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2013年10月

2013年10月12日 (土)

JFK 暗殺に関するプレゼンテーション 5/5

以下は、http://donaldfox.wordpress.com/2013/06/03/jim-fetzers-conspiracy-conference-powerpoint/にてダウンロード可能なプレゼンテーションファイルの日本語訳です。(コマ122から150まで)

 

実際のプレゼンテーションの模様は、http://www.youtube.com/watch?v=zLL8diz-7bwにて視聴可能です。

 

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どのようにしてなされたのか

 

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JFK は4回撃たれていたと考えられる;喉を1度(前方から);背中を1度(背後から);頭部を2度(背後から1度、前方から1度)。喉と右のこめかみへの銃弾は、車道とTriple Underpass(三線高架下道路)の北側と南側の末端部の間の地上の高さにあった下水開口部から発射されていたと考えられる。

 

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Richard Sprague, Computers and Automation (May 1970), Expanded
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最も可能性の高い一連の順序は以下である;Country Records Buildingから発射された一発が大統領の背中に命中し、直後にTriple Underpass(三線高架下道路)の南側末端部から一発が発射され喉へ命中した。その後Dal-Tex から発射された一発はそれ、Tagueを負傷させた。教科書倉庫から発射された一発がJohn Connallyに当たった。運転手がリムジンを左に寄せ、停止させた。Dal-Texから発射された二発目がJFKの後頭部に命中した。大統領は前方に倒れこみ、Jackieが抱きかかえた。彼女が大統領の顔を見ているとTriple Underpass(三線高架下道路)の北側末端部から発射された炸裂性弾丸が右のこめかみに命中した。Dal-Texから発射された三発目はそれ、クロム製の縁に当たった。その他の弾丸がおそらくJohn Connallyに当たったり、それてクロム製の縁に当たったりして、芝生で発見された。一発も「暗殺者の巣」からは発射されなかった。

 

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Country Records buildingから発射された弾丸はDallas保安官代理、Harry Weatherfordが発射したと考えられる。彼は「多くの人々」を撃ったと自慢していた。Penn Jones Jr. は彼が狙撃の「数週間」前に特注のサイレンサーを入手していたことを突き止めた。

 

スライドの字幕

 

研究者Penn Jones Jr.によれば、Weatherfordは「射撃の名手」で、暗殺時にDallas 郡刑務所ビルの屋上にいたという。ある研究者がかつて彼に彼がJFKを撃ったのか尋ねた所、Weatherfordは「馬鹿な。俺は多くの人間を撃つんだ。」 Jonesはまた暗殺の「数週間」前に特注のライフル用サイレンサーがWeatherfordの元へ届けられていたことも記していた。

 

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喉への弾丸は、フロントガラスを貫通しており、標的を捉える途中で爆竹のような音をさせていた。この一発は、「Jack Lawrence」という名の空軍ベテランが発射していたと考えられる。彼は大統領の車両パレードのために様々な型や色の車両を提供した自動車販売特約店に勤めており、このためおそらく共謀者は誰がどこにいたか、知ることが出来たのであろう。彼は狙撃の後に泥まみれで吐きそうになりながら特約店に現れたが、これは狙撃の後に下水道を通って逃げてきたことによるものであったと私は信じる。

 

スライドの字幕

 

Jack Lawrenceは、DallasのDowntown Lincoln-Mercury車販売特約店で働いていた。LawrenceはLee Harvey Oswaldが11月初旬に車の試乗を求めてきたと主張した。その後Lawrenceはこの出来事を連邦捜査局に伝えた。

 

1963年11月21日、Lawrenceは自分の会社の車を借りた。次の日彼は仕事に現れなかった。Jim Marrs(Crossfire)によれば;「暗殺のおよそ30分後、彼は会社のショールームに走りながら現れた。青ざめ、汗をかいており、衣服には泥がついていた。彼は男性トイレに駆け込み、吐いた。彼は同僚にその朝具合が悪かったと告げ、借りていた車を会社に返さなければならなかったが、渋滞のため車は駐車しなければならなかったと告げた。後に従業員が、その車がDeaey Plazaを見下ろすGrassy Knoll(芝生の丘)の頂上の木製の囲い棒の後ろに駐車されていたのを見つけた。」という。

 

Lawrenceの奇妙な振る舞いはDallas警察に通報された。彼はJohn F.Kennedyの暗殺を調べる警察官によってインタヴューを受けた。彼らはLawrenceがアメリカ空軍で射撃手であったことを発見した。

 

Bevery Oliverによれば、Lawrenceは(Jack Rubyが所有する )Carousel Clubの常連客であり、George Senator の親密な友人であったという。

 

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これはDal-Texのクローズアップである。三発が CIAが所有していたウラン採掘会社の掃除用具収納庫の窓から発射されたと考えられる。

 

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これらの弾丸は、Little Havana(フロリダ州)に彫像が建てられている反Castro派のキューバ人、Nestor 'Tony' Izquierdoによって発射されたと考えられる。一発はそれ、離れた所にいた見物人、James Tagueを負傷させた。もう一発もそれ、フロントガラスの上のクロム製の縁に当たった。三発目がリムジンが停止している間にJFKの後頭部に命中した。これらの弾丸のみが、隣接する教科書倉庫の6階から三発が発射されたという印象を生み出すために、サイレンサーのついていない武器--Mannlicher-Carcano--によって発射された弾丸であったと考えられる。

 

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Freedom Parkには、二つの彫像のみが存在する。一つは、キューバをスペインの支配から解放したJose Martiのものである。もし誰かになぜ“Tony” Izquierdoの彫像があるのか尋ねると、「彼がビジネスを担当したからだ」と教えられるであろう。

 

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Roscoe White はCIAとつながりのあったDallas警察の警察官であった。彼の息子Rickyは、日記を発見した。それは、政府機関に必要に応じて工作員が代役を果たすことが出来るようにどこにいるのかを知らせることが出来るものであった。それは裁判所では証拠として認められるものであったが、彼がそれをFBIに渡すと、消失した。

 

スライドの字幕

Roscoe White はアメリカ軍海兵隊に入隊し、1957年に8月に日本に向かった。彼は厚木に配属されU2プロジェクトで働いた。

 

Whiteは1963年9月に  警察に入隊した。その後すぐ、彼の妻Geneva White は夫とJack RubyがJohn F.Kennedyの暗殺を計画していたのを小耳に挟んだと主張した。

 

Whiteは警察を除隊し、M&M機器と呼ばれる会社に雇われた。1971年9月23日、Whiteと同僚Richard Adair は両人とも産業火災でひどくやけどした。Adair は回復したが、Whiteは次の日死亡した。

 

1990年9月4日、Roscoeの息子Ricky White がテキサス大学での会合で父が大統領の殺害に関与していたことを明らかにした;「日記には父が大統領を撃った後、自分の7.65ミリMauserを横に立っていた男に手渡し、フェンスを飛び越え、軍人からフィルムを受け取り、フェンスを振り返り、駐車場を通り抜けて行ったと書いてあった。」という。

 

White はLee Harvey Oswaldも関与はしていたが、一発も発射していなかったことを付け加えていた。White はそしてJ.D.Tippit の殺害へと進んだ。Ricky White はこの情報を父の日記から得たと主張した。これはどうやら連邦捜査局によって持ち去られてしまったようである。

 

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Frank SturgisがJFKの命を奪った右のこめかみへの一発を発射したと考えられる。HSCAでの証言が出来なくなるようにMarita Lorenzを暗殺するために彼がNew Yorkに来た際逮捕された時、彼らはJFKについて話した。その間彼は、私の知る刑事、Jim Rothsteinに自分がそこにいて、大統領を消したと告げた。なぜなら大統領がピッグス湾で大艦隊を裏切り、外国政府のエージェントと浮気することで国家安全保障を危険にさらしたからであったという。私はここに飛行機で来る前に、この件についてはJimに確認してきた。

 

 

スライドの字幕

SturgisはFidel Castro と肉体関係を持っていたMarita Lorenzと関わり合うようになった。1960年1月、SturgisとLorenzはCastro を毒殺する企てを試みたが、未遂に終わった。SturgisはまたCIAのピッグス湾侵攻計画の支援に関与していたとも信じられている。
SturgisはまたOperation40のメンバーでもあった。

 

1972年にFBI長官Patrick GrayがH.R.Haldemanに送ったメモには以下のように書かれていた;「Miami の情報筋によれば彼(Sturgis)は現在組織犯罪活動に関与している。」Bernard Fensterwaldは自身の著書、Assassination of JFK(1977)において、Sturgisはマフィア、
特にSantos Trafficante やFloridaのMeyer Lanskyと深く関係していたと主張している。

 

2004年1月、E.Howard Hunt は息子Saint Huntとの録音インタヴューを行い、彼はLyndon Baines Johnson がJohn F.Kennedyの暗殺の推進者であり、この暗殺はSturgis、Cord Meyer、David Atlee Phillips、David Sanchez Moralesによって準備されたと主張した。

 

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私はこの写真をJesse Curryの JFK ASSASSINATION FILE で見つけたが、教科書倉庫の前に George H.W. Bush に酷似する人物を見つけて驚いた。

 

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George H.W. Bushが教科書倉庫の前で写真に収められていた。彼はピッグス湾事件に関与していたと考えられ、そこでは艦船の一隻が「Houston」と別の一隻が「Barbara」と再命名されていた。この軍事作戦は「Zapata」とのコードネームで呼ばれたが、これなブッシュ家の石油掘削会社の名前であった。もし侵攻が成功しておれば、彼らがカリブ海全流域の掘削権を手にしていたのではないかと私は疑う。

 

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Tramp Photo #1
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武器、弾丸、爆発物を搭載した有蓋貨車内で逮捕された後にDealey Plazaを通って連行される「三人の浮浪者」の姿が写真に収められていた。彼らはおそらく、Leeがうまく行かなかった場合の「予備の」カモであったのであろう。私はこの三人の三人目の最も年長者は、多くの人が信じているようなE. Howard Huntではなく、Chauncey Marvin Holtであったことを知るに至った。彼は事件現場や付近で使用するために偽造された15組のシークレットサービスの証明書を作成していた。

 

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Tramp Photo #2
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またここではLansdaleがGeorge H.W. Bushと話すのを待っている姿を示す写真もある。George H.W. Bushは暗殺が起きたとき自分がどこにいたのか記憶していないと主張していた。私に本人であることが分るもう一人の人物は、Richard Nixonである。彼はJFKが飛行機で来る2時間前にLove Fieldを飛行機で出発していた。

 

 

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これらの写真の一枚は、彼らを通り過ぎる一人の男の姿を含んでいる。この人物は、L. Fletcher Proutyや元海兵隊 Commandant であったVictor Krulakほどの当局筋者によって、CIAと共に活動し世界中での暗殺を担当していた空軍大将、Edward Lansdaleであったことが特定されている。

 

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Richard HookeはBushと Dal-Texについて徹底的な検証を行っている。Dal-Texでは自分のことを「Houstonのオイルマン」と名乗るある人物がビルを出て来た際に逮捕され、警察本部に連行されていた。浮浪者と同様、この男も調書を取られることなく、釈放され、plazaに戻り、他の者と会った。その一人がLansdaleであった。Richard は、Bushは掃除用具格納庫におり、そこから発射された狙撃を監督していたと信じている--その通りかも知れない。

 

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Malcolm “Mac” Wallace は Lyndonの私的殺し屋であり、彼のために彼自身の姉妹を含む少なくとも6人の人間を殺していた。彼が教科書倉庫の「暗殺者のねぐら」の反対側の西側から狙撃したと考えられる。「暗殺者のねぐら」の狙撃犯の姿を隠すために配置されていた印象を形成するために配置されていた箱の一つから、彼の指紋が発見された。Billy Sol Estes は彼とLBJ秘書であったCliff Carterを個人的に知っており、フランス人調査ジャーナリストWilliam Reymondに直接、Lyndon がCliff Carterを「暗殺のための手はずがうまく整わせるために」Dallas に送っていたと述べた。

 

スライドの字幕

農民の息子Malcolm (Mac)Wallaceは、1921年にTexas 州のMount Pleasantで生まれた。4年後に家族はDallasに引っ越した。

 

1939年にWallaceはアメリカ海軍に入隊した。基礎トレーニングを終了した後、WallaceはHawaiiに送られ、そこで空母 uss Lexingtonで働くことになった。翌年Wallaceははしごから落ち、背中をひどく負傷した。1940年9月25日、彼は医学的理由により除隊し、Dallasに戻った。

 

1941年WallaceはAustin のTexas 大学の学生になった。彼は政治に興味を持ち始め、学生自治会の委員長に選ばれた。1944年10月、Texas 大学の学長であり、アメリカ社会党の公然たる支持者であったHomer P.Rainey が、解任された。Wallaceは8000人の学生抗議デモを指揮したが、Raineyを復職させる運動は実らなかった。Wallaceは1947年6月に卒業した。翌月彼はメソジスト牧師の娘、Mary DuBose Barton と結婚した。

 

Columbia大学で博士号のために研究する一方、Long Island大学、Texas大学、North Carolina大学で教えた。Edward ClarkがWallaceをLyndon B.Johnson に紹介したのはこの頃であり、1950年10月にTexasの合衆国農業省で働き始めた。

 

 

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“Mac”は標的がRalph Yarboroughであったという誤った考えにより、John Connally に向けて発砲したと考えられる。暗殺の朝LyndonはJFK と激しい議論をし、Connallyを席から外し、Yarborough を座らせようとしていたが、アメリカ合衆国の最高責任者とは州の最高責任者が乗車するべきであるとの理由で、大統領が彼をねじ伏せた。暗殺者に連絡する時間はなかった。驚くことに、Richard が Yale大学のSkull & BonesでのGeorge H.W. BushとMalcolm “Mac” Wallaceの写真を発見した。

 

スライドの字幕

 

George W. BushとMalcolm Wallaceの写った1947年のYale 大学の Skull & Bonesの写真は、私達に与えられている、1947年にニューヨークのColumbia大学で学んでいたことになっているMalcolm Wallaceに関する定型的な歴史は、おそらく全面的には正しくはないことを示している。

 

 

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Dealey Plaza で写真に収められたもう一人の人物が George W. Bushであった。彼は幾分途方に暮れているようである。--おそらく彼の父親が逮捕され、どこにいるのか分からなかったからであろう。

スライドの字幕

私の見解はこの人物は彼(George H.W. Bush )であるというものである。
父親が保安官の事務所に連行されたため、彼は途方に暮れていた;彼は父親を探していたのだ...
身長、体重、体格、鼻、耳、年齢、顎、歩き方;
数分前に父親が逮捕されたビルに向かって歩きながら...
白い靴下とお坊ちゃん風ローファー...
これが事実である確率はどれくらいか...かなり高いと私は思う...

