ、3人目のBoris Pugoは頭部を自分で3回撃ったということである。

 

「自殺の最も難しい方法とは何であろう。頭部を3回撃つことは間違いなく上位にあるであろう。モスクワ警察筋によれば、8月の反乱が失敗に終わった際、「自殺」したと公式に説明されたソビエト内務大臣で、クーデターの共謀者であったBoris Pugoの死因がそれであった。あと2人の窓から身を投げて自殺したと公式には伝えられた共産党高官について、情報筋はおそらく彼らは沈黙を守るために押し出されたのであろうと述べている。彼らは、党が崩壊する際の国からの共産主義者の富の密輸について間違いなく知り過ぎていた。」135

 

Boris Pugo の死と公式に関連付けられた唯一の人物は、直接Boris Pugoの「逮捕」に関与したViktor Erinであった。136 Erin は後にBank Menatepの最高責任者となり、Yeltsinギャングに対するPutinの取り締まりの一環として、貸し付け詐欺と盗みにより告訴されることになる。137 このクーデターは「方針と名誉」をめぐるクーデターではなく、Project Hammerと関連した多くの出来事と同様、マネーが全てであった。CIAはクーデターの前にRobert Maxwellを通じて将校達に数百万ドルを与えていた。138 こうした取引を最も説明出来たであろう人間は明らかに殺戮されたと見られる。こうした殺戮を担当した集団は後にBank Menatepを通じて、クーデターに資金提供した金融集団と結び付いている。クーデターの際の他の反逆者について言えば、彼らは皆2年後にYeltsinによって刑務所から釈放されたのであった。139

 

1991年6月のアメリカ訪問の際にYeltsinはBushとクーデターについて話し合っており、クーデターは実際には計画に長い時間をかけていたと考えられる。140同年の夏、Yeltsinは、他のモスクワ使節団がGorbachevと共に食事をしていた間、
New York Federal ReserveのChairmanであったGerald Corriganと「個別に」食事をした。141  クーデターにおけるKruchkovの利害に関してMaxwellによって促された話し合いは1990年の夏にまで遡る。142

 

クーデターによってソビエト連邦の解体143、そしてBoris Yeltsinと彼のロシアマフィア新興財閥「一族」並びにカザフスタン大統領Nursultan Nazarbayevによる支配が始まった。その時点で、ソビエト連邦の解体に必要な3つの票のうちの2つが George H.W. Bushの懐にあったことになり、それらはYeltsin とNazarbayevへの票であった。

 

この最終段階において、George H.W. Bush大統領によって配属された一連の工作員が貴重なロシアとCIS(独立国家共同体)の石油、金属、防衛領域の産業資産の乗っ取りを始めることになる。これはBank of New York、AEB 、Riggs Bankを通じてロシアの新興財閥のためのマネーロンダリングに資金を提供し、運営することでなされた。それらの全て、特にBlackstone Investmentは、自分達の懐を潤そうとした。144  Blackstoneは911の攻撃の6週間前のLarry SilvermanのWTC第7ビル購入の背後にあった投資者であることが最終的に判明することになる。145 WTCの喪失の際の金融上の利害をコントロールすることで、この集団はWTCの攻撃の背後にいた犯罪者への調査を求める投資業界の声を沈静化することが出来たのであった。

 

こうした局面へと導いた他の活動を詳細に見ていくと、これは初めからアメリカが指揮を執った情報工作活動であったことが明白となる。この経済戦争にはまた、NY連邦準備銀行のGerald Corrigan、数年前の英国のポンドの値崩れに対する責任のあった国際的通貨投機者George Soros、元駐ドイツ大使R. Mark Palmer、Este Lauder estateへの投資者でその継承者であったRonald Lauderも関与していた。

 

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Palmerと Lauderは後にCentral European Development Corporationと呼ばれる事業において、アメリカ人投資家集団を率いて、George Soros や NM Rothschild Continuation Trustと協力することになる。146 Riggsの集団が巨大企業Yukosを支配することになる一方で、この集団は最終的にロシアの天然ガス巨大企業Gazpromを支配することになる。両社の所有者は今日でも大部分が「隠されて」おり、その代表者は刑務所で過ごし、ロシアの復讐という困難な時を耐え忍んでいる。

 

1988年に、Riggs Bank はJonathon Bush とJ Carter Beeseの指揮の下で、 Valmetと呼ばれるスイスの企業の支配的過半数株式を購入することになった。Dubai出身の弁護士、Stephen CurtisがValmetを支配していた。Curtisは友人にもし自分が近い将来死ぬことがあれば、それは事故ではないと告げた後間もなくして、2005年にヘリコプターの墜落により死亡した。147  1989年の初頭、Riggs-Valmetと呼ばれるRiggsの新しい子会社が元ソビエト圏の国々からマネーを移動させる国際的ネットワークを開設するために、KGBの将校とKGBの表だった人間達の集団と接触を始めた。148 1989年に、Jonathon Bushは自分の兄弟の「公式な」代表として東ヨーロッパとウクライナに赴いた。1989年にGeorge H.W. Bush は国家安全保障局の長官でIran-Contraスキャンダルで端役を務めたAlton G. Keel Jrに、自分の兄弟がexecutive Vice Presidentであった‐Riggs Bankに行って働くよう調整したと考えられる。Keel はInternational Banking Groupを率いることになった。149 この銀行は後にRichard Perleによってボスニアのmujahedin(イスラム戦士)テロリストに資金を注ぐために利用されるのであるが150、ここでの狙いはValmetとして知られる小さなスイスの銀行業者の支配的所有者となることであった。このRiggs-Valmetの活動は、判明したように、世界銀行の「コンサルタント」並びに将来の新興財閥Khordokovsky、Konanykhine、 Berezovsky、Abromovich が実行する複数のKGBの偽装作戦の「コンサルタント」となることであった。Riggs-Valmetのエージェントがこの頂点に立つ4人の新興財閥に対して、どのように彼らの莫大なマネーロンダリングの企みを構築すればよいのか提言し、また西側投資家に対してはロシアの石油とガス操業を視察させ、投資に関する指導を与えるのであった。151 これらの間もなくロシアの新興財閥となる者は、KGB将校のGenerals Aleksey (別名 Alexei) Kondaurov; そしてAnton Surikovのスポンサーでもあり、また西側情報組織のエージェントであったことが伝えられるFillipp (別名Phillip) Bobkovによって、表側に立つ人間として仕組まれていたのであった。152 Kondaurovと Bobkov の両人は、Robert Maxwellと共に行動していたVictor Cherbrikovに以前は仕えていた。Bobkov と Kruchkovの両人(8月のクーデターの指導者)はイデオロギー的に協調しており153、1990年の10月に始まる共産党の経済的活動を構築する上で共に行動した。154  Kondaurovと Alexandre Konanykhine はYeltsinの選挙キャンペーン資金の50%を提供するというキャンペーンへの惜しみない資金提供を通じて、ロシア奥地のBoris Yeltsinという名のそれまで無名の政治家で建設現場監督であった人物をロシアの政治の最前線に担ぎ出すことになる。その間、Riggs Bankは迅速にさらに2人のかつてのIran-Contra スキャンダルへの参画者との銀行業務関係を固めていた:その2人とはスイスの銀行家 Bruce Rappaportと Alfred Hartmannである。当時ルーブルに対する第二の正面攻撃を開始していたGeorge Sorosが関与したのはこの集団を通じてであった。Rappaportと Hartmannはまた自分達の活動のネットワークを Bank of New YorkとイスラエルのThe Eisenberg Groupを含むまでに拡張するのであった。 Rappaportと Hartmannによってさらに3つの集団がこの計画に引き込まれることになったのは活動のこの段階である:その3つの集団とは、ロシアマフィア、イスラエルのモサド、Jacob Rothschildによって代表されるロスチャイルド一族の利害関係者であった。

 

Soros と Rapportはロスチャイルドの金融利害関係者が数多くの未公開の取引の活動に対する口をはさまない資金提供主となるよう取り計らった。例を言えば、10年後Vladimir Putin がKhordokovskyをマネーロンダリングと脱税の容疑で刑務所に送る際、Khordokovskyは刑務所に行く前に、彼はJacob Rothschild を出資だけして活動には口をはさまない自分の主要なパートナーとして名指しし、巨大石油企業Yukosの自分の株をロスチャイルドに「署名して譲渡」することになる。155 ロスチャイルドの利害関係者は、ロシアとフィリピンの金財宝をロンダリングするために利用された可能性のあったBarrick Goldの取締役会にも見られ、また後には傭兵業務を受け持つDiligenceの重役会にも見られることになる。Farwest Ltdとして知られるロシアの傭兵業務はこのDiligenceのロシア部門である。156 FarwestはBobkov と Kondaurovがスポンサーを務めていたもう一人の前KGB/CIA エージェント Anton Surikovによって支配されていた。

 

Rappaportはまた「Bob Klein」という名のアメリカ人紳士をロシア側とBank of New Yorkの彼のパートナーに紹介するのであった。Kleinは数年間この活動に携わったが、1990年代後半にFedがBank of New Yorkのマネーロンダリングについて調査を開始した際には、誰も彼が存在していたことを実証出来なかった。彼は全く姿を消し去ったのである。157 この「幽霊」の存在がこうしたことがそもそもの初めから情報工作活動であったことを示唆するものであったとは誰も想像しなかった。

 

この秘密戦争の第4段階において、Enterpriseは複数の領域で主要なエネルギー産業の乗っ取りに取り掛かった。この戦争のカスピ海前線では、James Giffenがカザフスタンに送り出され、世界最大の未開発の石油埋蔵量であると推定されていたカスピ海のKazak の石油の支配のための様々な合法的、非合法的な取り組みにおいてNazarbayev大統領と共に活動した。それとは反対の多くの証言にもかかわらず、アメリカ政府はGiffenがこうした利益のために活動していたことを否定するのであった。158 Giffen は後に、マネーロンダリングと買収のためアメリカで裁判に掛けられることになる。

 

p.22
Giffenは有罪であったが見たところ判決は言い渡されなかったようである。これは有罪である関係者の沈黙が求められる際にアメリカ司法省によって用いられるよくある技法である。様々な石油会社からの非合法的なマネーの流れは数多くの銀行に行き着くことになる。こうした同じ石油利害関係者がMarch Rich、そしてモサドの主要な工作員の一人であったShaul Eisenbergが所有していたイスラエルの Eisenberg Groupに関与し、石油を動かすことになった。(Eisenberg Groupはある時点ではZim Shippingの株式のほとんど50%を所有していた。このZim Shippingは不思議なことにどうしたわけか911の攻撃の数週間前に世界貿易センターから立ち退いていた。)

 

 

一方、カスピ海の向こう側では、Bushが広範囲に及ぶかつてのIran-Contra工作員を、1)ロシアへの石油の流れを中断する、2)カスピ海から黒海までのパイプラインを構築する機会を創出する、3)カスピ海西棚での石油構想の権利を乗っ取る、との目的の任務を果たすために、アゼルバイジャンに配属していた。初めに、彼はモサドの彼らのかつての僚友David Kimcheと共に活動したことのあった秘密工作員Richard Armitageと Richard Secord、そして彼らの武器密輸のかつての僚友Adnan KashoggiとFarhad Azima を送り込んだ。Al Qaedaの数千人の傭兵を雇い、輸送し、トレーニングし、アゼリー人自由戦士のために戦わせるためであった!159 Osama Bin LadenはArmitageと Secordによって仕込まれた傭兵軍の一部であったと報じられた。160 Osama Bin Laden は1979年からアフガニスタンの傭兵を採用するためにCIAによって保持されていた。161 傭兵採用の役割は後にBin LadenからAllied Media Corp.と呼ばれる会社に移されることになる。162 偶然にも、Allied Media Corp.は、モロッコの米国商工会議所を通じて、伝えられる所によれば911攻撃に責任があったというエージェント、Mohammed AttaのFloridaのビジネスパートナーであったHassan Erroudaniへと結び付くのであった。アゼリ工作の第二波において、Bushはアメリカのアゼルバイジャン‐アメリカ商工会議所の創設を支援し、その懇談会にはDick Cheney、 Richard Armitage、Richard Perle、Riggs BankのKarl Mattisonが含まれることになる。163

 

これらがソビエト経済を崩壊させ、その主要な資産を乗っ取るために開始された主な工作活動であった。こうした作戦は広範囲に及ぶBushの戦略の同盟者とソビエト連邦への反逆者によって支援された。ソビエト連邦が崩壊する際、彼らは自分達の懐と彼らへの西側資金提供主の懐を潤すのであった。

 

こうした活動のソビエト‐ロシア側では、初期の新興財閥には以下の2人のKGB将校がスポンサーとなり、保護していたことを記録が示している。

 

 

· Generals Aleksey (別名 Alexei) Kondaurov;
· Fillipp (別名 Phillip) Bobkov.

 

p.23
ロシア乗っ取りの主要プレイヤー
23

 

1991年のソビエトクーデター 真の目的
232

 

p.24

 

これらの将校が、次には、Yeltsin一族の新興財閥のスポンサーとなり、Yeltsin一族の政治的未来を強めるイスラム教徒テロリストの活動を調整したとして間接的に非難されることになる。164 私的軍隊活動を調整するために彼らがスポンサーとなった人物はAnton Surikovであった。彼はFarwest Ltd. という名のロシアの私的軍事集団の創設者となる。Farwestは元はKGB/ロシアの軍事作戦であり、この作戦はYeltsin一族のロシア経済への支配力を強める目的で偽の「イスラム教徒テロリスト」を雇うためにYeltsin一族によって利用されたと伝えられるのであった。Far WestのメンバーはCIAが資金提供したアフガニスタンとパキスタンのキャンプで訓練を受けたShamil Basayevと取引を行っていたと、フランスとアメリカの政府機関によって伝えられることになる。165 さらに彼のアフガニスタンとのつながりに加えて、Basayevは Al Qaedaの工作員Abu Hafsの知人でもあった。166 地方の報道によれば、Abu Hafs はアメリカ軍によって逃げることが許されたという。また一つの報道では、彼は実際にGeorgiaのアメリカ軍によって捕らえられ、解放されたという。167

 

Basayev はロシア市民に対するイスラム教徒の攻撃を仕掛けるためにFar Westから支払いを受けたと伝えられることになる。168 Adnan Khashoggi は地中海の彼の別荘で会合を開いており、こうした調整の仲介者であると伝えられた。FarwestはSurikovが勤めていたInstitute of Globalization Studies (IPROG) を通じて金融面で Alexei KondaurovとKhordokovskyとつながりがある。Far West はCIAから特別許可を受け、Halliburton やDiligenceのために活動していた。169

 

Diligence とその関連会社 New Bridge がYeltsin一族と連動していた西側の政治的、金融的影響力を具体的に実証することになる。その主要なメンバーには以下が含まれる。

 

· Chairman Richard Burt、Deutschebank Alex BrownのDirector、従ってCarter Beese、Mayo Shattuck、Buzz Krongardへと結び付く;

 

· Neil Bush、George HW Bush大統領の息子;

 

· Ed Rogers、ロビイスト、Shiek Kamal AdhamとAdnan Khashoggi、並びにロシアのAlpha Groupのアメリカでの代弁者。Alpha Groupの代弁者として、この高レベルのロビイストはロシアの犯罪組織の一つの代表を務めた;

 

· Lord Powell、かつてBarrickの懇談会として報じられたことがあったが、広くはRothschild一族の出資金の代弁者として報じられている;

 

· William Webster、元CIA長官、元FBI長官。

 

こうした人物が、Halliburtonと共に、Far Westの雇用主となるのであった。そうして、彼らは政治的テロリストを雇い、保持する自分達の積極性を示すことになる。最終的にBushの組織とFarwestとの提携関係は以下のことを具体的に実証している:

 

· Adnan Khashoggiが、911の目的と計画の多くの局面での主要参画者であり、政治的テロと大量殺戮をもたらす工作活動を明らかに、ためらうことなく手助けしたこと、そしてそのことを示す文書化された記録があること!

 

· Dick Cheneyを含むBush一族の金融装置が、 Al Qaedaと同じ背景を持つイスラムテロリストを用いた政治的テロの契約を準備しており、また主要な麻薬ルートでもある、ある組織(Farwest)とのビジネスを継続していること!

 

· 1991年以来、Bushの贈り物として数十億ドルを受け取っているロシア/イスラエルのマフィア一族(特にYeltsin一族)が、Bushが率いた情報工作活動でも利用された同じプロの政治的テロリストを利用していること!

 

· Bushの 戦争装置がArmitageやSecord の他にも Al Qaedaが訓練した傭兵を雇うチャンネルを持っていたこと!

 

付随的被害 1/5

以下は、http://www.wanttoknow.info/911/Collateral-Damage-911-black_eagle_fund_trust.pdf#search='colateral+damage+911+ep+heidner'の日本語訳です。(p1からp12)

 

p.1
付随的被害:アメリカの秘密工作活動と2001年9月11日のテロリストの攻撃

 

2001年9月11日、大部分のアメリカ人にとって国家安全保障の定義が変わった。
全戦後世代にとって、「国家安全保障」は核攻撃からの保護を意味していた。その日、アメリカ人はこうした脅威を再定義した。2001年9月11日、3機のハイジャックされた旅客機が、多くの観察者がその機はコックピットの未熟なハイジャック犯以外の何かによってコントロールされていたと信じるほどの精確さと技術で、3つの個別のビルに衝突した。このレポートはビルが標的であったと主張するだけでなく、それぞれのビル内の特定のオフィスが決められていた標的であったと主張するものである。 それらのオフィスは、もし発表されれば、結果的に想像出来ない規模の国家安全保障機密を明らかにすることになる情報を、知らないうちに保持していた。この機密を保護することが911の攻撃の動機であった。このレポートはこの安全保障機密に関するものである:その起源と影響に関するものである。このレポートの目的は、あの日に何が正確なところ起きたのかを明確にすることではなく、911事件を理解する文脈を提供することである。

 

当初、世界貿易センターの全面的な破壊、ペンタゴンの部分的破壊、4機の民間旅客機の破壊、2,993人の生命の喪失以外には911の破壊のパターンを理解することは困難であった。しかしながら、読み取られた攻撃の目的を、テロリストの攻撃や「新しい真珠湾」という一般に示された「象徴的」記号から見直し、(政治的行動とは対照的に)特定の目的を持った単なる犯罪として見ることを始めるならば、破壊のパターンには説得力のある論理が存在することが分かる。この記事は、911の攻撃は海軍情報部(ONI)によって調査されていた金融犯罪の隠蔽工作としての意味を持っていたというDick Eastman、Tom Flocco、V.K. Durham、Karl Schwarzによる初期の主張に対する検証を提供するものである。このONIはペンタゴンにオフィスがあり、911で破壊された。1  6年間の検証を経て、このレポートは彼らの主張を裏付ける確実な証拠を提示し、911の攻撃の新しい理論的解釈を提案するものである。そうすることで、この事件を取り巻く多くの異常点‐あるいは不都合な事実‐がEastmanらの主張と一致する意味を持つことになる。このレポートの前提は以下のようなものである:911の攻撃はソビエト連邦に対する秘密の経済戦争に資金供給するために1991年9月に秘密裏に作成された2,400億ドルの債券の清算を隠蔽するためであった。その経済戦争の間に「未知の」西側投資家がソビエト産業を、石油とガスを中心として買い占めていた。911の攻撃はまた、1991年の秘密工作活動と関連する犯罪から多くの連邦政府の調査の矛先をそらす働きもした。そうすることで、この攻撃は「自身の財産を守れ」という情報機関の鉄則のもとで正当化された。2 またこの攻撃はより大きな大義のために人命を犠牲にする情報機関のやり口とも一致する。

 

細心を払った攻撃の標的選びを示す事実をペンタゴンへの攻撃の分析から始める。ペンタゴンのONIのオフィスを標的に選んだことは無作為なことではなかった– この情報は後に提示される3– との結論を下した後には、以下のように尋ねなければならない:世界貿易センターに衝突した航空機と第1ビル、第6ビル、第7ビル内部、タワー地下で爆発したと様々な目撃者によって伝えられた爆発物が、この驚くほどの大きな規模の犯罪の遂行を促進するために意図的に配置されたものであった可能性があるのかと。この疑問を考察する中で、パターンが浮かび上がってくる。Eastman、Flocco、Durham、 Schwarzが主張する犯罪が成功するには、世界貿易センター地下金庫室とその保管物が -10億ドルの金のみならず、数兆ドルの政府発行有価証券が -破壊されねばならなかった。ツインタワーにあった主要な政府証券の仲介業務を行うブローカーの重要な部分が、政府発行有価証券市場にカオスを生み出すために除去されねばならなかった。誰にも疑問視されずに、2,400億ドルの秘密債券の電子的な「清算」が可能となる状況が生み出される必要があった。- 実際にそうした状況が発生し、まさにその日の午後、連邦準備制度は緊急事態を宣言し、その「緊急事態権限」を行使した。4 一連の債券によって資金援助されていた犯罪に対して進展中であった連邦政府の調査は、第6、第7、第1ビルにあった証拠が破壊されたことで、終焉あるいは中断されねばばらなかった。5 最終的には、以下の信じられないことを理解し、実証することになる: 2,400億ドルの秘密の、おそらく非合法である政府の資金援助が1991年9月に生み出されたこと。このパズルの最後のコマを埋めるには、アメリカ合衆国の主要な金融機関の50年の歴史を理解すること、どのようにしてアメリカの情報機関が彼らの簿外の口座の主要な源になったのかを理解すること、そしてなぜこれがTruman以来の全ての大統領によって是認されたのかを理解することが必要とされる。6 そうして、政府指導者と諜報活動員に3,000人の市民の死をもたらした決定の「合理化」を可能とした動機のパターンが明確にされる。

 

 

p.2
世界貿易センター
世界貿易センターには3つの大きな証券ブローカーがあった:Cantor Fitzgerald、Eurobrokers、Garbon Inter Capitalである。9月11日の朝、8時46分に11便がノースタワーのCantor Fitzgeraldがあった階の真下に衝突した。Cantor Fitzgerald は全米最大の証券ディーラーであり7、おそらく間違いなく主要な標的であった。8

 

その直後に、ノースタワーの25階のGarbon Inter Capitalと23階のFBIのオフィスの真下で大きな爆発が、また第1タワーの地下でも、大きな爆発が発生した。爆発により22階から25階までが猛火に包まれた。9 8時47分に22階での炎が伝えられた。10 その後、間もなく、9時03分に175便がサウスタワーのEuro Brokersがあった階の真下に衝突した。(42ページの表を参照。)これら3つの事例において、爆発、炎による破壊が上の数階のオフィスを焼き尽くした。9時37分に77便が、ペンタゴンの新しく改装された部分に移動した数少ないオフィスの一つを標的として、ペンタゴンに衝突した:それは海軍情報部であった。11 海軍情報部の職員は金融取引の調査をしていた。このレポートのおいてはこの金融取引と、世界貿易センターにあり、標的とされた一連の証券ディーラーが運用していた有価証券との関連を示していく。12 幸運なことに、他の大部分の機関はペンタゴンの標的となった部分に移動してはいなかった。ツインタワーの犠牲者の41パーセントがアメリカ政府発行証券を運用していた2つの企業の従業員であった:その2つとはCantor Fitzgeraldと Eurobrokersである。13 ペンタゴンの125人の犠牲者の31パーセントが海軍情報部のあったNaval Command Centerの職員であった。海軍情報部の40人の職員中39人が死亡した。世界貿易センターのタワーの地下金庫室にあった債券の証明書は破壊された。14

 

様々な主張により時間は異なるが、9時00分から9時30分の間のいずれかの時点で、第7ビルから人々は避難していた。いずれかのタワーが崩壊する前に、炎と爆発がビル内部の多くの場所で自然発生的に始まった。こうした観察結果は、火災についての公式説明が崩壊するタワーから飛来した物体が災を発生させて火災が始まったというものであるため、重要である。ビルから逃れた目撃者は火災が既に始まっており、死体も見たと主張している。15 ビルは最終的に破壊され、その方法は今では多くの非公式の観察者が制御解体であったと信じている。第7ビルはこの歴史と関連した金融犯罪の捜査に重要な以下の機関を収納していた:

 

 

アメリカ輸出入銀行      6階

 

アメリカシークレットサービス 9階、10階

 

証券取引委員会        11階、12階、13階

 

国税局            24階、25階

 

CIA             25階

 

国防総省           25階

 

そのオフィスの第三の人物、アメリカシークレットサービス特別捜査官David Curranによれば、「私達が第7ビルに保管していた、全ての事案の証拠が、ビルと共に破壊されました」という。「私達は私達がシークレットサービスとして使用するネットワークを、全てのコンピューターを、全ての装備を失いました。私達が使用するマシンガンからショットガンから電子装置まで全てです。」そのビルを失った結果として多くの事案を終結せねばなりませんでした。16(追加された参考資料の注を参照)

 

こうした最中に、タワーが瓦礫の中に埋まる前に、第6ビルが内部からの爆発により破壊された。17 災害の調査を受け持つFEMAはこのビルに関するデータを収集しなかった。第6ビルはアメリカ関税局と、1992年に創設された55の機関を仲介し、マネーロンダリングを調査する機関であるEl Dorado Task forceの所在地であった。El Dorado Task forceは全米の主要なマネーロンダリングを統合する担当機関であった。911の直後に、これらの集団はテロリストへの資金援助の捜査を再任命されることになった。18 同日、証券取引委員会は国家緊急事態を宣言し、アメリカの歴史上初めて証券取引法第12項(k)に基づきその緊急事態権限を行使し、続く15日間証券取引の清算、決算に対する規定の制約事項を緩和した。こうした変更により2,400億ドルの秘密の政府証券は、所有者の認定をめぐる通常の規定された規制なしで、満期で清算されることが可能となった。19 (これが成し遂げられたやり方はこのレポートの後半で説明される。)

 

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ペンタゴン
その日旅客機の直接攻撃を被ったペンタゴンの海軍情報部は、疑いなく、破壊のために選ばれた標的であったことに留意しなければならない。これが事実であることを示す点が数多く存在する:

 

· アメリカ軍のコマンドセンターと国防長官の執務室はペンタゴンの北に面した部分、River面とMall面に位置していた。20 これは公式な情報である。充分に計画された攻撃においてはこれらの面のいずれかが主要な標的であったはずである。911に責任がある人間達は3年近い時間をかけ自分達の攻撃を計画していたことを思い出す必要がある。彼らの標的と方法は無計画なものではなかったのである。

 

· 攻撃されたペンタゴンの西に面した部分は2年近くにわたり改築されていた箇所であり、そこが明確な理由によって標的とされたのでない限り、標的とは考えられない。

 

· Naval Command Centerはそのペンタゴンの新しく改装された部分に1ヶ月前に移動していた21;

 

· 攻撃した航空機は、北西から接近した後に270度でペンタゴンの周りの旋回飛行をしたのであれ、西から接近し360度の旋回飛行をしたのであれ、いずれのシナリオであっても、ペンタゴンの西側に衝突するには多大な労力を払った。いずれのシナリオであっても、付け加えられた旋回飛行が、余計な飛行時間のために防衛システムが攻撃する航空機を迎撃可能となる機会を生み出し、ハイジャック犯はこの曲芸飛行を遂行することで撃墜されるかなりのリスクを負うことになる。22 (図1、2を参照)

 

· 図1で見られるKoeppelによる接近航路をよく見ると、攻撃中の接近航路はホワイトハウスの真上を飛行し、主要な標的と考えられる標的を迂回し、ペンタゴンの無価値と想定される部分に向かっている。国家運輸安全委員会が示したもう一つの接近航路では、旋回飛行の際の余分な距離のため、真っ直ぐに飛行を続けておれば、ホワイトハウスか議事堂のいずれかに衝突が可能となっていたことになる。

 

· 海軍情報部の職員であったと主張したDerek Vreelandは攻撃の数週間前に攻撃を予測していた23;

 

· ONIは複数の情報筋により、1989年から1991年の非合法取引を文書で示すファックスのコピーを漏洩した責任があったと考えられている。24

 

3

 

図1(上)は2つの旋回飛行の航路を示している。左は、元空軍パイロットSteve Koeppel25 が地図で示した航路であり、右は国家運輸安全委員会が示した公式の接近航路である。26

 

 

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図2(下)はONIに衝突する西側からの接近航路を示し、北側から接近する直接の航路では初めにある主要標的であるMallと River入り口を度外視している。