 

JFK研究者Richard M.Hooke  2013年3月28日

 

 

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他に「敬意」を払うべきは、6人かそれ以上のCIA高官を含めた、Main通りと Houston通りの交差点で写真に収められた人物である。

 

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もう一人がLucien Conein (右)、CIA の最も悪名高い暗殺者の一人であった。Dealey Plaza での彼の現存(中央)が、こうしてCIAの中心的役割に対する重要性を高めることになる。彼の画像が発見された時、それは実際はRobert Adamsという名の人物(左)であったと主張する企てがなされた。

 

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しかしながら、Jack White がこの比較で説明しているように、彼らの特徴は全く異なっている。Adamsは長い顔、長い顎、上端が内側を向いた左の耳をしていたが、他方Coneinは、この写真の男のように、四角い顔、短い顎、上端が外側を向いた耳をしていた。

 

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ごまかしは、Lucien Coneinの画像から注意をそらそうとの取り組みであった、1963年11月23日火曜日に車両パレードを見ていたと彼が言っていたというばかげた(見え透いた捏造であった)新聞記事によって暴露された。

 

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大統領専用機内での宣誓就任式の間、LBJ が「仕事がうまく行った」ことに対して、下院議員Albert Thomas から「ウインクと承認」を得ている。彼はこの就任式を司法長官Bobby Kennedyによって推奨されたと主張した。これは事実ではなく、憲法上不必要であったが、こうして棺に付き添いのない状態を生み出した。

http://www.youtube.com/watch?v=4f8JX_e5Cs8

 

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下院議員時代のNixonのために働いたことのあったJack RubyがOswaldを撃った。--そしてOswald を相手取った事件は封印された。彼は後にもし誰か別の人物が副大統領であったなら、こうしたことは起きなかっただろうと言った。彼は自分は急速に成長するがんを注射されたのだと信じていた。この急速に成長するがんについて、Judyth Vary BakerはNew OrleansでDavid Ferrie、 Lee Oswald、 Mary Sherman博士と共に開発に関与していたと伝えている。

 

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Noel Twyman, Bloody Treason (1997)
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陰謀に反対する最強の証拠は誰も話していないことであるとの主張がしばしばなされている。これはもちろん、間違っている。Noel Twymanが Bloody Treason (1997)で述べているように、少なくとも8人の著名人が事件の前後にそのことについて述べていた。他にもChauncey Holt、 Charles Harrelson、 Jim Hicks、 Jack Rubyが述べていた。これはLyndonの愛人、Madeleine Duncan BrownのTexas in the Morning (1997)、Barr McClellandのBlood, Money & Power (2003)、 Billy Sole Estesの A Texas Legend (2005)、E. Howard Hunt の Rolling Stone での自身の“Confession” (2007)における結論をさらに強めるものである。彼らは全員、Lyndon Johnson をJFK暗殺における重要な関与者として示している。

 

スライドの字幕

SAM GIANCANA

何度も尋ねられた疑問は以下のようなものである;「もしKennedyの殺害が多くの人間が関与した陰謀であったのであれば、どうして今まで秘密であり続けるなど可能であったのか。誰も話す者はいなかったのか。」この疑問に対する答えは単純である。多くの人間が既に話しているのである。告白は暗殺の前に始まり、今日まで続いている。多くの実例がある;Carlos MarcelloはEd Beckerの前でKennedyは殺されるだろうと豪語し、どのようにしてなされるのか述べた;Santo TrafficanteはKennedyは殺されるだろうと豪語した;狂信右派Joseph MilteerはKennedyは殺されるだろうと豪語し、どのようにしてなされるのか述べた;Sam Giancanaの右腕Johnny Rosselliは(数年後に)Jack AndersonにRuby は「彼らの部下で、Oswadの口を封じるよう命じられていた」と述べた;謎めいたMaurice 司祭で複数のOswad の捏造犯であると疑われていたDavid Atlee Phillips  は死去する前に、アメリカ情報界の周辺分子がこの陰謀に関与していたであろうと述べた。前述のように、Lyndon Johnsonの愛人、Madeleine BrownはLyndon JohnsonがKennedyが殺される前に、それが起きることをほのめかしたと述べている。CIAの契約エージェント、Marita Lorenzは法廷での裁判の宣誓供述書において、Frank Sturgisが彼女に彼と反カストロ派のキューバ人集団がケネデイの暗殺に関与していたと告げたと言明した。そして最後に、Sam Giancanaの兄弟、Chuck Giancanaは最近の書、Double Crossの中で自身の兄弟Sam Giancanaがメキシコ市に引っ越す直前の、1966年に(シカゴ郊外のChuck Giancanaの家での一時間程の対話において)この犯罪全体を告白したと明らかにした。

Noel Twyman, Bloody Treason (1997)

 

 

 

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Newsweek  (22 November 1993)
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隠蔽工作を打ち砕くことは陰謀に関する多くのセオリーに反証することになる。マフィアはBethesda病院にまでその影響力を伸ばし、具体的にはアメリカ海軍の軍医、シークレットサービス職員、大統領の担当医の管理下にあったX線写真を改ざんすることは不可能であった。Castroに賛成するキューバ人であれ、反対するキューバ人であれ、本人の脳を別人の脳を置き換えることは不可能であった。またたとえKGBが CIA に匹敵するフィルムを再編集する能力を持っていたとしても、Zapruderフィルムにアクセスすることは不可能であった。こうしたことはまたいずれも、投獄されていたか、既に死亡していたOswaldにも不可能であった。

 

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Noel Twyman は完璧な計画はCIA /軍とシークレットサービス、マフィア、 LBJ、J. Edgar Hooverを組み合わせることであったと説明した。証拠の証明力により、それは一貫してLyndonの計画であったことが示唆される。Kennedy家を嫌悪していた--Edgaとの彼の密接な関係によって、その他の部分は比較的難なくうまくおさまったのであった。JFK はCIAと敵対し、CIAを粉砕する恐れまであったのだから。JFK は、満場一致での提言を押し切ってキューバ侵攻を拒むことで、満場一致での反対を押し切ってソビエト連邦との地上での核実験禁止条約にサインすることで、ベトナムから「顧問団」を撤回させることで、統合参謀本部とも敵対していた。彼らは国際的な神を否定する共産主義の拡張に反対する姿勢をとらねばならないと信じていたのだった。Bobby は歴史上初めて組織犯罪を取り締まっており、JFKは石油の減耗控除の削減の計画しており、オイルマンを激怒させ、彼らが暗殺のため金を用意することになった。つまりNoel は「正しく理解していた」と思われる。

 

スライドの字幕

 

このため私には、最も成功の可能性の高い最も完全な組み合わせは、以下であったことが分った;

 

CIA/軍―シークレットサービス―マフィア―LBJ―Hoover

 

陰謀集団にLBJがいなければ、マフィアはHooverに譲歩していたため、Hooverが足並みを揃える上で頼りになったであろう。おそらくこのリスクは、いったん彼らがLBJを自分達の仲間に入れると、共謀者には受容可能となったように思われる。LBJはこの集団の中で最も価値あるメンバーであったであろう。なぜなら彼は大統領となり、そのため、シークレットサービス、軍、CIA、FBIを含む、全行政機関に対して直接的権限を持つことになっていたからである。これは、アメリカ政府の捜査、訴追の全般的能力が、議会による調査委員会から除外される可能性を持つことを示している。(LBJは直ちに当初の議会による捜査委員会の設置を却下し、全委員を彼自身とHooverによって任命したウレン委員会を設置した。同委員会に利用可能であった情報は全てFBIによって与えられた。)LBJは民主制議会の最高の操作者であった。
こうして、私の第一の検証として、控えめに述べても、共謀者は以下であったと推定するものである;

 

CIA/軍―シークレットサービス―マフィア―LBJ

 

●マフィアがすべきことは、CIAが関与するように仕向け、CIAにシークレットサービスとLBJをリクルートさせるだけであった。こうしてこれは完全な陰謀であったことになる。

 

●LBJがすべきことは、(必要に応じてマフィアを利用出来た)CIAとシークレットサービスをリクルートするだけであった。こうして彼は完全な陰謀をなすのであった。

 

●Hooverは、犯行後にLBJとマフィアから彼らが彼に関して入手していたゆすりの材料を突きつけられ、足並みを揃えることになった。

 

●このシナリオにおいて極右活動家は、もし関与していたのであれば、金を提供したのであろう。

 

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保守派はまたKennedy王朝を恐れてもいた。Jack が二期を務め、Bobbyがさらに二期、その後Teddyが続くことになっていた。そうした方がアメリカにとっては良かっただろうが、腐敗にとっては決して良くなかった。彼らは、自分達の特別の利益を大きくするために国家を犠牲にして、自分達がなすべきことをなした。こうして私達は、JFKの死がなければ大統領の座につくことのなかった--Johnson、 Nixon、 Ford、 George Sr、George Jrという--大統領を連続して持つことになった。その後の国家の路線が、1963年11月22日の事件は単に大統領の死を意味するものではなく、アメリカに対する暗殺も意味していたという推論の正しさを証明している。

 

 

JFK 暗殺に関するプレゼンテーション 4/5

以下は、http://donaldfox.wordpress.com/2013/06/03/jim-fetzers-conspiracy-conference-powerpoint/にてダウンロード可能なプレゼンテーションファイルの日本語訳です。(コマ91から121まで)

 

実際のプレゼンテーションの模様は、http://www.youtube.com/watch?v=zLL8diz-7bwにて視聴可能です。

 

 

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Zフィルムの捏造

 

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これは、狙撃が起きる直前にHouston 通りから Elm通りへとカーブする際の大統領とJackie の最後の写真の一枚である。私達の多くは、背景に写っているバンが暗殺の際の指揮命令箇所であったのではないかと疑っている。

 

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物理学の博士号であるJohn Costellaはまた、光並びに動く物体の画像の特性の研究、情報電磁気学の専門でもあるが、Zapruderフィルムの最新改良ヴァージョンを発表し、技術的にほとんど完全なものではあったが、フィルムにはいくつかの明らかな欠陥が含まれていることを実証している。

 

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このフィルムが捏造であったことを示すサインの一つは、ほとんど動かない観客の列である。オリジナルだと思われる、別のフィルムを見たことがある者は、ここで見られるのとは違い、観客は手を振り、喝采を送っていたと報告した。David Healyが述べているように、光学的プリントと特殊効果を用いることで、前景と後景との組み合わせが可能となり、映し出されている人物の行動を変化させることが出来る。

 

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歯車部分の「ゴーストコマ」がフィルムのコマの間の視覚的つながりを形成しているが、捏造が直ちに発覚しないようにするには、フィルム研究室の助けを借りたに違いない。このことからフィルム全体が捏造であることが分る。これは改ざんが施された実際の画像を用いてなされたのである。このコマは傘の男と拳を振り回すキューバ人を示している。これはおそらく運転手William Greerに対する、リムジンを停止させるサインであろう。

 

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傘の男は、傘を上下させることで、狙撃者に標的が死亡しておらず、狙撃を続けるサインを送っていたと見られるが、彼らはRoy Hargravesとキューバ人Felipe Vidal Santiagoであったと思われる。Noel Twymanとのインタヴューで、Hargravesは自分が暗殺支援チームの一員としてあの日Dallasにおり、自分達はMaimiにあるCIAのJM/WAVE 地域本部の命令に従っていたことを認めた。

 

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LIFE (2 October 1964)
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一般市民が見たZapruderフィルムからのコマは、初めLIFEに発表された。大部分は注意を引かないが、しかしこのコマ--コマ313--は特別な問題を提起していた。プレートが表現内容を修正するために、二度折られていた・(6)。これは出版の歴史上類を見ないことであると考えられる。このフィルムや他のフィルムが編集されていたことを示す点が多く存在している。それらには、ほとんど動かない観客、運転手の頭部の振り向き(人間に可能な速度の2倍での)、描きこまれたと考えられる「血斑」や血しぶき、が含まれている。トランク上に飛び散った血液や脳、運転手が車両を左に寄せ、停止させたことは、削除されねばならなかった。なぜならそれはJFK を暗殺に陥れたシークレットサービスの露骨な共謀を示すものであったからである。

 

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これは修正された・Zapruderフィルムのコマ313からコマ316のオリジナルの連続画像である。

 

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26巻の根拠となる証拠中に一連のコマが発表された時は、しかし、間違った順番に発表されており、現存するフィルムで見られる左後方への動きを大きく緩和していた。David S. Lifton が友人にFBI長官J. Edgar Hooverに宛てて手紙を書かせたところ、Hooverはそれらが間違った順番にあることを認めた。HSCAの医学委員会の委員長であった医師Michael Badenは、以下のように述べている。もし「魔法の弾丸」説が間違いであれば、3箇所から少なくとも6発の発砲があったことになる。これは正しいことが判明する。

 

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修正されたフィルムにも忌まわしい証拠が含まれている。コマ312とコマ313を並べると、それらは前方への動きを示すことになる。次にコマ313の後に、はっきりとした左後方への動きが示されており、このことはOliver Stoneの映画 「JFK」で強調されていた。多くの研究者はこれを、大統領が後方並びに前方から撃たれていたことを示す証拠として受け止めており、陰謀を示唆している。しかし当時、そのような後方左への動きを目撃者は誰一人述べることはなかった。

 

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別のフィルムを見たことのある人は、後頭部を撃たれた後に、大統領は前方に倒れこんだと伝えている。大統領が右のこめかみを撃たれた際、Jackie が大統領を抱きかかえ、顔を見るなか、座席の左に倒れこんだ。多くのコマを取り除き、そして大統領の頭部と身体の見た目の動きを加速させることにより、彼らは急激な動きという強烈な印象を生み出したかのように見える。

 

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ポラロイドカメラを持ったMary Moormanと赤いコートのJean Hill は、Jean が「grassy knoll」(芝生の丘)と名づけた丘の反対側の芝生の上にいた。彼女達は活動的で、Jeanは JFKに「こんにちは、大統領。こちらを見てください。私達は写真を撮りたいのです。」と声を掛けた。しかし現存するフィルムでは、彼女達はほとんど動かない。

 

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Noel Twyman, Bloody Treason (1997)
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Noel Twymanは、左のコマでは背景がぼやけており前景がはっきりしていることに、一方右のコマでは双方共に焦点があっていることに気付いた。映画撮影での特殊効果に対して貢献したとして2000年のアカデミー賞受賞した・Roderick Ryanは、これは左のコマではカメラが車両を追っているが、右のコマでは車両が静止しているためであるとNoel に説明した。

 

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JFKの写真やフィルムの伝説的検証者Jack Whjteは、( Zapruderフィルムとは異なり、knollとは反対側の芝生から撮影された) NixフィルムがMaryが街路で彼女の有名な写真を撮影しようとしている姿を示してることに気付いた。これはZapruderフィルムが捏造であったことを示すもう一つの点である。Nixフィルムや他の私製映像もまた、この点を確認するために改ざんされていたものであったが、それは完璧にはなされていなかった。

 

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Jean は大統領とJackieとの間に「ふさふさした小さな白い犬」を彼女が見たという発言のせいで愚弄されているが、これは当初間違いなく、奇妙に聞こえた。

 

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しかしそれはJackieに若いファンが贈った子犬「Lambchop」であることが判明した。これは、この発見がJean の証言の信憑性を落とすものではなく、その信憑性をさらに強めることを意味する。

 

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これはJFKが右のこめかみを撃たれた後の一瞬を撮影した、Maryの撮影した有名な写真である。頭蓋骨と脳の一部が右肩の上に見える。Jack White と現在6th Floor Museumの館長を務めるGary Mackは、警察官の制服を着た、文献では「バッジの男」と呼ばれている狙撃者の姿を発見した。

 

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少なくとも6人の人々が「別のフィルム」を見たと伝えている。彼らが主張する、主要な入手可能なフィルムと対照的な点は以下である;

 

フィルムはHouston 通りからElm通りへのカーブから始まる。
Greerがリムジンを急停止させ、乗員が前方に前のめりになる;
JFK が停止している間に2回撃たれる;そして
Greer がその間ずっとJFKを見ており、大統領の脳が吹き飛んだ後にようやく振り返り、車両を加速させる。
加えて、右側に座っていた警察官Chaney が、警察署長Jessie Curry に大統領が撃たれたことを知らせるために前方に走り去る;そしてClint Hill が前方に駆け寄り、リムジンの後方に乗り出しJFKの頭蓋骨や脳の断片を回収していたJackieを助ける。

 

スライドの字幕

別のフィルムを見たことのある人物は以下である;
Wiiam Reymond、フランス人調査ジャーナリスト;
Rich DellaRosa、JFKreseach.com forum.の創設者;
Gregory Burnham 、JFKの死の長年にわたる研究者。
彼らは重要な4つの気付きを述べている;
(1)そのフィルムはHouston通りからElm通りへのカーブを含んでいる;
(2)Greerがリムジンを急停止させた;
(3)JFKは停止している間に2度頭部を撃たれた;
  警察官Chaneyが先頭車両に向かって車を走らせる
  Cint Hillが駆け寄りリムジンに飛び乗る
(4)Greerが振り向いてその後加速させる。

 

 

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コマ313は、RyanがNoelに描き込まれたものであったことを確証した血しぶきを映している。John Costellaも、これはあまりに急速にしぶきが飛ぶため事実ではあり得ないと確証している。

 

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コマ313は、「血班」と呼ばれる、明らかな「前方右側への脳と頭蓋骨の噴出」を見せている。これは、後方からの銃弾の影響という印象を生じさせるために付け加えられたものであったことが判明している。

 

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コマ313の後のコマは、Greerがリムジンを加速させる際に彼らは後方に引き戻されるはずであったのに、乗員が前方に動いていることを示している。彼らは急停止により乗員が前のめりになったことを見物人が記憶することを懸念していたため、こうしたコマを残したが、一方でリムジンが加速していると想定されるフレームワークを制作したものと私は考える。

 

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JFKから目を離すことは困難ではあるが、乗員席のNellie、 John Connally、Greer、 Roy Kellermanに目を向けるならば、私が話していることがご理解いただけるだろう。しかしこれにはある程度の集中力が必要とされる。

 

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Clint Hillは前方に駆け寄った際の彼の行動を首尾一貫して説明している。彼は後部座席にJackieを押し戻し、彼らの上に覆いかぶさり、大統領の後頭部の拳大の吹き飛んだ穴を覗き込み、それから同僚に「否」のサインを示したという。--全てTriple Underpass(三線高架下道路)に到達する前のことであったという。Roy Kellermanが、Warren委員会にリムジンがTriple Underpass(三線高架下道路)に到達する前に、彼が振り返ると、Hillがトランクの上に--実際にはそれは後部座席であった--覆いかぶさっているのが見えたと説明して、彼を支持した。

 

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現存するフィルムではClint がJackieに最も接近した瞬間はここに示されているため、私達の手元にあるものがオリジナルのフィルムではないことを示す一連の証拠の一つがここにもあることになる。

 

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これはまた、「Altgens7」と呼ばれる、この写真もまた捏造であることを意味する。なぜならこの時点には Clintは後部座席に覆いかぶさっていたからである。Clintがそこに位置する前にGreerが車両を加速させていたのであれば、彼の身体がどうなっていたのか、考えるだけでよい;基本的物理学の作用により彼の身体は街路に置き去りにされていたはずである。

 

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Jack White, Murder in Dealey Plaza (2000)
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Jack WhiteはこうしてZapruderが「Zapruderフィルム」を撮影したのかという疑問を提起している。なぜなら彼の秘書が「Zapruderフィルム」へのJackのアクセスを阻止しているようであるからである。しかし答えは明らかである;Zapruderは「Zapruderフィルム」を撮影しなかった。なぜなら誰も捏造フィルムを撮影することは出来ないからである。それは写真/フィルム研究室で制作されたのであった。

 

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Zapruder は傷を--実際には生じておらず、改ざんの際にフィルムに加えられたに過ぎない--JFKの頭蓋骨の右前方の噴出した穴を説明することで、不覚にも自身の共謀を洩らしたのであった。

 

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コマ317はどのようにして大統領の後頭部の吹き飛びが黒く塗りつぶされているのか示している。これはハリウッドのフィルム修復専門家集団によって確認されている。彼らは何とずさんにこれがなされていたのか驚愕していた。

 

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Zapruder Frame 374
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コマ317のようなコマをコマ374と比較すると、ペテンは明らかである。現存するフィルムは内在的一貫性さえないのである。そのため現存するフィルムは本物であると今日まで主張する--Josiah Thompsonや Robert Grodenのような--著名な「専門家」が存在することは驚きである。

 

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これは冒頭のフィルムをコマ374との別の比較である。Jack White はこれらの画像のいくつかではJackieの顔が消えたように見えることに気付いた。

 

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傘の男やキューバ人が関与していたのか疑問視する人は、どれほど落ち着いて彼らが暗殺に対応していたのか検討するべきである。ここでは彼らはコンクリートの上に静かに腰を下ろしている。疑いなく、仕事がうまく行ったことを喜んでいるのであろう。

 

 

JFK 暗殺に関するプレゼンテーション 3/5

以下は、http://donaldfox.wordpress.com/2013/06/03/jim-fetzers-conspiracy-conference-powerpoint/にてダウンロード可能なプレゼンテーションファイルの日本語訳です。(コマ53から90まで)

 

実際のプレゼンテーションの模様は、http://www.youtube.com/watch?v=zLL8diz-7bwにて視聴可能です。

 

 

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カモを嵌める

 

54 

 

Four Days (1964), p. 29
54
これはDallas 警察署のDay警部補が「暗殺に使用したライフル」と言われるものを持ち運んでいる姿である。あるはずのない、弾丸装填用クリップに注意していただきたい。Mannlicher-Carcanoに弾丸を装填する際、7発の弾丸装填用クリップから最後の弾が装填されるとクリップは抜け落ちるのである。7発の弾丸はおろかクリップさえ発見されておらず、これは描き込まれていたものであると考えられる。

 

55 

 

55
Lee Oswald は、オーナーがCIAと密接な関係のあった雑誌LIFE を利用して、嵌められたのであった。

 

56 

 

56
この下顎は四角い形の下顎で、Oswaldのよりとがった下顎ではない。左で見られるように、下顎と下唇の間には挿入された線がある。

 

57 

 

Jack White, Assassination Science (1998)
57
この写真は捏造であった。彼の指先は切り落とされていた;彼の鼻とまゆが投げ掛ける影は彼の等身が投げ掛ける影と一貫性がない。Jack White は新聞を内在的な比較基準として利用し、撮影された人物は5フィート6インチしかなかった--背が低いため5フィート10インチあったOswaldではなかった--か、あるいは新聞の画像が大きすぎるサイズで取り込まれていたか、であったことを発見した。

 

58 

 

58
ネガが見当たらない、4枚の写真がある。これらは異なる場面で撮影された異なるポーズの写真だが、全てにわたって全く同じ顔をしている。こうしたことは単にありそうもないことのみならず、光学的に不可能なことでもある。

 

59
これらを作成する上で必要であったと思われるマットがDallasの刑事のデスク内で発見された。彼は「出来るかどうか確かめるため」それを作っただけだと述べた。

 

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Gerald Posner, Case Closed (1993)
60
公式には、Lee は6階にいて、JFKを殺害した後、倉庫の床を走り去り、彼の信頼するMannlicher-Carcanoを隠し、階段を4階走り降り、食堂に入り、コーラを飲むのであった。

 

61 

 

Gerald Posner, Case Closed (1993)
61   
彼はそこで狙撃から90秒もしないうちに白バイパトロール警官Marrion Bakerと直面するのであった。彼はLeeを視野に捉えたが、Leeの上司、Roy TrulyがBakerに彼はこのビルに勤務する従業員であると保証した。両人とも、Leeは全く普通に振舞っており、息を荒くしても、息切れしてもいなかったと述べた。しかし、警官が回転式拳銃を彼に向けるのが分ると幾分驚いていたと、Trulyは付け加えた。

 

スライド61の字幕

午前11時50分;William Shelleyが昼食を食べに降りた際、Oswaldを食堂付近で目撃した。

 

正午;Eddie PiperがOswaldを一階で目撃した際、Oswaldは昼食を食べに行くところだと告げた。

 

午後12時15分;Carolyn ArnoldがOswaldが食堂に座っているのを目撃した。

 

午後12時25分;彼女はOswaldを再び、今度は玄関付近の一階で目撃した。

 

62 

 

62
Oswald はまかない付き下宿を1時03分に出て行くのを目撃されていた。彼はCrawford を南に向かい、Jefferson やThe Texas Theaterに向かっていたようである。Warren委員会は、彼は東に曲がり、Tenth Streetに向かい、そこで警察官と出くわしたとの結論を下した。当初、自動式拳銃の4発が現場では発見されたが、Oswaldは回転式拳銃を持っていた。

 

63 

 

63
Oswald が警察官J.D. Tippit を4回、胴部を3回、右のこめかみを1回撃ち、そこで中断し、自分に不利になるカートリッジを回収したとは想像することが困難である。発砲が発生するのを見たAcquila Clemonsは、二人の男がTippitを撃ち、どちらもLee Oswaldとは似ていなかったと述べた。

 

64 

 

64
暗殺は午後12時30分に終了した。およそ1時間20分の間に、Dallas警察は、6週間足らずの短い間教科書倉庫に勤務していたLee Oswaldを逮捕した。彼は元海兵隊員で、ソビエト連邦に転向しており、ロシア人女性と結婚していた。

 

65 

 

Jesse Curry, JFK Assassination File (1969)
65
Lee Oswaldの逮捕の報告は以下のように明言していた。「この男はJohn F. Kennedy大統領 と警察官を J. D. Tippit撃ち、殺害した。この男はまたJohn Connally州知事も撃ち、負傷させた。」これは午後1時40分の報告であった。彼が実際に逮捕されたのは10分後であることを考慮すると、これは極めて迅速な仕事であった。

 

66 

 

Jesse Curry, JFK Assassination File (1969)
66
硝酸塩テストは彼の手の痕跡は明らかにしたが、頬の痕跡は明らかにしなかった。彼は回転式拳銃を発射したかも知れないが、カービン銃は発射していなかった。彼が顔を洗っておれば、手もまた洗っていたはずである。彼はインクで印刷された教科書の倉庫で勤務していたが、インクは硝酸塩を含んでいる。

 

67 

 

Jesse Curry, JFK Assassination File (1969)
67
Dallasで撮影された証拠写真はわずかに二発の使用済み空薬きょうを示していた(1);Mannlicher-Carcanoを--分解して、あるいは組み立てて--教科書倉庫に運ぶ際に使用されたことを示していない紙袋(7);Connally州知事の体内から取り出された大きな金属片(3);
使用されていないカートリッジ(6)。この金属片は(3) が「魔法の弾丸」のものであるには大き過ぎるということが、公式説明が誤りであることを示すもう一つの証拠を提供する。

 

68 

 

Noel Twyman, Bloody Treason (1997)
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これは別の公式の「証拠写真」であるが、二発の使用済み空薬きょうと一発の使用されていないカートリッジを示している。

 

69 

 

69
これはDallas警察によって記録に残された凶器である。

 

70 

 

Jesse Curry, JFK Assassination File (1969)
70
これはWashington, D.C.のFBIによって記録に残された凶器である。

 

71 

 

71
はっきりと分ることであるが、これらは同一の凶器ではない。わずかに毎秒2,000 フィートの銃口速度しかないMannlicher-Carcanoは、銃口速度毎秒 2,600フィートかそれ以上を持つ高速度銃ではない。もしJFK が、WARREN報告書が主張するように、高速度の弾丸で殺害されたのであれば、JFKはMannclicher-Carcanoによって殺害されたのではなかったことになる。

 

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不可能な狙撃者

 

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James H. Fetzer, Murder in Dealey Plaza (2000)
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James Altgensによって撮影された、この有名な写真は以下の事実を示している。(1)フロントガラスにある貫通した穴、(2)ビルの出入り口にいるOswald に似た、おそらくはBilly Loveladyという名の同僚;(3)CIAの持ち物であったウラン採掘会社が所有する物置の開け放たれた窓;(4)大統領に何が起きていたのか、詳細は依然として分らなかったというのに、Johnson 副大統領への対応を割り当てられたシークレットサービス。

 

74 

 

74
上はその穴のクローズアップである。1963年11月25日月曜日、公式の国葬の日に、リムジンはFord 自動車に送られ、フロントガラスの取替えを含めて、改装されたにもかかわらず、シークレットサービスは、代わりに右で見られるような、異なったフロントガラスを出現させた。

 

75 

 

75
この穴はまた、コマ225においても明らかである。Livingston 博士は、その弾丸はおそらく命中した際砕け、一部が下方に向かい肺に入り、一部が上方に向かい堅いtentoriumを打ち砕いたと推測した。もしそうであるなら、大統領の死は、喉への被弾と頭部への二回の被弾の間の相互作用によってもたらされたことになる。

 

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76
これは入り口付近であるが、広範囲にわたり改ざんされていたことが証明されている。

 

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77
これは、Leeを取り調べた殺人担当の刑事、Will Fritzのノートである。

 

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78
Leeは彼に、自分は狙撃の際、「Bill Shelleyといっしょに建物の前に」いたと述べた。

 

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79
入り口付近を詳細に検証すると、男の顔が行方不明であること(この男を「ぼかされた男」と呼ぶことにする)、身を乗り出している男の左肩が消えていること(この男を「ドアの男」と呼ぶことにする)、彼の後ろにいる幅の狭い黒いネクタイをした男(この男を「黒ネクタイの男」と呼ぶことにする)が彼の前方と後方に同時にいること、が示される。これは、狙撃の際に自分が外にいたというLeeがFritzに語った話に促されての、時間に迫られた大急ぎの仕事であったようである。

 

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行方不明の肩を理解するには、我々には誰にも「鎖骨」として知られる肩の骨があることを知る必要がある--ドアの男は左の鎖骨を失っていることを例外として。

 

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この時この付近に誰がいたのかを特定するために、詳細にわたる検証が行われている。ドアの男が着ているシャツのすそを遮る黒ネクタイの男の姿に注意していただきたい。これは撮影角度によるものと考えられる。

 

 

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Richard Hook は、逮捕された時にLeeが着ていたシャツとドアの男が着ているシャツの間の類似点について検証につぐ検証を実施している。多くの特徴に関して、それらは同一のものであると思われる。

 

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ドアの男は「Billy Lovelady」という名の同僚であったという主張がなされたが、Billy は
Leeよりも3インチ背が低く、15ポンド~20ポンド太っていたと指摘した。1964年2月29日に、彼はFBIに行き、彼らにその日彼が着ていたシャツを見せた。それは半そでで、赤と白の縦じまのシャツで、ドアの男が着ていたシャツとは類似点がなかった。