 

4

 

77便はペンタゴンの空の部分として知られていたはずの箇所に正確に衝突するために、3つの主要な標的(ホワイトハウス、議事堂、ペンタゴンの北面のコマンドセンター)を「通過」したのだろうか。「たぐい稀な技術」を持っていたと説明されたパイロットは、数年の計画の後に、無価値な標的に衝突したのだろうか。パイロットは自分が衝突を望んだまさにその箇所に衝突したと想定すべきであろう。 サウスタワーとペンタゴンに衝突した航空機は正確に標的に衝突するために、最後の最後で曲芸飛行を果たしたのである。攻撃可能な標的が数多くある中で、なぜこれらの標的を選んだのであろうか。

 

アメリカ人の大多数にとって、あの日に関する答えられていない疑問は数多くある。そうした疑問の多くは答えられていないが、WTCの特定箇所が経験したただならぬ破壊とペンタゴンの特異な標的選びは、全てEastman、Durham、 Flocco、Schwarzの主張の鍵となる箇所の意図的な破壊のパターンを裏付けている。大部分のメディアの報道は、一連の攻撃の背後にはOsama Bin Laden がいたというアメリカ政府の主張に従ったものであるが、海外メディアはAl Qaedaの背後にあった「本当の力」は分かっていないと示唆する報道を提供していた。27 見ていくように、この攻撃の背後にあった金融の力は一連の債券を生み出したのと同じ力であり、またAl Qaedaに資金援助したのと同じ力であった。

 

世界貿易センター攻撃の起源
大多数の歴史家は911の歴史を、Osama Bin Ladenが fatwa(死刑宣言)つまり jihad(聖戦)をアメリカに対して宣言し、Mohammed Attaが率いる「Hamburg Group」がAl Qaedaにサービスを「申し出た」と伝えられる1998年に遡る。28 しかしながら、911の攻撃の動機を特徴付ける歴史はさらに以前にまで遡る。WTCへの攻撃の原因を取り巻く疑問に対する答えは、George H.W. Bushが大統領であった1990年あるいは1991年にまで遡る出来事の中に見出すことになる。

 

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この期間の活動について知ることは、かなりの部分が、George H.W. Bushの息子、George W. Bushが2001年11月1日に発令した大統領命令13233によって隠されている。この大統領命令には、一般市民の過去の大統領の記録を見る権利と国家安全保障を保護する必要との均衡を保つ意図があった。結果として、1990年と1991年の活動を明らかにする可能性のある公式記録は国家安全保障とそれを支持する人間の利益のために一般のアクセスから保護されたままである。そのため、この1980年代後半から1990年代初頭の出来事の再構築はニュース報道、書物、記事に基付いている。

 

公けの記録が示唆するのは、1989年に第一期Bush政権が始まった際George H.W. Bushがソビエト連邦の崩壊をもたらすための秘密裏の経済的戦争プログラムを起動させたということである。このプログラムの名称は、その出資金が隠されている「第三世界投資プログラム」であり数十億ドルの秘密工作活動と以前は伝えられていた、Project Hammerであると考えられる。29 このプログラムは以下の4つの秘密工作活動からなっていた:

 

1)ソビエトの資産の盗み
2)ルーブルの通貨不安定化
3)Gorbachevに反対する1991年8月のKGB将校のクーデターへの資金援助
4)ソビエト連邦の主要なエネルギーと防衛産業の乗っ取り

 

当初、このプログラムはBush副大統領が作成し、Ronald Reagan大統領がサインした複数の大統領命令によって規定された通りのアメリカ政府の政策的枠組みの範囲内で実施された。この計画は当初ReaganのCIA 長官であったWilliam Caseyによって立てられていたと信じるに十分な理由がある。第二次世界大戦の最中、Casey はヨーロッパでOSSの指揮を取る前、Board of Economic Warfareで働いており、彼の役割は「Hitlerの経済的急所を特定し、どうすればそこを締め上げることが可能かを調べること」であった。30 この計画の工作員の多くはおそらくCIAや国家安全保障のチャンネルを通じて関与したと思われる。しかしながら、Bushの閣僚が得た経験やIran-Contra やFerdinand Marcosの金工作(これらについては短く説明する)の際に民間部門のカウンターパートが得た経験の結果、この計画の実施には以下の2つの新しい条件が付随することになった:

 

1)議会によって承認されていない方針に秘密裏の非合法的資金を用いることを受容されたままとすること。George H.W. Bushのもとで、秘密裏の工作活動は議会の監視から見逃され、免罪されることが可能とすること;

 

アメリカの一般市民と彼らの議会での代表が自分達の生活に気を取られており、海外の土地で起きることに、たとえそれらの行動が法や憲法を侵害するとしても、気にかけないこと。

 

Iran-Contraスキャンダルの際にアメリカ合衆国憲法を覆し、国際法を破っても重大な結果とならなかったことに勢いを得て、「Vulcans」として知られるBush政権の集団は共産主義の精神を徹底的に叩き潰すさらに大きな行動を計画した。この集団はローマ人の戦争の神– Vulcanにちなんで、自分達にこの名称を与えていた。彼らはGeorge H.W. Bushのもとでソビエト連邦とイラクに対して、George W. Bushのもとでイラクとアフガニスタンに対して戦争を仕掛けた。この集団に属する者は31 以下である。

 

· Dick Cheney
· Don Rumsfeld
· Colin Powell
· Paul Wolfowitz
· Richard Armitage
· Condoleezza Rice

 

Vulcanの冷戦を終結させる行動は議会の監視には見えない秘密の軍資金によって支えられていた。32 この軍資金は以下の複数の名称で知られることになる:Black Eagle Trust、Marcos gold、Yamashita’s Gold、 Golden Lily Treasure、Durham Trust、 Project Hammerという名称である。 33 これらの同じVulcansメンバーが2000年にGeorge H. W. Bushの息子のGeorge W. Bush大統領の政権で、権力の座に戻ることになった。

 

Vulcansが実施したこの秘密裏の工作活動は‐控えめに見ても‐有価証券詐欺、マネーロンダリング、海外腐敗行為防止法の侵害行為の可能性を伴っていた。34 数多くの状況において、殺戮、偽りの拘束が後悔の念にかられたこの計画の参加者が話を一般に公開することを防ぐ取り組みの主要な柱であったと考えられる。35 ソビエト連邦の崩壊をもたらすという‐その目的を達成する一方で、このプログラムはまた同時に、アメリカの納税者の費用を使って、この方針を実施した個人の懐を潤したと考えられる。これは秘密の非合法と言われる債券での2,400億ドルという巨額な規模でなされたのであった。この債券は911の余波の中でアメリカの納税者によって裏付けられた中期国債と摩り替わっていたと考えられる!

 

 

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17年後の2008年に、一連の秘密債券から直接利益を得た個人的金融帝国の利益は数兆ドルになっているに違いないが、それらは正当には様々な市民の財産である。Putinの選出した新興財閥の追放はこの話と一致する。

 

この冷戦を終結させるという当初の国家安全保障の目的を達成するために利用された秘密債券は最終的に世界貿易センターのブローカーの地下金庫室に行き、2001年9月11日に破壊されたのであった。36 それらは9月12日に清算と決済の満期が訪れた。これらの債券を調査していた連邦政府関係機関‐海軍情報部‐は911で破壊されたペンタゴンの部分にあった。37 1991年の経済的冷戦の勝利に関与した国家安全保障の上級関係者の主要集団にとっては、WTC、ペンタゴン、4機の旅客機、人々は冷戦の終結における「付随的」被害となるのであった。彼らの死は、Black Eagle Trustの存在やそれが50年以上にわたり資金供給してきた秘密裏の活動の存在を隠すために、必要であった。一連の出来事を別の観点で見ると、彼らの命やビルの破壊は、1980年代にしばしば「Enterprise」と称されたが、依然として影に潜んでいる実業家と犯罪者の仲間意識や兄弟意識によって継続されている無法状態を隠蔽する工作の構成要素であったことが示されることになる。

 

軍資金
一連の債券とその資金源の話は数年の間にインターネット上で発表されており、38 この債券自体が訴訟や刑事手続きの渦中にあるものの、この話は実際には信頼が得られてはいない。一見した所インターネット上の冷戦に関する伝説の類とみなされる話の起源を理解しようとすると、歴史が1991年9月に実際にGeorge H.W. Bush とAlan Greenspanが、ソビエト連邦の経済に対する攻撃を通じて冷戦を終結させるというより広範囲のプログラムの一部として、ソビエト連邦の買い占めに債券で2,400億ドルを資金提供したことを示唆している。さらに、George H.W. Bush大統領はソビエトの経済の特定部門を乗っ取るために数多くの関連した秘密工作を開始していた。そして10年後の2001年に一連のプログラムは最終的にアメリカの政策発案者のもとへ戻ってきたのであった。一連のプログラムの全てではないとしても、大部分が法の境界線の外側にはみ出していたと考えられる。結果として、英国、スイス、ロシア、カザフスタン、フィリピンの捜査機関が議会とアメリカ司法省に、海外の裁判所では犯罪活動と見なされた、一連の秘密活動に資金提供するために利用された銀行の口座を明らかにするべく圧力を加えていた。Alan Greenspan、財務省、アメリカとヨーロッパの主要な銀行は、金価格操作つまり非合法的金販売で訴えられていた。この金価格操作の起源は、この戦争を仕掛けるために用いられた秘密の軍資金にあると考えられる。39 同時に、Marcos体制の大量虐殺の生存者による訴訟と親イスラエルロビイストの影響下にあったアメリカ議会が、スイスの銀行業カルテルに公開調査のためにその金塊の記録の明らかにするべく圧力を加えていた。調査の際のこれらの銀行による全面公開は、1980年代と1990年代初頭の大規模な金融詐欺の一部へのアメリカ政府の共謀を、無数のアメリカとイギリス政府機関のよる50年にわたる金塊の盗みと共に、大きく明らかにする結果となっていたであろう。さらに、これらの口座に対する調査はBlack Eagle fundとして知られる国家安全保障の秘密と第二次世界大戦以降の実質的に全ての秘密工作活動を明らかにするものでもあろう。一連の調査を終結させ、そのような情報の公開を防ぐことが、WTCとペンタゴンの破壊の唯一の目的であった。

 

このような調査と法的圧力は1997年に蓄積が始まり、1998年2月にOsama Bin Ladenが fatwaを宣言し、Attaが911の攻撃の計画を始めたのであった。この1998年になされた世界貿易センターの攻撃をもたらした決定を理解するには、歴史を遡り、一連の銀行家や政府関係者が直面していた情報公開の規模を理解しなければならない。Attaが開始した計画に先立つ10年前、ソビエト連邦に対する経済的戦争の計画が始まっていた。この秘密戦争の資金源は第二次世界大戦の終わりにまで遡るが、その軍資金の規模が1991年のソビエト連邦に対する攻撃を実行可能とするほどの規模になるのは1986年になってからであった。この資金源を理解することは、なぜ2001年に世界貿易センターが破壊されたのかを理解する上で決定的に重要である。

 

数多くの情報筋が第二次大戦の終わりに、大日本帝国の財宝がフィリピンでGeneral MacArthurのchief of Intelligenceであった、General Charles Willoughbyの部下によって発見されたことを文書で示している。その後Golden Lily Treasureとして知られることになる、この大量の富は50年を超える間の東南アジアや中国で日本軍の略奪により蓄積されたものであった。それはアメリカの潜水艦による日本封鎖のためにフィリピンに蓄えられていた。報告は異なるが、公有財産にある文書は回収された財宝は、宝石やダイヤモンドを含めず、金で280,000トンを超えていたことを示している。40 戦後、そのstaff member直属の部下であったEdward Lansdaleと Severino Garcia Diaz Santa Romana は山下奉文陸軍大将の運転手であった‐小島香椎少佐を拷問し、金のありかを吐かせ、地図を作らせた。41

 

 

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LansdaleがAssistant Secretary of WarであったJohn J. McCloyにこの発見についてブリーフィングすると、その金を没収し、その発見を隠蔽するアメリカの閣僚レベルでの決定がなされた。この金はBlack Eagle  トラストに加えられることになった。Black Eagle トラストを創設したのは、Secretary of the Navy であったRobert B. AndersonやSecretary of War であったHenry L Stimsonと並んで、McCloyであった。42 John McCloyはAdolph Hitlerと1939年のオリンピックでボックス席を共にしたことがあったが、世界銀行の総裁になった。Robert Andersonはイギリスの西インド諸島のCommercial Exchange Bankを運営することになり、非合法的な銀行業務と脱税で有罪判決を受け、刑務所送りとなった。43 その集団の第4のメンバーであった – William ‘Wild Bill’ Donovan – はCIAを創設することになり、この金を彼の部下が代表となっていた主要な銀行に分配し、CIAの秘密工作活動での主要なパートナーとしてAIGを設立した。

 

第二次大戦に始まるアメリカ情報機関の商業銀行業への関与
7

 

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アメリカの情報機関の銀行業の歴史
(Black Eagle Trust とGolden Lily という起源から)
8

 

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彼らが創設したトラストは第三帝国の金の延べ棒に刻印されていたナチスの黒い鷹からその名称を取っている。第三帝国から没収された金塊はその正当な所有者やその相続人には返還されず、このトラストの資金源となった。44 長年にわたり、このナチスの金の意義は日本の財宝と比較すると劣っていた。資金は増大するにつれて、100を超える全世界の個人口座に分配され、Trumanから Clintonに至る全ての大統領の財政顧問であったGeneral Earle Cockeによって、彼が死ぬまで管理された。45 これらの口座を管理していた大多数の人物はかなり以前に死亡しており、それらの相続人による口座へのアクセスの試みは強固な拒絶、偽りの拘束、あるいは疑わしい状況での死に直面してきた。Santa Romanoの相続人はその一つの例である。46 Mrs. V. K. Durhamはそうした人間の一人である。彼女の夫、Colonel Russell HermanはDurham Trustを管理していた。このレポートはしばらく彼らの話に戻ることにする。

 

ナチスと日本の財宝の金の没収を開始し、実施した担当者達は第二次世界大戦末期のアメリカと英国の最上級の情報将校とアメリカ合衆国の大統領の閣僚を代表している。Office of Strategic Services(戦略諜報局) – OSS -でのこうした意思決定者は以下であった:

 

 

· Wild Bill Donovan、第一次世界大戦で最も勲章を受けた兵士で、OSSの長官であった。彼の部下には以下の人物が含まれていた:

 

· Allen Dulles、将来のCIA長官で、Bank of New Yorkの社長、Brown Brothers, Harrimanの法律上の代表者。47

 

· Henry S Morganと Spencer Morgan。Henryと Spencerは JP Morganの息子であったが、金融帝国を運営する業務から戻ったのであった。この帝国はJP Morganに端を発し、‘Morgan and Chase’、‘Chase Manhattan’へと発展し、最終的には2008年にChaseとして知られることになる。

 

· Paul Helliwellはアメリカの情報組織の秘密工作活動の主要な銀行家となり、Nassau Castle Bankを設立し、その後Mercantile Bank and Trustを設立する。Castle Bankが閉鎖しなければならなくなった際に、彼はNugan Hand Bankを設立した。Nugan Hand Bankが閉鎖した際、彼はその銀行業務をIllinois州ChicagoのHousehold Bankと悪名高いBCCI 銀行に移す支援をした。彼を代表する表向きの人物がBill Donovanの知人、General Earle (別名Erle) Cockeであった。48

 

· General Earl Cockeは2000年に死去するまで、Trumanから始まる全ての大統領の金融アドバイザーとなる。Cockeは古典的な意味での真のアメリカの英雄であった:Silver Star、4つのBronze Star、4つのPurple Heartの受賞者であった。彼はまた、ソビエト連邦の転覆とソビエトの石油とガス資源を西側投資家の管理の下に置こうとする企みのために用いられることになるBlack Eagle FundとProject Hammerの調整者でもあった。

 

· George S Moore;Citibankへと発展することになるFirst National City Bank of New Yorkの将来のPresident 、CEO。Citibankは116,000トンを超えるMarcos の金の後始末をした。49

 

· General George Olmsted;もう一人の第二次世界大戦の英雄で、後にアメリカ軍の軍事援助を分配する責任者となる。その後International Bankとして知られるWashington DCに活動拠点を置く銀行持ち株会社のPresidentとなり、CIAが所有するバハマのMercantile Bank and Trust を引き継いだ。50 Olmstedの指揮の下で、International Bankは当時First Americanとして知られていたFinancial General Bankshares (FGB) をBCCIに売却した。51

 

· William Colby、将来のCIA長官、Helliwellが所有する秘密工作銀行の弁護士。

 

· William Casey、勲章を受けた第二次世界大戦の退役軍人、将来のCIA長官。
Caseyは1945年にPaul Helliwellから、OSSのヨーロッパの“Secret Intelligence Branch”を引き継いだ。52

 

これらの人物が「戦争装置」を生み出すために働いたOSSの中核を形成しており、53 実質的に彼ら全員が世界の最も重要な銀行において支配的役割を演じることになった。

 

British Special Operations Executive(SOE)からは、Jardine Matheson BankのJohn Keswickと William Keswickが参画し、OSSを支援した。54

 

Keswick 一族はまたHong Kong Shanghai Banking Corporation (HSBC)も支配することになった。55 50年後に、これらの人物が代表する金融機関は、彼らが自分達の金を隠したスイス‐ドイツの銀行と並んで、世界の主要な金融銀行となるのであった。

 

Lansdaleと Santa Romanaが財宝の回収を受け持つことになった。彼らは金の大部分が埋められていた土地を没収し、その後採掘するために、Hukbalahak の反乱による「共産主革命」をでっち上げた。56 いくつかの埋蔵地はClark 空軍基地上にあった。57  年月が過ぎると、Zurich のLansdaleの個人口座は30,000トンを超えるほどに増大し– いかなる近代国民国家の国庫よりも巨大な規模になった。Santa Romanaは複数の口座を持っており、最大の単体口座は20,000トンと見積もられていた。これらの口座は彼らの名前で開設されたものであったが、時が過ぎるにつれ、これらは実際には政府の口座であったことが示されることになった。参照基準として記すと、世界の金の年産量は1,200 トンと見積もられており、1980年のアメリカのFort Knoxにおける金の貯蔵はわずかに8,221トンを保有するのみであった。1980年以降はFort Knoxの金保有を示す公式報告がない。

 

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David Guyatt 、Sterling Seagrave、Peggy Seagraveによれば、Yamashita goldは
Black Eagle Fundの基盤となり、そこからアメリカの情報筋が関与した多くの秘密工作活動は資金提供を受けることになったという。58 最も一般的な国際法の解釈は金は(ナチスの金に対してなされたように59)それが盗まれた国に返還されるべきであると、あるいは米国財務省に取り入れられるべきであるというものである。明確な言い方をすれば、アメリカ政府のこの件に関するニュースを抑圧しようとの継続した取り組みはこの金の没収が非合法であった明白な証拠を提供するものである。

 

Lansdaleのフィリピンでの工作活動はアメリカ情報筋が関与する現代の秘密工作活動に共通する多くの特徴を生み出した:つまり賄賂、窃盗、拷問、偽旗作戦である。アメリカの情報組織とイスラエルの情報組織の間のつながりを創出することになったのはLansdaleであったと思われる。情報組織がアメリカの犯罪組織の働きを保持する先例を示したのはLansdaleであったと思われる。Lansdaleは1961年のFidel Castroに対するアメリカの戦争の際に、アメリカのマフィア一族のボス、Carlos Marcello、Santos Trafficante、Meyer Lansky、Lucky Lucianoを雇うことになった。彼がイタリアのマフィア一族を雇って、イタリアの共産党に対する非合法工作活動を仕掛けたのと同様であった。

 

 

「…Lansdaleの雇ったギャングはまさしくFBN(連邦麻薬局)が追っていたギャング--Carlos Marcello、Santos Trafficante、Meyer Lansky、Lucky Luciano …であった。CIAとのつながりは、もちろん、‘Wild Bill’ Donovanが率いたかつてのOSSと同組織がLucky Lucianoとコルシカ島人マフィアを登用し、マルセイユや地中海沿岸の他の場所の共産主義者労組の港湾労働者を打ちのめし、殺戮し、シチリア島を共産主義者から奪い返したことに始まるものであった。CIAの承認を受け、麻薬密売を活動の資金源として利用しながら、マフィアはアメリカへの麻薬供給ルートのお膳立てをした。多くのFBN(連邦麻薬局)の活動は麻薬の供給源をマフィアに遡っているが、一方レバノン、 トルコ、 アフガニスタン、中東のいずれかの場所を経由した供給は、国家安全保障上の理由による極めて強力なCIAの介入によって、ただ阻止されるばかりであり、捜査は終了することになる。」60

 

海外の地の侵略を支持するアメリカ市民の同意を集めるために、無辜のアメリカ市民を犠牲にすることを提案し、それを正当化したのはLansdaleのチームであったと思われる。これはCuba projectのためにLansdaleに仕えた陸軍准将William H. Craigによって運営されたプログラムのもとでなされた。61 このプロジェクトはOperation Northwoodsと呼ばるものであった。このプロジェクトを示す文書は40年程過ぎた後にRobert McNamaraのファイルから誤って一般に公開されることになり、Lansdaleの配下の工作員は戦争を仕掛けるほどであったことを明らかにした。62 これらの文書において、アメリカ軍はキューバへの第二の侵略を正当化するためにアメリカ市民に対して「テロ」キャンペーンを仕掛けることもあることを認めていたのであった。これはアメリカの情報工作活動がテロリストの戦術を用いたことをはじめて公式に認めるものであった。

 

Fidel Castro を狙った暗殺班のお膳立てを監督していたのは、Floridaからではあったが、Lansdaleであった。暗殺ビジネスにおけるLansdaleの弟子の一人がTed Shackleyであり、Operation Phoenixのもとでベトナムでの暗殺班のお膳立てに取り掛かることになった。63 ShackleyはCuba Projectからベトナムを支援する秘密戦争のために、Felix Rodriguezを従えてラオスに行くことになった。Felix Rodriguezは元CIA長官George H.W. Bushの腹心の友であり、BushがRonald Reaganのもとで副大統領になった時にも、Bushと直通電話で連絡する関係を維持した。64 アメリカの情報機関が資金提供していたIran-Contraの兵器弾薬密輸のパイロットがニカラグアで撃ち落とされた時に、George Bushに電話し、パイロットが生きたまま捕らえられたと彼に知らせたのはRodriguezであった。 ベトナムで、ShackleyとRodriguezは自分達の工作員のサークルを拡張し、Oliver North、Richard Secord、Richard Armitageを含むまでになるのであった。North、Secord、Armitageは自分達がルールの外側で活動することで共産主義者を相手に「好成績を挙げる」ことが出来る人間であることを実証していた。彼らがアメリカの秘密工作活動指導部の第二世代をもたらすことになった。これらの人物が自分達の国の軍務で育成した「是が非でも」という熱意はアメリカ軍事裁判所におけるMai Lai の大虐殺の裁判では、許容不可能であるとの判決を受けた。65 しかしWild Bill Donovanが生み出した「戦闘装置」によって放免された。

 

東南アジアにいる間に、North、Secord、Armitage、Rodriguez、Shackleyは自分達の工作活動に対して、議会の監視下にある資金によってではなく、オーストラリアのNugan Hand bankを通じて資金提供することになった。66 Nugan Hand Ltd. は1973年にSydneyで(世評ではマフィアと関係があると言われている)オーストラリア人弁護士Frank NuganとPhoenix Projectの一環として北ラオスでの活動経験のある元アメリカ軍グリーンベレーのMichael Jon Hand によって創設された。彼らは創設の際、当初のYamashita gold の回収作戦行動における主要なOSS職員の一人であった、Paul Helliwellにより支援を受けていた。67 Frank Nuganの一族はフィリピンのアメリカ海軍基地とオーストラリアの間の主要生活必需品の輸送業務を行っていた。68

 

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Marcosの財宝の一部の流れについて洞察が得られるのは、Frank Nuganと彼のビジネスパートナーであったPeter Abelesを通じてである。Peter Abelesはオーストラリアでハンガリー人マフィアとして知られる集団のメンバーであり、Henry Keswickのパートナーであるとの評判を得ていた。Sir Henry KeswickはSOEの将校John Keswickの息子であった。Keswickの一族はJardine Mathesonの 支配的過半数株式を持っていた。Jardine Mathesonは1970年代中盤に始まった、Ferdinand Marcoの金の精錬事業所を所有し、操業していた。69 Keswickの一族はまたHong Kong and Shanghai Banking Corporation (HSBC)の支配的過半数株式も持っていた。Citibankが没収された財宝の最大の受け入れ口となるのであるが、このHSBCはSanta Romanaの判明している金の口座の最大の保管者であった。70 Romanaが死亡した時、この銀行は彼の口座を彼の相続人に譲渡することを拒み、彼の口座を没収した。71

 

カナダ人実業家Peter Munkを1967年のカナダでの恥ずべきインサイダートレード訴訟から表舞台のビジネスに連れ戻したのはPeter AbelesとSir Henry Keswickであった。Munkは 最終的にBarrick Goldへと発展する一連の業務において、Adnan Kashoggi、Sheik Kamal、Edgar Bronfmannと提携を結ぶことになった。72 Barrick GoldはMarcos の金の回収と関係するほとんど全てのブリオンバンクの投資者となった。

 

こうした銀行がBarrickに、借りた金は彼らの金採掘事業と置換されるとの契約で金を貸付けると、Barrickはその借りた金をデリバティヴとして販売するのであった。こうした取引の多くを示す記録は、Enronが崩壊し、取引業務とその全ての記録がMarcosの金のもう一つの主要な受け入れ口であったUBSに引き継がれた際に、消失した。報じられる所によれば、FBIはこうした取引に対して捜査を実施しており、その捜査ファイルはWTCのノースタワーの23階に保管されていたという。911に関する一人一人の話を再調査すると、WTCの崩壊の前に爆発物によってオフィスが意図的に標的とされていたことが示唆される。73

 

Nugan Hand BankはMarcosの金をフィリピンから秘密工作活動に移転するために利用された多くの銀行の一つとなった。陸軍准将Earle CockeはNugan Hand のWashington支店を受け持つPresidentであったが、Project Hammerと Black Eagle Trustの主要な管理者となった。アメリカの情報工作活動出身のNugan Hand Bankの従業員には以下の人物が含まれていた:

 

 

· General Leroy J. Manor(Manila支店の支配人)U.S. Pacificの元chief of staff;対暴徒特別活動のCommand and deputy director;Marcosの義理の兄弟とオフィスを共有していた;

 

· General Edwin F. Black(Hawaii支店のpresident)タイの米軍の元司令官

 

· Richard Secord(Iran-Contra、ベトナムでの暗殺を全面的に受け持った工作員、アフガニスタンと中央アジアでMujahadeen(イスラム戦士)軍を創設した);

 

· Dale Holmgreen(CIAの所有するCivil Air Transportのchairman 、Taiwan支店の支配人);

 

· Richard L. Armitage(タイでのペンタゴン特別コンサルタント、インドネシアからテヘランのShackleyの口座へのヘロイン利益の譲渡を監督した);

 

· William Colby (弁護士でありCIAの元長官);

 

· Rear-Admiral Earl P. Yates、Policy and Plans of the U.S. Pacific Command の元Chief of Staff、対暴徒活動の専門家、同社のpresident となった;

 

· Walter McDonald(引退したCIA副長官、Annapolis支店の代表);

 

· Dr. Guy Parker(RAND Corporationの専門家、銀行コンサルタントとなった)
共和党の外交政策の上級アドヴァイザー;

 

この銀行はアメリカの秘密工作活動のための資金調達部門としてオーストラリアで創設されたものであり74、またMarcosの金のルートでもあった。この「銀行」の目的の一つはオーストラリアの労働党政府を早期に終焉させることであった。Whitlam政府は静かにアメリカ企業の子会社を国有化する恐れがあった。

 