 

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J. Edgar Hoover に対するFBI自身の報告書は、Loveladyは「自分は赤と白の縦じまのシャツとブルージーンズを着ていたと明言した」と報告している。彼らはそれらを正式に写真撮影し、FBI本部へと送った。

 

 

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この出入り口前付近にいる別の人物が、チェック柄のシャツを着ているBilly Lovelady であったと言われている。しかしこの人物はBilly Lovelady とは似ても似つかず、まるでゴリラのようである。さらに加えて、この人物はシャツからはみ出て・おり、上までボタンを留めている。この人物はBillyにも、ドアの男にも似ていない。

 

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この人物をよりLoveladyらしく見せるために、Billy の特徴がドアの男の顔に押し付けられたと考えられる。実際の所、この離れた距離から撮影されたFBIの写真は、Billy をより Leeらしく見せるために改ざんされていたと考えられる。目的は、混乱を生じさせ、不確定の状態にして疑問の余地を残すことであった。

 

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87
Altgensの写真に映っている出入り口付近の入手可能なヴァージョンを作成するためには、Richard Hooke がここで説明しているように、他の手立てもなされていた。

 

 

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私が初めて、Lee が Fritz に「 Bill Shelleyといっしょに建物の前に」いたと述べていたことを知った際、私はこの疑問の検証を始めた。私はJohn McAdamsのホームページでこのコラージュを見つけた。彼は「公式説明」の著名な擁護者である。ぼかされた顔(オレンジで丸く囲んでいる)とゴリラ男の多くの画像にご注意いただきたい。これはまさに偽情報工作の完全な見本である。私がこのことを発表し、顔がぼかされた人物がOswaldであったに違いないと信じていることを説明した時、Ralph Cinqueから連絡があり、彼は衣服と体型に注目すると、Leeはそこに映っているが、実際にはドアの男として映っていると述べた。
彼のカイロプラクターとしての経歴こそ、ドアの男がLoveladyであったという神話を打ち砕くために必要な事項であった。

 

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89
Oswaldがドアの男であったという私達の発見を打ち砕こうとする彼らの取り組みとして、WARREN報告書の弁明者数人が、Altgens6を掲載している1963年11月22日の日付のある色あせた新聞のコピーを掲載した。十分な時間はなかったため、改ざんすることなど不可能であったという彼らの主張を支持するためであった。--まるで、ぼかされた顔、行方不明の肩、前方と後方での同時の存在が普通のことであるかのようである!どれほど愚か者と私達は思われているのであろうか?

 

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Ralph Cinque が、Beacon Hills、ミシガン州、 News-Palladiumの発行したオリジナル版と捏造版の両方を発見することで、このデッチ上げを暴いた。これは、偽りの情報を拡散させるために、CIA が納税者の資金を用いて積極的にアメリカ人を騙すことまで行うことを示している。

 

 

JFK 暗殺に関するプレゼンテーション 2/5

以下は、http://donaldfox.wordpress.com/2013/06/03/jim-fetzers-conspiracy-conference-powerpoint/にてダウンロード可能なプレゼンテーションファイルの日本語訳です。(コマ31から52まで)

 

実際のプレゼンテーションの模様は、http://www.youtube.com/watch?v=zLL8diz-7bwにて視聴可能です。

 

 

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医学的ペテン

 

32 

 

32
1963年11月22日午後1時、臨時の報道担当官、Malcolm Kilduffが大統領が死亡したことを発表し、自分の右のこめかみを指差して、これは頭部を貫通した弾丸によるものであったと説明し、この結論は大統領担当医師、アメリカ海軍将官 George Burkleyによるものであるとした。

 

33 

 

33
午後3時15分の記者会見の際、大統領の喉の小さな傷を通して気管切開術を施したMalcolm Perry医師は、この喉の傷は侵入痕であったと三度説明した。この記者会見の書き起こしはWarren 委員会には提供されなかった。

 

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Charles Crenshaw, Assassination Science (1998)
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Parkland病院で大統領を蘇生させる取り組みに立ち会わせた、Charles Crenshaw医師は、気管切開術のための切開の前と後に、喉の傷の外見の図を描いていたが、その図はその傷が侵入痕であったというPerry医師の説明と一致ものである。

 

35 

 

35
Parkland病院から Bethesda病院に移動する間に遺体が改変されたのではないかという疑念は、検死時に撮影されたと言われる写真での喉の傷の見た目の変化により裏付けられている。Crenshaw医師がParkland病院でJFKのまぶたを閉じた。右側の写真では大きな欠損がないことにも留意していただきたい。この件について述べることにする。

 

36 

 

Charles Crenshaw, Assassination Science (1998)
36
Crenshaw医師はまた後頭部が大きく吹き飛んでいたことも描いていた。その規模を同医師は野球ボールや握りこぶしの大きさと表現していた。テレビで放送されたインタヴューの際、同医師はまた右のこめかみの侵入痕のことも説明したが、これは葬儀屋の説明と一致するものであった。

 

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37
Parkland 病院の多くの医者が、後頭部の大きな欠損から脳の組織さらに小脳までもが外部に出ていたと述べた。

 

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David Lifton, Best Evidence (1980)
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小脳は頭蓋骨の基部にある。大脳は脳の上部を構成する小脳より大きな部分である。こうした類の繊維の噴出は外見上全く異なって見えるはずである。医学部生の一年生であってもそれらを混同することはないであろう。

 

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Robert B. Livingston, Assassination Science (1998)
39
Robert B. Livingston医師は、人間の脳の世界的権威で傷の弾道学的特性の専門家でもあるが、Parkland病院の脳と小脳のダメージに関するレポートを検証した。同医師は、National Archivesに保管されていた図表や写真の脳はJFKのものではあり得ないとの結論に達した。

 

4 

 

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もう一発の弾丸が大統領の後頭部から侵入し、頭頂部から侵出し、大統領の命を奪った。海軍の絵描き、H.A. Rydbergは、検死を実施したアメリカ海軍医療部隊の指揮官 James Humesから何を描くべきか指示を受けた。彼は遺体もさらには写真も見ることは出来なかった。

 

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他の検死写真は長い髪に絡みついた大量の残留物を示していた。このためARRBはHumes 医師に、この被写体は検死の際シャンプーやヘアカットを施されたのかどうか、尋ねることになった。なぜなら一連の写真はあからさまに辻つまが合わないからである。Humesは返答した。「否、否、否…」

 

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House Select Committee on Assassinations (HSCA)が1977年から78年にかけてこの事件を再調査した際、その医学委員会は、侵入痕は実際には以前特定された侵入箇所より4インチ上にあったとの結論を下した。これは図表(右)で示されているが、写真(左)では見えない。

 

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The Harper Fragment (Interior View)
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かなり大量の頭部の後部/右部の骨が、Billy Harperという名の医学部生によって、暗殺の後の土曜日に発見されていた。それは狙撃の時点のリムジンの位置から左の芝生中にあった。どうすればこの頭蓋骨片とHSCAによる再現とが調和出来るのであろうか。HSCAがなした欺瞞はこれだけではなかった。

 

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44
Parkland病院にいた、Robert McClelland医師が作成した頭部の傷の別の図表は、Crenshaw医師の説明と一致する大規模な噴出を描いている。それはひどい傷であった。

 

45 

 

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Dealey Plazaでの, Parkland 病院での、Bethesda病院での--見物人、医者、医療技術者、FBI職員を含む--40人程の目撃者が、JFKは後頭部を吹き飛ばされていたことを報告していた。彼らはその箇所を自分たちの手で示していた。

 

46 

 

David W. Mantik, Assassination Science (1998)
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David Mantik医師、物理学博士は、「公式のJFKの検死時のX線写真」の徹底的な詳細に渡る検証を行なった。これは死亡前のX線写真であり、JFKの頭蓋とどのように一致するのかを示している。

 

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David W. Mantik, Assassination Science (1998)
47
一連の目撃者の報告は、検死時のX線写真がそうしたことを示していないという理由で無視された。物理学博士であったMantikは、optical densitometry(光学的濃度測定)という分かりやすい手法を用いて、「Area P」として特定されている部分は、「継ぎはぎ」されていたことを証明した。この「継ぎはぎ」は人骨とは考えられない程密度の濃い物質を用いて、周辺部分を保護する覆いとして利用し、「Area P」だけを光に晒すことでなされていた。

 

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Zapruder Frame 374
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James H. Fetzer は、Zapruderフィルムを含む、暗殺を映した私製映像の改変に関与した者は、後頭部の傷を示すコマ313-316 を見過ごしていたのではないかとの疑念を持っていた。彼はコマ374において後頭部の噴出の画像を発見した。

 

49 

 

David W. Mantik, Assassination Science (1998)
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Mantik はまた、別の頭蓋X線写真では6.5mm の金属片が付け加えられていたことも発見した。これは、Oswaldが使用したと言われる時代遅れのMannlicher-Carcanoカービン銃を関与させるための明白な企てであった。しかしこの銃は高速度ではないため、WARREN 委員会報告書が主張するように、大統領が高速度の弾丸で殺害されていたのであれば、この銃でJFKの命を奪った弾丸を発射することは出来なかった。

 

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David W. Mantik, Murder in Dealey Plaza (2000)
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Mantik はまた、X線(左)では大統領の右のこめかみから侵入した壊れやすい(つまり「炸裂する」)弾丸から想定されるパターンにある、鉛の小片を検知した。それはまた水銀が入った弾丸であったとも思われる。重い部分がさらに前進し、示されている中心線(右)に沿って分散されたのである。

 

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遺体の埋葬の準備をした葬儀士は、後頭部の大きな穴に加えて、右のこめかみに小さな傷が、背中の脊柱の右、肩の下5インチから6インチの箇所にも傷があったと捜査員に語った。顔には「変色」がなかったといい、これは大統領が即座に死亡したことを意味する。

 

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David Lifton, Best Evidence (1980), Expanded
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Parkland病院(右)での所見をBethesda病院(中央)での検死報告書やHSCA(右)/を比較すると、状況の非合理さは明白になる。

JFK 暗殺に関するプレゼンテーション 1/5

以下は、http://donaldfox.wordpress.com/2013/06/03/jim-fetzers-conspiracy-conference-powerpoint/にてダウンロード可能なプレゼンテーションファイルの日本語訳です。(コマ1からコマ30まで)

 

James Fetzerミネソタ大学名誉教授が第35代アメリカ大統領、John Fitzgerald Kennedyの暗殺に関しても、専門家の分析に基付いた徹底的な検証を行っています。

 

実際のプレゼンテーションの模様は、http://www.youtube.com/watch?v=zLL8diz-7bwにて視聴可能です。

 

 

 

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1
Lyndonは、JFKが東ドイツのスパイであったことが判明した美女と恋愛関係にあったことがあり、アディソン病を患っており、長く健康的に生きるとは想定出来ないことを明らかにするぞと脅して、また‐もし彼が候補者にならない場合‐いかなる立法上の提案であれ、ホワイトハウスによって「否決されることが既に分かっている」と脅して、1960年に自分自身をLos Angelesの公認候補にするべきだと強要した。彼は後に記者団に、自分でアメリカの歴史を検証し、4人に1人の大統領は任期中に命を落としていることが分かったと‐自分は「ギャンブラー」であると述べた。しかしLBJは「確実なこと」に掛けたに過ぎない。

 

 

2
Stewart Galenor, Cover-Up (1968), Expanded
2
弾丸は以下の箇所から発射されていたと考えられる:County Records Building, Dal-Tex, 教科書倉庫ビル (しかし言われている「暗殺者の巣」からではない),  grassy knoll (芝生の丘)(#3),Triple Underpass (三線高架下道路)の北側と南側末端部の地上にある下水道開口部 (#4 と #5)。 Zapruder は#2 から撮影していたと想定されており、一人の見物人が#6でそれた弾丸で負傷した。公式には、JFKは#1において命中した弾丸によって命を奪われたという。

 

3
3
Leeは逮捕された際、特徴のあるシャツを着ていた。その外見に、長袖で、底部がよれよれになった状態に注意していただきたい。彼はこの下にTシャツを着ていたが、それは彼が首の部分を引っ張りがちであったせいか、伸びていた。

 

4
暗殺を仕掛ける

 

5
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JFKに暗殺を仕掛けたシークレットサービスの共謀を示す15以上の点が存在する。二人のシークレットサービス職員は、大統領防衛の細部を担当していたEmory RobertsによってLove Field に置き去りにされた。彼らは驚いた。

 

6
Richard Sprague, Computers and Automation (May 1970)
6
最も多くを語るのは、車両が不適切な順番に配置されていたことである。大統領専用車両が先頭に配置されていた。市長や副大統領といった大統領より低い地位にある公人が、大統領より前に配置されるべきであった。記者団は後方へと、大統領の担当医師は最終車両へと移動させられていた。

 

 

7
7
マンホールの蓋は溶接されておらず、空いていた窓は締められず、群衆は街路に溢れることが許されていた。

 

8
Richard Trask, Pictures of the Pain (1994)
8
オートバイの伴走は4台に削減され、大統領専用車両の後輪よりも前を走らないように指示されていた。白バイ警察官の一人は、彼がそれまで見た中で最悪の編成であったと述べた。

 

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正常な精神を持つ者で、これがアメリカ合衆国の大統領に対する適切な警備であると考える人がいるのであろうか?