「その後の調査によりNugan-Hand bankはTask Force 157という工作活動の隠れ蓑として利用された組織であることが確定した。Task Force 157 は Henry Kissingerによって設置された集団であったが、極めて奇妙な方法で設置された。
それは小型CIAであったが実際にはCIAから分離しており、おそらくKissingerがTask Force 157が行っていたこととCIAの間のつながりを否定出来るように、Kissingerによって設置されたのであろう。それでも、Task Force 157の要員にはCubaに対するサボタージュ工作のリーダーの一人であり、ベトナム戦争の際のサイゴンのStation Chiefであり、CIAの西半球部局の局長であったTed Shackleyが含まれていた。つまりこのように彼とCIAが行っていたことを切り離すことは極めて困難であることを示す申し分のないCIAの記録があるのである。Task Force 157の構想には2つの要素があったと考えられる:第一に、Whitlam政府に対する工作活動を仕掛けること。そして第二に、武器取引や禁制品の密輸のようなある種のアメリカの工作活動の拠点としてオーストラリアを利用することを強行することである。」75

 

 

p.12
Nugan Hand Bankは1980年1月、Frank Nuganの未解決の殺害あるいは自殺の数日後に閉鎖した。彼の死亡の理由は特定されていないが、その当時、この工作活動は露呈する危険性があった。

 

「国家安全保障局の元副長官で、CIAの副長官でもあったBobby Inmanは2つの場面で 、Nugan-Handに対する調査がWhitlam政府(オーストラリア労働党政府)に対して仕掛けられた一連の汚い手口を明らかにすることになるのではないかとの深い懸念を表明した。」76

 

(足跡を隠すために殺人を用いるというアメリカの情報機関の手口は、このレポートでのちにIran-ContraとOctober Surprise事件を再検証する際に、さらに実証される。)
John HandはFrank Nuganの死の数日後に行方不明となり、再び姿を現すことはなかった。銀行業務はIllinois州ChicagoのHouseHold Bankに移されたが、そこはWilliam Colbyが非公式のアドバイザーとなるのであった。そして、Herman Skolnickによれば、Household BankはNugan Handの業務を継承することになったという。

 

その役割には、秘密工作活動の資金の移転、暗殺チームへの資金提供、麻薬の横取り、ギャンブル、密輸品の武器火薬類の略奪があった;軍人、民間人、多国籍の人間が関与していた。「退役」あるいは「休暇中」と想定される、情報機関の職員と並んでアメリカの軍人、司令官、将軍が、Nugan-Handを操業しており、その後Householdとその無数の関連部署や従属会社を支援した。この「マネーを追跡する」プロジェクトは、伝えられる所によれば元々はArkansasを拠点とする業務を受け持つ子会社であり、銀行業務コンピューターサービス会社であったSystematicsの支援を受けて、Household Internationalによって全般的に実施されたという。対象となったのは友人側と敵対側の双方の銀行であった。(Vince) Fosterと彼のチーム --Hillary (Rodham Clinton)と Webster (Hubbell) --は自分達がSystematicsの「弁護士」と想定されるという隠れ蓑を利用した…ここでのVincent と Hillaryの役割はChicagoを拠点とする法律会社Hopkins & Sutterによって調整され、監督されていた…77

 

Household Financeの多くの部門はその後間もなくHarris Bankに吸収合併され、Harris BankはBank of Montrealに吸収合併された。Bank of MontrealはBronfmann一族によって支配されることになるが、Bronfmann一族はBarrick Goldに大規模に投資していた。スイスの銀行カルテルと1998年に取引を結び、ホロコーストとMarcosの金の口座に対する調査を求めるアメリカ議会とイスラエルの圧力を頓挫させることになるのは、Edgar Bronfmannであった。

 

1980年代後半までに、自分達のエージェントとして第二次世界大戦末期のOSSの情報工作活動におけるエージェントがいた銀行が、2001年までに地球規模で支配的な銀行となっていた。

 

· Morgan Guaranty Trust
· Chase Manhattan
· Citibank
· Jardine Matheson
· UBS
· Deutschebank
· HSBC

 

1960年代と1970年代にBlack Eagle Trustによって資金提供された秘密工作活動は、それらを秘密にしようとの企てにも関わらず、アメリカの世界的なイメージの目に見える汚点となった。ホワイトハウスを浄化しようとの取り組みにおいて、Jimmy Carterは800人の秘密作戦工作員の退職を命じた。78  こうした工作員は民間コンサルティング会社や警備会社に移り、秘密工作活動の下請け契約者として雇われた。こうして後に「Enterprise」と称されることになる民間人工作員の緩やかな結びつきが始まった。CIA長官であったGeorge H.W. Bushはこの集団に多くの知人を持っており、彼らと共にアメリカの外交政策に対する、また外交政策が自分達の利益のために生み出す海外投資の機会に対する自分達の影響力と支配力を取り戻すために活動することになった。

2013年11月24日 (日)

新しい研究:「陰謀論者」は健全に思考し;政府にだまされている人は非合理で、敵意に満ちている

以下は、http://www.veteranstoday.com/2013/07/14/whatabout7/の日本語訳です。

   

 

 

 

新しい研究:「陰謀論者」は健全に思考し;政府にだまされている人は非合理で、敵意に満ちている

 

H_sharifi20130712040256270320x179_3by Kevin Barrett

 

 

 

このビルは倒れているのであろうか、それとも爆裂しているのだろうか?「倒れている」という人は薬を飲む必要がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アメリカとイギリスの心理学者と社会科学者による最近の研究が、主流メディアの紋切り型の報道とは反対に、論争中の事件の公式説明を受け入れる人々よりも、「陰謀論者」とレッテルを貼られた人々の方がより健全な思考力を持っていると考えられることを示している。

 

直近の研究はケント大学(イギリス)の心理学者Michael J. Wood と Karen M. Douglasが7月8日に発表したものである。この研究は「第7ビルはどうなったのか?」との題名の、911についてのインターネット上の議論の社会心理学的な研究である。この研究では「陰謀論者」(賛陰謀論)と「慣例主義者」(反陰謀論)のニュースページ上でのコメントを比較している。

 

執筆者は慣例主義者のコメントよりもいわゆる陰謀論者のコメントの方が社会慣例として認められることを発見して驚いたのであった:「集めた2174のコメントのうち、1459を陰謀論者に、715を慣例主義者に分類した。」つまり、ニュースページ上にコメントをした人々の中で、911やJFK暗殺のような事件に対する政府説明を信じない人々の数は、信じている人の二倍以上であるのである。これは、今では社会通念となっている内容を表現しているのは賛陰謀論のコメントをした人であり、一方反陰謀論のコメントをした人は、小さな、苦境に立つ少数派であることを意味するものである。

 

おそらく自分達が主流と想定している見解がもはや多数派を代弁してはいないためであろう、反陰謀論者のコメントをする人は頻繁に怒りや敵意を示していた:「この研究は…911の公式説明に賛成する人々は、自分達のライバルを説得しようとする際、概してより敵意を持っていることを示すことになった。」

 

加えて、反陰謀論の人々は敵意を持っているのみならず、自分達自身の陰謀論に偏向的に固執していることもまた判明した。彼らによれば、911についての彼ら自身の理論‐アフガニスタンの洞窟に住む人工透析装置を付けた人物の指示のもとで、誰も飛行機をうまく操縦出来なかった19人のアラブ人が、世紀の犯罪をやってのけたという理論‐は誰もが認める真実であったという。一方、いわゆる陰謀論者は、911事件を完全に説明する理論を持っている振りはしてこなかった。

 

簡潔に言えば、Woodと Douglas による新しい研究は、自分達自身の非主流的真実に敵意をもって偏向的に固執しているという‐陰謀論者に対する否定的紋切り型表現は、実際には、911の公式説明に反論する人々のことではなく、911の公式説明を擁護する人々のことを述べていることを示しているのだ。

 

さらに、この研究は、反陰謀論者よりもいわゆる陰謀論者は(例えばJFK暗殺を911の先例として見るような)歴史的文脈を論じていることを発見したのである。この研究はまた、いわゆる陰謀論者は「陰謀論者」や「陰謀論者」と呼ばれることを好まないことも発見した。

 

この両発見は、テキサス大学出版局から今年前半に出版された、政治科学者Lance deHaven-Smith著の「Conspiracy Theory in America」という新しい本において詳しく説明されている。deHaven-Smith教授は、なぜ人々は「陰謀論者」と呼ばれることを好まないのかを説明している:この用語は、JFK暗殺に疑問を投げかける人々を非難し、中傷するためにCIAによって発明され、幅広く流布するようになったのだった!「『陰謀論者』という用語を普及させ、陰謀があったという考えを嘲笑と敵意の対象とするこのCIAのキャンペーンが、不幸にも、史上最も成功したプロパガンダ提唱の一つであったことは、信じざるを得ないのである。」

 

つまり、蔑称として「陰謀論」や「陰謀論者」という用語を用いる人々は、十分文書で示されており、議論の余地のない、歴史的な真実であるJFK暗殺を隠蔽するためのCIAによる陰謀の結果として、そうしているのである。ところでこのキャンペーンは、全く違法なものであり、CIA幹部が犯罪に関与していたのであった;CIAは国内での活動を禁じられているが、日常的に法を破って、プロパガンダから暗殺までの国内活動を実施しているのである。

 

DeHaven-Smithはまた、高度の犯罪についての公式説明を疑う人々がなぜ歴史的文脈を論じることに熱心であるのかを説明している。同教授は、陰謀についての大多数の主張が真実であることが判明していることを、またいまだ解明されていない多くの「民主主義に敵対する国家犯罪」の間には強い結びつきが存在していることを指摘している。疑う余地のない実例は、両暗殺共にベトナム戦争に進んだ大統領のお膳立てをした、JFK暗殺とRFK暗殺の間の結びつきである。DeHaven-Smithによれば、この二人の殺害はより大規模な同じ犯罪の一面であったと考えられるため、私達は常に「Kennedy兄弟暗殺」と複数形で論じるべきであるという。

 

グェルフ大学の心理学者Laurie Manwell も、CIAが企画した「陰謀論」というレッテルが認知機能の妨げとなっていることに同意している。彼女はAmerican Behavioral Scientist 「アメリカ行動科学者」(2010)に発表した記事の中で、反陰謀論の人々は自分達に以前からの信念と矛盾する情報を処理する能力がないため、911のような民主主義に敵対する明白な国家犯罪について秩序立てて思考することが出来なくなっていることを指摘している。

 

またABS(American Behavioral Scientist 「アメリカ行動科学者」)の同じ号の中でバッファロー大学のSteven Hoffman 教授は、反陰謀論の人々は概して強固な「確証バイアス」の犠牲であると付言している。つまり、彼らは(「陰謀論」というラッテルのような)非理性的なメカニズムを用いながら矛盾する情報を避け、以前からある信念を確証する情報を捜し求めているというのだ。

 

「陰謀論者」を攻撃する人々の極度に非理性的な考えは、ボイシ州立大学のコミュニケーションの教授、Ginna Husting とMartin Orrによって明らかにされている。2007年に“Dangerous Machinery: ‘Conspiracy Theorist’ as a Transpersonal Strategy of Exclusion,”という題名の査読を受けた記事の中で、彼らは以下のように書いていた:

 

「もし私があなたを陰謀論者と呼ぶことが出来るとしても、あなたが実際に陰謀が存在していると主張しているのか、それともあなたが単に私が避けたがっている問題を提起しているのかは大差がない。あなたにレッテルを貼ることで、私はあなたを公共での発言、討議、論争が起きる場所から戦略的に締め出しているのだから。」

 

しかし今では、インターネットのおかげで、公式説明を疑う人々はもはや公共での対話から締め出されてはいない;「陰謀論者」との非難を用いることで討議を封印するCIAの44年にわたるキャンペーンはほとんど使い古されたものとなった。学術的な研究において、ニュース記事でのコメントにおいて、今や賛陰謀論者の発言は反陰謀論者の発言よりもさらに数多くなり‐より理性的に‐なっている。

 

反陰謀論の人々がますます敵意に満ちた、被害妄想の変人の集団のように思われるのも無理はない。

 

 

 

 

 

(訳者注:日本でのCIAの暗躍については、田中真紀子女史の指摘があります。)

 

2013年11月22日 (金)

CIAのジョージブッシュに言及する1963年11月29日のフーヴァー長官のメモ

 

 

 

日付:1963年11月29日

 

宛先:国務省情報研究局局長

 

発信者:長官、John Edgar Hoover

 

件名:1963年11月22日のJOHN F. KENNEDY大統領の暗殺

 

国務省は、一部の誤って導かれた反カストロ派のキューバ人グループが、事実ではないが、John F. Kennedy大統領の暗殺がアメリカの方針の変化の前触れとなる可能性があると考え、現在の状況に乗じて、キューバに対し未承認の急襲を仕掛けるのではないかと考えているとマイアミのキューバ問題調整オフィスから報告があったと、我々のフロリダ州マイアミのオフィスが1963年11月23日に報告してきた。

 

我々のマイアミ地域のキューバ問題に通じている情報筋並びに情報提供者は、反カストロ派のキューバ社会での一般的な感情はぼうぜんとしており信じられないというもので、キューバについての大統領の方針と全面的には賛成しない者の中でも、感情は大統領の死はアメリカにとってのみならず、ラテンアメリカにとっても大きな喪失を意味するというものであると報告している。こうした情報筋はキューバに対する未承認の行動の計画については知らないという。

 

以前信頼に足る情報を提供してきた、マイアミの賛カストロ派の小さな集団と近い関係にある一人の情報提供者は、賛カストロ派も感情的には暗殺を遺憾に思うものであるが、
こうした人々は大統領の暗殺が彼らに対して強硬な抑圧的施策の結果を招くのではないかと恐れていると報告している。

 

上述の情報の要旨が中央情報局の George Bush氏と国防情報局のCaptain William Edwards に対して、同局のW. T. Forsyth 氏により1963年11月23日に、口頭で提供された。

ブッシュが1963年11月22日午後1時45分にFBIに電話をかけていたことを示すFBIメモ

 

宛先:ヒューストン、担当特別捜査官           日付:1963年11月22日

発信者:特別捜査官 GRAHAM W. KITCHEL

 

件名:不明;
   JOHN F. KENNEDY大統領の暗殺

 

午後1時45分にテキサス州ヒューストンにある住所ヒューストン5525ブレアーのZapata海洋採掘社の社長であるGEORGE H. W. BUSH氏がテキサス州タイラーから長距離電話をかけ、以下の情報を電話で筆者に提供した。

 

BUSHは内密にしておきたいと望みながらも、何日であったのかと情報源については分からないが、ここ数週間の間に聞いたことを思い出したうわさ話を提供したいと述べた。彼は、JAMES PARROTT という人物が大統領がヒューストンに来たら、殺害すると話していたと述べた。

 

BUSHは、PARROTT はおそらくヒューストン大学の学生で、この地域で政治的な活動をしている可能性があると述べた。 彼は、ハリス郡共和党本部の電話番号SU 2-5239のFAWLEY夫人か、電話番号AJA 9-9194のRLINE SMITHが PARROTTの身元に関する追加情報を提供出来ると思うと述べた。

 

BUSHは、テキサス州ダラスに向かい、シェラトン‐ダラスホテルに滞在し、1963年11月23日に自分の自宅に戻るつもりであると述べた。彼のオフィスの電話番号はCA 2-0395である。

2013年11月21日 (木)

ブッシュはJFK暗殺に関与していたのか?

以下は、http://www.veteranstoday.com/2011/11/16/was-george-h-w-bush-involved-in-the-assassination-of-jfk/の日本語訳です。



George H.W. Bush はJFK暗殺に関与していたのか?

 

   
by Jim Fetzer and John Hankey


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George H.W. Bush (第41代大統領)のJFK暗殺への関与を示すおそらく最も説得力の強い事例が、John Hankeyによって提示されている。彼はこの犯罪に関する独立研究家で、この事件を明らかにする複数のドキュメンタリーを制作しており、その最新作は“The Dark Legacy”である。Johnは、特にSeamus Cooganが書いた厳しい批評を発表している“CTKA”と呼ばれる組織が彼に対して開始攻撃によって、大きな論争の的となっている

私はHankey が全面的に正しいと信じるものではない。特に、テキサス教科書倉庫ビルの前面に立っている姿が見える男の身元についての彼の懐疑は正当であるとは考えられない。また、「三人の浮浪者」の写真中に存在しているのがアメリカ空軍将軍 Edward LansdaleであるというFletcher Proutyによる身元確認についての彼の疑念も同様である。これは、元海兵隊司令官Victor Krulak将軍ほどの大物によって確認されたことで、この同じ男がGeorge H.W. Bushに歩み寄っている姿を写した他の写真もある。これらは皮肉にも、Hankeyの主張に対する想定可能な最も力強い確認となっている。-彼は正しい方向にあるのだ。

Lansdale は、暗殺を準備する彼の手腕のためCIAでは名が知られていた。私達の多くは、彼がDealey Plazaで起きた実際の処刑を組織したと信じている。

しかしながらCTKAの批評、“
The Dark Legacy of John Hankey”における暗殺についての議論の際、Seamus Coogan は多くの間違いをしており、JFK暗殺検証の動向になじみのない人は、それを偽情報工作の作品と疑うかも知れない程である。

CTKA のホームページはJim DiEugenioが管理しているため、私は彼自身のJFKについての検証からは一様に好印象を受けているものではないと述べねばならない。彼は Jim Garrisonに関する評価の高い著書
Destiny Betrayed (1992)を発表し、Lisa Peaseと共に Assassinations (2003) を共同編集した。後者は、元々はCTKAの刊行物、PROBEに発表されていた優れた多くの論考を再収録したものである。

しかし他の件についての彼の研究にはかなりむらがあることが私には分かっているのである。そのうちの一つは、特に、Shane O’Sullivanが明らかにした事象についてのJefferson Morleyと David Talbotの検証に対する彼の擁護である 。これは、Bobbyが撃たれた夜にAmbassador Hotelにいた三人の人物の身元特定に関することで、この件について私は“
RFK: Outing the CIA at the Ambassador”にて詳細に論じたことがある。私の過去における彼の研究のむらについての複雑な経験を基にしても、Hankeyの研究を批評する際の間違いに私は驚かされるのである。以下で三点について説明する。

(1)Coogan はHankey が傷を6箇所あるいは7箇所と述べていることを非難している。

 

Coogan が主張していることを間違いないものとするため、具体的な一節を一字一句引用する:

18:43 でHankey はKennedy とConnallyには総計6箇所の傷があったという考えを納得させようとしている。しかし読者は14:23 でHankey が、Garrison (Kevin Costner) が Alven Oser (Gary Grubbs) と Numa Bertel (Wayne Knight) を活用し、Kennedy とConnallyの両人にあった7箇所の傷の弾丸の軌道を具体的に示した「JFK」からの象徴的な裁判所の映像を既に利用していたことを思い出すであろう。Hankey はどういうわけか大抵の場合、侵入痕は侵出痕を残すという事実を見逃しているのである。

しかしJFKには喉に一つの侵入痕 (#1)が、背中の襟下5.5インチの脊柱のすぐ右の箇所に一つの侵入痕 (#2)が、後頭部の外後頭隆起付近に一つの侵入痕 (#3)が、右のこめかみ付近にもう一つの侵入痕 (#4)があり、一方John Connally知事には少なくとも背中に一箇所 (#5)、そしておそらくさらに二箇所もの、一箇所は右の手首 (#6)に、そして左の太腿 (#7)に傷があったのである。(#7)の傷が (#6)の傷により生じたのではないかということに関しては議論の余地があるが、6発か7発が当たっており-加えて他に3発がそれたということが私達には分かっているのだ!このことを示す証拠は
Assassination Science (1998)、Murder in Dealey Plaza (2000)、 The Great Zapruder Film Hoax (2003)において見出すことが出来るものである。しかしより容易には、例えば、簡単にネット上で閲覧可能な“Dealey Plaza Revisited: What happened to JFK?”において見出すことが出来る。

Hankey が間違っているとのCooganのほのめかしは、かなり重大な過ちという印象を私は受けたのである。こうした弾丸は前方から、側方から、後方から発射されていたのであった。

 

 

02lansdaletramps320x285_2(2)Coogan は Zapruderフィルムが正真正銘であるとの前提に立っている

別の一説で、Coogan は Zapruder フィルムが情報源として正真正銘であるということを当然視している:

読者は尋ねるであろう:「もし Connallyが間違った言い方をしていたのであれば、どうやってHankeyはKennedyが倒れこんだことを最終的に認めることになったのか」と。これは実際のところ、かなりな争点である。なぜならHankeyが倒れこんだという言い方をしたため、Connallyに Kennedyが「弾丸のせいで呼吸困難になっており、頭部を撃たれている」ことが分かったということについての議論が始まったからである。しかしZapruder フィルムにはこのことを示す証拠は存在していない。Zapruderフィルムから判断する限り、世界中の誰もが- Hankeyを除いて-Connallyはわずかに一瞬Kennedyを見たに過ぎないことがはっきりと確定可能なのである。彼は致命的な頭部の被弾の際には明らかに視線を戻していたのである。

しかしこのフィルムが再編集されており、リムジンの停止が削除され、JFKの後頭部が吹き飛んだことが隠されていたことを示す証拠は豊富にあり、説得力に満ちている。私は 1996年のダラスでのランサー会議においてZapruderフィルムの改ざんに関する第一回目のシンポジウムを組織し、この件について一冊の本と多くの記事を発表してきた。発表した記事には、Veterans Todayの
“JFK: Who’s telling the truth: Clint Hill or the Zapruder film?”“US Government Official:  JFK Cover-Up, Film Fabrication”が含まれている。Zapruder フィルムのカメラはセルロイドの16ミリストリップを使用し、「A」面を撮影し、次に反転して「B」面を撮影するものであった。

8ミリ投影機で投影するためには、分割し、結合する必要があった。しかしダラスで現像された8ミリの分割されたフィルムは、11月23日土曜日にワシントン.D.C.のNPICに持ち込まれており、ロチェスターで現像された16ミリの分割されていないフィルムは同所に次の日に持ち込まれたのであった。オリジナル版と現存する版の間には5箇所の物理的な相違点が存在している。

これでもまだ十分ではないかのように、Clint Hill はその日の自身の行動を47年間にわたり同じように説明している。その行動には、前方に走り寄り、リムジンに駆け登り、Jackieを押し戻し、彼らの上に覆いかぶさりながら、JFKの後頭部の大きな、こぶし大の穴を覗き込み、三線高架下道路に車両が到着する前に、同僚の方に振り返って、彼らの「否」のサインをしたということが含まれている。-しかしこうした行動は一つも現存するフィルムには映っていない。コマ313以降のコマと後頭部の吹き飛びが見えるコマ374を比較すると、誰でも自分自身で前のコマではそれが消されていることを確認可能である。

 

それからConnally もまた自身の証言において、彼は右肩越しに何が起きているのか見ようとして、その後より視野を広げようと左側に向き直った時に胸に側方からの弾丸による強烈な痛みを感じたと述べていた。これは Connally自身の証言がZapruderフィルムの捏造のもう一つの証拠を提供していることを意味している。こうした事象を理解することなく書く者は、無能であるのか、あるいは知らない振りをしているのかであると考えられる。

(3)Coogan は遺体が秘密裏に航空機から運び出されていたことを否定している

 

遺体に改ざんがされていたことは、David S. Liftonの詳細な検証、 Best Evidence(1980)により確定している。ARRB(暗殺記録再検証委員会)の軍記録主席分析者として務めたDouglas Horneが彼の五巻の研究書、Inside the ARRB (2009)において具体的に示しているように、これはARRB(暗殺記録再検証委員会)によって-間違いなく-裏付けられていることである。しかしながらそれでもCoogan は、JFKの遺体が大統領専用機エアフォースワンから秘密裏に運び出されており、全国的にニュースメディアが大きく見守る中で、公式の、葬儀用のブロンズ製棺は空であった可能性をめぐってHankey に課題を強いることをやめないのである。彼はさらには以下のような意見まで述べている:

 

 
03lansdalebush私は、Kennedyの棺の到着をどれほど多くの人々が見守ったのかと疑問に思わざるを得ない。何かが進展することなど実質的に不可能である。航空機が飛来する際滑走路が突然真っ暗になったが、停電の知らせがあり、航空機が飛行している間に光は復旧し、相当な重さの棺を運ぶことは全く困難になったのである。大多数の専門家が今日信じているのは、X線写真、それからおそらくは写真にも検死後に捏造がなされていたということである。そして明らかに、一部の写真は行方不明となっているという。(例として Murder In Dealey Plaza、175-218ページのGary Aguilarによる優れた論説を参照されたい。)

しかしパークランド病院でのパークランド記者会見の際Malcolm Perry医師によって三回にわたり小さな、円形の侵入痕として説明されていた喉の傷の説明は、(この説明を私は
Assassination Science (1998) 中の付属資料Cとして公表している)、Warren 委員会には提供されおらず、私がThe Great Zapruder Film Hoax (2003)の14ページで(また私の公共の場でのプレゼンテーションにおいても)説明しているように、ベセスダ海軍病院での検死の際に写真撮影された大きな、不規則な傷とは全く異なるものである。

しかしながら、Cooganの無能さを示すおそらく最も驚くべき点は、
Murder in Dealey Plaza (2000)中のGary Aguilar が書いた章からのお気に入りの部分の引用であろう。Aguilarの研究は、パークランド病院で観察された後頭部の大きな吹き飛びとベセスダ病院から報告された傷の説明の間の一貫性を具体的に示すことに専念したものである。Horneの研究から私達には、検死を担当したアメリカ海軍医療部隊の指揮官James Humesが、実際には傷を拡張するために頭部に頭蓋用のこを使用しており、 Aguilarはそれらの一貫性を誇張していたことが分かっている。

しかしながらさらに重要なことは、Aguilarが正しければ、フィルムは改ざんされていたことになることである。なぜなら彼が文書で示した後頭部の吹き飛びはフィルムの大部分では見えないからである。フィルムが改ざんされていたことを否定しつつ、Aguilarの研究を支持したいと望んでいた他の人々に対して私が説明してきたように、両者を一貫して支持することは不可能なのである。もしAguilarが正しければ、フィルムは捏造である;またもしフィルムが正真正銘のものであれば、Aguilarは間違っているのである。

 

Cooganの批評には、ニューヨークに着いた時に、自分は暗殺について初めて知ったというRichard Nixonの主張を額面通りに受け取っていることを含めて、他にも間違いが存在している。この点についてはいくつかの説明があり、その一つは「女性の叫び声を聞き、タクシーを止めさせ、窓を開けたとNixonは述べた」というものである。しかし窓が閉まっていたのであれば、どうしてNixonに女性の叫び声を聞くことが出来たのであろうか?また叫び声を上げることは言うまでもなくニューヨークではそれほど珍しいことではないのに、この極めて自己中心的でひねくれた男の注意を引いたというのである。Bush やLBJと同様に、NiksonもまたJFK暗殺に共謀していたのであった。 

 

私はSeamus Coogan が全面的に間違っていると、あるいはJohn Hankey が全面的に正しいと言っているのではない。しかし私は、JFK暗殺におけるGeorge Herbert Walker Bushの役割はこれまで注目されてきた以上に、さらに大きく注目するに値する主題であると確実に信じるものである。これは、全くJim DiEugenio や Seamus Cooganが注目しそうにない事象であると、私が推論せざるを得ないことでもある。そして振り返ると、CTKAが形成されていた際の私の参加しないとの決心は、その時点で分かっていた以上に賢明であったと考えることにもなる。

遺体の改ざん、大規規模に修正されていたZapruderフィルムを含めた、医学証拠について私達が知っていることを封印するという同組織が果たしている役割に私はますます困惑を覚えるものである。CTKAを運営している人々に、暗殺に関する私達の重要な科学的結論の最も基本的事項さえも正しく捉えることが出来ないのであれば、JFKに関する真実を追究する上で彼らよりも明らかに優れている人々を彼らが非難しようとしていることは何ら驚くべきことではない。

 

終わらざる話‐ブッシュがダラスにいたというさらなる驚くべき証拠
by John Hankey

歴史を科学として見るように私達が奨励されているとは、私は考えない。実際の所、全く正反対である。そしてもちろん、全く政治的なものである。勝者が歴史を書き、真実は非難されるものとなる。私達が進化論、タバコとがんの関係、地球温暖化という事例で知っているように、科学であっても政治的事項が関連した場合には、科学として振舞ことが困難になることがある。しかし私は、歴史は物理科学と多くの共通点を持っていると考えている。

 

例えば私は、アフリカとアメリカがかつては一体となっていたという「大陸移動」という考えが「単なる仮説」と見なされていた時のことを思い出すことが出来る;この考えは、一部の人々からは愚弄され、多くの人々からは娯楽と見なされており、ごく少数の人々によって可能性が高いものとして広められたのである。しかし時が過ぎるにつれ、証拠は蓄積されている;そして古い証拠の持っていた意味が定着し始めている;そしてかつてはトンデモないと見なされた考えは、徐々に使いこまれ、当たり前の常識と見なされ始めている。この過程の一部となるのが、新しい証拠の継続的な蓄積である。新しい断片がパズルに加えられ、全体像がさらに明らかになるのだ。そして時には、長年にわたり存在していた古い証拠の隠された意味が、突然認識に飛び込んでくることもある。アフリカ東岸とブラジル西岸で発見された化石と鉱物という証拠は、誰かがそれらが一致するものであるのか検証しようと決め、そして実際に一致するものであったことが分かる前から;そして西アフリカとブラジルはかつてくっ付いていたことが間違いなく実証される前から、長年にわたり存在していたものであろう。

George HW Bush とJohn Kennedy殺害に関しては、Joseph McBride が1988年にこの覚書メモを発見した:

 

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                         "中央情報局のGeorge Bush"についてのメモ
                                                    (訳者注:このメモの日本語訳が
こちらにあります。)

 

FBI 長官J. Edgar Hoover がこのメモを暗殺の5日後に書いており、George BushをCIAの幹部として名指ししているのである。最後の、最も決定的な段落は、かなり読みにくくなっている。以下が写しである:

「上述の情報の要旨が中央情報局(CIA)の Mr. George Bush と国防情報局(DIA)のCaptain William Edwardsに対して、1963年11月23日に同局のMr. V.T. Forsythにより、口頭で提供された。」

最初にこの情報が1978年に公表された時、George Bush は目立たない役人で、実際には無名であった。つまり1978年にはこの惑星上で最高の研究者がこのメモを見ても、彼らは注意を払わなかったのである。2年後にBushが副大統領になった時も、誰も当時有名になったブッシュの名前とこのあいまいなメモを結びつけることが出来なかった。しかしJoseph McBride が1988年にこの厄介な件に首を突っ込んでいた時、Bushは大統領に立候補していた;そしてMcBrideのメモを見て、飛び上がり、叫んだのだ。「何てことだ。このメモはBushについてのものだ!このメモは彼が以前、1963年にCIAにいたと書いている!」

それからとても長い間、焦点は単独の事実に当てられていた:Hoover が Bush が1963年にCIAにいたと述べたという事実にである。Bushは自分はその当時CIAにはいなかったのだから、このメモは他の「George Bush」に言及するメモに違いないと述べた。しかし歳月が過ぎるにつれて、人々はBushの私生活から、当時の彼のCIAや、CIAの反カストロ派キューバ人(このメモにおいて、Hoover は彼らを「誤り導かれた反カストロ派キューバ人」と呼んでいる)への深い関与を示す事実を集めることが出来るようになった。そして歳月と共に、以下の事実は否定できないものとなっている;Hoover は、自身が書いたメモにおいて、ほかならぬ、George Herbert Walker Bushについて言及していたという事実である。しばらくは、これだけのことであった。話は終わったのである。

 

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しかしHoover のメモの件名は、「John Fitzgerald Kennedy大統領の暗殺」である。これは重要ではないのだろうか?読者もそう思うであろう。しかし長い間、誰もその重要性を理解していなかったのだ。加えて、Hoover はこのメモにおいて暗殺についてはほとんど言及しておらず、一連の「誤り導かれた反カストロ派のキューバ人」に焦点を当てているのである。このメモの本文は、一目見た所では、このメモの件名である「John Fitzgerald Kennedy大統領の暗殺」と何か関係があるとは思えないのである。しかしその後、Mark Laneが著書
Rush to Judgmentにおいて、CIAの「誤り導かれた反カストロ派キューバ人」プログラムのmajor lieutenant E. Howard Huntがダラスにおり、暗殺に関与していたことを具体的に示し、そしてこのことを実際に陪審員団を納得させるという驚くべき仕事をしてくれた。こうした背景によって‐こうした研究者を導く枠組みによって‐こうしてBushとHuntを結び付ける証拠を集めることが可能となったのである。

Bushが以前Nixon政権での国連への大使時代に、ホワイトハウス内にオフィスを与えるよう異例の要請をしたことに気が付いた人もいるかも知れない。彼らはHuntがホワイトハウス内の誰からも給与は支払われておらず、私達がホワイトハウス内にいたことを知っている誰に対しても説明責任を持っていなかったにもかかわらず、彼もまたホワイトハウスにオフィスを持っていたことに気が付いたかも知れない。しかし、BushをCIAの「誤りみちびかれった反カストロ派キューバ人」作戦の監督者として確定するこのHooverのメモが手元にあることによって、BushとHuntをピッグス湾作戦において結びつけることが可能となるのである。

 

このメモが手元にあることによって、BushとHuntをホワイトハウス内にオフィスを持っていた二人のCIA工作員として結び付けることが可能となるのである。このメモが手元にあることで、Huntがホワイトハウス内の誰に対して説明責任を持っていたのか;またそもそも第一にどのようにして彼がそのオフィスを得たのか、答えることが可能となるのである。そして以上のことから、BushをHuntに、ダラスにいたHuntに結び付け、そのためBushをダラスにも結び付け、John Kennedyを暗殺した「誤り導かれた反カストロ派のキューバ人」に結び付けることが可能となるのである。これが彼がこのメモの件名を書いた時に、Hooverが私達のためにしてくれたことである。すこしづつ、断片が正しい場所に収まり始めている。そして単独では何も意味しなかった断片が、全体像の主要な部分となっていく。

 

しかしそうであっても、これは強固なつながりではない:Huntは直接JFK暗殺に関与していた。そしてBushがHuntを監督していた。しかしBushはおそらく多くのCIAの人間を監督していたのであり、その全員が暗殺に直接関与していたのではないだろう。高位にある幹部は、彼が彼らの指揮官であるという理由により、彼の部隊全員の全ての行動とつながっていると言える。しかしこれは直接的なつながりではない。これは幹部が部隊の全行動について知っていた、承認した、あるいは関与したということを確証するものではない。

 

Enter FBI memo # 2:

06bushwarning1531x640                          "Zapata 海洋採掘社の社長"についてのメモ
                                                         (訳者注:このメモの日本語訳が
こちらにあります。)                                                         

このことはすぐに再び出てくることであるため、冒頭の文章を注意して読んでいただきたい。BushはFBIに対して自身の身元をヒューストンの自営オイルマンであると名乗っているのだ。

このメモは暗殺のその日のダラスでのBushとHuntの間の一種の直接的なつながりを確定するものである。このメモは、暗殺から精確に1時間15分後になされたBushのFBIへの通話を記録している。私がこのメモに最初に出遭った時、そして私がこれを最初に私の映画、JFKⅡで表現した時、私はこれを単に「奇妙である」と見なした。私はこれをBushと暗殺の間の奇妙な、単独のつながりとして、分離して見ていた。背景の文脈の中でこれを理解するには数年かかった。数年かかってこの通話は、George Bushがその日任務についていたことを、明白に、具体的に示していることが分かったのである。.

 

彼の任務はダラスでのものであったため、彼はダラスシェラトンホテルに滞在していた。彼のFBIへの通話は成り行き任せになされたものではあり得ない。このJames Parrott はBushのために看板描きとして働いていた;彼は暗殺者ではなかった;この通話はそれが主張している目的のものではないのだ;Bushはこの電話をかけることで見えない秘密の役割を果たしていたのだ。つまりこの通話は彼のCIAの任務の一部として見られるべきなのである;この任務は明らかに暗殺と関係していたのである。このメモはこうして、Bushがダラス区域に、任務でいたことを確定するものである;それから彼の任務が暗殺に関係していたことを確定するものでもある。そしてもし彼の部下が、実際にそうであったように、ダラスで大統領を撃ったのであれば、彼は間違いなく彼らを監督する任務にあったことになる。もし彼が彼らを監督することになっていなかったのであれば、彼の上司は彼をテキサスのヒューストンの彼の所属オフィスか、カリブ海の彼の石油会社の石油採掘所に配属していたであろう。

 

しかし背景の文脈の中であっても、このメモとメモが言及している通話は依然として奇妙ではないだろうか?つまり、この有罪を示す非常識な電話をかけるほどBushは愚かであったのかということである。この通話を記録したFBIのメモがなければ、暗殺の当日にBushがどこにおり、何をしていたのかに関しては理解することも、糸口をつかむこともなかったのである。そうではないだろうか?Bushは最近まで、暗殺当日に自分が何をしていたのか記憶していないと、単に述べていた。しかしこのメモによって、Bushは自分がどこにいて、何をしていたのか私達に告げているのである‐彼は自分の頭を銀の皿にのせて私達に差し出しているのだ。 彼がFBIへ電話をかけるというこれほど愚かな過ちを犯す原因となったのは何であったのだろうか?これは正当な疑問である。これは最も重要な疑問ではない。私達は通話の理由という疑問に答えなくても、さらにこのメモを重視し、このメモから多くの重要な内容を引き出すことが出来る。しかし疑問は残るのである。

 

なぜ偽りの電話を?

そして私達はその疑問に答えることに挑戦出来るのである。Russ Baker は彼の優れた著書
Family of Secretsにおいて、Bushがアリバイを確立しようと企てていたことを示唆している。今では、この電話をかけることで、彼は実際には、彼がダラス区域にいたことを、そして彼は暗殺と関係する任務についていたことが確定しているのである。では彼が実際にどこにいて、何をしていたのかを隠蔽するためのアリバイを確立しようとしているのであれば、彼が隠蔽しようとしていることはこのアリバイで私達に示していることよりも何か悪いこと、何か有罪を示すことに違いないことになる。

では彼が私達に示しているよりも悪いこととは何であろうか?つまり明らかに、彼は実際にはダラスにいたに違いないのだ。事実、私は、この状況は彼が実際に Dealey Plazaにいたに違いないことを示していると考えている。私は真剣にそう考えているのだ。このことについて考えていただきたい。彼は真実が明るみに出ることを考えパニックになっていたため、自分の首をロープに通して、私達に差し出したということである。彼は Dealey Plazaにいたに違いないと、彼は狙撃者の同伴者であったに違いないと、彼はそのことを証明する証拠が存在すると感じていたに違いないと、私は考えざるを得ないのだ。

 

私達は現時点では、単に推測しているだけである。すぐに証拠は明らかになるが、状況を説明してみたい。罪人がパニックに陥った場合、彼らを犯罪に結び付ける証拠を隠そうとして、彼らはその時点で名案と思われる釈明、あるいはアリバイを発明するであろう;しかし実はそれが不利を招く罪の告白となるのである。では、この写真を良く見ながら、この件についてじっくり考えていただきたい:

07bushtsbd1213x320_2スーツ姿の、生え際の後退した、背の高い男が見える。多くの人々が、テキサス教科書倉庫ビルの前面に立っているこの人物はBushだと主張している。そうかも知れない、他の人間かも知れない。おそらく、彼がFBIに電話をかけ、自分自身に罪を負わせた時、Bushはこの写真よりも写り具合の良い、カメラの方を向いており、明確に彼だと認識可能な写真で姿を現してしまうかも知れないと懸念していたのだろう。

 

個人的には、私はこの写真がBushにそれほど似ているとは考えない;また実際、彼が殺害現場周辺をうろつくほど愚かであったとは私は考えない。彼は十分高位にあったため、現場の事項は下の者に任せて、立ち去っていたと私は考える。そうではないだろうか?少なくとも私の考えでは、あなたがBushのような幹部であれば、あなたはコーチであるということになる。あなたが計画し、あなたが自分の部下を訓練し、準備し、その後あなたは距離を置き、起きることを見守るのである。そのように私は考えた。

 

Fletcher Prouty は最高ランクの軍事工作員Ed Lansdaleが写った写真を見て、Lansdaleがgrassy knoll(芝生の丘)の後ろで拘束された「浮浪者」に「冷静に」全てはうまく行ったという合図を送っていることに間違いはないと確信している。Huntは高位にあったCIA幹部で、メキシコ地域本部の本部長であった;そして彼の息子がHuntは複数の写真中に姿が見えるgrassy knoll(芝生の丘)の後ろで拘束された「浮浪者」の一人であったと述べているのである。つまり、殺人作戦の最高位ランクの人員が明らかにそこに、最前線にいたのだ。不可避的に計画がうまく行かなくなった場合、こうした最高位ランクの幹部がどのような問題であれ修正することが出来るようにするためである。こうして、CIA幹部が居合わせたことを考慮すると、スーツ姿のこのやせた男の写真が、紛れもなく、Bushを写したものであると考えられることになる。その可能性があるのだ。

 

Dal-Texビルの狙撃者

 

では今度は、このDal-Tex ビルの写真を見ていただきたい。The Dal-Tex ビルは教科書倉庫ビルの通りの向こうにあるビルで、Jim Garrisonを含めた暗殺に対する多くの優れた研究者が、間違いなくこのビルに狙撃者の一団がいたと主張している:

 

08daltex1320x161_3                         Altgens写真と Dal-Texビルの窓の拡大写真

09daltexwindow320x248                         Dal-Texビルの窓のカラー版引き伸ばし

ご覧いただけるように、かなり想像的な人物が色を加え、この窓にいた三人の男を示している。極めて創造的で、想像的であり、確かにうまくは出来ている。それでも、Bushの顔を見出すには、かなりの想像と努力が必要とされる。しかしここで
Roger Craigについてのこのリンクを見ていただきたい。実は、この記事を読むのを止めて、そのリンク先の記事を読む必要はない。というのは、私が関連する箇所を引用するからである。これは、1960年の最優秀ダラス保安官代理賞の受賞者で、ダラスでその日勤務していた最も誠実な人物の一人であったRoger Craigの発言である。彼は素晴らしい、英雄的な人物で、その経歴と人格は常に注目するに値する。そしてこの下に引用した一節で、彼は自身がJim Garrisonと持った対話について述べ、以下のように発言している。

 

“Jim はまた私にその日Dealey Plaza で起きた拘束事案についても尋ねました。私は彼に、自分は12件の拘束事例のことを知っていたと告げました。一つは特に、ダラス警察署のR. E. Vaughn によってなされたものでした。Vaughn が拘束した人物はテキサス教科書倉庫ビルの通りの向こうのDal-Tex ビルから出てきたのです。その男に関してVaughn に分かった唯一のことは、その男はテキサス州、ヒューストンの自営石油操業者であったということだけでした。この拘束された男はVaughnの元からダラス警察の刑事によって連行されたため、Vaughnがこの被疑者のことを見たり、聞いたりしたのはその時が最後だったといいます。」(強調が加えられている)

 

Holy Moe Lee! Jim Garrisonと話しながら、Craig が「特に」と発言していることにご注意いただきたい。明らかに彼とVaughnはこれがその日になされた最も意味深い拘束であったと考えていたのである:grassy knoll(芝生の丘)の後ろの鉄道操業所で E.Howard Huntが拘束されたことを考えれば、全く驚くべきことである。この「他ならぬ」拘束者についてCraigに分かった唯一のことは、その男が、George Bushがその同じ日にFBIに連絡する際に使ったのと全く同一のCIAを隠す隠れ蓑、「テキサス、ヒューストンの自営石油操業者」を名乗っていたということである。こうして、誰がこの「自営石油操業者」であったのかについて考えられる解釈はごくわずかのみとなる。それらを見てみよう。

「自営石油操業者」とは誰であったのか?

 

CIAがダラス区域に狙撃者を監督する二人の人間を配置しており、その両人共が「ヒューストンの自営石油操業者」という指定された隠れ蓑を持っていたということは考えられることである。上に示した証拠がはっきりと示すように、Bushはその一人であった;そしておそらく別の一人がDal-Texビルに狙撃者と共におり、彼らを直接監督していたのであろう。しかしCIAの権力者がBushを罠にかけようとしていたのでない限り、権力者は関係者全員にBushのCIAの隠れ蓑を用いて、警察に自分達の身元として名乗らないように告げていたはずである。もしBushとは別の人間が犯罪に関与していても、そのため拘束され、その人間が警察官に自分は「ヒューストンの自営石油操業者」だと告げた場合には、Bushの方向へと容疑が向けられることになるのだ。BushのCIAのキューバ人とのつながりは既に広く知られていた。

 

Fletcher Prouty はそのことを知っており、書き記していた。キューバの対諜報部局長、Fabian Escalanteはそのことを知っており、書き記していた。かなりの信憑性を持ってダラスのマフィア狙撃者を運ぶドライバーであったと主張しているJames Filesはそのことをカメラを前にして語っている。またFBI長官、J. Edgar Hooverもそのことを知っており、自身が作成したメモでそのことについて書き記していた。つまりHooverの目から見るとBushは既に被疑者であったのだ。このため、「拘束された場合には、自分はヒューストンの自営石油操業者であると警察官に告げるように」とCIAの計画発案者が誰かに言うはずはないのだ。そうではないだろうか?なぜなら、そうすれば極めて疑わしい立場にあったことが既にはっきりと分かっていたBushに罪を負わせてしまうことになるからである。

 

もう一つのありそうにない可能性は、この「自営石油操業者」は全く無実の石油操業者で、何らかの形で疑念を招いてしまい、拘束されたというものである。Dealey Plazaのその角にたまたま偶然、別のヒューストンのオイルマンがいたという可能性があると読者は考えるだろうか?その可能性はあると考えてもよいだろう。ありそうになく思えても、その可能性があったと考えるのであれば、Bushが自分が拘束された際に、その拘束を目撃した別の石油操業者が群集の中にいたと考えるのも通りにかなっているであろう。

 

実は、Bushは暗殺の前夜にダラスでオイルマンの集団に対して講演していたのである(*2)。Dealey Plazaにそのオイルマンの数人がいた可能性があったのであれば、彼はその数人が彼の拘束を実際に目撃しており、Bushをその拘束の対象者として特定してしまう可能性を恐れる必要があったことになる。

そうすると、Bushが取り乱し、FBIへのこの有罪を示す愚かな電話をかけたのも、不思議ではない。たとえそれが彼がヒューストンにも、カリブ海にもおらず、ダラスにいたことを示すものであっても、少なくともそれは彼がDealey Plazaでの大統領殺害の容疑で警察に留置されていたのではないことを示すものであったのだから。

 

しかしここで立ち止まり、しばらく考えていただきたい:警察官の注意を引くような何を一体彼はしていたのであろうか?彼は一体何をしていて、警察官にBushを拘束せねばならないと考えさせてしまったのだろうか?おそらくビルから注意を引くことなく歩いて出てくることは、思う以上に困難なのである;Dal-Tex ビルの外にいた群集は銃声を聞き、大統領が負傷したことを聞いていたため、誰であれそのビルから出て来る人間を注意深く見つめていたと想定することは理性にかなっている。

 

しかしこの話は、Bushが殺害に手を染め、犯罪現場から立ち去ろうとする際に何も起きてはいなかったように振る舞って見せることが出来る程、冷静沈着な殺人者の類ではなかったことをはっきりと示すものである。そしてBushはこの、隠しておく必要のある感情を隠すことを隠すことが出来ないという性格的特徴に、老人になっても苦しみ続けていることが判明している。このリンクでご覧いただけるように、Gerry Fordの葬儀の席上、Kennedy暗殺について話しながら、Bushは突然口を大きく開いて笑い出すのである。これはモナリザの微笑ではない。これは歓喜に顔面がゆがみ、痙攣しているのである。

 

しばらく私達は、なぜBushがJohn Kennedyの脳が吹き飛んだのを見たことを回想して笑みを浮かべたのかという疑問を取り扱うことにする;私達にとって重要な点は、Dal-Tex ビルから出ようとする際にも、外見上彼は同様に不適切な、人目を引き付ける顔つきをしていたであろうということである;彼は自分の目で殺害者を、見逃すことの出来ない程はっきりと見ていたのである;この葬儀の席での笑みを見逃すことの出来ないのと同じように。そして犯罪はBushの顔全面に漂い、人々の注意を引いたのだ。そしてこの警察官、Vaughnが彼を拘束したのである。

 

Roger Craigが、その日に拘束された後、顔写真も、取調べも、指紋も、名前も残さずに消えた被疑者について話したニューオリンズの地方検事、Jim Garrisonとの対話と関連してこの話をしていることを、ここで思い出していただきたい。Garrison はRoger Craigとだけ話したのではなく、彼は間違いなく、その拘束をしたVaughnとも話したのだった。そしてGarrison は以下のように付け加えている:

 

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「少なくとも拘束された一人の男は狙撃の直後にDal-Tex ビルから走り出てきたのであり、自分がそこにいた説明をしなかった。見物人の大声のため、地元当局は彼を拘束せざるを得なかった。その男は保安官オフィスに連行され、取調べのため拘留された。しかしながら、保安官オフィスは、この被疑者への取調べの記録を、取調べがなされたのであっても、残さなかった;またその男の名前の記録も残さなかった。その後、二人の制服警察官がその男に付き添い、ビルから出てきて、待ちうける群集の野次に直面した。彼らはその男を警察車両に乗せ、車は走り去った。どうやらこれがその男のダラスとの別れであり、その男は永遠に全く姿を消し去ったのである。」 (On the Trail of the Assassins, p. 238)

この拘束され、警察署に連行され、おそらく記録をとられ(そうした記録は破棄されたのであろうが)、間違いなく恐れを感じ、パニックに陥ったBushの姿を想像することで、多くの、そのように考えなければ不可解なBushの行動を説明する背景が提供されることになる。間違いなくBushは取り乱し、パニックに襲われていたのだ!憤慨した群集が彼の拘束を強く求め、彼の釈放にやじを飛ばしたのであった。

 

こうした闇の案件においては初心者であるため、Bushは、水を逆流させ、時間を後戻りさせ、証人を沈黙させ、記録を破棄し、全てを解決する、CIAの年老いた悪魔の能力に信頼を置けなかったのだ。そのため彼はパニックになったのである;彼は愚かにも、自分自身で行動したのである;彼はFBIに電話をかけ、Dal-Tex ビル前面でその日拘束されたのは自分ではなかったという証拠を「巧妙に」提供していることのだと考えたのである。彼のパニックに陥った精神状態では、これは名案のようであった。彼は自分が実際には、彼自身の関与を示す永遠に残る全く確実な記録を作り出していたとは理解出来なかったのだ。

 

私達は今ではあの笑いもまた説明出来るのである。彼はGerry Fordの葬儀の席で、John Kennedy殺害について触れ、愚弄するかのように笑うのである。それは彼がKenneyの頭部の内容物がJackie Kennedyの全身に飛び掛るのがおかしいと考えるような残忍な鬼のような人物であるからではない;そうではなく、暗殺について言及することが彼に、彼自身のばかげたパニック、拘束、さらなるパニック、等々を生じさせた失策の喜劇を思い出させることであるからである。

 

Garrison はBushの拘束についての一節を1988年に書き記した。Craig保安官代理の記事は1971年に書かれ、1992年にインターネットに投稿された。しかし一連の文章の意味は、先週発見されたのだった。Craigの記事が投稿された1992年にはインターネットはほとんど普及していなかった。そして19年間、この語句、「ヒューストンの自営オイルマン」がBushを表す独特の説明であることに誰も気付かなかったのである。先月、JFKMurderSolved の仲介者の一人が私にそのことを示すまで、誰も気付かなかった。そして私はそのことについて数人の友人に書き、そのうちの一人が私はJim Garrison が言わねばならなかったことを読み取ったのだと示唆してくれたのである。

 

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こうして断片が正しい場所に収まり続けている。少しずつ、全体像が埋まっていき、疑問に答えが与えられている。そして推定がより議論の余地のないものとなっている。これはまさに、進化論やビッグバン理論;また大陸移動説において起きたような類のことである。そしてやがて彼らは歴史を、大学で、証拠に基づいた科学として教え始めるのである。本当のことである!そうしたことが起きる可能性があるのだ!そうして、BushのJFK殺害への関与は、入手可能な信頼できる証拠による唯一の説得力ある説明として、進化と同様、教えられることになるのだ。

最後の注記:最近まで、Bushは暗殺当日の自身の所在について、どこに自分がいたのか記憶していないと言う以上のことは発言していなかった。これ自体、異常なことであり、自己に不利に働くことである。その当時生きていた人は誰でも、911の日に、またKennedyが殺害された日に自分がどこにいたのかを記憶している。しかし、自分は記憶していないと言うことは、どれほどあり得なさそうではあっても、少なくとも何も言及のないBushの自叙伝とは一致している。

オイルマンという隠れ蓑の話

しかしながらその後、少なくとも一部分は私の研究に対応する形で、Bushと仲間達は、彼がテキサスのタイラーでロータリークラブに対して講演していたという話を作り上げた。このロータリークラブの副会長、Aubrey IrbyはBushが講演していた時、ホテルのベルボーイが来て、Aubrey IrbyにKennedyが死亡したと告げたと述べている(*1)。Irby 氏はその情報をWendell Cherry氏に手渡し、Cherry氏がそれをBushに手渡し;そしてBushは講演を止めたという。Irby 氏は、Bushがこの状況の元では政治に関する講演は不適切であると考えると説明し;彼は着席したと言うのだ。Bushの無実を証明しようとのアリバイとしては、この話には少なくとも三点の大きな問題がある。

問題点1:第一の問題点は、Bushがそうした出来事を記憶していなかったとは想像出来ないということである;またこの出来事は、彼が何と立派な礼儀正しい人物であるのかを示すものであるのに、彼が自分の自叙伝からその出来事を省いていることである。彼が以前このことを記憶しておらず、自分の自叙伝に記載してもいなかったのは、こうしたことが起きなかったからであることは明白である。

問題点2:この話の持つ第二の大きな問題点は、そのようなことが起きた可能性がないことである;そのようなことは、見ていくように、Bushの元々のアリバイ、彼のFBIへの電話によって、不可能となるのである:

この話を告げる証人、Aubrey IrbyはBushが釈明して、着席したと述べている。Bushは大急ぎで部屋を出て、電話を懸命になって探したとは述べていないのである。問題点は、Kennedyが死亡したという世界への
Walter Cronkiteからの発表は1時38分にあったことである。間違いなく、Bushが講演していた同じ部屋で、Walter Cronkiteの発表を聞いていたものは誰もいない。そのため、Kennedyが死亡したことをIrby に告げたこのベルボーイが別の部屋にいたことは確実である。このベルボーイはこのニュースを十分聞いたとして、ニュースを聞くのを止める判断をしなければならなかったのである。これは些細な点ではない。テキサス州知事 Connallyは重傷を負っていた。Lyndon Johnsonも負傷したと報じられていた。他にも多くの確認するべきニュースはあったのである。

そうしてある時点で、ベルボーイはニュースを聞くことを止め、知らせに行くとの判断をしたのである。ベルボーイがIrby のことを最初に知らせるべき人物であると考える理由は存在しない。しかしある時点で彼はBushが講演していた部屋に行き、大統領が死亡したことをIrby氏に伝えたのである。言うまでもなく、歩いてIrbyを見つけるには時間がかかった。Irby氏はその情報を受け取らねばならず、そしてキワニスクラブの会長、Wendell Cherry氏に知らせる判断をしなければならなかった。Cherry氏は、Bushの講演を遮るべきか判断をしなければならなかった;そうしてCherry氏はBushに歩み寄り、彼にそのニュースを告げねばならなかった。

 

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Bushは何を言うべきかの判断をしなければならず;言うべきことを言わねばならなかった。そして唯一の証人Irby氏によれば、Bushは「それから着席した」という。Bushは着席し終えると、どうにかしてIrby氏の注意を引くことなく、電話を探して、見つけねばならなかった。

 

電話はホテルの電話であったであろうため、Bushはホテルの電話交換台にたどり着き、外線につなげねばならなかったのだ。大統領の死の発表の後には電話交換台は混雑していたと読者は考えるであろう。それは見事な推測である。ワシントン.D.C.ではあまりに多くの人々が電話をかけようと殺到したため、電話システムが機能しなくなっていたのだ。

 

いずれにせよ、いったんホテルの電話交換手につながり、外線につながった後、Bushはインフォメーションセンターに電話をかけ、FBIの電話番号を入手しなければならなかった。インフォメーションセンターにつながり、FBIの電話番号を入手した後、そうして彼はFBIに電話しなければならなかったのである;そして間違いなく、極めて混雑していた、FBI側の交換台につながらねばならなかったのである;そしてダラス支局の歴史で最も混雑していたに違いない日に、彼は職員を見つけねばならなかったのである。読者はこうした行動には何分がかかったと考えるであろうか?