 

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Connally 州知事が、事件の4日前の、1963年11月18日の車両パレードルートの変更には関与していた。通常は、車両パレードルートは一旦定められると、決して変更されることはない。こうして大統領がテキサス教科書倉庫ビルを通り過ぎることになった。

 

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暗殺の後、狙撃が起きた地域を封じ込めるための措置は取られなかった。車両は自由にplazaを通る抜けることが許された。

 

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Richard Trask, Pictures of the Pain (1994)
12
瀕死の大統領が搬送されたParkland 病院では、シークレットサービスの職員がバケツとスポンジを取り出し、大統領専用リムジンから血と脳を除去し始めた。観衆がフロントガラスの貫通した穴に気付くと、車両は移動させられた。

 

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1963年11月25日月曜日、公式の国葬の日には、大統領専用リムジンはFord 自動車に送り出され、中央右に弾丸が貫通した穴が空いていた車両のフロントガラスの交換を含めて、
完全に作り変えられた。

 

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Stewart Galanor, Cover-Up (1968), Expanded
14
WARREN 委員会報告書(1964)によれば、単独の狙撃犯がテキサス教科書倉庫ビルの6階から3発の弾丸を発射した、2発が命中し1発がそれ、#6の箇所から観察していた、離れた所にいた見物人James Tagueを負傷させたという。

 

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「魔法の」弾丸

 

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Robert Groden, The Killing of a President (1994)
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委員会に当初の3発の弾丸/3回の命中というシナリオの破棄を余儀なくさせたのはTagueの負傷であった。もう一発がgrassy knoll(芝生の丘)の反対側の芝生上のマンホールの蓋の近くに当たっていた。合計で8発、9発、あるいは10発が発射されていたと考えられる。Kenny O’Donnell が後にTip O’Neillに述べたように、弾丸が至るところで風を切っていたのだ。

 

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一発はリムジンのフロントガラス上部のクロム製の縁に当たっていた。

 

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Gerald Posner, Case Closed (1993)
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このそれた弾丸が意味するのは、わずか2発の弾丸に基づいて全ての傷を説明することが必要になったということである。こうして「魔法の弾丸」という想像力に富む捏造がなされた。これは、Gerald Posnerによってここで示されているように描かれている。

 

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JFKが着ていた上着には襟下約5インチ半の箇所に穴が空いていたが、これは公式の傷の箇所と矛盾するものである。もし弾丸がここから、特に、下方向に向かって侵入したのであれば、どうして首を貫通出来たのか想像が困難である。

 

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公式には、1発の弾丸が大統領の首の後ろに命中し、いかなる骨組織にも当たらずに首を貫通し、州知事John Connallyの背中に侵入し、複数の傷を負わせたという。その弾丸は州知事の肋骨を粉砕し、右手首を傷つけ、左の太ももに侵入したという。

 

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シャツにある弾丸による穴は襟下約5インチ半の箇所にあることが分かっているが、これは低すぎて首の後ろの付け根という公式説明の箇所と一致しない。シャツも上着も検死の際Bethesda病院に送られなかったが、これは検死手順の侵害であった。

 

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Humes は、Humesと同様、それまで被弾による犠牲者の検死を実施したことのないアメリカ海軍医師、J. Thornton Boswellの補佐を受けた。彼の描いた傷を示す図表は、襟下5インチ半の箇所にある背中の傷を示している。これは海軍将官Burkleyによって承認までされていたものである。

 

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Noel Twyman, Bloody Treason (1997)
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検死を目撃した二人のFBI職員のうちの一人、James Sibertは、その傷の相対的な位置を示す図表を描いていたが、そこでは背中の傷は喉の傷よりも低い位置に描かれており、その二つの傷が上方背後から発射された一発の弾丸によって結び付けられるとは到底考えられない。

 

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海軍将官 Burkley は、大統領は「頭部を撃たれており」、「第二の傷は背中のおよそ第三胸椎の高さにあった」と述べるJFKの死亡証明書を作成した。頭部の傷は「脳の右半球の空洞化」を伴っていたという。

 

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Warren 委員会の委員でさえ、この再現写真が示しているように、背中の傷はその箇所にあったと結論付けていた。代役が着ている上着の背中の大きな円形の当て布が背中の傷を示しており、その上の小さな方は公式の頭部への侵入痕を示している。

 

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Newsweek (22 November 1993)
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当時Warren 委員会のjunior counselorであった、Arlen Specterが指示棒を使い、「魔法の弾丸」が描いたに違いない軌道を示している。大きな当て布が彼の左手の下に見えるが、これはこのセオリーを図示する目的の写真が実際にはそのセオリーを反証していることを示している。

 

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あの時JFKがリンカーンリムジンに乗っていたことを知らなかったアメリカ人はWarren委員会の委員のみであったと考えたことがあるであろう。この再現はシークレットサービスのキャデラックを用いて行われており、そのような再現に基づいた検証には法医学的な意義がなかったことを意味している。

 

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The New York Times (3 July 1997)
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Assassination Records Review Board (ARRB) が公表した初期の文書は、当時の委員会の委員であったGerald Ford (R-MI)が、背中の傷を、既に誇張であった「背中の最上部」から「首の後ろの付け根」に書き換えさせたことを示していた。

 

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Stewart Galanor, Cover-Up (1998)
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医師、放射線腫瘍学の正式の資格を持つ物理学博士、David W. Mantikは、JFKと同様な胸と首の大きさをした患者のCATスキャンを行った。同博士が公式の弾丸の軌道を描くと、その機動は解剖学的に不可能であることが判明した。頚椎が邪魔をするのである。

 

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Gary Shaw, Cover-Up (1976)
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実際の弾丸の侵入箇所をその後の「魔法の」軌道と結び付けると、Oliver Stoneの「JFK」で描かれたように、このセオリーは冷笑の的となるのである。一連の離れ業を達成したと言われるこの弾丸は、離れ業にも関わらず、わずかに長さが歪んだだけで実質的には無傷な状態であった。

 

 

 

 

 

 

 

2013年10月 3日 (木)

暗殺に関する推論

以下は、http://www.assassinationscience.com/ReasoningAboutAssassinations.pdfの日本語訳です。

 

 

暗殺に関する推論       

 

政治的文脈における批判的思考  
James Fetzer、Minnesota大学Duluth、アメリカ合衆国

 

概要:医師、科学者、写真分析家、哲学者間の共同研究を伴った、論理、批判的思考、科学的推論の原理の適用が、我々のJFKの死に関する知識を変貌させる。1992年以来、私が組織した研究集団は、X線写真が改ざんされていたことを、別人の脳が代用されていたことを、暗殺を映した私製映像は再編集されていたことを、言われている暗殺者Lee Oswaldはでっち上げられた証拠を用いてわなに嵌められたのであったことを発見している。この研究手法は、"assassination science"(暗殺科学)と呼んでよいものであるが、政治的動機によってもたらされた可能性のある重要な、議論の余地のある死に対し、"最適な説明を求める推論"として知られる推論のパターンを適用することで成果を挙げている。正真正銘の証拠と正真正銘ではない証拠を識別すべく特別に配慮して — 検死時のX線写真、検死時の報告書及び写真、(言われている暗殺に使用した兵器を含む)物理的証拠、他の決定的な証拠という — 「最適な証拠」に焦点を絞ることで、我々は最も基本的な証拠からのこの事件の徹底的な復元に着手した。これが成し遂げられると、適切な推論を導くことは比較的容易になる。なぜなら、例えば、マフィアには、Bethesda海軍病院にその影響力を及ぼし、シークレットサービス、アメリカ海軍の軍医、大統領の担当の医師が管理していたX線写真を改ざんすることは出来なかったに違いないからである;親Castro派であれ、反Castro派であれ、キューバ人には別人の脳をJFKの脳として代用することは出来なかったからである;KGBはCIAと同様なフィルム再編集能力を持っていたであろうが、フィルムを入手することは出来なかったからである;これらの事項はいずれも、投獄されていたかあるいは既に死亡していたLee Oswaldには成すことが出来なかった。assassination science(暗殺科学)は、「応用哲学研究」として見なされうる新しい応用領域として、この新しい装いをした人文科学に歴史上の重要な謎の解明に際して付随的貢献以上のことが出来ることを確証している。

 

キーワード:論理、批判的思考、科学的推論、科学哲学、応用哲学研究、JFKの死、歴史上の謎の解明、歴史研究、「暗殺科学」

 

歴史的背景
1992年、Oliver Stoneの映画、「JFK」の公開によって端を発した議論に対応する形で、私は医師、物理学者、写真分析家、法律家からなる、John F. Kennedy大統領の暗殺を調査する研究集団を組織した (Fetzer 1998)。一部の者は、Jack Whiteのように、この事件の長年にわたる研究者であった。他の者は、David W. Mantik医学博士、博士のように、また私自身と同じく、比較的新しい研究者であった。我々の目的は、伝聞、推測、政治をこの事件から排除し、客観的、科学的根拠にこの研究の基礎を置くことであった。最終的に、それはこの事件の基盤からの徹底的な再構築をもたらし、そして特に、医学的証拠が、JFKの死の真の原因を隠すために意図された細部にわたる隠蔽工作を解明する鍵を持つことが判明した。これには複数の異なる種類の証拠の捏造、改ざんが含まれる。この隠蔽工作を明らかにすることで、アメリカ政府の構成者がこの犯罪には関与していたことが判明する。

 

この事件には豊富な証拠が存在しており、その大部分には一貫性がなく、矛盾していることを発見したことは私には驚きであった(Fetzer 2000, 2003)。正真正銘の証拠と正真正銘ではない証拠を識別する必要があったために、この作業は容易ではなかった。1977から78年に招集されたHouse Select Committee on Assassinations (HSCA)による調査のようなこの事件に対する公式の「再調査」は、適切に行われてはいなかった。実の所、狙撃が起きたDealey Plazaでの;大統領が最初に措置を受けたParkland病院での;大統領の検死が行われたBethesda海軍病院での—40人以上の目撃者による後頭部の大規模な破裂の証言と政府の公式説明との間の不一致に直面し、HSCA は検死時のX線写真に従ったが、そこにはそのような破裂は映っていなかった。しかしながら、このX線写真自体が後頭部の破裂を隠すために改ざんされていたことが明らかになった(Fetzer 1998)。

 

元海兵隊将校でもあった私の科学哲学者としての経歴が、私をこのような類の事件を追求するにふさわしい立場に置いたと言えるだろう。私は自分の研究によって導かれ、科学的方法の中で最も擁護出来る着想として、最適な説明へと至る推論の原理を綿密に記述するに至った。これは、利用な可能な根拠eによって仮説hiが代替説hjよりも「よりふさわしい説明」を提供可能になる場合、根拠eを前提とすると、仮説hiが代替説hjよりも好ましいということである。妥当性という基準が説明力を評価するために用いられる。これは、根拠eを前提としたある仮説hの妥当性は、hが真である場合にeが存在する蓋然性と等しいということである (Fetzer 1981, 1990, 2002a)。根拠と一致しない仮説は、利用可能な根拠の変更によりその後再検討されることもあり得ることを理解した上で、暫定的に排除される。根拠が不変化、あるいは「確定」すると、好ましい説明は受容可能となる。医学的証拠に関する我々の発見は、この研究方法の適用の具体例を示し、結論を利用可能な全ての根拠に基づかせることの重要性を具体的に実証している。

 

公式説明
FBIとシークレットサービスによれば、JFKは単独の、正気を失った武装犯Lee Harvey Oswaldにより上方背後から発射された三発の弾丸により命を奪われたという。一発がJFKの背中に当たり、もう一発が知事John Connallyの背中に当たり、三発目がJFKの頭部に当たり、大統領の命を奪ったという。このシナリオが、離れた所にいた見物人James Tagueにそれた弾丸の破片が当たっていたことが判明するまで、政府の公式見解であった。Tagueの傷という証拠は議論の余地がないため、通例「The Warren 委員会」と呼ばれる、Lyndon Johnson大統領が招集した調査会は、JFKとConnallyの傷をわずか二発の弾丸に基づいて説明しなければならなかった。この問題に対する解決策は委員の一人、Arlen Specterによって考案され、これが「魔法の弾丸」説として知られることになる。

 

JFKには喉に傷が一つ、背中に別の傷、頭部に少なくとも一つの傷があった。Connallyは背中に侵入痕が一つあり、肋骨を損傷しており、胸部に侵出痕が一つ、右の手首に傷が一つあり、弾丸の破片が左の大腿部に入り込んでいた。「公式説明」となる説明によれば、これらの傷の大部分は一発の弾丸によってもたらされたという。その弾丸は、大統領の首の付け根の後ろから入り、他の骨組織には当たらずに首を貫通し、首のネクタイの結び目の部分から出て行き、John Connallyの背中に入り、肋骨を一本砕き、胸部から出て行き、右の手首を傷つけ、そうして左の大腿部に入り、このような離れ業を成し遂げながらも実質的に無傷な状態で発見されたという。命中したもう一発の弾丸はJFKの頭部に当たり、大統領を命を奪ったと言われた。

 

通常 Warren 報告書 (1964)と称される、公式説明が現れた時、多くの読者はいかにあり得なさそうに思えても、「魔法の弾丸」仮説が政府の主張の中心であることを発見して興味をかきたてられた。そしてこのことは、その後の1976年- 78年のHouse Select Committee on Assassinationsによる暗殺の再調査やGerald PosnerのCase Closed (1993)のようなより最近の書籍を経ても、真実であり続けている。つまりもし「魔法の弾丸」仮説が偽りであるならば、他の弾丸や他の狙撃者が存在していたことになり、Warren 報告書 (1964)、HSCA 最終報告書 (1979)、Case Closed (1993) は真実ではあり得なくなるということである。我々の作業の一つは、「魔法の弾丸」仮説を支持する証拠並びに反する証拠を評価することであった。このうちの一部は調査の極めて初期の段階から判明していたが、その論理的な影響力はさらなる分析や検討に値するものであった。

 

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図1:JFKの傷を示すWarren委員会の図

 

「魔法の弾丸」仮説
Warren 報告書(1964) は大統領が被ったと言われる傷の図を発表した。それは首の付け根の後ろへの一発と後頭部への一発を示しており、後者が大統領の命を奪ったと言われる傷であった。「魔法の弾丸」説は、もし公式説明が主張する通りに弾丸が大統領の首の付け根の後ろから侵入していなければ、もし他の骨組織には当たらずに首を貫通していなければ、あるいはもし首のネクタイの結び目の部分から侵出していなければ、偽りとなる。Bethesda海軍病院において検死を実施した海軍軍医はこの弾丸が描いたと想定される弾道を確定するための首の解剖を実際には行っておらず、それを「推定」事項として確定した。このため、検死報告書の4ページは以下の主張を含んでいる(Assassination Science 1998, page 433):

 

侵入痕と推定される第二の傷は、前述の胸郭骨背面の右上の傷のことである. . . .筋膜や筋肉組織を貫通した飛翔物の軌道は容易には精査出来ない。侵出痕と推定される傷はMalcolm Perry博士によって記載された頸部前底部の傷のことであった。

 

侵入痕と侵出痕の位置は「推測」された事項であったことに、特に、注意しなければならない。それはアメリカ海軍医療部隊の指揮官 James Humesが、遺体が埋葬と公式の国葬の準備のために遺体安置所から運び出された後に導き出した「推論」に基づいて主張したものであった。遺体が運び出された後、土曜日になって初めて成立したと言われるParkland病院側との対話を基にして、ようやく彼(Humes)には 、背中の傷が喉の傷を侵出痕とする侵入痕に違いないことが分かったのであった!"胸郭骨背面の右上"との記述は、これは胸腔の背中側右上の部分のことであるが、もし「魔法の弾丸」説が真実であるのであれば存在するべき傷の位置と、全く位置が違うことにも注意しなければならない。PosnerのCase Closedの図(図2)も同様に図1と一致していない。

 

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図2:Gerald Posnerによる「魔法の弾丸」説の描写

 

矛盾する証拠
JFKの背中に当たった弾丸は実際の所大統領の身体のどこに被害を与えたのかという疑問に関する広範囲に及ぶ証拠が、当時着用していたシャツと上着の被害を含めて、明らかになっている。Josiah ThompsonのSiX Seconds in Dallas (1967)やGary ShawとLarry HarrisのCover-Up (1976/1992)を含めた多くの書籍が、シャツと上着の穴が侵入点は実際には襟下約5インチ半の所であったことを示していることについて述べている。シャツと上着の写真は、例えば、Thompson の著書(1967)の48ページやShawとHarris の共著(1976/ 1992)の64ページにおいて、またStewart GalanorのCover-Up (1998)の資料6、7(図3)を含む他の情報源でも参照可能である。この不調和を弁明するために、シャツと上着に「ひだが寄っていた」かも知れないとの考えが提起されている。

 