 

その時点では全ての公共の警察業務が進展していたことを考えると、民間人がつながったこと自体信じがたく思えるが、20分が偏りのない推測と思われる。ダラスのFBIは殺害現場一帯に配置されており、カメラのフィルムを没収し、目撃者を脅していたことを私達は知っている;つまり、どうしてBushが狙撃の一時間後に、FBI職員に連絡出来たのか想像することは困難なのである。BushがそうしていたとIrby氏が述べた「着席していた」ことを考えると、こうした出来事が45分かかったとしてもうまく出来た仕事なのである。しかしBushはこの全てを、FBIのメモが記載しているように、Kennedyの死亡の発表が最初に出されてから7分後の1時45分までに、なさねばならなかったのである;これは明白に不可能である。

 

問題点3:第三の問題点は、なぜBushがそのような話を作り上げる必要があったと感じたのかという疑問である。なぜ彼は私達にこのような嘘を告げねばならないのであろうか?なぜ彼は自分のために、Irbyのような他の者に、嘘をつかせなばならないのであろうか?彼が嘘をつくことで、自分自身を無実としようと懸命に試みれば試みる程、彼の有罪を示す証拠を彼が私達に提供することになるのは、皮肉である。

 

(*1) Kitty Kelley著、 The Family: the Real Story of the Bush Dynasty、 p.213; Russ Baker著、 Family of Secrets、p. 54にて引用されている

 

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20-セクション1 ダラスモーニングニュース1963年11月20日水曜日

課外活動‐アメリカ油田採掘業者、午後6時30分、木曜日、シェラトンダラスホテル:George H.W. Bush、Zapata 海洋採掘社、社長

11月21日木曜日‐JFK暗殺の前夜のアメリカ油田採掘業者協会の会合での講演者としてGeorge H.W. Bush を告知する1963年11月20日のダラスモーニングニュース紙

 

(*2) 一部には、この点を指摘して、このような主張までする人々も存在する。「そうか!このためにBushはダラスにいたんだ!大統領を殺すためではなく、他のオイルマンに講演するために!」しかしHoover が作成したメモが示しているように、オイルマンというのは、単にCIAの訓練された殺人者を監督する監督者というBushの本当の任務を隠す隠れ蓑であった。彼にはダラスにいる口実が必要であったのだ。この講演の仕事は彼に言い訳を提供していたのである。

 

                                    監督から

「George Bush が Kennedyを殺した。あるいはそれはマフィアであった?もしかするとカストロがやった。誰が構うというのだろう?40年前の話である。どんな違いがあるというのだ?」

 

重要視すべき問題である。

彼が死亡した日に、私達は計り知れない富を失ったのだ。このビデオは、冷戦の沈静化に努め、そしてアメリカの人々に彼らのロシアの敵を、下劣な非人間的怪物としてではなく、私達と同様な人間として見るよう働きかけた、平和の人を私達は失ったということを示すものである。

 

1963年11月22日、あなた方はあなた方の命を1962年10月17日に救った人を失ったのである。ミサイル危機の真っ只中において、Kennedyの軍司令官と顧問団はキューバに対する先制ミサイル攻撃を開始するよう迫っていた。彼らはKennedy にキューバのロシア製ミサイルは核弾頭ではなく、発射準備もされていないと確約した;しかしともかく大統領と自分達は万が一のために、爆弾攻撃避難所という安全な場所に静かに立ち去らねばならないとも言うのだった;それから私達全員を死ぬ危険にさらしながら、攻撃を開始するのだと。Kennedyはこのことについて考えた。そして彼は彼らに誰もどこにも行くことはないと告げたのだった。

 

もし誰かが死亡するとすれば、ロシア製ミサイルの主要標的であったホワイトハウスの座にいた彼らこそ最初に死亡していたはずである。団結して彼らはより安全な計画を考え出したのだった。当時の国防総省長官、Robert McNamaraは最近になってロシア側から、そのミサイルは核弾頭を積んでおり、発射準備が出来ており、攻撃された場合には司令官にはそれらを使用する権限が与えられていたことを知った。もしあなた方が北半球に住んでいるのであれば、あなた方の両親の命、そしてあなた方の未来はその日間違いなくJohn Kennedy によって救われたのである。彼を殺害した者を明らかにすることは重要視すべき問題である。

 

退任演説の中で、Eisenhower大統領はKennedyに、また私達全員に、Eisenhowerが呼ぶところの「軍産複合体」が民主主義に突きつけている脅威について警告した。また一方Kennedy は周知のごとくCIAを追求し、ベトナムへ軍を派兵することを拒んだ。私は、なぜKennedy はもっと公然とこうした軍産複合体を攻撃しなかったのか、常に不思議に思っていた。そしてその後私は、Kennedyが国連で行ったスピーチに巡り合った。このビデオで見るようにKennedyは、「全ての軍と全ての兵器を廃絶する」ために、こうした軍産複合体と戦う上で彼を支援してくれるよう、ロシア人に、国連に、呼びかけていたのである。

 

しかし彼は消し去られたのだった。その後の年月において、数百万人が必要のない戦争で死亡し、数兆ドルが「防衛」に無駄につぎ込まれ、数百万人以上の人々が不必要な形で貧困の中で生活し、死亡している。私達が彼を失ったことは重要視すべき問題である。

14brucewillis320x2392007年に、Bruce Willis は雑誌Vanity Fair にこう語った。「彼らは今も Kennedyを殺した人間を捕らえていない。こう言うと殺されるだろうが、何らかの形でそうした連中が今も力を持っていることは、間違いないと思う。合衆国政府は完全に乗っ取られたのだ。」

 

彼は天才ではないと私が示唆しても、現在ではおそらく Willisも気にしないだろう。せいぜい、彼の観察は常識に過ぎないのだから。アメリカ人の80パーセントが彼に同意している。Kennedy が世界で最も力を持った人間達によって倒されたことを示しているこのビデオは、実は、秘密文書に基付いたものではない。単に封印されてきた情報によるものである。Oswald がKennedy を後方から撃ったと言われている。しかし彼が死亡した日に、ニューヨークタイムズは、Kennedy には喉に弾丸が侵入した傷、右のこめかみにもう一つの傷、後頭部に大きな穴の開いた弾丸が侵出した傷があったことをダラスの医師が語ったという記事を掲載したのだった。

 

救急治療室の医師と話した後、Kennedyの報道担当官は集まった報道陣に、右前方からの右のこめかみへの一発は「頭部を貫通」していたと説明した。右前方の、grassy knoll(芝生の丘)付近にいた目撃者は全員、その方角から銃声が聞こえたと説明しており、多数の目撃者が射撃者を求めてその丘を駆け上った。これらの目撃者は報道機関に話していた。しかしこうした情報は全て50年間にわたり封印されてきたのである。誰によって?誰にそのようなことが出来たのか?

 

このビデオではまた、理性的反論の余地なく、Kennedyの遺体がエアーフォースワンから盗み出されていたこと、それから検死の前に、喉の傷が切開されていたことを示す最高の証人による圧倒的な最高の証拠も目にすることになる。Jackie Kennedy はダラスからベセスダ海軍病院までの航空機の中で空の棺を見守っていたのだった。その後Jackieと空の棺が到着する20分前に、遺体は静かにベセスダに検死のために運び込まれたのである。誰がこうしたことを手配する力を持っていたのであろうか?

 

証拠を全て封印し、単独殺し屋についてのばかげた嘘で私達を情報攻撃し続ける力を、今日、誰が持っているのであろうか?短いリストになるのではないだろうか?そのリストにはマフィアやロシアやカストロは含まれないものである。そのリストにはBush一族が含まれており‐それ以上に大手石油会社の所有者;銀行業界のエリート;軍産複合体の中枢が含まれているだろう。こうした人間達が、そして彼らの後継者達が、911の攻撃を仕掛けたのだ。重要視すべき問題である。

Jim Fetzerは元海兵隊将校で、ダルースのミネソタ大学のマックナイト名誉教授である。

John Hankey は30年近くロスアンジェルス市の学校で、「歴史として」通用している事象の見直しを提起する代替的研究方法を含めて、歴史と英語を教えている。

2013年11月10日 (日)

ブッシュはJFK暗殺チームを調整したのか?

以下は、http://www.veteranstoday.com/2013/03/30/did-george-h-w-bush-coordinate-a-jfk-hit-team/の日本語訳です。


ブッシュはJFK暗殺チームを調整したのか?

by Richard Hooke (with Jim Fetzer)

 

01_ghwbfeaturedimage_2元CIA長官で第41代アメリカ合衆国大統領、George H.W. Bushが我々の第35代大統領の死に関与していたことが示されるのは、これが最初ではなく、また間違いなく最後でもないであろう。我々の以前の記事、例えば、“Was George H.W. Bush involved in the assassination of JFK?”(George H.W. Bush はJFK暗殺に関与していたのか)において、John Hankey と私は双方共にこの疑問を扱っている。そこで彼はGHWB (第41代大統領George H.W. Bush)のDealey Plazaにおける狙撃事件での役割を裏付ける大量の証拠を提供している。この新しい検証において、Richard Hookeはその主張を具体的に実証し、彼自身のさらなる証拠を提起するものである。私はそれらは正しいと信じている。

 

GHWB がYale 大学時代からMalcolm “Mac” Wallace を知っていたことは特に驚くべきことである。”Mac” Wallaceは LBJ(リンドン・ベイ・ジョンソン第36代大統領)が私的に雇っていた殺し屋で、Lyndonのために一ダースもの多くの人々を殺害したのである。その中には、彼の仕事に口をはさみ過ぎたため、話すことを続けさせることが出来なくなった、彼自身の姉妹の一人も含まれていた。LBJが大統領暗殺に関与していたことを示すかなりな量の証拠が存在している。彼の生活は「全ての人々の大統領」になることに捧げられていたのである。Phil Nelsonが、著書 LBJ: Mastermind of JFK’s Assassination (2nd revised edition, 2011) において文書で示しているように、彼はこの追求に際して容赦なかった。Madeleine Duncan Brownの著書 Texas in the Morning (1997),、Barr McClellanの著書 Blood, Money & Power (2003)、Billy Sol Estesの著書 A Texas Legend (2004)もまたLBJを中心人物であったと名指ししている。このことは、E. Howard Huntの著書“Last Confessions” (2007)によっても確認されている。E. Howard Huntは、LBJ、Cord Meyer、David Atlee Phillips、William Harvey、 David Sanchez Morales らを「指揮系統」にいたと確定している。

(画像下の字幕:George W. BushとMalcolm Wallaceの写った1947年のYale 大学の Skull & Bonesの写真は、私達に与えられている、1947年にニューヨークのColumbia大学で学んでいたことになっているMalcolm Wallaceに関する定型的な歴史は、おそらく全面的には正しくはないことを示している。)

 

知る立場にいたJack Rubyまでもが、もし他の人物が副大統領であったなら、暗殺は決して起きなかっただろうと主張していた。McClellan は、Clint MurchisonH. L. Huntのようなテキサスのオイルマンが、石油減耗控除を27.5パーセントに維持するために、暗殺の資金を提供したと結論付けた。この控除率はLBJ政権下で変わらずに維持されたのだった。

 

私は、1948年にLyndonとの不倫関係を始め、彼の息子Steven(彼だけが結婚生活における子供ではなかったが、唯一の男子子孫であった)を1950年に出産した、Madeleine Duncan Brownと100回以上の対話を持った。彼女は私に、暗殺からわずか6週間後の大晦日のテキサス州オースティンのDriskill Hotelでの彼らの面会について語った。その時彼女は彼に、誰も彼以上に得をする人物はいなかったのだから、彼が暗殺に関与していたのではないかという噂を持ちかけたという。するとすぐLyndon は激昂し、彼女にCIAとオイル関係者がJFKを除去することに決めたのだと語ったという。こうしてMac Wallace が関与していたことには、深刻な疑いがないのである

 

Wallace はHarry Lewis and L & G Oilで働くことになった。1970年に彼はダラスに戻り、John F. Kennedy暗殺における彼の役割に対してさらに金をEdward Clark に要求し始めた。Barr McClellan によれば、このとき、Wallace を殺す決定が下されたという。「彼は除去されねばならなかった。テキサス州のトループに娘に会いに車で出かけた後、彼はテキサス州ロングヴューのL & Gのオフィスに立ち寄った。そこで車中に排気ガスが流入するように彼の車の排気管が操作された。」1971年1月7日、Malcolm Wallace はテキサス州ピッツバーグへ車で向かう途中には死亡した。彼は居眠りし、道路から外れた後に、衝突したものと考えられた。Wallace は大規模な頭部の損傷により死亡したのだった。

 

程なく、Clifton C. Carter が53歳で死亡した。1971年はまた、Billie Sol Estes が刑務所から出ることになっていた年でもあった。オースティンに拠点を置いていたテキサスレンジャーズの一人、Clint Peoplesによれば、Billie Sol Estes は、自分が自由を手にした際に、 Henry Marshallの死について詳しい話を語ると約束していたという。

 

1984年8月9日、Estesの弁護士、Douglas Caddyがアメリカ合衆国司法省のStephen S. Trott 宛てに手紙を書いた。その手紙の中でCaddy は、Wallace、 Billie Sol EstesLyndon B. JohnsonCliff CarterHenry MarshallGeorge KrutilekHarold Orr、 Ike Rogers、 Coleman WadeJosefa JohnsonJohn KinserJohn F. Kennedy、の殺害に関与していたと主張した。Caddy は以下のように加えた:「Estes 氏は、LBJが一連の殺害を命令し、彼の命令をCliff Carterを通じてMac Wallaceに伝え、Wallaceが殺害を実行したものであると証言する意思があります。」

 

これは、Billy Solに対するフランス人調査報道記者William Reymondによるインタヴュー内容と一致するものである。そのインタヴューにおいて、彼はLyndon が自身の最高責任アシスタント、Cliff Carterをダラスに送り込み、暗殺の手配が成されるのを確認させたと説明している。このことを彼はA Texas Legend (2004)においても再主張している。Billy Sol はCliff Carterと“Mac” Wallace の双方を個人的に知っており、直接の対話から彼らの関与を推測していた。The Education Forum上でのJohn Simkin とDouglas Caddyの間のeメールのやり取りのコピーをamazon.com上で見ることが出来る。これは、LyndonがCliff Carterを利用し、“Mac” Wallaceにこうした犯罪を実行するよう指示を伝えていたことを具体的に示すものである。それ故に私はGHWB と“Mac” WallaceがYale大学のSkull & Bones のメンバーであったことを発見して衝撃を受けるのである。

http://www.youtube.com/watch?v=pxJop1MWmpk

 

なぜDal-Tex が問題となるのか

Warren 報告書 (1964)によれば、暗殺の間3発が放たれたという。 暗殺当日にFBIとシークレットサービスは、一発目がJFKの背中に、二発目がJohn Connallyの背中に、三発目がJFKの後頭部に命中し、大統領の命を奪ったとの結論を下した。発砲された一発がそれて、離れた所にいた見物人James Tagueを負傷させていたことが、後に明らかになった。 4発以上が放たれていたことを信じる者にとっては、これは特に問題となる事象ではなかった。六箇所の異なった地点から八発、九発ないし十発が放たれていたと考えられることが判明している。(例えば、“Dealey Plaza Revisited: What happened to JFK?”を参照いただきたい。)しかし三発のみが発砲されたと信じている者にとっては、これは微妙に困難な状況を示すことになる。こうして、背中に命中した弾丸は実際には大統領の首の後ろに命中したものであり、大統領の喉から侵出し、Connally.の背中に侵入したとする「魔法の弾丸」説というでっち上げに至ることになった。

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証拠は全てそれに反するものである:まぎれもなく、それは偽りであることが実証可能であるのみならず、解剖学的に不可能でもあるのだ。私が“Reasoning about Assassinations”において説明しているように、頚椎が介在しているからである。それでもなおこれが「公式説明」の支柱となったのは、そうしなければ、大統領の喉の傷とConnally の複数の傷を他の弾丸、他の狙撃者に基づいて説明しなければならないからである。徹底的な、詳細な細部にわたる医学的、弾道学的検証、そして目撃証言は、JFKが四度撃たれていたという結論を支持するものである。-背中を一回(後方から);喉を一回(前方から);頭部を二回(後頭部を後方から一回、右のこめかみを右側/前方から一回)。これらの弾丸のうち一発も、テキサス教科書倉庫ビル六階の「暗殺者の巣」からは放たれてはいなかったと考えられるが、Dal-Texから放たれた三発には、テキサス教科書倉庫ビルから放たれたものであるかのように響く音響効果があった。Richardの検証は、GHWB がこのDal-Texの窓に見えることを示しているのである:

 

 

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(画像下の字幕:最も可能性の高い一連の順序は以下である;Country Records Buildingから発射された一発が大統領の背中に命中し、直後にTriple Underpass(三線高架下道路)の南側末端部から一発が発射され喉へ命中した。その後Dal-Tex から発射された一発はそれ、Tagueを負傷させた。教科書倉庫から発射された一発がJohn Connallyに当たった。運転手がリムジンを左に寄せ、停止させた。Dal-Texから発射された二発目がJFKの後頭部に命中した。大統領は前方に倒れこみ、Jackieが抱きかかえた。彼女が大統領の顔を見ているとTriple Underpass(三線高架下道路)の北側末端部から発射された炸裂性弾丸が右のこめかみに命中した。Dal-Texから発射された三発目はそれ、クロム製の縁に当たった。その他の弾丸がおそらくJohn Connallyに当たったり、それてクロム製の縁に当たったりして、芝生で発見された。一発も「暗殺者の巣」からは発射されなかった。)

これは一連の発砲についての私の分析であると強調することをお許しいただきたい。私はこれを“
What happened to JFK–and why it matters today” (UW-Madison, 22 November 2011)を含む、複数箇所で詳細に説明してきた。私達は双方ともDal-Texから三発が放たれたと信じるものではあるが、一連の発砲に関してRichardは必ずしも私に同意してはいない。Dal-Texから三発が放たれたこと、これは下の彼の検証で彼が扱っている題材である。一発がそれてJames Tague.を負傷させたと考えられる。別の一発がリムジンのフロントガラス上部のクローム製の縁に当たったと考えられる。そして三発目がJFKの後頭部に当たったと考えられるのである。特にRichard は、もう一発が抗柵の後方から放たれたと信じている。これは、Ed Hoffmanやその他の人物も支持していることである。さらに別の狙撃者がいたであろうことには私も同意している。

http://www.youtube.com/watch?v=zLL8diz-7bw

 

George H.W. Bush がDal-Tex の暗殺チームを調整した
by Richard Hooke

 

04_ghwbattsbdGeorge H.W. Bush は少なくとも1961年という早い時期にCIAのために活動していた;おそらく彼は、Skull and Bones 結社に属していたYale大学での大学時代に、リクルートされたのであろう。彼と彼の妻Barbaraはヒューストンに引越し、海底石油採掘ビジネス、Zapata Offshore Co.を経営した。これは採掘設備を世界中に配備していたCIAのトンネル会社であり、何を行っているのか疑われるCIAのビジネスで彼が一度に数週間姿を消す上では都合が良かったのである。Bush は、ZAPATA. Col.作戦とのコードネームで呼ばれていたピッグス湾侵攻作戦の主要な組織まとめ役、リクルート担当者であった。元ペンタゴンの高位にあった高官、Fletcher ProutyはOliver Stoneの映画「JFK」中の「X大佐」のモデルになった人物であったが、彼はこの作戦のために二艘の海軍船舶を調達していた。この二艘は非海軍色に塗り替えられ、HOUSTON 、BARBARAと改名されたのだった。

 

George H.W. “Poppy” Bush はJFKが暗殺された時に自分がどこにいたか、何をしていたかを思い出すことが出来ない少数者の一人である;事実、20年以上にわたり、彼はその詳細を全く思い出せないのである。彼は当時39歳で、ハリス郡(ヒューストン)の共和党の議長であり、JFKに対する辛らつな批評家であった。しかし1963年11月21日に、GHWB はダラス中心街のシェラトンホテルに滞在しており、その日の夜、石油採掘契約者アメリカ協会にむけて講演していたのであった。しばらくして、彼は報じられる所によれば、Clint Murchison, Srの自宅での「承認のための会合」に出席しており、暗殺実行の前夜に最終指示を受け、JFK殺害の祝杯を上げていたという。[注記: Madeleine Duncan Brown が自身の著書Texas in the Morning (1997)においてこの出来事を記述している。これは、Nigel Turner制作の"The Men who Killed Kennedy"のパート9、"The Guilty Men"でも裏づけられている。]

http://www.youtube.com/watch?v=jgNfQYpS1gQ

 

保安官代理Roger Craig はDealey Plaza でその日にあった12件の拘束について自分は知っていたとJim Garrison に報告した。その内の一つは、特に、ダラス警察署のR.E. Vaughn によってなされたもので、Dal-Tex ビルから出て来る男の拘束であった。彼は自分のことを「テキサス州ヒューストンの自営石油操業者である」と述べたという。この拘束された人物はダラス警察署の刑事によってVaughnのもとから連行され、彼がその人物を見たのはそれが最後であったという:この謎の人物の存在については、顔写真も撮影されず、インタヴューも行われず、指紋も取られず、名前も分からなかった。「ヒューストンの自営石油操業者」は常にGeorge Bushの(CIAの)隠れ蓑であった。実際の所なぜ彼は拘束されたのであろうか。Garrisonはその人物がDal-Tex ビルから走って出て来たのであり、当局は見物人の騒ぐ声のため、拘束せざるを得なかったのだと述べた。彼は取調べのため保安官オフィスに連行されたというが、取調べの記録は存在していない。その後、二人の警官が彼に同伴しビルから外に出てきて、待ち受ける群集のやじに直面した。彼らは彼をパトカーに乗せ、走り去った;おそらくDealey Plazaへと戻ったのであろう。なぜならそこで彼は、アメリカ空軍将軍Edward Lansdaleと共に写真に撮影されることになるからである。

 

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Ed Landsdale は「三人の浮浪者」(真ん中の写真)のそばを歩いている人物であると、秘密活動のためのペンタゴンとCIAの連絡役であり-またOliver Stoneの映画「JFK」中の「X大佐」のモデルでもあった-L. Fletcher Proutyや元アメリカ海兵隊司令官、 Victor Krulakほどの当局者によって確認されたのである。両人共にLandsdale のことをよく知っていたのである。

 

06_lansdalewaitingforbush279x320_2GHWBの本人確認に関しては、私達にはプロのカイロプラクターで、人物の身体や服装に対処する専門家であるRalph Cinqueによる観察がある。「George HW がそこにいるということの確定は簡単です。他にどんなまじめな代替案があるのですか。全く彼に似た人物がたまたま偶然そこにいたという全く驚くべき偶然が起きたというのですか。何度V(映画「V for Vendetta」中のVendetta =復讐)は私達に、自身は神と同様、サイコロ遊びをするものではなく、偶然を信じるものではないと告げねばならないのでしょう。私も、あるいは殺害についての他の真剣な研究者は誰も、JFK暗殺に際しては、特にそのような偶然はないと言わざるを得ないのです。」私達には、テキサス教科書倉庫ビルの前にBushが立っている写真がある;私達には、その時Dealey Plaza でEd Lansdaleを写した写真がある;そして私達には、世界中で暗殺を準備したことで有名なLansdaleが彼に話すのを待っている姿を写したもう一枚の写真があるのだ。この件については、「これらの写真にはまぎれもなく千の言葉以上に値する」と言っても過言ではないであろう。

 

偽りのアリバイ

次に私達が1963年11月22日のGeorge H.W. Bush について知るのは、FBIの覚書メモによってである。それによれば、GHWBはダラスの保安官オフィスでの記録には残っていない取調べから解放され、ヒューストンのFBIオフィスのSAC Graham W. Kitchel のもとに電話をかけたという。これは、ここ数週間の間に、James Parrottという名の人物が大統領がヒューストンに来た時大統領を殺害すると話していたことを思い出したと述べるもので、偽りのアリバイを確立しようとしていたものであった。Bushがこの電話をかけた直後に、FBI職員がParrot の自宅へと派遣された。別のFBIメモでは、Parrotの母親は、JamesはFBIが自宅に到着した時自宅にいなかったが、彼は一日中自宅におり、彼女が息子Gary.の面倒を見るのを手伝っていたと語ったという。

 

Parrot 夫人は、午後1時直後にReynolds 氏が訪れて、Waugh Driveの共和党本部の看板を塗ることについて息子に話したと報告した。要点は、Kerney Reynoldの助けとGeorge Bushの助けがParrot にアリバイを与え、Parrot がBushのアリバイであったというものである;全員がお互いをかばい合っているのだ。Bushの共和党看板描きの一人であった暗殺者志望者について通報する偽りの電話;彼自身もまたBushの仲間の一人によるアリバイによって見逃されるもので、実際にはうまく機能していない;これはCIAのアリバイテキストの101番である。こうした類のものが歴史の代役を務めることは許されないのである;もしBushがそれほど看板絵描きについて懸念していたのであれば、なぜ彼はKennedy大統領がダラスに来る前に、FBIに警告の電話をしなかったのであろうか。

 

Bushはこのメモによって自分の頭部を銀の皿にのせて私達に差し出したのである;Bushは自身が目撃されたことを懸念していたため、パニックになり、その日にDal-Tex ビルの前で拘束されたのは彼ではなかったことを示す証拠を提示することで自分は賢明であると考え、愚かにもFBIに電話をかけたのだ。これはその時点では、良い考えのように思えただろう。しかし彼は実際には自身の関与の永遠に残る記録を創造していたのである。このメモはBushを、テキサス州のタイラーから長距離電話をかけてきた、ヒューストンのオイルマンとして確定している。Bushは暗殺の間、あるいは暗殺の直後にダラスにいなかったことを確証しようとしていた。彼は、誰かが自身を、Dal-Tex ビルから走り出て来るところを拘束され、ダラス保安官オフィスに連行され、そのビルから連れ出されたオイルマンとして特定することを懸念するべきであったのだ。

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この1963年11月22日の日付のあるFBIメモは、Bushがテキサス州タイラーから電話したと述べている。しかし彼が実際にそこにいたという証拠は存在していない。暗殺の後20年以上にわたり、Bushはダラスで12時30分に暗殺が起きた時、自分はどこにいたのか記憶していないと言っていた。私がそのような話を聞いたことのある唯一の人物はRichard Nixonであった。彼はJFKが飛来するわずか2時間前にLove Fieldから飛び立っていたのである。
(訳者注:このメモの日本語訳が
こちらにあります。)

 

顕著なことであるが、このFBIメモはGeorge Bush が実際にどこにいたのかに対する答えを提供出来ないのである。このメモは、しかしながら、Bushが自由になり、偽りのアリバイを創作した最初の瞬間は午後1時45分であったことを私達に告げるものである。BushはDealey Plazaからわずか数ブロック離れた、ダラス中心街のシェラトンホテルに滞在していたにもかかわらず、午後1時45分にテキサス州タイラーにいたと私達に言おうとしているのである。

 

George BushのCIAの任務はダラスにおいてあからさまであった。そのために彼はダラスに滞在していたのだから、彼がタイラーで何をしていたというのだろう。JFKは午後12時30分に撃たれた。他の全ての人と同じように、Bushも午後12時30分にダラスにいなかったのだろうか。そのめにおそらく彼はダラスシェラトンホテルにいたのではないだろうか。Bushは他の全の人と同じように、大統領の状態を確認するためにパークランド病院に車を走らせることはなかったのであろうか;保安官のオフィスで取り調べを受けていたのでなければの話であるが。

 

FBIの覚書メモ

Bush は国家反逆として起訴される候補者であると考えられるのである:彼の1963年11月22日のアリバイは捏造されたものであり、彼がそこにいたことを示す証拠が我々にはあるのだ。テキサス州タイラーからの電話についてのFBIメモは、彼がCIAのテキスト式アリバイをでっち上げていたのであり、彼が嘘をついており、おそらくJFK殺害への共犯者であったことを示す以外に、彼が電話をかけてきた場所を証明するものではない。Bush は暗殺後20年以上にわたり、暗殺時に自分が何をしていたのか全く記憶していないと主張していた。実際の所、彼は自分の自叙伝でも説明しなかったのである;そしてその後、突然、彼はテキサス州タイラーでロータリークラブに対して講演していたという話をでっち上げたのだ。Aubrey Irby は、Bushが講演している時、ホテルのベルボーイがやって来て、Aubrey にJFKが死亡したことを連絡したと述べた。 Aubrey 氏はこの情報をWendell Cherry Irby氏に渡し、彼がそれをBushに渡し、Bushは講演を中止したという。Irby氏によれば、Bushはこの状況の下では政治に関する講演は不適切であると考えると説明し、講演を終わらせ、すぐに着席したのだという。

 

George Bush がこの出来事を20年以上にわたり思い出せなかったとは、想像出来ないことである。JFKが死亡したというWalter Cronkiteの世界に対する発表は午後1時38分になされた。大統領と知事Connally が午後12時30分に撃たれたことが判明していた後に、Bushがその時、テキサス州タイラーでロータリークラブに対して講演していたと考える人がいるのであろうか。Kennedy 大統領はDealey Plazaを通過した後に、ダラス貿易マートで昼食時のスピーチを行う予定になっていた。ダラス周辺にいた人は皆そのスピーチに参列しようとしていた;そしてJFKが撃たれた後大部分の人々は、重傷を負った大統領と知事に関する最新ニュースを知るために、パークランド病院へと殺到した。右派人物が所有するビル内でのJFK嫌いの共和党集団に対するテキサス州タイラーでの講演は、Bushがダラスにはいなかった証拠とは認められないのである。入手可能な証拠が、BushはCIAの任命を受けており、Dal-Tex 暗殺チームの監督をしていたことを示しているためである。Dal-Tex からはMannlicher-Carcanoを用いて三発が放たれたと考えられており、この銃は使用された凶器のうちで唯一消音装置を取り付けていない凶器であったと考えられている:

 

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次に、George Bush を暗殺の直後にDealey Plazaで撮影された写真中で、テキサス教科書倉庫ビル出入り口の隣、そしてEd Lansdaleの隣に見ることが出来る(下を参照)。これらの写真は、紛れもなくGeorge Bushを写しており、彼がダラス保安官オフィスを出て行った後に、どこに行ったのかを告げるものである:見逃した最新情報を得るために犯罪現場に戻ったのである。彼は James Parrot について通報するFBIへの電話を、ダラス保安官オフィスから午後1時45分にかけたに違いない。なぜなら Bush を Dealey Plaza で、午後2時頃 Dealey Plazaを立ち去り、「三人の浮浪者」のそばを通り過ぎ、駐車場へと向かうことになるLansdaleと共に見ることが出来るからである。Bushが、Oswald が午後1時50分にテキサス劇場で捕らえられるまでDealey Plaza周辺に留まっていたLansdaleと共に写真に収められるには、いうまでもなく彼はDealey Plaza に直接戻らねばならない。もしLee が捕らえられなかった場合には、Lansdaleが「プランB」として、有蓋貨車に行くよう指示されていた三人の浮浪者–Charles Rogers、Charles Harrelson、 Chauncey Marvin Holt(しばしばE. Howard Huntと誤認されている)–を罠に嵌めていたのであろう。暗殺が彼らのせいにされることもあった。帽子をかぶった浮浪者Holt (CIA)は、自分達は有蓋貨車中で発見され、Oswald が捕らえられた直後にplazaを通って連行されたと述べた。彼はOswaldの逮捕を、このおなじみの写真で彼が手に持っている紙袋の中に隠していたCIAが提供した無線で盗み聞きしていたため、知っていたのだった。

 

有罪を示す覚書メモ

09_memomentioninggeorgebush1988年にJohn McBride が発見した、 J. Edgar Hooverによる FBI の覚書メモ(右)は暗殺のわずか7日後に書かれたものであるが、1963年にGeorge H.W. Bush が CIAの関係者であり、反Castro 派キューバ人に関する最新情報を与えられていたという根拠を提供するものである。George Bush は当時自分はCIA にいなかったため、このメモは別の「George Bush」について言及しているものであると述べている。しかし同名の人物がいたにせよ、その人物は文書係であり、ピッグス湾作戦についての覚書メモを受け取るはずはなかったのである。そしてまた、この文書中のGeorge Bushは間違いなくGeorge H.W. Bush であり、同じ住所であったことを示す別の情報も明らかになっている。1976年、Ford 大統領はWilliam Colbyの後任としてGeorge Bush を CIA長官に任命した。Bushはこの役職を、
1976年1月30日から1977年1月20日まで、357 日間にわたり務めた。Bush は自分はCIAのために活動したことはないと議会の前で偽りの証言を行い、また民間人が同局の運営に任命されることは初めてであると広く報じられた。しかしこれはばかげた以上にたわ言であった。George Bush はおそらく、Yale大学から直接リクルートされた、CIA に捉えられた終身雇用の囚人であったと考えられる。
(訳者注:このメモの日本語訳が
こちらにあります。)

 

George H.W. Bush (CIA) はまたGeorge De Mohrenschildt (CIA)の親しい友人でもあった。両人はダラス石油クラブのメンバーであった。1970年代後半にJFKと MLK(キング牧師)の死を調査するHSCA(暗殺に関する上院調査委員会)のため、Gaeton Fonzi による聞き取りが行われる前日に、De Mohrenschildt が撃たれて死亡しているのが発見された後、De Mohrenschildtの住所録中に以下のBushの名前と住所が発見されたのだ:“Bush, George H.W. (Poppy) 1412 W. Ohio also Zapata Petroleum Midland.” CIA の文書により、ピッグス湾作戦(オペレーションZapata)の計画の最中、De Mohrenschildt はメキシコとパナマを頻繁に旅し、 CIAに報告書を提出していたことが明らかにされている。彼の義理の息子もまた、Warren 委員会に対してDe Mohrenschildt はキューバ侵攻のためのスパイ活動をしていたと自分は信じると告げていた。George De Mohrenschildtはとりわけ、Lee Harvey Oswaldの親友であり、またOswald が1963年の秋にダラスに出て来て、テキサス教科書倉庫ビルでの仕事を見つけた後の彼の側近であったと考えられている。

 

Bush は窓にいたのか?

著書
The Killing of a President (1994)において、Robert Grodenは窓に外見の暗い人物が見えると述べている。この人物の身元をJames Richards はJim Fetzer に対して、フロリダ州マイアミの「リトルハバナ」のフリーダム公園に彫像が建てられている Nestor “Tony” Izquierdoであったと特定している。彼は反Castro 派のキューバ人で、 GHWBはピッグス湾の時から彼を知っていたと思われている。Dal-Texビルからライフルにより三発が放たれたと考えられるという、この場所について最も示唆に富む解釈を提供するDuncan MacRaeの以前の研究“Dal-Tex Shooter 2nd floor”を基に、私はさらに以下のように発展させた:

 

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Bushがその時そのビルにいたのであれば、彼は出しゃばらずに、Dal-Texビルの二階にあったウラン採掘会社(CIA の所有物)の物置の窓の内側にいたと私は推測する。私の解釈はGHWB風の大きな左耳、高い身長、ボディランゲージ(首の傾げ方)、髪の生え際、額の特徴を持つお坊ちゃん髪型をした人物が、Dal-Tex 暗殺チームを監督していたというものである(下のコラージュを参照)。彼はある理由のためダラスにいたのだ。その理由とは、大統領の車両パレードを見るためではなく、狙撃者としてでもなく監督者として、無線装置を用いて監視人と通信するためであった可能性が高い。この監視人は、(上のAltgens6 写真で)ヒューストン通りでJohnny Roselli (CIA/マフィア)の隣に立って携帯無線機に話しかけている姿が見られるDanny Arce (CIA)であったと考えられる。Arce は、数発が放たれた間、誰かと話していたのであった。Ruth Ann (CIA) はタイミングを数えており、携帯無線機でテキサス教科書倉庫ビルの六階から情報を受け取っていたのだと、(共謀を認めた参考人 Loy Factor)によって告発された。

 

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傘の男の同伴者は、 Orlando Bosch (CIA)であった可能性があるが[注記: あるいはFilipe Vidal Santiago]、リムジンがStemmons Freeway の標識を通過し、傘の男が自分の傘を上げ下げする間、無線で話しているのではない。傘の上げ下げは、まだ標的が生きているので「射撃を続けろ」という合図であったと考えられる。[注記: そこは、私が上に確定した全ての発砲箇所から目に見える場所であった。]最年長の浮浪者Chauncey Holt (CIA)は、自分は茶色の紙袋の中にCIAが支給した無線を隠し持っており、Rock Island鉄道の有蓋貨車内からであっても事件の最新情報を入手出来ていたと述べた。Holtは15組の偽のシークレットサービスの身分証明書を作成し、grassy knoll(芝生の丘)の後ろにある、その日の朝ダラス警察署が使用していた駐車場に駐車してあった赤色の小型トラック車中に置いており、grassy knoll(芝生の丘)の狙撃者の逃亡の手助けとなったのだった。それから鉄道塔転轍手、Lee BowersもまたWarren 委員会に対して、奇妙な人々が抗柵の後で車を運転していたのを自分が見て、一人が携帯無線機を使っていたことに気付いたと証言した。

 

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GWHBがそこにいたという証拠の概略

(1) Bushが1963年11月22日午後1時45分に電話をかけており、テキサス州ヒューストンのオイルビジネスマンであると身元確認されたことを示すFBIの報告書(覚書メモ)。彼が訪れたFBIオフィスはヒューストンオフィスであった。

(2) 11月22日の12時35分頃Dal-Tex ビルから走り出てくるところを拘束された男は、(副保安官Roger Craigによれば)自身の身元を「ヒューストンのオイルマンである」と認めたと言われている。Bushはダラス警察署のR.E. Vaughn によって拘束されたのだった。

(3) Bushは、James ParrotについてのFBIに対する警告を、ヒューストンのFBIオフィスの彼の友人であったFBI特別捜査官Graham W. Kitchelに長距離電話で知らせた。

(4) James Parrot には破壊分子としての履歴はなく、George Bush共和党上院選挙運動の際の看板描きであった。

(5) James Parrot には、Bushの支援者でもあった別の友人、Kerney Reynoldsから速やかにアリバイが与えられた。

(6) George Bushはダラス中心街のシェラトンホテルに滞在しており、そこで前日の夜(21日の夜)を過ごしていた。

 

(7) 午後12時30分にJFKが撃たれた直後にDealey Plaza でGeorge Bush (CIA) が警察と話している姿を写した写真が、少なくとも2枚の存在している。

(8)そうした写真の一枚は、Bush(CIA)がEd Lansdale (CIA)の隣に立っている姿を写している。

 

(9)そうした写真の一枚は、警察が封鎖しており、特別な身元証明書(CIA)がなければ入れない区域内のテキサス教科書倉庫ビルの出入り口付近にいるBushの姿を写している。

(10) Lansdale の隣にいる写真は、FBIメモでBushが電話したという午後1時45分から、Lansdaleが三人の浮浪者の横を通ってplaza を出て行く姿が撮影された午後2時の間に撮影された可能性が高い。この浮浪者が有蓋貨車から連れ出された午後1時50分頃、Oswaldがテキサス劇場で逮捕された。

(11) 20年以上にわたり、George H.W. Bush は、暗殺の際に自分が何をしていたのか記憶していないと述べていた。しかし突然彼は、自分が午後1時38分にタイラーのロータリークラブで講演をしていたことを思い出したのであった。一方、James Parrot を通報する彼のFBIへの電話は午後1時45分になされていた。

(12) 彼が、LBJが私的に雇っていた暗殺者であった、Malcolm “Mac” Wallace とYale大学で同席していたこと並びに、Clint Murchison, Sr.の自宅での承認のための会合に出席していたことは、JFK暗殺における彼の共謀を示す力強い状況証拠である。

 

あとがき

注目に値することであるが、(DCA フィルム中に)ヒューストンとエルム通りの角から、「ヒューストンのオイルマン」(George H.W. Bush)が数分前に拘束されたDal- Tex ビルに向かって歩いている人物がいる。この人物は彼の息子、17歳のGeorge W. Bushに酷似している。この人物の耳、鼻(これらの三枚の画像の二枚目では鼻を改ざんするがさつな処理がなされている)、鼻梁の形状、下あごの輪郭はGeorge W. Bushのものとかなり一致している。彼が着用しているお坊ちゃん風のローファーと白い靴下はチアリーダーにふさわしいものである。W.Bushもまたそこにいたように見えるのである。

 

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(画像下の字幕:
私の見解はこの人物は彼(George H.W. Bush )であるというものである。
父親が保安官の事務所に連行されたため、彼は途方に暮れていた;彼は父親を探していたのだ...
身長、体重、体格、鼻、耳、年齢、顎、歩き方;
数分前に父親が逮捕されたビルに向かって歩きながら...
白い靴下とお坊ちゃん風ローファー...
これが事実である確率はどれくらいか...かなり高いと私は思う...

 

JFK研究者Richard M.Hooke  2013年3月28日  )


Richard M. Hooke
はキャリフォルニア大学サンタバーバラ校の文化人類学研究者で、Bank of Americaの元システム分析者であり、またJohn F. Kennedy大統領の死に関する著述家、研究者でもある。 

Jim Fetzerは元海兵隊将校のミネソタ大学のマックナイト名誉教授で、Veterans Todayのコラム執筆者、編集者である。

 

 

2013年11月 4日 (月)

オズワルド無罪キャンペーン

以下は、http://www.oswald-innocent.com/の日本語訳です。

 

オズワルド無罪キャンペーン

 

私達は-これを隠蔽しようとの巧妙な取り組みにもかかわらず-有名なAltgens 写真に写った「出入り口の男」はLee Harvey Oswald であり、従って、ケネディ大統領殺害についてのありとあらゆる彼の罪は放免されることになるという真実を広めることに専念するJFK研究者の組織である。これはJFK暗殺についての決定的証拠である。

 

2013年11月22日のオズワルド無罪キャンペーンのサンタバーバラでのJFK真実集会にご参加下さい。

 

詳細は、こちらへ:50周年記念イベント 

 

警報!オズワルド無罪キャンペーンによって史上初のAltgens 写真の再現がなされています。

この結果をご覧になるにはこちらへ:
49 Years in the Offing — Altgens 写真の再現 

 

また、Blogspot上のオズワルド無罪キャンペーンも訪れて下さい。

 

Blogspot上で私達に加わるには、こちらへ: Blogspot上のオズワルド無罪キャンペーン  


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Lee Harvey Oswald に関する真実は上のリンクではっきりと見ることが出来る。彼は暗殺の間、テキサス教科書倉庫ビルの出入り口に立っていたのである。これは、Lee が通過する車両パレードを見ていたことを、彼が6階でケネディ大統領を狙撃することは不可能であったを証明するものである。JFK暗殺においては陰謀が存在しており、Lee Harvey Oswald は無実であったのだ。私達は、陰謀と隠蔽工作を証明する豊富な写真上の証拠並びに多くのJFK暗殺に関する正確な情報を提供するものである。

嘘に終わりを!Lee Harvey Oswald に光を!

 

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「Oswald はビルの前にいたという証拠がある。ビルの前で彼を見た人々がいた。私は、シークレットサービスの提示した証拠や他の証拠により、Lee Harvey Oswaldは出入り口にいた男であったことに私自身納得している。」
Gerald McKnight教授

 

 

オズワルド無罪キャンペーンの上級メンバー

David Wrone                   Jim Fetzer                        Ralph Cinque                Vincent Salandria

 

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Richard Hooke              James Norwood           Mark Lane                    Phillip F. Nelson

 

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Peter Janney                  Gerald McKnight            Larry Rivera                 Roy Schaeffer

 

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Dennis Cimino                Ted Coeyman            Donald Fallon               Staffan H. Westerberg 

 

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Donald Miller                      Pat Shannan                Graham Waite                  Tyler Newcomb

 

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Valerie Newcomb Woods     Orlando Martin           Jerry Kroth                Craig Roberts       

 

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Pete Mellor

 

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David Wroneは、Wisconsin-Stevens Point (UWSP)大学の退官した歴史の教授であり、オズワルド無罪キャンペーンの名誉相談役である。Wrone教授は、西洋文明の偉大な書物、ネイティブアメリカンの歴史、JFK暗殺に関する講座を受け持っていた。同教授は、「The Assassination of John F. Kennedy」、「 A Comprehensive Historical and Legal Bibliography and of The Zapruder Film」、「 Reframing the JFK Assassination」 という本の著者である。最後の書の第11章において、Oswaldが「出入り口の男」であったと広めており、その概要がWrapページの見出しになっている。

 

James H. Fetzer博士は、オズワルド無罪キャンペーンの会長である。同博士は、元海兵隊将校でMcKnight 大学名誉教授であり、JFKの死に関する4つの全国会議において議長あるいは共同議長を務めている。博士は「JFK: The Assassination, the Cover-Up, and Beyond 」というドキュメンタリーを制作した(1994)。博士はまた「Assassination Science 」(1998)、「Murder in Dealey Plaza 」(2000)、「The Great Zapruder Film Hoax 」(2003)という本を編集した。博士は、インターネット上の論考集assassinationresearch.com をJohn Costellaと共同で編集している。また博士のVeterans Today誌での定期的コラムは、世界で最も広く読まれているJFKに関するコラムの一つである。

 

Ralph C. Cinqueは、カイロプラクター、健康施設オペレーターとして健康分野で働いている。同氏はある国際的医師集団の元代表である。Ralphはまた長年にわたるJFK暗殺の熱心な研究者でもあり、Veterans Today や世界で最も読まれているオルタナティブニュースページの一つである、LewRockwell.com上に暗殺に関する記事を発表している。

 

Vincent Salandria は弁護士で、1963年11月22日にこの暗殺が国家犯罪であると分かった、尊敬すべきJFK研究の「第一世代」である。同氏はその日に、Oswaldはすぐに殺されるだろうと述べた。Vinceは、「False Mystery」という本の著者である。同書は、JFKは「安全保障国家」によって殺害されたと、そしてそれは謎ではなく、むしろ意図通り「露骨にあからさま」であったと推測している。Vincent Salandria の参加をいただき、私達は特に光栄である。

 

Richard Hookeは、キャリホルニア大学サンタバーバラ校で文化人類学の学位を取得しており、Bank of Americaの元コンピューターシステム分析者で、JFK暗殺に関する著述者、研究者である。同氏は、偽装をなすためにいかに画像が改ざん、変更されていたのかを解明し、鋭く証明している。Richardの類まれな画像を読み取る能力は、このホームページで広く生かされている。

 

James Norwood、キャリフォルニア大学バークレー校博士は、ミネソタ大学で25年以上人文科学と舞台芸術を教えてきた。同博士は、芸術、文学、歴史、西欧の伝統という考えについての6回連続講座によって、また一学期の長さのJFK暗殺に関する講座によって知られている。博士は最近では、シェイクスピアについての長編のドキュメンタリーのための作家-相談役として働いている。50周年記念に際して、博士はミネソタ大学でのラーニングライフプログラムを通じて、JFK暗殺に関する連続講義を担当している。

 

Mark Lane は、「Rush to Judgment 」(1966)、「The Last Word: My Indictment of the CIA in the Murder of JFK 」(2011)という本や他の書物の名高い著者である。Mark は公式説明に疑問を投げかけた初期の先駆けの一人であったが、Oswaldの無罪に関しては彼が世界で最も声高で、最も際立った声で、最も目に付く顔である。

 

Phillip F. Nelsonは、「LBJ: The Mastermind of the JFK Assassination」という本の著者である。同氏は同書において、Johnson がJFKを殺す企ての最も重要な扇動者であったと主張している。LBJ(リンドン・ベイ・ジョンソン)は、1962年から1963年に計画と実行のために他の人間に協力を求める前のおそらく1961年という早い段階で、それを思い付いたのだという。Phillip は、犯行を完遂するためにいかにJohnsonが、資金提供者から作戦計画者、隠蔽工作専門家までの鍵となる人間達を全て手配する、独自な状況にあったのかを説明している。そしてこの計画は全て、Lee Harvey Oswaldという名の「カモ」を犠牲にして、実行されたのであった。

 

Peter Janney は1950年代から1960年代の冷戦期にワシントンD.C.で育った。同氏の父親、Wistar Janney は上級経歴を持つCIA関係者であった。Janney 一家はワシントンの多くの政治的エリートと親密な関係を持っていた。そこにはMary Meyer、 Cord Meyerの家族や、Richard Helms、 Jim Angleton、 Tracy Barnes、 Desmond FitzGerald、 William Colbyのような他の高位にあったCIA高官もまた含まれていた。同氏の興味深い書、Mary's Mosaicにおいて、Peter は我々の大半が想像も出来ない現実の悪の大きさに光を当てている。

 

Gerald McKnight はメリーランドのフード大学の高く評価されている歴史の教授である。同教授はHarold Weisbergの知的、物理的相続人であった。Harold Weisbergが自身の全ての論文をMcKnight博士にゆだね、McKnight博士がそれらを特別保管記録としてフード大学に寄贈したのである。McKnight博士は、絶賛を受けているウォレン委員会の不手際に関する「Breach of Trust」という本の著者である。博士はOswald が出入り口にいたという数十年にわたる提唱者で、2012年のクリスマスの日のCPANでのディベートにおいて全国放送のテレビでそう発言した。

 

Larry Rivera は、軍のCID 将校として働いていた職業軍人のアラスカで生まれた息子である。同氏は1963年11月22日にドイツにおり、6歳であったが、JFK殺害を聞いた際の父親の反応(「ジョンソン!」との発言")を忘れないという。Larryは有資格のネットワークエンジニアで、また自動車の卸部品ビジネスを所有してもいる。同氏はJFK暗殺に関する生涯にわたる研究を開始しており、1991年にデイリープラザへの初めての旅をした。同氏は1993年の30周年のASKシンポジウムに出席した。同氏はスペインのメディアから暗殺に関してのインタヴューを受けた。Larry は、Billly Nolan Loveladyに関する史上最も徹底的な調査書をまとめている。

Roy Schaefferは1960年に海兵隊の航空電子工学学校を卒業した。同氏は卒業後、Oswaldと同じくキャルフォルニアのエルトロ航空基地に配属された。1963年に、同氏がデイトンデイリーニュース紙で写真処理担当者として働いていた時、Altgens6 写真のファックスを直接受け取った。直ちに、同氏には「マスキング」や「不明瞭化」といった改ざんのしるしが分かった。 こうしてJFKの真実という大義に対する生涯にわたる献身が始まった。Roy はJFK暗殺に関する3冊の本(未刊行)、並びに9つの記事の著者である。また同氏の多くのJFKのスクラップブックはデイトン大学に寄贈されている。Roy は出入り口にいたのはOswaldであったと述べた最初の研究者の一人であった。

 

Dennis Cimino はアメリカ海軍のパイロットで電気信号の専門家であった。同氏のJFKに対する関心は10代の頃に始まった。同氏の義理の父親は軍におり、トルコに配属されていた。父親は殺害の直後に、Oswaldに関する情報が連続して発表されるのを見たのだった。明らかに前もって準備されていたようだったという。父親はまた、暗殺の数時間前に爆撃機が通常手順から逸脱した非常事態時の動きで出撃したのも見たという。単なる偶然であろうか?父親はそうは思わなかった-また義理の息子もそうは思わなかった。Dennis はJim Fetzerと共に911の真実、上院議員Wellstoneの真実を求めるために熱心に活動しており、今回はJFKの真実を求めるため、ここに加わっている。

 

Ted Coeyman は、同氏が両親にJFKの葬儀に連れて行かれて以来、JFK暗殺に関心を持っている。同氏は世界で最大級のJFKに関する文献コレクションの一つを所有している。長年にわたり、同氏はPenn Jones、Harold Weisbergやその他の主要な人物達と直接交流している。Ted は RalphにJFK暗殺に関するいくつもの重要な研究を提供している。

 

Donald Fallon はテレビ向けのビデオ制作の分野で数年間働いており、画像を見る鋭い眼力を持っている。DonaldはOswald と出入り口の男を比較した最も興味深いコラージュ数枚を作成している。それらを見た後、正常な、正直な人間には彼らが同一人物であることを否定出来なくなる。

 

Staffan H. Westerberg は、スウェーデンのストックホルム出身のフリーランスジャーナリストであり、1970年代後半からJFK暗殺を積極的に研究している。同氏はJFKに関して複数の記事を発表しており、スウェーデン陸軍連隊の狙撃兵を利用して、Oswaldの離れ業であった狙撃の再現を実施した。いうまでもなく、狙撃兵は誰も、 Staffan 自身を含めて、誰もOswald が成したと言われる狙撃結果を再現することは出来なかった。

 

Donald Millerは一流の心臓血管外科医で、ワシントン大学の心臓外科手術の教授である。同教授はまた、一流の栄養学の医師でもある。そしてまた、教授はJFK暗殺に対して長年にわたり関心を持っている。これは一つには、教授のMalcolm Perry医師との親交によってもたらされたものである。Perry医師は教授に、パークランド病院で見られたJFKの首の傷に関する真実を語ったのだった。

 

Pat Shannan は作家そしてSpotlight、Media Bypass、American Free Pressの記者として長年にわたりJFK暗殺を研究している。同氏の業績には、Marina Oswaldを含む、重要人物へのインタヴューが含まれている。同氏の最新作は、Ralphが最高傑作であると証言する、「The JFK Assassination and the Uncensored Story of the Two Oswalds」である。

 

Graham Waite は英国のTeeside大学のメディア制作の上級講師である。同氏は、BBCラジオやTamarineフィルムスタジオでのプロジェクトにおいて実話のドラマ化に従事している。現在同氏は、出入り口にいるOswaldやJudyth Vary Baker著の「Me and Lee」からの素材を含んだ、Lee Harvey Oswaldに関するドラマ台本に取り組んでいる。

 

Tyler Newcomb は第一世代JFK研究者で、「Murder from Within」の共著者、Fred Newcombの息子である。同書は、暗殺におけるLBJの役割に初めてスポットライトを当てた本であった。Ty は今日、JFKに関する講演者、発言者として活動的であり、またプロの音楽家でもある。

 

Valerie Newcomb Woods はFred Newcombの娘であるが、兄弟Ty と同様、彼女も彼女の父親の遺産を守り、JFKの真実を広めることに極めて活動的である。Valerieは父親の研究資料の管理人である。その資料には、Mary Moormanのようなこの事件の鍵となる証人に対する録音インタヴューが含まれている。Tyと共に、彼女は「Murder from Within」を再刊行した。

 

Orlando Martin はアメリカ海軍で20年を過ごし、そこで同氏は小火器と弾道学の専門家であった。教練教官として、同氏は同氏が指導した隊の優れた業績を評価され、海軍/海兵隊業績勲章を授与された。同氏は砂漠の嵐作戦とその後のクウェートの解放に従事した。Orlandoはまた熱心なJFK暗殺の研究者でもあり、「 JFK: Analysis of a Shooting」という本の著者である。

 

Jerry Kroth博士は、カリフォルニアのサンタクララ大学の心理学の名誉準教授である。同博士は、JFK暗殺に関する2冊、「 Conspiracy in Camelot」、「Coup d’Etat」を含む、多くの本を書いている。博士はまたJFKに関しても広範囲にわたって講義しており、博士のビデオはネット上で広く見られている。 Jerry はOswaldの無罪、Oswaldは出入り口にいたこと、LBJ、CIA、マフィアが関与した大規模な陰謀があったことの強固な提唱者である。

 

Craig Roberts は、軍と警察の元射撃の名手であり、海兵隊とタルサ警察署での長い経歴を持っている。同氏は「Kill Zone: A Sniper Looks at Dealey Plaza」という本の著者である。Craig はまた、有資格の小火器指導者、ヘリコプターパイロット、カラテの黒帯でもある。Craig のダラスの暗殺記念館を訪問した際の説明は、このため「Kill Zone」の分量が増加したのだが、極めて興味深いものである。Craigには直ちにOswaldには暗殺は不可能であったことが分かったのだった。

 

Pete Mellorはイングランドに住んでいる。同氏は退職した、Lee Oswald が日本で行っていた仕事と酷似した海事電子工学(無線やレーダー)の大学講師である。Pete は1990年からJFK暗殺の熱心な研究者であり、アメリカに赴き、40周年を記念する2003年のダラスでのJFKランサーシンポジウムを含む、複数のJFK会議に出席した。同氏はまた、Mary Ferrell 財団のメンバーでもある。Pete がオズワルド無罪キャンペーンのホームページを編集している。

 

オズワルド無罪キャンペーンにご参加を!費用も義務もありません。以下を受託する旨をRalph に連絡するだけで良いのです:

 

メンバーの声明

 

我々、オズワルド無罪キャンペーンのメンバーは、ケネディ大統領の暗殺時に、 Lee Harvey Oswald はテキサス教科書倉庫ビルの出入り口に立っており、そこで彼はJames "Ike" Altgensによって写真に撮影されており、このことはこの写真の詳細な検証により全く明らかであると主張するものである。この発見によりOswald は大統領を狙撃したという容疑から完全に放免されることになる。我々はメディアに対して-陰謀によるでっち上げである、「魔法の弾丸」説を含めて-彼に疑いをかける公式説明を否認することを求める。また我々はアメリカ政府に対して、うそに基づいた全くの偽りの促進によって正義を妨害することをやめることを要求する。このため真の殺人犯は起訴されず、処罰されず、自由の身であり続けることが許されているのである。

 

oswaldinnocent@yahoo.com.管理人:Ralph Cinque。コメントや疑問がある場合、またはオズワルド無罪キャンペーンに参加を希望する場合、以下でRalphに連絡をとって下さい。oswaldinnocent@yahoo.com.