大統領の衣服の襟下約5インチ半の箇所の穴が「ひだ」によって生じたのではなかったかという考えは、より多くの大統領の身体の傷に関する証拠が利用可能になるにつれて、ますます説得力を失っている。検死を実施したHumes自身も、彼を補助したアメリカ海軍軍医、 J. Thornton Boswell少佐も、それまで銃弾による犠牲者の検死を実施したことはなかった。しかしながらBoswellは、彼らが検死の間観察した多くの傷の図表を作成した。この図表が後に大統領の私的担当医師アメリカ海軍軍医Admiral George G. Burkleyによって認証された。Boswellが作成した図表のコピーは、Shaw とHarris の共著(1976/1992)の62ページ、Galanorの著書(1998)の資料5、Fetzer の著書(2000)の230ページ (図 4)にて参照可能である。

 

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図3:大統領のシャツと上着の写真

 

Bethesda海軍病院での検死を監督したFBI職員James W. Sibertによって作成された異なる図表が、Noel TwymanのBloody Treason (1997)の100ページにおいて参照可能である。これが「魔法の弾丸」説が最も基礎的な前提に関してさえも直面している問題点を明白に具体的に示している。なぜなら公式説明が主張するように、もし弾丸が上方背後から発射されたのであれば、背中の傷は喉から侵出した傷の侵入痕としては低すぎるからである(図5)。

 

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図4:Burkleyにより認証された、Boswellが作成した検死図表

 

 

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図5:FBI職員Sibertが作成した傷の位置を示す図表

 

証拠の評価

 

最適な説明へと至る推論の適用によって、代替仮説に関する利用可能な証拠の意義が明確に解明されるに至る。公式説明、h1によれば、「魔法の弾丸」説が求めるように、弾丸は大統領の首の付け根の後ろに当たったという。もしh1が真実であれば、その場合シャツと上着の襟下約5インチ半の箇所に穴が存在する蓋然性は低くなるが、もし、例えば、それらに「ひだが寄っていた」のであれば、不可能ではない。しかしシャツと上着に「ひだが寄っていた」蓋然性は、身体の傷の図表もまた襟下5インチ半の箇所の傷を示しているため、極めて低い。興味深いことに、公式の図表(図1)を作成した絵描きは、遺体を実際に見る許可すらされていなかった。そしてParkland病院で回収されたシャツと上着は、Bethesda海軍病院に運ばれておらず、検死解剖担当医師の検証はなされなかった。

 

もし仮説2、JFKは襟下5インチ半の箇所を撃たれたというh2、が真実であれば、BoswellとSibertの図表に記載された傷の位置に対応する穴がシャツと上着に存在したであろう蓋然性は、極めて高くなる。ひだが寄っていたという推測は、このような2つの図表により反証されるのである。実際、より多くの証拠を検討すればするほど、h1に対する裏付けは減少し、h2に対する裏付けが増大する。大統領の私的担当医師Admiral Burkleyが死亡証明書には署名しており、これはShawとHarris の共著(1976/1992)の65ページ、Galanor の著書(1998)の資料8、Fetzer の著書(1998)の439ページにおいて参照可能である。 Burkleyによれば、大統領は頭部への一発により命を奪われており、「第二の傷は背面の第三胸椎の高さに生じていた」という。ShawとHarris の共著(1976/1992)の65ページにおいて(図6)説明されているように、第三胸椎は上方背後から発射され、大統領の喉のネクタイの結び目の高さから侵出したであろう弾丸の侵入痕であったにしては低すぎることが分かる。

 

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図6:第三胸椎の位置

 

さらに、Sibertは二人目のFBI職員Francis X.O'Neilと共に、検死に立ち会っており、後に1963年12月9日の時点で彼らの検死監督に関する報告書を提出したが、そこには以下のように記載されている部分がある:「大統領の身体の医療検査によれば、弾丸の一発は下方に向けて45度から60度の角度で肩の真下から脊柱の右に入り、侵出箇所はなく、弾丸は身体内にもなかったことが、明らかになった。」この一節を含む、彼らの報告書の抜粋が、Mark LaneのRush to Judgment (1966)の付属資料IVにおいて参照可能である。これはまたRobert GrodenのThe Killing of a President (1993)の78-79ページにおいても論じられている。 SibertとO'Neillがその傷が下方に向かう角度であったこと、侵出箇所がなかったこと、弾丸が身体内になかったことを具体的にしているのだ。これは「魔法の弾丸」説、h1の妥当性を減少させ、h2の妥当性を増大させることである。

 

受容と拒絶

 

利用可能な根拠を前提にし、h2はh1よりも好ましいということはh2が同時に受容可能でもあるということを意味するものではない。h2が受容可能であるか否かは、利用可能な根拠がそのことを裏付けるのに充分であるか否かということによって決まるため、利用可能な根拠が「確定」していることが必要とされる。Warren委員会のメンバーによって実施された再現の際に撮影された復元写真を含む他の証拠が、利用可能な根拠は確定しているという推論の裏付けとなる。再現写真は、例えば、Galanor の著書(1998)のDocument 4として参照可能であるが、後頭部の基部に頭部の被弾箇所を明らかにする丸い小さな当て布と、襟下約5インチ半の箇所に背中の被弾を明らかにするより大きな丸い白い当て布を示している。同様な写真がThe New York Times ペーパーバック版 (1964)の前面カバーページ内に見られるが、これは公式説明と矛盾するものである(図7)。

 

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図7:New York Timesの再現写真

 

この事件に関してなじみのない読者は、このような全ての証拠を前提にして、いったいどのようにしてWarren 報告書(1964)はJFKが首の付け根の後ろを撃たれたとの結論を下すことが可能であったのか疑問に思うであろう。CIA、FBI、シークレットサービス、その他の機関により保持されていた記録や資料を機密解除する権限を与えられた5人の一般市民からなる委員会、Assassination Records Review Board (ARRB)の優れた業績のおかげで、我々はこの疑問に対する答えを知ることになる。委員会のメンバーGerald Fordは、傷に関する記述を既に誇張であった「背中の最も上」から「首のうしろ」に変更していたのだ。これはARRBのごく初期の重要な発表の一つであり、ほどなくして私はThe New York Times (1997年7月3日)の8Aページ、Fetzer の著書(1998)の177ページにこの件に関する記事を発表することになった。

 

このような状況の下で、弾丸が大統領の首の言われているような箇所から侵入し、頚椎に当たらずに、言われているような箇所から侵出したということは不可能であったことをDavid W. Mantik医師、博士が先頃実証していると述べることはほとんど「蛇足」であろう。これはGalanorの著書 (1998)の資料45やFetzerの著書 (2000)の3-4ページにおいて説明されている(図8)。また大統領の命を救おうとの試みとして気管開口術を実施したMalcolm Perry医師 がその日ラジオとテレビを通じて広く放送された報告である、Parkland病院での午後3時16分に開始された記者会見の際3度にわたり、喉の傷を侵出痕としてではなく侵入痕として述べていたことを付け加えることもまた不必要なことかも知れない。見つけるのが困難との理由によりWarren委員会に対してこの発表の書き起こしは提供されなかったが、この記者会見での発表の書き起こしの完全なコピーが現在Fetzerの著書 (1998) の付属資料Cとして見られる。

 

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図8:Mantik がCATスキャン上に描画した弾道

 

論理的に派生する結論

 

「大統領の背中に当たった弾丸はどこから侵入したのか」という一見すると単純な疑問がJFKの暗殺の隠蔽工作を明らかにする鍵を持っているとは、驚きであろう。なぜならもしそれが「魔法の弾丸」説が要求するような首の付け根の後ろではなかったのであれば、Warren 報告書(1964)、HSCA 最終報告書(1979)、Case Closed (1993)、その他全てのそのことを当然視している検証は全く真実ではないことになるからである。我々がここで再検討している—シャツと上着の穴、BoswellとSibertが作成した図表に記載された傷、Burkley、 Sibert、O'Neillの傷に関する記述、再現写真を含めた—証拠が存在する蓋然性は、首の付け根の後ろを撃たれたという公式説明に関して言えば、ほとんどゼロの値である。そしてまぎれもなく、Mantikは公式説明が解剖学的に全く不可能であることを証明しているのだ。一方こうした同じ証拠の存在する蓋然性は、JFKが襟下約5インチ半の箇所を撃たれたと仮定すると、公式説明に関する場合と比較して、極めて、かなり高くなる。根拠は「確定」したと言える。

 

Gerald Fordが—疑いなく「魔法の弾丸」説をより説得力のあるものにするために— Warren 報告書 (1964)において傷の記述を書き直していたというARRBによる発見、またMantikが弾丸がそのような弾道を描くことは不可能であったことを突き止めているという事実を前提とすると、公式説明の中心は単に偽りであるのみならず、偽りであることが証明可能であり解剖学的に不可能であることまでも判明する!続いてJFKの喉の傷とJohn Connallyの傷は別個の銃弾、別個の狙撃者によってもたらされたに違いないことに、上方背後から発射した単独の暗殺者によって負わされたものではあり得ないことになる。真実は、Bethesda海軍病院にシャツと上着を送らず医師に検証させないという形での、Parkland病院での記者会見の書き起こしをWarren委員会に提供しないという形での、また同様な手法を用いての証拠の隠蔽がなければ明白であったであろう。実際に、あらかじめ定められた結論の裏付けとなる証拠を選別し、それ以外を排除する—選別と排除というプロセスは—プロパガンダを実践し、真実を追究する一般市民を惑わせることを専門とする全ての人間によく知られていることである。

 

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図9:頭蓋側部の検死時のX線写真のMantikによる検証

 

我々の調査研究は「魔法の弾丸」仮説を反証し、その結果、政府の公式説明の根幹におけるごまかしを明らかにしているのみならず、JFKの死における補完的な欺瞞を発見するにも至っている。最も重要なものは検死時のX線写真が(a)40人以上の目撃者が報告した後頭部の大規模な破裂を隠蔽するために、また(b)時代遅れの第二次大戦時のイタリア製銃Mannlicher- Carcanoを使用された兵器として加担させる明白な取り組みとして6.5ミリメートルの金属片を追加するために、捏造されていることである。人間の脳の世界的権威である、Robert B. Livingston 医師はNational Archivesに保管されていた図表や写真に示されている脳がJFKのものである可能性はないとの結論を下している。これらの発見は既に1993年までになされていた(Fetzer 1998)。これらの研究成果に対して("ABC Nightly News" や"Nightline"を通じて)アメリカ人や司法省の注意を引こうとの我々の度重なる取り組みにもかかわらず、我々はほとんど成功しなかった。

 

今日の我々の立脚点

 

我々の広範囲にわたる調査研究に基づいて、JFKは少なくとも4回撃たれていたことを我々は突き止めている:一回は前方から喉を;一回は後方から背中を;二回頭部を、一回は後方から、一回は前方から;そしてConnallyは一回から三回撃たれ、少なくとも3発がそれたと考えられる。総計8発、9発、ないし10発が、異なる6箇所から発射されていたと考えられる (Fetzer 2000、 2003)。政府の公式調査が重要な証拠をどれほど隠蔽し、見過ごしてきたのかを示す一つの驚くべき事例であるが、Bethesda海軍病院での検死の後に遺体に埋葬の準備を施した葬儀屋Thomas Evan Robinsonが民間人調査者Joe Westに語ったことがある。彼はJFKには後頭部に大きく割れた穴、右のこめかみに比較的小さい傷(後頭部の破裂の侵入痕)、背中の肩の下約5インチから6インチの背骨の右の箇所に傷があったと語った。彼はこの情報を1992年5月26日にWestに提供したが、これはもし彼らが望んでおれば、明らかにWarren委員会にも入手可能であったことである(図10)。

 

 

John P. Costella 博士を含む他の専門家達と共同研究するなかで、暗殺を映した「Zapruder フィルム」として知られる私製映像が光学的焼付けや特殊効果といった高性能の技術を用いて再編集されていたこともまた我々は発見した。連続するコマを連結する「ゴーストイメージ」のせいで、ごまかしが容易には露呈しないようにフィルムを再撮影することが必要であったのである (Fetzer 2003)。我々はまたJFKの暗殺を準備したシークレットサービスの共謀を示す15以上の兆候も発見した。それには、マンホールのふたを溶接しなかったこと、開いた窓を覆わなかったこと、群集が街路にあふれ出ることを許したこと、不適切なパレードのルートを採用したこと、オートバイ警官をリムジンの後方に置き不当な順番に車両を並べたこと、弾丸が発射された後にリムジンを停車させたこと、Parkland病院でリムジンから血液と脳を洗い流したこと、検死写真とX線写真を医師の仕事が完結する前に彼らから取り上げたこと、リムジンを解体させ完全に廃車にしたこと、が含まれる。このような事項が「偶然」生じた蓋然性は無限に小さい(Fetzer 2000, 2002a)。

 

正真正銘の証拠から導くことが可能な結論はかなり意味深い。マフィアには、暗殺の狙撃者を準備することは出来たであろうが、Bethesda海軍病院にまでその影響力を伸ばし、アメリカ海軍軍医、シークレットサービスの職員、大統領の私的担当医師の管理のもとにあったX線写真を改ざんすることは不可能であった。親Castro派であれ、反Castro派であれ、キューバ人には補足検死の間に別人の脳をJFKの脳として代用することは不可能であった;またもしKGBが、CIAのように、フィルムの再編集能力を持っていたとしても、Zapruder フィルムのコピーを入手し改ざんすることは不可能であった。これらの事項はいずれも、投獄されていたかあるいは既に死亡していたLee Oswaldには不可能であった。最適な説明へと至る推論の適用に基づいた同様な論法により、JFKに対する暗殺計画並びに大統領の死の真の原因を隠蔽するための証拠の改ざんに、あろうことか、アメリカ政府の最高レベルの構成員が関与していたに違いないことに関して、合理的疑いの余地はないのである。

 

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図10:Thomas Evan Robinsonへのインタヴューの要約

 

著者について

 

Dr. James Fetzer
James H. FetzerはMinnesota大学のDistinguished McKnight哲学教授で、Duluthキャンパスにて教えており、科学哲学分野、コンピューター科学の理論的基礎、人工知能、認知科学に関する20冊以上の著書を出版している。同教授は歴史と科学哲学の博士号をIndiana大学から1970年に授かった。教授の新しい研究、"The Evolution of Intelligence: Are Humans the Only Animals with Minds?" (近刊予定)は、人間と動物の精神構造に関する自身の最近の研究を用いて、ものを考えることとデジタルマシーンとの間の違いに関する自身の初期の研究をまとめたものである。教授はJFKの死に関する"JFK, Assassination Science" (1998)、 "Murder in Dealey Plaza" (2000)、 "The Great Zapruder Film Hoax" (2003)という3冊の著書を編集し、Paul Wellstone上院議員の死に関する4冊目 — "American Assassination" (2004) — を共同編集している。教授は自身が"assassination science"(暗殺科学)と名付けている新しい研究分野の先駆的存在である。これは、科学的推論の原理の適用、特に「最適な説明へと至る推論」を伴い、著名な政治家の死を調査するものである。これは、彼らが彼ら自身の政府により暗殺されたと疑われる理由がある場合、必須の要件である。Assassination science(暗殺科学)はこのように、公式報告を評価し、それが犯罪を隠蔽する目的を果たしているのではないことを保証する上で、決定的な役割を持っている。教授の研究は、入手可能な関連する全ての証拠に対し、論理、批判的思考、科学的推論という適切な原理を厳格に適用することで、それぞれの事案は判断されねばならないということを最重要視している。そして教授の研究は哲学的な詳細にわたる説明の実践的な意義を具体的に実証している。