 

また読者が著名なJFK暗殺の研究者や作家であり、オズワルド無罪キャンペーンの上級メンバーとなることを希望する場合も、上のeメールにてRalphに連絡をとって下さい。私達はJFK研究集団の可能な限り多くの著名人を団結させたいと望んでいます。上級メンバーとして、JFK暗殺に関する事実、記事、報告をこのホームページ上に自由に投稿可能となります。私達は Lee Harvey Oswald がケネディ大統領を殺害したのではなかったという真実を支持する事象は何でも歓迎します。

 

しかしながら、私達の中心的論点は Altgens 写真とLee Harvey Oswaldのその写真における存在であり、焦点をそこに絞り続けるものである。JFK暗殺には重要視するに値する多くの局面が存在するが、単に以下の理由のため、私達はAltgens 写真に焦点を絞るものである:一枚の写真は千のことばに値するからである。狙撃の間にLee Harvey Oswaldが出入り口に立っていることを確認することは、彼の無罪と陰謀を証明する上で他のいかなる証拠にも勝るものである。向こう側にいる連中にとって、これは最も忌まわしく、痛手となる写真上の証拠である。-連中にはそのことが分かっていると私達は確信している!これはこの事件全体において最も説得力あり、最も興味深く、最も決定的な事実である。

 

このホームページにあるWrapページ-制作中である-にはJFK暗殺研究の他の分野に関連する記事が含まれることになっており、一方ResourcesページにはJFK暗殺研究の多くの様々な局面に通ずる数多くのリンクが含まれていることに留意していただきたい。

 

しかし、このキャンペーンが巻き起こす旋風は、Lee Harvey Oswaldは出入り口に立っていたというものである。この一つの紛れもない事実が、嘘を、歪曲を、でっち上げを吹き飛ばすのである。そうしたものはこの事実に耐えられないのだ。私達はこの事実を用いて半世紀にわたる嘘の破壊を求めているのであり、私達は全ての人に参加を呼びかけるものである。

 

嘘に終わりを!OSWALDに光を!

2013年11月 3日 (日)

Tsarnaev兄弟;彼らはボストン爆破事件でのLee Harvey Oswaldなのか?

この記事の著者、Kevin Barrett博士について、http://www.veteranstoday.com/author/barrett/このページのバイオグラフィでは以下のように伝えています。

 

Kevin Barrett博士は、アラブ‐イスラム専門の博士であり、アメリカで最も知られたテロへの戦いの批評家の一人である。

 

Barrett博士はFox、 CNN、 PBS その他の放送局に何度も出演しており、New York Times、Christian Science Monitor、Chicago Tribuneその他の第一級の出版物での特集記事や社説欄の向かい側の記事の源泉となっている。

Barrett博士はサンフランシスコ、パリ、ウィスコンシンの大学で教えた経験があり、ウィスコンシンでは2008年に下院選挙戦に出馬した。同博士は現在非営利組織の組織者、著述家、ラジオ放送司会者として活動している。

 

 

以下は、http://www.veteranstoday.com/2013/04/24/the-brothers-tsarnaev-the-lee-harvey-oswalds-of-the-boston-bombings/の日本語訳です。

 

 

Tsarnaev兄弟;彼らはボストン爆破事件におけるLee Harvey Oswaldなのか?

ロシア語を話す彼はロシアへ旅し、極めて微妙な仕事に戻った。‐おそらくスパイ活動がなされていることには気付かずに。しかし彼は数年間FBI!に追跡されていたことが判明している。彼は混雑した路上での残忍な犯罪の濡れ衣を着せられたのだった。犯罪現場を写した写真は無罪を示し、彼らを愛する者や彼を知る者は無実を断言するなか、彼は「一人の警察官を殺害した」という罠に嵌められた後警察に捕らえられ、捕らえられた後安全保障国家の職員に銃撃されたのだった。彼が法廷で無実を明らかにすることを妨げるためである…私達は以前このような話を聞いたことがないだろうか。私達はLee Harvey Oswald について、それとも Tsarnaev 兄弟について話しているのだろうか。

 

50年前、Lee Harvey OswaldはJohn F. Kennedy大統領暗殺の濡れ衣を着せられた。

今日、JFK を殺害したのと同じ安全保障国家が、殺人とペテンという同じ道具を利用して、アメリカを依然として支配している。このため二人の“Oswalds” –Tamerlan Tsarnaevと Dzhokhar Tsarnaevがボストンマラソン爆破事件の責任を取らされているものと考えられる。

Oswald と Tsarnaev 兄弟の間の類似点は気味が悪いほどである。第一の類似点;この三人は全員、犯罪現場を写した写真によって無実が認められている。目撃証言によりOswaldはJFK が狙撃された時、テキサス教科書倉庫ビルの六階の「狙撃者の巣」ではなく、一階もしくは一階付近にいたに違いないことが確定している。この証言は、大統領の車両パレードが通り過ぎる際にOswaldが倉庫ビルの外の路上に立っていることを示す写真によって裏づけられている。

 

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JFK 暗殺の専門的研究者James Fetzer 博士が自身の書いた記事“JFK Special: Oswald was in the Doorway, after all!“において説明しているように、専門家による写真分析で、この写真に写っている人物はLoveladyではなくOswaldであることを明らかになっている。

JFK の暗殺の写真に残された記録は、ボストン爆破事件同様、カモとなった人物の無実を明らかにするだけでなく、誰が実際のにはその犯罪を犯したのかを明らかにするものである。

写真に残された証拠は、アメリカの最高の政治的暗殺専門家、Edward LansdaleとCIAエージェントで未来の大統領、George H.W. Bush がテキサス教科書倉庫ビルの前に立って、 JFK 暗殺の遂行を見守っている姿を示している。この証拠は“Did George H.W. Bush Coordinate a CIA Hit Team?”においてRichard Hookeと James Fetzerが論じている。

 

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ボストン爆破事件を写した写真はDzokhar Tsarnaevの無罪を示している。この写真において彼は爆発の後にも依然としてバックパックを背負っているのが確認される。

 

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もしDzokhar Tsarnaevに濡れ衣が着せられていたのであれば、つまり彼の兄弟、Tamerlan Tsarnaevにも濡れ衣が着せられていたことになる。

犯罪現場を写した写真が、誰が実際の所爆弾を仕掛けたのかを私達に示している。爆破犯は、同一の頭蓋骨のマーク入りの黒い帽子をかぶった準軍事的作戦工作チームのメンバーであった。下の写真は爆破犯がバックパックを持たずに犯罪現場から走り去る姿を示している。そのバックパックには頂上部に白い四角形が見られる。全ての写真の中でこの白い四角形を特徴とするバックパックを持っていたのは、この準軍事的爆破犯だけであった。

 

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これがこの同じバックパックの爆発後である。

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つまりTsarnaev兄弟は、Lee Harvey Oswald同様、無実のカモということである。しかしOswaldは、Tsarnaev兄弟とは異なり、自身のために発言することが出来た。彼の逮捕の後、ダラス警察署の地下でCIAと関係のあったギャング暗殺者、Jack Rubyによって射殺されるまでの話であるが。Oswaldは言った。「オレはカモだ。」

Tsarnaev兄弟は自分達の弁護のために発言することが許されなかったようである;Oswaldの「オレはカモだ」発言から50年後に、安全保障国家はこの教訓をよく学んでいたと考えられる。実際、病院でDzokhar Tsarnaevの措置を担当したイスラエル人医師は、「彼は二度と話すことは出来ない」と伝えた。(なぜイスラエル人医師にアメリカの国家安全保証事案が割り当てられたのであろうか。おそらくイスラエル人のテロ専門家チームが爆破事件の前に組織された遠征派遣としてボストンに飛来し、「調査」を担当したのと同じ理由であろう。結局の所、イスラエルは地球規模での偽旗テロリズムでの「Aチーム」なのである。

Dzokhar Tsarnaevは、爆破事件で濡れ衣を着せられる前に911の真相を支持する形で、ある意味で自身の擁護として実は発言していたのだった。自身のツイッターアカウントを利用して、彼は書いていた;「なぜ911が内部犯行であったことを認めることが多くの人にとって困難であるのか私には分らない。このツイートは、Oswaldの「オレはカモだ」発言同様、歴史に残るだろう。これはDzokharの無実を強く示している。(911は内部犯行であったのか知っていたイスラム教徒が‐世論調査よれば、80パーセントのイスラム教徒がそう考えているという‐テロリズムを実行しようと望むのだろうか。利益を受けるのはシオニストと帝国主義者だけでしかないというのに。)

Tsarnaev兄弟は自分達を擁護することを許されなかったが、彼らを愛する者は彼らのために擁護した。彼らの母、父、おば、全員が彼らは無実のカモで、安全保障国家の機関によって濡れ衣を着せられたと述べている。

Oswaldのガールフレンド、Judith Vary Bakerも同様に、Oswaldの無罪を明らかにしている。私のJudith Vary Bakerへのインタヴューをこちらでお聞きいただきたい。

もう一つのTsarnaev兄弟とOswaldの類似点;彼らはロシア語を話しており、大掛かりな犯罪の濡れ衣を着せられる前に、FBIによって数年間追跡されていた。

OswaldはFBIによって追跡されていただけでなく、1961年にロシアから帰国した後、1963年11月24日に殺害されるまでの間、彼は実はFBIに定期的に報告をしていた。

Tamerlan Tsarnaevは、ボストンマラソン爆破事件でのカモとして嵌められる前に、FBI によって数年間追跡されていたと、彼の両親は私達に告げている。

FBIは、アメリカのゲシュタポとしてJ.Edgar Hoover によって作り上げられた機関であることが、思い出される。最も下層レベルの FBI職員は誠実であるが、高層部は性格異常犯罪者、バッジをつけた暴力集団である。

FBIが1993年の世界貿易センタービルを破壊した爆破事件の筋書きを書き、爆弾を作ったのであった。FBIの情報提供者であり、この筋書きを生み出し、FBI の職務の一部として爆弾を届けたEmad Salemは、どうして FBIが約束していたようにダミー爆弾ではなく、本物の爆弾を届けたのかについて抗議する彼のFBIの担当者との会話を秘密裏に録音していた。

FBIが過去十年間の実質的に全ての「イスラムテロリスト」事件を準備していたことは、主流派の学者の間でさえも、よく知られている。Napolitano 裁判官がFox TVで認めたように、FBIは911以降少なくとも17件のアメリカを攻撃する偽旗作戦に関与していた。

Lee Harvey Oswald と Tamerlan Tsarnaev との間のもう一つの気味の悪い類似点は、両人とも「敵」のレッテルを貼られたことである(Tsarnaevは「急進的イスラム教徒」、Oswaldは「共産主義者」)。彼らは謎めいた任務でロシアに旅しており‐両人とも、公式発表によれば、両国の安全保障装設備に全く検知されるなく、行き来することが出来というのだ!実際には、両人とも、アメリカ連邦政府機関によって動かされていたのである。Oswaldは、ロシア人に最高機密のU2のデータを与えるためである。やらせのU2撃墜をもっともらしく思わ、アイゼンハワーのデタントを破壊するためであった;そしてTsarnaev は「チェチェンのアルカイダ共同体」にいるCIA-Mossadの情報提供者と橋渡しをするためであった。

チェチェンの「アルカイダと関連のある急進的イスラム教徒」はアメリカの敵ではなく、同盟である。彼らの「テロリズム」は全面的にロシアに向けられており、アメリカ政府によって彼らは武装し、訓練を受け、自分達の特別任務へと送り出されている。最近の記事で私が記したように、「アルカイダ」の正確な訳語は「CIA のデータベース」である。

つまりもしDzokhar Tsarnaevがテロリストであったのであれば‐この可能性はなさそうだが‐彼はアメリカ政府機関によって管理された集団の一部であったことになる。しかしTsarnaevはOswald的なカモであった可能性が高い;使い捨てと見なされ、捕らえられ、発言させないために殺害された、大掛かりなチェスの一つのコマであったのだ。

拘留中にダラス警察署で殺害されたOswald同様、捕らえられた時Tsarnaev兄弟は両人とも全く良好な健康状態であったと考えられる。そして捕らえられた後射殺されたのだ。Dzokhar Tsarnaevのおばは、ボストン警察に捕らえられた無傷の、全く良好な健康状態の「裸の男」はDzokharであったとはっきり確認している。またヘリコプターから撮影したビデオは、 Dzhokhar Tsarnaev が隠れていたボートから降りる際に健康的で、無傷に見える姿を示している。(政府は彼は重傷を負っていたという‐ご自身でこの画像を見て、ご決断いただきたい)

 

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最終結論;Tsarnaev兄弟ではなくアメリカという安全保障国家とそのイスラエル側の側近が、ボストン爆破事件の真犯人であり…アメリカ人の真の敵である。街路から目撃者を排除し、濡れ衣のでっち上げとTsarnaev兄弟の射殺を可能にしたボストンの徹底的な封鎖は、もし守護者を装っている犯罪者に対してアメリカ人が反旗を翻さないのであれば、彼らに対して準備されている戒厳令や過酷な弾圧の一端を示しているのである。

2013年11月 1日 (金)

ケネディを殺した男達 決定的証拠 5/5

以下は、http://www.youtube.com/watch?v=9Dn5h0AGNZwの日本語訳です。

 

 

パート5 35分43秒頃から

 

Liggetの生活様式のためLoisは1966年に彼と離婚することになった。

しかし彼らは近い関係を保ち続けた。

 

1974年、突然、Liggetは殺人未遂で逮捕された。

 

このダラスの家が凶悪犯罪の現場であった。

 

John Ligggetの友人、Dorothy Peckが酷い怪我を負い、死亡したものとして放置された。

しかし彼女は生存しており、Liggetが襲撃者であったと名指しした。

警察は迅速に彼をダラス地域での他の残忍な殺人事件と結び付けた。

彼は郡刑務所に投獄されたが、警察は彼を取り調べることが許されなかった。

Johnはほとんど一年間留置されたままであった。

 

その頃彼の兄、MalcomはLoisとのオースティンの公園での面会を求めていた。

 

Lois
John Liggetの元妻

「その面会には秘密めいた雰囲気がありました。

そして彼は歩きたがっており、私の車の中で私に話そうとはしませんでした。

そうして彼は私にJohnとはもう連絡を取らないように、そうしないことが私には重要であると告げました。

事実彼は、『子供達や自分自身のことを考えるのであれば、もう二度とあなたは彼に会ったり、彼と連絡を取り合ってはいけない』と言ったのです。

ですから私は、Malcomは、私がJohnと話すと、Johnが、Malcom自身あるいはMalcomが知っている誰かがJohnに話して欲しくないことを、私に言ってしまうのではないかと感じていたと考えています。

私はそのように強く感じます。

私はそうした行動にとても怖くなりました。

そして私はTexasのLovefieldに引越しました。

数週間後に私はそこで友人から電話をもらい、Johnが背中を撃たれて、死亡したと教えられたのです。」

 

1975年2月14日の朝、Liggetはダラス中心部の裁判所から近くの郡刑務所に他の囚人と共に護送されていた。

 

警察車両がガレージに入ると、Liggetは隠し持っていた鍵を使って、手錠を外し、逃走を試みた。

 

背中へ一発の弾丸が保安官代理によって放たれ、即座に彼は射殺された。

 

Lois
John Liggetの元妻

「何かが起ころうとしていたことをMalcomは知っていたと、私は感じています。

彼は彼が私に話していた以上のことを知っていたと、私は感じています。

ですから自分自身と子供達のことを考えると、怖くなりました。」

 

しかし謎はLiggetの死によって終わることはなかった。

 

1992年、Debraは初めて、Johnが死亡した時の彼の妻Lionaと会った。

 

彼女達は話すことをためらっていたが、LionaはRestlandを訪れ、埋葬の前にLiggetの遺体を見た時のことを詳しく語った。

 

Debra Godwin
John Liggetのまま娘

「彼女は西テキサスからダラスに出てきました。

そして彼女は衝撃を受け、驚いたのです。

なぜなら彼女にとって、その遺体はJohnではなかったからです。

そこにいた、棺に収められていた、自分が見せられた人物には、口ひげがあったと彼女は言いました。

これも彼女にとって、その人物がJohnではなかったことを示す特徴でした。

私もまた、そう考えざるを得ません。

私は何年もの間Johnを知っていましたが、口ひげを生やすことなどなかったのですから。

LeonaがJohnの死とそこで埋葬された人物がJohnではなかったのではないかという彼女の懸念について1992年に私に話した時にも、彼女はとても不安がっていたことがはっきりと私には分かりました。

そしてそれはおそらく当然のことだと思います。

私もまたそれを知って不安になりました。

今もそうです。」

 

Johnの兄Malcomが射殺の三日後に行われた葬儀を執り仕切った。

 

Johnのかつての同僚Charles Smithもそこにいた。

 

Charles Smith
葬儀士

「私達が葬儀を行った人物、私達が死後措置を施し、私が服を着せ、棺に収め、葬儀を行った人物は、間違いなくJohn Liggetではありませんでした。

こうした事件が起きる前に私達が数年間知っていたJohn Liggetではなかったのです。」

 

しかし物語はここで終わらなかった。

 

Loisと離婚した後、Johnはラスベガスで三年間ディーラーとして働いた。

 

彼はそこで密接な連絡を取った。

 

最近になってLoisは孫娘といっしょにベガスで休日を過ごした。

 

その時彼女は最も驚くべき体験をした。

 

Lois
John Liggetの元妻

「私達はカジノに行って、John Liggetに全くそっくりな人物を見たのです。

そして彼は振り向き、私の方を見て、私が孫娘の一人の名前を呼ぶのを聞いていました。

私が彼女の名前を呼ぶと、彼は彼女の方を見るのでした。

その後彼は、彼といっしょに歩いていた人々の一人の方に向きを変え、私に背中を向けました。

そして彼は彼に私について何か言っていました。

というのは彼は私を指差して彼に示していたからです。

しかし私達はそこにとどまって、その人物がJohnであったのか突き止めようとはしませんでした。

私はこの出来事によってとても動揺しました。

その人物の後頭部の姿から、振り向いて、私の方を見た姿から、その人物はJohn Liggetであったと私は強く信じています。

Vegasにいたのですから、少しも驚くことはありません。

そこは彼がいると私に想定出来る、最も筋の通った場所だったのですから。」

 

John Liggetと暗殺のつながりについてのLoisとDebraの疑念は、最近になって出てきた一枚の写真によって強められている。

 

その写真はJack Rubyのナイトクラブ、Carouselにおいて、暗殺やRubyのOswald射殺の前に撮影されたものであった。

 

Debra Godwin
John Liggetのまま娘

「Jack Rubyがいるのがここにはっきりと分かります。

彼のすぐ右に、John Liggetの兄、Malcomがいます。

彼の妻、金髪のSuzanneが彼の右にいます。

彼女が私達の家に来た時に、私達は彼女に数回会ったことがあります。

私が最後にMalcom Liggetを見たことを思い出すのは、ダラスの私の母の家でのことで、それはJohnがまだダラスの刑務所に入っていた時のことでした。

写真の中央にいる、黒いドレスを着た黒髪の女性は、Iris Campbell です。

この写真が撮られた頃ではなく、数年後ですが、私の母はIris と知り合いました。

彼女達はテキサス西部のLubbockに住んでいたのです。

母はLubbockの聖パウロ米国聖公会教会のメンバーでした。

そしてある日Irisがやって来て、米国聖公会派になって、教会に属することに興味があると述べたのです。

そして彼女と母はとても仲の良い友人になりました。

その後彼女は、私の娘の名づけ親にもなってくれました。

そこでの数年間、彼女は母と密接に連絡を取り合って、頻繁に行き来していました。

そしてその後、姿を消したのです。

全く姿を消したのです。

ですから私と母はIris Camble に何年もの間会っていません。

まさに姿を消したのです。

この写真を見る前には、自分が知っている人々とJack Rubyと間のつながりについて、私は全く知りませんでした。

ですからこの写真が、彼らはJack Rubyの知り合いであったという背景を示しているのです。」

 

Lois
John Liggetの元妻

「おそらくJohnは政府の仕事と何か関係を持っていたのだと、私は強く考えます。

彼の『死』はJohn F Kennedyと何かつながりがあったのだと、強く信じています。

正確にどのようなものであったのかは、私には分かりません。

しかし私はそう信じています。」

 

多くが依然として明らかになっておらず、多くの疑問が答えを待っている。

 

しかしますます多くの勇気あるアメリカ人が声を挙げるにつれ、霧は晴れ、John F Kennedy大統領暗殺の背後に横たわる隠された真実が白日の下にさらされているのである。

ケネディを殺した男達 決定的証拠 4/5

以下は、http://www.youtube.com/watch?v=9Dn5h0AGNZwの日本語訳です。

 

 

パート4 26分46秒頃から

 

Kennedy殺害に対する隠蔽工作が徐々に解明され、真相が明らかになるにつれて、新しい決定的証拠が白日の下にさらされている。

 

ここはダラスにあるRestland霊園の名誉の園である。

ここに一人のプロの葬儀士が1974年2月17日、同僚の手によって横たえられた。

このプレートはその謎の多い人物の人生を示している。

彼のKennedy暗殺とのつながりは明らかになり始めたばかりである。

 

彼の名前はJohn Liggetという。彼は極めて腕のよい葬儀士として、元友人、同僚であったChales Smithに記憶されている。

 

Chales Smith
葬儀士

「顔を銃撃されたり自動車事故で死亡した人の唇や鼻や眼窩や耳を修復しなければならない場合、彼は一晩中そうした修復措置をとっていました。

彼は最高でした。

自分でも彼は最高だと言い、修復が完了した時には家族が彼は最高だと言っていました。」

 

同僚には人気があったが、彼はまた秘密の生活を持っていた。

 

Chales Smith
葬儀士

「Johnが電話をしてきて、出かけなくてはならないので、仕事には来れないということがありました。

こうしたことがしばしばありました。

私達はJohnがどこにいるのか分かりませんでした。

私は彼の計画を知りませんでした。

彼はただ電話してきて、出かけなくてはならないというだけで、計画については何も話しませんでしたし、私達も尋ねませんでした。

同僚は彼がなぜ彼が2週間も3週間も仕事を離れて、何もなかったように戻って来れるのか、疑問に思っていました。」

 

大都市に喧騒から離れたオクラホマの小さな街で、John Liggetは元妻、Loisによって
記憶されている。

彼女は激しい恋の後に、彼とダラスでKennedyの暗殺のわずか三ヶ月前に結婚したのだった。

 

Lois
John Liggetの元妻

「Johnはとても魅力的な人物で、私には彼がとても思いやりがあって思慮深い人だと分かり、私にとってはとても愛しい人でした。

私は彼を愛していました。

私は彼に恋したのです。」

 

Debra Godwin
John Liggetのまま娘

「Johnは私達の元々の父、Charles Godwinが自家用飛行機の事故で死去してからわずか一年もしないのうちに、私達の生活に入ってきました。

ですからJohnは本当の所は、私の二人の姉妹、私の兄弟、私自身から歓迎されてはいませんでした。

私達は家族だったのですから。

そして彼は便利な埋め合わせを持ったに過ぎないのです。

これが私が常に考えていたのは、私達はそうしたものを必要とする男性にとって都合のよい埋め合わせでしかないということでした。」

 

暗殺の当日、JohnはLoisと共に、彼女の亡くなったおばの葬儀に出席していた。

 

彼は急に墓地側からの電話に呼び出された。

 

Lois
John Liggetの元妻

「Johnが事務所に行って、すぐに戻って来ると、私にアメリカ大統領が撃たれて、彼がパークランド病院に呼び出されたことを説明しました。

私が葬式から帰宅すると、午後2時頃でしたが、Johnがパークランドから電話してきました。

私には背後の喧騒が聞こえました。

私がどうなっているのか彼に尋ねると、彼は大統領が死亡したと言いました。

そして私がRestlandが仕事を得たのか聞くと、彼は『いや。どこか別の葬儀社が仕事を得た。』と言い、『私はやるべき仕事がたくさんあるので、私に電話をしないように。出来るだけ速く私から電話するから。』と言いました。

それからおよそ24時間後に彼から連絡がありました。

彼が帰宅し、ドアに入って来たとき、私は彼を見ましたが、彼は身体的にとても悲痛な体験をしてきたように見えました。

彼のこぎれいな衣服は乱れていおり、彼らしからぬことでした。」

 

Debra Godwin
John Liggetのまま娘

「彼は見るからに疲労困憊していましたが、高揚しており、母に私達は町を去らねばならない、街から出て行かねばならないと知らせました。」

 

Lois
John Liggetの元妻

「私がどこに行くのかと聞くと、彼は私達はこの騒ぎが収まるまで、しばらく町を出なければならないと言いました。

そう言ったのです。

ですから私は、騒ぎが収まるとは何のことだろうと思いました。」

 

困惑する家族は大急ぎの旅でまず最初にオースティンに、それから次にサンアントニオへと行った。

 

Jhonは途中で短時間停車し、様々な連絡先と内輪での会話を交わした。

 

Lois
John Liggetの元妻

「この旅を通じて、Johnと彼の親類や友人との間では、私には秘密の会話が交わされていました。

彼らは私が知らない何かを知っていたようです。

ですから私には何が起きているのか分かりませんでした。」

 

11月24日、日曜日の早い時刻に、Corpus Christi近くのモーテルに家族はやっとチェックインした。Johnはさらに会合を持った。

今回は彼の兄、Malcomとであった。

 

Lois
John Liggetの元妻

「ここでも彼らは会話を交わしましたが、この会話も、私には自分が属していない感じがしました。

彼らは私が知らない何かを知っているようでした。

私にはなぜ私達がそこにいたのか分かりませんでしたが、私達がそこにいたことはJohnにとってとても重要であったようでした。」

 

Debra Godwin
John Liggetのまま娘

「私が部屋でJohnを見るといつも彼はベッドの端に座って、テレビを、ニュースを熱心に見ていたことを、それから彼はチェーンスモークしていたので、チェーンスモーキングしていたことを、私は思い出します。

Johnはイライラすると、頬がすこし引きつることを私は既に知っていましたが、彼は少しイライラしていました。」

 

Lois
John Liggetの元妻

「その時彼はOswaldがJack Rubyに撃たれたのを見たのです。

彼がそれを見た瞬間、彼は私の方を見て、全てうまくいったと言いました。

彼の表情から、まるで全てのプレッシャーが彼から取り除かれたようなのが見えました。」

 

Debra Godwin
John Liggetのまま娘

「突然、彼は安堵のため息をついて、『これで帰宅出来る』と言いました。

すぐに荷物をまとめて、帰宅しました。」

 

Lois
John Liggetの元妻

「私達がダラスに戻ると、全ては通常に、大統領の死という状況のもとでは可能な限り通常に戻っていました。」

 

しかしその後、彼らの生活様式は変化した。

 

暗殺の後、Johnには大金が入るようになり、家族は豪華な家に引っ越した。

Liggetは一流ギャンブラーになり、ダラスの荒くれものポーカー集団をもてなすようになった。

 

Lois
John Liggetの元妻

「John Kennedyが撃たれた瞬間から、生活様式の全てにおいて、度重なる混乱が続きました。

警察が彼の行っていたことに関与してきたり、彼の行っていたことに賭博が関与していたり、私には対処出来ませんでした。

彼の持っていた会社、人々、プレッシャー、これらは私の手には負えませんでした。」

 