暗殺に関する16の疑問

以下は、http://22november1963.org.uk/bertrand-russell-16-questions-on-the-assassinationの日本語訳です。

イギリスの哲学者バートランド・ラッセルがケネディ暗殺に関して疑問を表明しています。

 

 

暗殺に関する16の疑問

Bertrand Russell 著

[元来はThe Minority of One, 6 September 1964, pp.6–8に発表されたものである。]

 

Kennedy の暗殺についての公式説明はあまりに矛盾に満ちているため、3度にもわたり破棄され書き直されている。あからさまな捏造がマスメディアによって極めて広範囲に報道されたが、これらの嘘に対する否定は公にはされていない。写真、証拠、口述書は改ざんされ、原形をとどめていない。Lee Harvey Oswaldを相手取った事件の最も重要な側面の一部は完全に闇に消されている。一方、FBI、警察、シークレットサービスは主要な証人を沈黙させ、どのような証拠を提示すべきか指示しようとしている。他に尋常ならざる状況で行方不明になったり、死亡した関係者もいる。

 

注意が求められ、Warren 委員会が重要であるとみなすべきは、こうした事実である。私はWarren 委員会の報告書の発表の前に書き記しているものではあるが、報道機関へ明らかにされた情報からその報告書の内容は予測可能となっている。委員の高い地位と委員会がJohnson大統領によって設置されたという事実のため、委員会は真実を述べるべく任命された神聖な人間の集団と広くみなされている。委員会の構成とその振る舞いを部分的に検証するだけで、全くその反対であることが示されることになる。

 

1:Warren 委員会のメンバー構成

 

Warren 委員会はアメリカの市民の代表では全くない。委員会は以下の人物によって構成されていた:
・その人種差別主義的観点がアメリカ合衆国に恥をかかせている2人の民主党員、Georgia 州選出のRussell 上院議員とLouisiana州選出のBoggs 下院議員;
・2人の共和党員、Kentucky 州選出のCooper上院議員と地元のGoldwater運動の元指導者でFBIの関係者であるMichigan州選出のGerald R. Ford 下院議員;
・中央情報局の元長官、Allen Dulles;
・経済界の代弁者とみなされている、Mr. McCloy。

公民権法案に反対する上院での議事進行妨害の指導部はRussell 上院議員がその期間に公聴会に出席することを妨げた。正当に尊敬を得ているEarl Warren合衆国最高裁判所長官は説得され、自身の意思におおいに反して、最終的には委員会の委員長を務めることになった。委員会に合法性と権威のオーラを添えるうえで役に立ったのは、なによりも彼の関与であった。しかし委員会の多くのメンバーは同時にまた、暗殺に関する事実を歪め、隠すために多くの行為を行った集団のメンバーでもあった。彼らの政府とのつながりのために、このメンバーは一人も、Oswald が直面した場合の裁判の陪審員として務めることは許されなかったであろう。最高裁判所長官自身が委員会による一部の情報の公表は、「生きている間にはないかも知れない」と述べたことはちょっとした驚きである。ではここで、私の第一の疑問を書く:なぜWarren委員会の全メンバーはアメリカ政府と密接なつながりがあったのか?

 

2,3:委員会の振る舞いと公式の秘密主義

 

委員会の構成に疑念があるとすれば、その振る舞いは最悪の不安を確認するものであった。Oswaldの代理をする法廷弁護士は許可されず、反対尋問は妨げられた。後に、圧力を受けて、委員会はArizona州の米国弁護士協会の理事長で、Goldwater 運動の支持者の一人であったWalter Craigを、Oswaldの代表を務めるよう任命した。私の知る限り、彼は公聴会には出席しなかったが、観察者の説明で満足した。

 

国家安全保障の名の下で、委員会の公聴会は秘密裏に開かれ、その後事件の全行程を特徴付けるこの方針が引き続いている。これが私の第二の疑問を触発する:もし、私達が聞かされているように、Oswald が単独の暗殺者であったのであれば、国家安全保障という事項がどこに介在するのであろうか? まぎれもなく、Dreyfus 事件の際にフランスで提起されたのと全く同じ疑問がここでも提起されることになる:もし政府がこの事件に関して確信しているのであれば、なぜ政府は審理を全て完全に徹底的な秘密のうちに実施するのであろうか?

 

4: 決定的な疑問は尋ねられなかった

 

手始めに委員会は審理を実施する6人の陪審団を任命した。彼らは以下を検討した:
(1)Oswaldは1963年11月22日に何をしていたのか?
(2)Oswaldの経歴はどのようなものか?
(3)Oswaldはアメリカ海兵隊、そしてソビエト連邦で何をしていたのか?
(4)どのようにRuby はOswaldを殺害したのか?
(5)Ruby の経歴はどのようなものか?
(6)11月22日に大統領を保護するためにどのような取り組みがなされたのか?

 

これが私の第四の疑問を触発する:なぜWarren 委員会はKennedy大統領を殺害したのは誰であったのかという疑問を扱う陪審団を設置しなかったのか?

 

5: 委員会への異論

 

委員会に与えられた証拠は全て、公聴会を一般公開するようにとの要請までも含め、「最高機密」に指定されている。それにもかかわらず、委員会は証拠の大部分を、その証拠がOswaldが単独の暗殺者であることを示す場合に限ってではあったが、報道機関に明かした。こうして、最高裁判所長官 Warren は、Oswaldの妻、Marinaが証言した後に記者会見を行った。彼は、夫が暗殺者であったと彼女は信じていたと述べた。
Oswaldの兄弟Robertが証言する前に、彼は彼が述べることに関してはコメントしないという委員会の合意を得ていた。彼が二日間にわたり証言した後、「委員会の一人」がRobert Oswaldが自分は兄弟がソビエト連邦のエージェントであったと信じていると証言したと報道陣に告げたというストーリーで新聞は満ちていた。Robert Oswald はこれに激しく怒り、彼の証言に関して嘘がつかれているのに黙ってはいられないと述べた。彼はそのようなことは言っておらず、彼はそのようなことは信じていないと述べた。彼が委員会に告げたのは、自分は兄弟は無実であり、決して暗殺には関与していないと信じているということだけであった。

 

委員会が採択した方法は全く嘆かわしいものであるが、Warren委員会の全役割を疑う上で重要である。同委員会は独自の調査を実施するものではなく、既存の政府機関‐FBI、シークレットサービス、Dallas 警察に依拠するものであると委員会は明言した。従ってWarren 委員会に対する信頼はこれらの3つの機関に対する信頼を前提とするものである。なぜ多くのリベラル派は、委員会の状況を検証することなく、自分達の委員会に対する責任を放棄しているのであろうか?

 

6: 破壊分子 Oswald

 

11月22日にDallasではアメリカ合衆国の大統領のために最も厳重で入念な警備対策が命じられていたことが分っている。この街は暴力で名高く、アメリカで最も極端な一部の右派の狂信者の本拠地であった。Lyndon Johnson 夫妻は1960年に副大統領の候補であった時、そこで襲われたことがあった。Adlai Stevenson はKennedyの来訪のわずか1ヶ月前にこの街で講演した際、身体を襲われていた。11月22日の朝、DallasのMorning News 紙は大統領と共産主義を結びつけるページ全体におよぶ広告を掲載した。大統領の写真と「国家反逆罪により指名手配」との見出しのついたポスターで街は覆われた。Dallasの破壊分子リストには23人の名前が連なっており、そこにはOswaldの名前が第一番目に掲載されていた。彼らは全員その日、Oswaldを除いて、尾行されていた。なぜ当局は多くの人物を暗殺者の可能性があるとして尾行しながら、3フィート以上もあるライフルを所持していたと言われるOswaldが教科書倉庫ビルに入ることに気付かなかったのであろうか?

 

7: 車両パレードのルート

 

Dallasを通る大統領のパレードのルートは広く知られており、11月22日の Dallasの Morning News紙に掲載されていた。直前になってシークレットサービスが自分達の計画の小さな部分を変更し、大統領はMain Street を過ぎて Houston Streetと Elm Streetに向けて曲がることになった。この変更により大統領は、Oswald が狙撃したと言われる、科書倉庫ビルを通り過ぎることになった。どのようにしてOswald がこの変更を知ることになったのかは全く説明されていない。なぜ大統領のパレードのルートは直前になって、Oswaldの職場を通り過ぎるように変更されたのであろうか?

 

8: 証拠の変更

 

暗殺とOswaldの逮捕の後、速やかに判決が言い渡された:Oswaldが暗殺者であり、彼は単独で行動したというものである。他の者を捕える取り組みはなされず、その地域周辺での道路封鎖は手配されなかった。Oswaldの有罪を示す傾向にある全ての証拠はDallas地方検事、Mr. Wadeによって報道陣に対して発表された。このようなやり方で数百万の人々は、彼に裁判にかけられる機会が与えられる前に、Oswaldに対し偏見を持っていた。当局によって発表された第一のセオリーは、大統領の車両がHouston Streetで教科書倉庫に接近した際、Oswaldが発砲したというものであった。検証可能な写真や目撃証人がこれは全く真実ではないことを示すと、このセオリーは破棄され、車両を正しい位置に配置した新しいセオリーが考案された。しかしながら一方では、Dallas地方検事Wade は DallasのOswaldの部屋が捜索された3日後に、そこで教科書倉庫ビルに丸印が付けられ、そのビルからHouston Street上の車両まで点線が描かれた、発射したと言われる弾丸の軌道が事前に計画されたものであったことを示す地図が発見されたと発表していた。第一のセオリーが間違いであることが示された後、11月27日にAssociated Press は以下のストーリーを発表した:「Dallas当局は今日、地図はなかったと発表した。」

 

第二のセオリーは大統領の車両を正しくElm Street上の、教科書倉庫を50ヤードから75ヤード過ぎた位置に置くものではあったが、大統領が前方から、喉を撃たれたという難問に取り組まねばならなかった。どうやってOswald は後方から大統領の前面を撃つことが出来たのであろうか?FBIは雑誌Lifeに対し背景の説明をする一連の会合を開き、Lifeは12月6日号で、大統領は狙撃された時に完全に振り向いていたと説明した。これもまた、すぐに全く誤りであることが明らかになった。これは複数の目撃者やフィルムによって否定されたのである。また Lifeの以前の号自体が、大統領は撃たれた際に前方を見ていたことを既に示していた。第二のセオリーは破棄された。

 

Oswald が単独の暗殺者であったという公式の考えの基盤を維持するために、医学的証拠をそれに合わせて改ざんし、今や第三のセオリーを構築することが必要になった。最初の一ヶ月間、シークレットサービス職員の誰一人もParkland 記念病院でKennedyの命を救おうと努力した3人の医師と話すことがなかった。 今度は二人の職員がその3人の医師と3時間過ごし、彼らを説得し、彼らが誤解していたことにした:大統領の喉の侵入痕は侵出痕であった。弾丸は肺に向かってはいなかったことにした。どうして彼らはそれほどの誤解をしてしまったのかと報道陣に尋ねられた際、McClelland 博士は以下の2つの理由を挙げた:
・彼らは検死報告書を見ていなかったこと
・そして彼らはOswald が大統領の後方にいたことを知らなかったことである!

 

検死報告書は、これを彼らはシークレットサービスから教えられたのだが、Kennedy が後方から撃たれていたことを示していた。しかしながら、この2人の職員はその3人の医師に検死報告書を見せることを拒んだため、この提言については全面的にシークレットサービスのことばに依存したのであった。3人の医師は自分達がこの件について議論することは許されなかったとはっきり述べた。医学的証拠を書き直したこの第三のセオリーが、現時点でもOswald を相手取った事件の基盤となっている。なぜ大統領の死に関する医学的証拠は改ざんされ、原形をとどめていないのであろうか?

 

9: 前方と後方からの狙撃

 

Oswaldは大統領を後方から撃ったと言われてはいるが、狙撃が前方からのものであったことを確信している多くの目撃者が存在する。そのような人々にはForth Worthの Star Telegram紙の2人の記者、Dallas のMorning News紙の4人の記者、そして教科書倉庫ビルの前に立っていた2人の人物、教科書倉庫の管理人とその会社の副社長が含まれている。わずかに2人の人物のみが直ちにそのビルに入ったと思われる:教科書倉庫の管理人、Mr. Roy S. TrulyとDallas警察官、Seymour Weitzmanの二人である。両人とも狙撃は大統領の車両の前方からであったと考えていた。Weitzman は初め車両の前方に向かって走っていたが、「誰か」に狙撃はビルからであった思うと知らされ、彼は急いでビルに戻った。Trulyは自分のビルの知識を使って支援するために彼と共にビルに入った。Dallas警察署長、Mr. Jesse Curryは、狙撃はそのビルからであったと自分は直ちに確信したと明言した。もし誰かこれを信じる人がいるとしても、彼は今日までそう述べることを躊躇している。Dallas警察無線で放送された第一報は「大統領の車両の前方の三重高架交差路の方向から狙撃はなされた」と明言していたこともまたよく知られている。加えて、第一の発砲の後に車両が訓練を受けたシークレットサービスのドライバーによってほとんど停止させられたという考慮すべき事項が存在する。これは狙撃が後方からのものであれば、あり得ない反応である。その日のDallasでのシークレットサービスの行動の責任者であり、大統領車で同行していたMr. Roy Kellermanは、狙撃がなされた際、間違いなく前方を見ていた。シークレットサービスがその車両から証拠を全て取り除いたため、検証はもはや不可能である。大統領は後方から撃たれたという主張を実証するどのような証拠があるのであろうか?

 

10: 写真の差し押さえ

 

犯罪現場で撮影された写真は最も有益であろう。発砲された際に大統領車のすぐ左側に立っていた一人の若い女性が、狙撃の直前と狙撃の間の車両の写真を撮影しており、彼女の写真には教科書倉庫ビルの前面が全て写り込んでいた。二人のFBI職員が直ちに彼女が撮影したフィルムを没収した。なぜFBIは事件全体で最も信頼出来る証拠を公表することを拒んでいるのであろうか?