Debra Godwin
John Liggetのまま娘

「私の姉妹Bennieと私の母の両人が記憶している、Johnのかなり変わったニューオリンズの一人の友人が訪ねてきた場面があります。

その人物はかなり奇抜な格好をしており、私達兄弟姉妹はその人物のとてつもないファンになったと、私の姉妹は言います。

なぜならその人物は眉を描いて、かつらをつけており、かなり奇妙で奇抜な姿だったからです。

Johnは私達に、この人物は彼の民間航空哨戒部隊時代いっしょにいた友人であると言いました。

そして私達はこの人物はDavid Ferrieだったと信じています。」

 

David Ferrieは1967年のGarisonのKennedy暗殺についての調査での主要参考人であった。

 

取調べを受ける前に彼は、ニューオリンズのアパートで死亡しているのが発見された。

 

Lois
John Liggetの元妻

「私はJohnLiggetがJohn F Kennedyの暗殺に何らかの形で関与していたと本当に信じています。

私は彼の役割は大統領に遺体に何かをすることであったと思います。

どのように修正したのか、どう修復したのか、私には分かりません。

また彼はべスラ病院にまでいった可能性もあると思います。

彼にはそうする十分な時間がありました。

私は彼の仕事はJohn F Kennedyの遺体に何かをすることであったと思います。」

ケネディを殺した男達 決定的証拠 3/5

以下は、http://www.youtube.com/watch?v=9Dn5h0AGNZwの日本語訳です。

 

 

パート3 19分03秒頃から

 

陰謀と隠蔽工作の双方を示す暗殺に関する最も重要な決定的証拠の一つがここ(National Archives=国立公文書館)に保管されている。

 

大統領が死亡した夜にベスダ海軍病院で撮影されたKennedy の検死写真のオリジナル版は常に単独狙撃犯説を裏付けるために利用されてきた。

 

David Mantik
光学的濃度測定の専門家

「私はNational Archivesに保管されている一連の検死時の写真を今までに何度も見たことがあります。

私は実際に個別に九回そこを訪れました。

検死時の後頭部の写真を16人のParkland病院の医師に見せたところ、その16人の医師は皆、その写真が自分達がParkland病院の緊急処置室で見たことを示す写真であるとは分からなかったと述べたのです。

何人の人にその写真がそうしたものであると分かったのでしょうか。

ゼロです。

私はNational Archivesに行き、一連の後頭部の写真を見ました。

写真は対になっており、私はステレオヴューアーを使いました。

そこで私が見たものは全く衝撃的なものでした。後頭部の髪の毛が逆立っていた箇所全体が、まるで空間中の一つの平面に貼り付けられていたかのように見えたのです。

そこは平面的だったのです。

一方写真の他の部分は立体的でした。

そして3D効果が実際に他の全ての写真の対で起こっていました。

それは特徴が際立っていました。

後頭部のこの部分、髪の毛が逆立っていた部分は全く平面的に、まるで空間中の一つの平面に貼り付けられていたかのように見えたのです。

それは全く奇妙でした。

それは何を意味するのでしょう。

捏造写真です。

それ以外の全ての画像では3D効果を目にするのですが、その部分では3D効果が生じていませんでした。

それが編集されていたからです。

つまり彼らは穴があった部分を取り除き、その代わりに写真紙を用いて同じ画像をこの後頭部の写真の対それぞれに挿入したということです。

そうして後頭部には被害がなかったように見えることになりました。

もし右の後頭部に大きな穴があったのであれば、それは前方からの狙撃を意味します。

Oswaldには不可能です。

ですから犯人達は、この点において大いに困り、彼らは右の後頭部の大きな穴を取り除かねばなりませんでした。

そうしなければ、前方からの狙撃が、また単独狙撃犯には不可能であったことが明白に示されてしまうからです。」

 

第二次大戦の退役写真家であるJoe O'Donnell から検死時の写真に関する注目に値する証言が初めて現れた。

 

彼は国務省、続いて米国情報庁で勤務し、23年間写真を撮り、6人の大統領の下で功績を挙げてきた。

 

彼はKennedyの死によって疲労困憊していた。

 

Joe O'Donnell
写真家

「大統領は素晴らしい人物でした。

本当にそうでした。

つまり、私が大統領が本当に好きでした。

実際彼は素晴らしい人間でした。」

 

Joe O'Donnell の長年にわたる親しい同僚が、海軍写真家の故Robert Knudsen であった。

 

彼はホワイトハウスに対して変わらぬ愛着を持っていた。

 

Joe O'Donnell
写真家

「彼には報道関係にではなく、多くの友人がいました。

彼らは彼のことをうらやましがっていました。

しかし彼はとても好人物でした。

私達はいつもいい関係を持っていました。」

 

Kennedy の暗殺の夜、Robert Knudsen は帰宅しなかった。

 

彼は三日後に深く動揺した様子で家族のもとへ戻って来た。

 

彼はベセスダ海軍病院の遺体安置所でKennedy 大統領の遺体の多くの写真を撮ったと家族に語った。

 

そしてそれは彼がそれまで受け持った中で最も困難な任務であったと語った。

 

彼はシークレットサービスが全てのフィルムの管理に当たっていたと述べた。

 

Joe O'Donnell
写真家

「暗殺の2、3日後、私はホワイトハウスを訪れ、報道関係者室に行きました。

するとKnudsen が私のところに来て、『Joe 、君に見せたいものがある。』と言うのです。

ですから私は彼のいうなれば仕事部屋とでもいう所に行きました。

そこで彼は封筒を取り出して、私におよそ12枚の5×7の写真を見せたのです。

それは全て大統領の写真でした。

腹部の、背中の、頭部の約8分の3インチの穴が見える写真でした。

そして後頭部には、襟の上の高さに、およそグレープフルーツ程の大きさの穴がありました。

そして2、3日後、翌日だったかも知れませんが、彼はこう言ったのです。

『Joe、君にちょっとしたものを見せたい。これは君に先日見せた写真だが、ちょっと違うんだ。』

私は『君は何を言いたいんだ』と言いました。

彼は『君に見せよう。』と言いました。

まず最初に分かったことを私は言いました。

『穴がない。』

穴はなく、彼らは隠したのです。

後頭部を見ると、穴はきれいに隠されていました。

私は『誰がやったんだ。』と言いました。

彼は『いや、私じゃないよ。』と言いました。

私は『君がやったとは言ってないよ。』と言いました。

しかし私は驚きました。」

 

Robert Knudsen がKennedy 大統領の検死に立ち会っていたことを示す記録は存在していない。

 

しかし彼は自分の所有物として、大統領が前方から狙撃されたことを隠すために、明らかに改ざんされていた写真を所有していたのであった。

 

David Mantik
光学的濃度測定の専門家

「これらの写真は常にシークレットサービスに管理されていました。

ですから誰がそれを変更したのであれ、誰がそれを修正したのであれ、政府内部にいた者か、そうする承認を政府から得ていた者であったに違いありません。

例えば、マフィアがそうしたとは全く想像出来ません。

あるいはソビエトにも全く同様に不可能です。

それは政府の承認を得た人物であったに違いありません。」

 

政府は検死時の写真が示した傷とダラスの医師が実際に見たこととの間の矛盾につきまとわれ続けることになった。

 

Gary Aguilar 医師
医学専門家

「1970年代の後半に、HSCA(下院暗殺調査特別委員会)はKennedy暗殺に関する証拠を調べたのですが、彼らが調べた証拠に関して最も憂慮すべきことは、大統領がダラスで撃たれた直後に措置する立場にあった医師チームがおり、この悲痛な経験をしたダラスの医師達が、大統領の後頭部に穴が開いていたと言っていたという事実です。

HSCA(下院暗殺調査特別委員会)はそれはOswaldがやったのであり、後頭部の穴は後方から撃たれたもので、弾丸が前方に出て行ったと言おうとしていました。

彼らの話は一致していませんでした。

つまりHSCA(下院暗殺調査特別委員会)が報告したことは、ダラスの医師達から反論されていたのです。

ダラスの医師達に間違いはありませんでした。

なぜなら彼らには証言があったからです。

彼らの証言は検死時の遺体安置所での証言です。

しかしHSCA(下院暗殺調査特別委員会)は彼らがインタヴューした26人の証言者は、全員右前頭部の傷を示す検死時の写真を承認しており、誰も後頭部に傷があったとは認めていなかったと述べました。」

 

G. Robert Blakey
下院暗殺調査特別委員会の主席顧問、委員長

「大統領が前方から右側を撃たれたことを示す医学的証拠は存在しません。」

 

Gary Aguilar 医師
医学専門家

「しかし彼らは私達にインタヴューを見せませんでした。

彼らは私達に彼らが作成した文書を見せなかったのです。

実際、HSCA(下院暗殺調査特別委員会)の情報の公開は2028年まで封印されました。

そして1990年中盤に明らかにされた文書によって、同委員会がインタヴューした検死時の証言者はダラスの医師達と同じことを、後頭部には穴が開いていたと述べていたことが明らかになったのです。

彼らが作成した図表は、実際に後頭部の穴を示していました。

こうして、HSCA(下院暗殺調査特別委員会)はこれらの人々にはインタヴューをしただけで、彼らの証言は封印し、報告書では偽りを述べていたことが、全く明らかになったのです。」

 

G. Robert Blakey
下院暗殺調査特別委員会の主席顧問、委員長

「法医学委員会は、もし大統領が前方から右側を撃たれていたとしても、その弾丸は当たらなかったと、明白に述べるものである。」

 

Gary Aguilar 医師
医学専門家

「HSCA(下院暗殺調査特別委員会)のために医学的証拠を評価することになっていた医師達は、こうした封印されたインタヴューを見ることはなかったのです。

ダラスの医師達だけが後頭部に穴が開いていたと述べていたのではなく、多くの証言者もまた後頭部に穴が開いていたと述べていたのです。

ですからこれは全く嫌悪すべきことであり、おそらく今までなされた中で最も不誠実なことですが、確かになされたことなのです。

Oswaldをシナリオにおける中心人物にしておくためにです。」

ケネディを殺した男達 決定的証拠 2/5

以下は、http://www.youtube.com/watch?v=9Dn5h0AGNZwの日本語訳です。

 

 

パート2 13分20秒頃から

 

シークレットサービスはダラス当局がケネディのリムジンの被害を検証することがないよう手配した。

シークレットサービスはまたダラス当局を用いて、ケネディのリムジンをパークランド病院から回収し、ワシントンD.C.まで飛行機で輸送した。

 

10年以上にわたり、刑事裁判の教授で弁護士でもある、研究者 Douglas Weldonはケネディのリムジンと、リムジンに暗殺の後に何が起きたのかを研究している。

 

Douglas Weldon
JFKのリムジンに関する専門的研究者

「検死時の大統領の遺体が私達に多くの答えを与えることが可能であったように、証拠に手が加えられていない時点での大統領のリムジンの徹底的な検証は、私達に何が実際に起きたのかについて多くの重要な答えを与えてくれるのです。」

 

しかしワシントンに到着するとすぐに、リムジンの被害は気付かれたのであった。

 

Douglas Weldon
JFKのリムジンに関する専門的研究者

「Sam Kinney がそのリムジンをアンドリュー空軍基地からホワイトハウスのガレージまで運転する際に同行していたCharles Taylor, Jrは自身の報告書において、フロントガラスの中央に残された顕著な特徴として小さな穴があり、そこから弾丸の破片が取り除かれていたことが明らかであったと記していました。

アメリカ警察公園警察官であった、Nick Prencipe にもまた、そのリムジンがホワイトハウスのガレージにあった間に、リムジンを見る機会がありました。

彼はフロントガラスに小さな穴があることに気付き、長年の警察官としての経験に基づき、その穴は弾丸によって生じていたと述べていました。」

 

その後数日間にわたり、リムジンはホワイトハウスのガレージで多くの人々によって綿密に調べられた。

 

しかしある日は異なっていた。

 

Douglas Weldon
JFKのリムジンに関する専門的研究者

「私がホワイトハウスのガレージの記録簿を調べていると、極めて興味深いことがありました。

それは、1963年11月24日の午後遅くから、1963年11月25日の一日中、ホワイトハウスのガレージを訪れ、そのリムジンに触れた人が一人も記載されていなかったことです。」

 

その頃ある噂が広まった。

常に否定されてはきたが、それは大統領専用リムジンは秘密裏にワシントンからミシガン州のDievoのFordMotor社に航空機で輸送され、フロントガラスの被害を除去されたというものであった。

 

Douglas Weldon
JFKのリムジンに関する専門的研究者

「ワシントンからデトロイトの工場までリムジンを輸送するために利用することが可能であった唯一の輸送方法が、航空機を使う方法だったことは全く明らかです。」

 

デトロイト地域には複数の空港があった。

リムジンを秘密裏に最終目的地、フォード自動車社のルージュ工場に輸送することは簡単なことであったであろう。

 

故George Whitaker, Srが妻と共にここに写っている。

彼はフォード社の終身雇用者であり、ルージュ工場で管理職的な地位にいた。

 

11月25日の朝に彼は出勤し、驚くべき光景に直面した。

 

Douglas Weldon
JFKのリムジンに関する専門的研究者

「彼は当時ガレージがあったBビルに行き、John F Kennedyが殺害されたKennedy専用リムジンを見て、驚きました。

リムジンの内装は完全に取り除かれており、フロントガラスはリムジンに付いてなかったのです。

彼がガラス部署に行くと、そこで彼はガラスを取り付ける責任者であったのですが、その部署のドアは閉められていました。

 

彼がドアを叩くと、ドアは開けられ、彼の部下の二人が中におり、リムジンから取り外されたフロントガラスがありました。

彼らはそのフロントガラスを取り外し、それを元にして新しいフロントガラスを作るように命令を受けていたのです。

しかし彼がためらったことは、このことを彼は私に話すまで家族にも話すことがなかったのですが、フロントガラスに穴を見たことです。」

 

George Whitaker
字幕
「フロントガラスに前方から貫通したはっきりとした弾丸で開いた穴があった。前面にきれいな丸い穴が開いており、後面に破片が突き出ていた。」

 

Douglas Weldon
JFKのリムジンに関する専門的研究者

「Whitaker氏は30年のガラス研究の経験があり、ガラスに対して多くの実験がなされるのを見ており、銃火器での実験をしたこともありました。

彼はその穴は、シークレットサービスのCharles Taylor, Jrが彼の報告書において述べた箇所と同じ箇所にあったと述べました。

もちろん彼は自分が述べる前に、他の人物がそのことを述べていたことは知らなかったのです。

しかし彼は、Kennedyのリムジンのフロントガラスの弾痕を除去せねばならなかったことを完全に100パーセント確信していました。

彼の理性では100パーセントの確実性で、それは前方から発砲されていたことを示すからです。

私が彼に元々あったフロントガラスはどうなったのかと尋ねると、彼の私に対する答えは、『私達はそれを廃棄しました。』というものでした。

私が『あなた方はそれを壊したのですか。』と言うと、彼は『その通りです。私達が受けた命令は、そのフロントガラスを壊して、廃棄せよ、というものでした。』と言いました。」

 

George Whitakerが2001年に死去した後、この文書が彼の持ち物の中に発見された。

 

それは以前Doug Weldon に8年前に述べたことと全く同じことを、未来の世代に対して再び主張するものであった。

 

Douglas Weldon
JFKのリムジンに関する専門的研究者

「この文書が発見されたことは、私にとっては、彼が1993年の8月のある日私に語ってくれたことは、実際の真実であり、本当に起きたことであったという最終的な承認のしるしを与えてくれたことになります。」

ケネディを殺した男達 決定的証拠 1/5

以下は、http://www.youtube.com/watch?v=9Dn5h0AGNZwの日本語訳です。

 

パート1

 

それはアメリカの歴史上最も悲痛な事件の一つであった。

 

John F. Kennedy、アメリカ合衆国第35代大統領の殺害は、1963年11月22日にダラスの路上で起きた。

 

James Fetzer
JFK暗殺に関する専門的研究者

「もし大統領の任期が、市民が投じる票によってではなく、ライフルから放たれた弾丸によって決められるのであれば、私達は全く新しい形態の政府によって支配されていることになります。」

 

圧倒的大多数のアメリカ人が、単独の暗殺者が彼らの大統領を殺害したとするこの事件の公式説明を受け入れることを拒んでいる。

 

David Mantik
光学的濃度測定の専門家

「真実を求め、本当の所何が起きたのか知ろうと求めている私達は、一連の疑問を発し続けています。

なぜならこれが、私達自身、私達の価値観、そして最終的には私達の国の向かう方向について、多くを告げるからです。」

 

Kennedy殺害に関する新しい情報は出現し続けており、真実がアメリカ人に明かされていないことを裏付けている。

 

Gary Aguilar 医師
医学専門家

「私達はとても幸運なのです。

というのも少なくとも私達の側の人々は、一人ひとりが今や圧倒的大多数の人々に対して、主流メディアとは反対に、Warren 委員会が間違っていたことを確信させているからです。」

 

Kennedyを殺した男達

 

決定的証拠

 

自身の故郷、ミネソタ州ダルースからこの事件の公式説明に対して疑問を投げかける一人の批評家が、James Fetzer 教授である。

 

James Fetzer 教授
JFK暗殺に関する専門的研究者

「JFKの死に対する関心の再燃は、1992年に議会がJFK暗殺記録法を可決した際の影響として発生しました。

その際5人の民間人の委員に機密解除された文書を再調査する責任が委ねられました。

 

それらの文書はCIA、シークレットサービス、アメリカ海軍情報部やその他の組織が保有していたものでした。

 

私達にはその委員会自身が作成した報告書から、いくつか重大な失策があったことが分かります。

例えば、シークレットサービスは、故意に車両パレードの記録を破棄していたのです。

その記録はダラスでの車両パレードが、少なくとも16の様々な点において、大統領を擁護するためのシークレットサービスの方針を曲解、あるいは違反していたことを明るみに出すものでした。

彼ら自身の、こうした行動から、この事件全体における彼らの共謀について、最も深刻で憂慮すべき疑問が生起するのです。」

 

大統領がダラスに到着した瞬間から、大統領の擁護は疑わしいものであったと、シークレットサービス研究の専門家、Vince Palamaraはいう。

 

Vince Palamara
シークレットサービスに関する専門的研究者

「最後の最後になってシークレットサービスはKennedy大統領の警護に変更を行ったのです。

具体的にはシークレットサービス職員に、大統領のリムジンの後輪の上に乗らないように、それから後輪近くを走らないように、指示が与えられたのです。

こうした命令はホワイトハウス特別任務を担当していたアシスタントスペシャルエージェントで、テキサスへの遊説の計画者でもあったFloyd Boringから、追尾車両を担当していたEmory Robertsという名の彼のアシスタントシフトリーダーに対して発せられていました。

シークレットサービス職員、 Henry Rybka が通常の職務として、大統領のリムジンの脇を走っていると追尾車両のEmory Robertsが立ち上がり、彼を呼び戻すのが見えます。

それからRybka が大いに困惑し、何度も腕を振り上げ、落胆を示しているのが見えます。

最後になってからシークレットサービスが行った変更がLove Fieldでもう一つありました。

ダラス警察署の白バイ警察官が大統領のリムジンのそばを走らないように指示されたのです。

リムジンが46番通りに行くと、さらに追い討ちをかけるようにリムジン両側のそれぞれわずか二人の白バイ警察官が車両パレードに戻されたのです。

こうして職員がリムジンのそばに居なかったことによって、こうして白バイ警察官が持ち場に居なかったことによって、Kennedy大統領は、前方から、さらにまた前方からそして後方からの狙撃にさらされることになったのです。」

 

ダラスへの遊説前の数ヶ月間には、大統領の生命を危険にさらす多くの脅威が存在していた。

 

Vince Palamara
シークレットサービスに関する専門的研究者

「1963年11月の陰謀めいた活動の増大や明らかな緊急非常事態にもかかわらず、こうした活動に対して対応するべきはずのシークレットサービスは、正反対のやり方で動いたのです。

彼らは実際の所、警備を削減し、大統領の生命に対して脅威は何も発生していないかのように振る舞ったのです。

何故でしょうか。」

 

ダラスではその日に限って、通常は大統領専用車両の前部に座るカメラマン撮影班、記者団、Kennedyの軍部側近、さらには大統領の担当医師までもが、シークレットサービスによって車両パレードの後方へと追いやられていた。

 

James Fetzer
JFK暗殺に関する専門的研究者

「従来の車両パレードでは、大統領は警備担当者や記者団に囲まれて、何らかの形で中央部に位置していたのですが、この事例においては、大統領専用車両が他のリムジンの先頭を走るべく配置されていました。

これが言うまでもなく、シークレットサービスが暗殺記録再調査委員会から記録を見せるよう求められた際に、自分達自身の車両パレードに関する記録を破棄してしまった理由でした。」

 

最も疑わしい行動は、デイリープラザでの狙撃の間にシフトリーダーであったEmory Robertsがとった行動であった。

 

Vince Palamara
シークレットサービスに関する専門的研究者

「悲痛な話ですが、彼は狙撃の間シークレットサービス職員に動くなと命じたのです。シークレットサービス職員、Sam Kinney が私にそのように認めました。

彼は文字通りこう述べたのです。

『全くその通り。』

こうした一連の不手際はシークレットサービスから始まり、シークレットサービスに終わるものでした。

彼らが動議提出者であり、彼らが警備に関する会合でワシントンからダラス中心部までを含む警備の配置を指揮したからです。

彼らが任務を割り当て、警備の配置を認めたり、認めなかったりしたからです。

つまり責任は彼らにあったのです。」

 

大統領の死後パークランド病院では、メディアが致命的な弾丸は大統領専用車両の前方から発射されたと報じていた。

 

James Fetzer
JFK暗殺に関する専門的研究者

「1時00分に大統領の死亡が宣言された後、1時30分に記者会見が臨時報道官、Malcolm Kilduffによって行われました。

Malcolm Kilduffは、自分の右のこめかみを指差しながら、弾丸が頭部を貫通していたと説明し、この結論は大統領担当医であった、George Burkleyによるものであるとしました。

この右のこめかみの傷、そして別の喉への傷は三回にわたって、弾丸が侵入した際の傷として説明され、その日の午後テレビとラジオで広く放送されましたが、直ちに封印されました。

なぜなら言うまでもなく、その説明は弾丸がすべて上方背後から発射されたものであったとする公式説明と矛盾していたからです。」

 

1963年11月22日にConnie Kritzbergはダラスタイムズヘラルドの記者であった。

暗殺の数時間後に、彼女はKennedyに立ち会った二人の主要な医師に電話インタヴューを行った。

 

Connie Kritzberg
ジャーナリスト

「私はパークランド病院の上級外科医であったKenny医師、そしてMalcom Perry医師と話をしました。

そこで私は大統領には傷がいくつあったのか尋ねたのです。

私はKenny医師から後頭部に大きく開いた穴があったと教えてもらいました。

それからPerry医師は自分が措置していた傷は喉の弾丸が侵入した傷であったと言いました。

私は彼にその傷はどこにあったのか、それは喉仏の下だったのか尋ねました。

彼はそうだと言いました。

それは喉の前面の中線、喉仏の下にあったと言いました。

彼はそれは前方から弾丸が侵入した傷だったと三回言いました。

そこで私は長さを測ると約12インチの長さのとても簡潔な記事を書き、提出したのです。」

 

次の日の朝Connie は彼女が提出した記事が変更していることに気がついた。

 

Connie Kritzberg
ジャーナリスト

「私は記事の第三段落の付近にとてもプロが書いたとは思えない文章が挿入されていたことに気づきました。

それは『一人の医師がもしかすると傷は一つの可能性があると認めた。』と書かれていました。

私はとても驚きました。

私はデスクに電話し、私がとても尊敬していた編集スタッフアシスタントと話しました。

そして私は誰が私の記事を変更したのか、誰がこの文章を挿入したのか尋ねました。

すると彼は直ちに私が何の話をしているのか分かって、言いました。

『FBIです。』

二発以上が発射され、一発は前方から発射されていたという記事は印刷することが出来なかったのです。

それはどれほどぎこちなくても改ざんされねばならなかったのです。

一箇所から、一人の人間によって三発が発射されたのであり、一人の人間だけが殺害に関与したという公式説明に従わせるためにです。」

 

Connie がPerry医師に聞いたことの裏づけが、彼の同僚の一人で、同様にパークランド病院で致命傷を受けた大統領に立ち会っていた故Charles Crenshaw 医師からもたらされる。

 

Charles Crenshaw 医師
外科医

「器官切開術がPerry医師によって施される前に、私は首の下部に小さな丸い、はっきりと弾丸が侵入したと分かる傷があることに気づきました。

これはPerry医師によって原形をとどめないようにされました。

彼はこの侵入傷を切開して、器官切開術を施したのです。

元々弾丸によって生じていた侵入傷の穴を切開し、器官切開術が施されたために様々な細胞組織が表に現れることになりました。」

 

その日の午後のダラスのラジオ放送は、大統領の喉の前面の弾丸が侵入した小さな丸い傷について言及していた。

これを国立精神健康研究所の当時の科学部責任者であった、故Robert Livingston が聞いていた。

 

Robert Livingston 医師 
医学専門家

「その放送は、大統領が後方から、テキサス教科書倉庫ビルの六階から撃たれたというものでした。

パークランド病院の医師による小さなきれいな傷があったという証拠は、前方からの発砲があったことになるという意味で矛盾する、あるいは少なくとも補足的なものとなるものでした。

もし大統領が後方から撃たれていたとしても、同時に前方からも撃たれていたことになるのですから。

そこで私は検死を実施しようとしている人に、この件について告げようと思いました。

そして私がベセスダ病院の私が知っていた役人に電話すると、彼はすぐに私を検死チームを率いることになっていた、James Humes医師につないでくれました。

彼はとても誠実で、私達は短い間でしたが充実した対話を持ちました。

彼は首の傷のことは聞いたことがありませんでした。

私は彼に、それは弾丸が侵入した傷であるために重要なことであると告げました。

私は彼にその弾道を徹底的に調べるべきであると、残っている弾丸か弾丸の破片が見つかるかも知れないと言いました。

細胞組織が引き裂かれていないため、それは前方から撃たれた傷に違いないと特に強調しました。

彼はほんのしばらく電話を離れてから戻ってくると、『Livingston 博士、申し訳ありませんが私はこの対話を続けることが出来なくなりました。FBIがそうさせないのです。』と言うのでした。」

 

Humesは後に、その弾丸による傷については検死の後にダラスの医師の一人から聞いて、初めて知ったと主張するのであった。

彼はそれを調べなかったのである。

 

Robert Livingston 医師
医学専門家

「その電話について絶対に確信しているのは、Humes医師が私との対話から、首の傷は弾丸が侵入したことを示していたことに関して明白な印象を得ていたに違いないということです。」

 

Kennedyのリムジンの前方から発砲された弾丸についてのさらなる裏付けが、彼女の唯一残された録画インタヴューにおいて故Evalea Glanges からもたらされた。

彼女は銃に関して分からない人ではなかった。

 

Evalea Glanges 医師
目撃者

「子供の頃から私は銃を与えられていました。

フェンスの上で銃を構えることも出来ました。

撃つためです。

1963年11月22日の朝、私はテキサス州ダラスのサウスウェスト医科大学の2年生でした。

私達が病院ビルの緊急出口まで走って行くと、そこには大統領のリムジンがありました。

しばらくそこに立ったまま、緊急措置室のうしろで見ていると、フロントガラスに弾丸で開いた穴があるのに気付きました。

私は隣にいた友人に話しかけ、『見て。フロントガラスに弾丸で開いた穴があるわ。』と言って、彼らにそれを指差しました。

その時点で私はこの狙撃について詳細は何も知りませんでした。

私は弾丸で開いた穴を見つけたことに大変衝撃を受けました。

しかし弾丸で開いた貫通した穴があったことはとてもはっきりしていました。

車のフロントガラスを前から後ろに貫通していたのです。

高速の弾丸がガラスの前方から後方に貫通していたように見え、穴の回りにはひびもありました。

すると警備担当者が出てきて、私はリムジンにもたれかかっていたのですが、リムジンに乗り込み、どこかへと走り去りました。

最後に私がリムジンを見たのはこの時です。」

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