 

11:偽りの証拠

 

これと関連して、この事件に影響を及ぼす写真のオリジナル版を入手することが不可能であるということもまた注目に値することである。雑誌TimeがOswaldが逮捕される写真‐これまで見た唯一の写真‐を発表した際には、背景全体が説明されざる理由によって黒く塗りつぶされていた。Oswaldの事例で起きたほど多くの写真の改ざんが起きた事例を思い出すことは困難である。

 

教科書倉庫ビルに入った警察官Weitzmanの口述書は、6階で凶器と言われるライフルを彼が発見したと明言していた。(始めこのライフルは5階で発見されたと発表されたが、すぐに変更された。)それはドイツのMauser製の7.65 mmライフルであった。翌日の遅くに、FBIは最初の発表をした。Oswald は1963年3月にイタリアのMannlicher-Carcano製の6.5 mmライフルを購入していたという。地方検事 Wade は直ちにライフルの製造国と大きさをこのFBIの発表に合うように変更した。

 

凶器と言われるライフルの複数の写真が発表されている。2月21日に、雑誌Life は表紙に「Kennedy 大統領と警察官Tippitt[原文ママ]を殺害するために使用された武器とLee Oswald」の写真を掲載した。80ページで、Life はこの写真は1963年の3月か4月に撮影されたものであると説明した。FBIによれば、Oswald は1963年9月に自分の銃を購入したという。The New York Times はDallas 警察署に運ばれている凶器と言われるライフルの写真を掲載した。このライフルは全く違っている。Life の写真に見られるものに似たライフルはこれまで製造されたことがないと専門家は明言している。The New York Times もまた Lifeと同じ写真を掲載したが、望遠照準器は省かれている。3月2日に、Newsweek は同じ写真を使用したが、全く新しいライフルが描かれていた。そして4月13日にLife のラテンアメリカ版では2月21日のアメリカ版が掲載していたのと同じ写真を表紙に掲載したが、同号の18ページには同じ写真がライフルが改ざんされて掲載されていた。報道機関の完全な捏造によって数百万の人々が間違った方向に導かれていたとはどういうことであろうか?

 

当局はOswaldをほとんど48時間にわたり、彼の度重なる求めにもかかわらず、弁護士に接触することを許さずに取り調べた。DallasのFBIの責任者はかなりの経験のある人物であった。Dallasのアメリカ人権擁護連盟の弁護士は Oswaldとの面会を求めたが、そうすることは許されなかった。弁護士に会わせることなく48時間にわたりOswaldを取調べることで、FBIはOswaldの裁判をより困難にする状況を生み出したのであった。48時間拘留された人物から得られた自白や証拠はアメリカの裁判所では許されるものではない可能性がある。FBIの責任者は、得られた資料を利用する価値をなくしてしまうようなやり方で、取調べを実施したのであった。これは、彼が裁判が起きることを想定していたのかどうかという疑問を生むものである。

 

狙撃に関するもう一つの嘘は、11月23日にLos AngelesからAssociated Press によって広められたストーリーである。これはOswald のことを射撃の名手で短気であったと述べるOswaldの海兵隊での元上官の話を伝えていた。このストーリーは広く発表された。3時間後にLos AngelesからAPはこのストーリー全部を削除する訂正を送信した。この上官は自分の記録を確認して、自分が別の人物のことを話していたことが分ったのであった。彼はOswaldのことを全く知らなかった。私の知る限り、この訂正はいずれの主要な報道媒体によっても未だに発表されていない。

 

12: 科学的証拠の歪曲

 

Dallas警察はOswaldの顔と手のパラフィンテストを行い、11月22日に彼が発砲したことを証明しようとした。Dallas警察署長、Jesse Curryは11月23日にテスト結果が「Oswaldが暗殺者であることを実証している」と発表した。Dallas-Fort Worth地域の捜査を担当するFBIの責任者は明言した:「パラフィンテストを確認しました。パラフィンテストがOswaldには手と顔に硝酸と火薬が付着していたことを実証しています。それは彼が11月22日にライフルを発砲したことを実証しているのです。」この信頼性の低いテストがそのようなことを実証していないことだけでなく、後にOswaldの顔のテストは実際には陰性であったことが明らかになり、その日彼がライフルを発砲したとは思えないことが示されている。なぜパラフィンテストの結果が、当局によって発表される前に、改ざんされていたのであろうか?

13: Tippitt 殺害犯の特徴

 

Oswaldは、当初巡視警察官Tippitt [原文ママ]の殺害容疑で逮捕され、告発されていたことが、思い出されるであろう。Tippitt はまず彼に会話を持ちかけ、そして彼を乗っていた停車中のパトカーから外に連れ出し、銃で彼を撃った男によって、11月22日の午後1時06分に殺害された。Miss Helen L. Markhamは自分がこの犯罪の唯一の目撃者であると明言しているが、Dallas警察にこの襲撃犯の特徴を述べた。自分の口述書にサインをした後に、彼女はFBI、シークレットサービス、そして多くの警察官からこの件に関しては誰とも話すことは許されないとの指示を受けたという。その口述書での殺人犯の特徴の唯一の説明は、その男は「若い白人」であったというものであった。Miss Markhamは、その殺人犯は銃をふりかざしながら彼女の方に走ってきて、彼女を通り過ぎたことを後に明らかにし、警察に教えた殺人犯の特徴を繰り返した。その男は、「身長は低く、少し太り気味で、幾分ぼさぼさの髪をしていた」と彼女は述べた。(警察によるOswald の特徴の説明は彼が平均身長か、若干高く、細身で髪の生え際が後退した金髪の髪をしていたというものであった。)Miss Markhamの口述書が巡視警官Tippittの殺害に対してOswaldを相手取った事件の全てであったが、地方検事Wadeは以下のように主張した:「我々にはOswald が大統領を殺害したことを示すよりも多くの、Tippitを殺害したことを証明する証拠がある。」Tippittの殺害に対してOswaldを相手取った事件は、全く揺るぎない事件である、と彼は続けた。なぜTippitt殺害犯の唯一の目撃者の口述書から、その殺害犯の特徴を述べる唯一の説明が警察によって意図的に省かれていたのであろうか?

 

14: 警察の放送のタイミング

 

Oswaldの特徴の説明は大統領が狙撃されたわずか12分後にDallas警察によって放送された。これが殺人事件に関してこれまで提起された中で最も尋常ならざる疑問を提起する。なぜ巡視警官Tippitt殺害に関連したOswaldの特徴の説明が、Tippittは午後1時06分まで撃たれてはいなかったのに、11月22日午後12時43分にDallas警察の無線で放送されたのであろうか?

 

15: 証人の取り扱い

 

New York のJournal American紙に記事を書いているMr. Bob Considineによれば、Tippittに対して発砲された銃声を聞いた人物がいたという。Warren Reynoldsは近くの部屋から通りでの銃声を聞き、窓に走り寄り、殺人犯が逃げ去るのを見たという。Reynolds彼自身は後にライフルを持った男によって頭部を撃たれた。一人の男がこの犯罪では逮捕されたが、アリバイを提示した。Mr. Considineによれば、彼のガールフレンド、Betty Mooney McDonaldは、Reynoldsが撃たれた時自分は彼と一緒にいたと警察に告げたという。Dallas警察は、Reynolds が意識を回復し、襲撃犯を特定しようと試みる前であったのに、直ちに告訴を取り下げた。その男は即座に姿を消し、2日後に警察はBetty Mooney McDonaldを些細な犯罪で逮捕した。彼女は警察の留置場で首をくくったと発表された。Mr. Considineによれば、彼女はJack Rubyのナイトクラブのストリップティーズであったという。

 

Oswaldの事件において尋常ならざる扱いを受けたもう一人の証人は彼の妻、 Marinaであった。彼女は夫がまだ生きている間に拘置所に連れて行かれ、警察署長Jesse Curryからライフルを見せられたという。Oswaldの物かと尋ねられ、彼女はOswaldがライフルを持っていたと思うがそれは彼のライフルとは似ていないと答えた。彼女と彼女の継母は暗殺の後に、一般大衆の彼らに対する復讐という脅威のため、大きな危険の中にあった。その当時彼らは自分達を保護する警官を一人も確保することが出来なかった。Oswaldが殺害された直後に、シークレットサービスは不法に両女性を彼女達の意思に反して拘束した。3日後に二人は離れ離れにさせられ、Marinaは決して再び公の前に姿を現すことはなかった。9週間にわたり拘留され、ほとんど毎日FBI、シークレットサービスによる取調べを受け、彼女はついにWarren委員会に対して証言した。Earl Warrenによれば、彼女は夫が暗殺者であったと自分は信じると述べたという。この最高裁判所長官は、次の日に彼らはMrs. Oswaldに凶器のライフルを見せるつもりであるが、委員会は彼女がそれを夫の所有物であると認めることをかなり確信しているとしていると付け加えた。次の日まさにこのことが起きたと発表された。Mrs. Oswaldは、未だにシークレットサービスの監督下にあると、私達は知らされている。証人を9週間にわたり隔離し、こうしたやり方でシークレットサービスが繰り返して質問を浴びせることは、洗脳と呼ばれる、他国での警察の行為を想起させるものである。Oswald がライフルを所持していたことを示すために出て来た唯一の証人は、自分はOswald の車の後部座席に約2フィートの茶色の紙の包みを見たと述べた。警察が「提供」したライフルはほとんど3フィート半あった。どうしてEarl Warrenに、Marina Oswaldの証言が彼女が以前証言したものと全く正反対なものになることを予測可能であったのであろうか?

 

16: 証拠の改ざん

 

RubyがOswaldを殺害した後、地方検事 WadeはOswaldの暗殺後の動きについての発表をした。彼はOswaldはバスに乗ったと説明したが、彼はOswaldがバスに乗った地点をバス運転手が自身の口述書で特定した地点から7ブロック離れた地点として述べた。Oswaldは次にDaryll Clickが運転するタクシーに乗ったと、Wade は説明を続けた。 街の運輸業者への調査で、Dallasにはそのような名前のタクシー運転手は存在していなかったことが明らかになった。この証拠が提示されたため、Wade は運転手の名前をWilliam Whaleyへと変更した。この運転手の運転記録はOswaldの特徴と対応する男が12時30分にタクシーに乗っていたことを示していた。大統領は12時31分に撃たれていた。地方検事 Wade はこの件に関して何も言及しなかった。地方検事Wade はDallasに14年間で生活しており、以前はFBI職員であった。地方検事Wadeの偉大な経歴は、Oswaldの事件の間に彼が発表した証拠と証言の尋常ならざる変更においてどのような意味を持つのであろうか?

 

これらは、暗殺についての公式説明によって、またOswaldを相手取った事件全体の取り扱われ方によって生起した疑問のうちのごくわずかである。16の疑問はこの事件の全ての要素の全面的な検証の代替となるものではないが、私はこれらがそのような全面的な調査の重要性を示していると期待するものである。私は、この記事中の情報の大部分について、Oswald の母親からOswald の法廷弁護士に指名されたNew York の刑事事件弁護士、Mr. Mark Laneに恩恵を受けている。Mr. Laneの調査は、現在も進展中であり、広範囲の支援に値する。このような目的の、市民による調査委員会がN.Y.州New York市156 Fifth Avenue、Room 422に制定されている。(電話番号 YU9-6850)同等な委員会がヨーロッパにおいても設置されつつある。

イギリスで、私は同国の知的生活を送る優れた人々を招き、「Who Killed Kennedy Committee(誰がKennedyを殺害したのか委員会)」への参加を呼びかけた。この文章を書いている現時点では、この委員会は以下の人々から構成されている:

 

・Mr. John Arden、脚本家;
・Mrs. Carolyn Wedgwood Benn、Cincinnati出身で、Anthony Wedgwood Benn、 M.P.の妻;
・Lord Boyd-Orr、国連食料農業機関元事務局長、ノーベル平和賞受賞者;
・Mr. John Calder、出版業者;Professor William Empsom、Sheffield大学の英文学教授;
・Mr. Victor Golancz、出版業者;
・Mr. Michael Foot、 英国議会議員;
・Mr. Kingsley Martin、雑誌 New Statesmanの元編集者;
・Sir Compton Mackenzie、 著述家;
・Mr. J.B. Priestley、脚本家、作家;
・Sir Herbert Read、美術評論家;
・Mr. Tony Richardson、映画監督;
・Dr. Mervyn Stockwood、Southwarkの司祭;
・Professor Hugh Trevor-Roper、Oxford大学の近代史の教授;
・Mr. Kenneth Tynan、国立劇場の文芸部長;
・そして私自身である。

 

私達は最大限の深刻さを持ってこの問題を見ている。アメリカ大使館はかなり以前にOswaldに対する公式の容疑についての世界的規模での懐疑をWashingtonに伝えていた。しかしこれはアメリカの報道機関によってほとんど反映されていない。アメリカのテレビ番組や大量発行部数新聞に、Oswaldが暗殺者であり、彼は単独で行動したという‐全ての主張の不変の基盤に異議を唱えるものはない。これはアメリカ市民に残された課題である。

 

2013年10月 2日 (水)

大気核物理学者Thomas Cahill博士の911についての発言

以下は、http://911scholars.ning.com/profiles/blogs/nuclear-atmospheric-physicist-dr-thomas-cahill-on-911の日本語訳です。

 

 

大気核物理学者Thomas Cahill博士の911についての発言
2012年2月20日午後10時59分、Jeffによる投稿
カリフォルニア大学Davis校

 

大気中浮遊物質の分析

カリフォルニア大学Davis校デルタグループ(UC Davis DELTA Group (Detection and Evaluation of Long-range Transport of Aerosols=「長距離飛来の浮遊物質の検出と評定グループ」))はアメリカ合衆国の複数の大学と国立研究所の大気科学者の協力作業集団である。このDELTA Group は1991年の湾岸戦争、火山の噴火、世界中の砂塵、アジアのスモッグからの大気中浮遊物質の放出を測定してきた。

 

DELTA Groupの代表Thomas Cahill教授は、核物理学における経歴を持ち、大気科学や大気中浮遊粒子の特性の国際的な専門家である。

 

2001 年10月2日から2001年12月中旬まで、DELTA Groupの有志研究チームが、世界貿易センターの崩壊後のニューヨークの大気中の大気中粒子、浮遊物質のレベルを測定した。

 

自動粒子採取システムが、世界貿易センター跡地から一マイル北北東にある201 Varick Streetの屋上に設置された。2002年2月11日に、Cahill教授は記者会見を行い、教授の発見の一部を説明した。教授は以下のコメントを発表した。これはキャルフォルニア大学 Davis 校による発表記事から引用したものである;

 

「グランドゼロの空気は、おそらく地下に積み重なった残骸中の高温と関係があると思われるかなり大量の微粒子を含んでいました。通常、ニューヨークシティや世界の大部分の箇所で、このような状況は存在しません。」

 

これは、自分の考えを自由に発言出来ない人物による、核反応が起きたことを告げる微妙なほのめかしであろうか。

 

教授はさらに述べた;

「北京の石炭発電所の風下の最悪の大気の日であっても、クウェートの油田火災の日であっても、これほどのレベルの超微粒子を私達が検出したことはありません。」

 

超微粒子の量は、特にケイ素の超微粒子の量は、10月の間に急激に減少した。

 

「US Davis DELTA Groupの粒子のサイズ、組成を継続的に、一日中測定する能力は、匹敵するものがありません。6時間から8時間続く爆風が、先例のない量の微粒子をサンプル地点に運び込むという事象が何度もありました。最高値として、 DELTA Groupの分析では45分間に1立方メートル中に58マイクログラムの超微粒子を検出しました。–極めて高い値です。」Cahill教授は述べた。

 

金属

微粒子サンプル中には多くの様々な金属が検出され、今まで記録されたアメリカ合衆国の大気中で最高値として検出されたものもあった。

しかしながら、大気中を浮遊する金属に対しては確定された安全ガイドラインはほとんど存在しなかった。ガイドラインの存在する金属であった鉛は、微粒子、超微粒子としては低いレベルであった。

 

比較的高い濃度で超微粒子として存在しながら、ガイドラインが存在しない金属としては、鉄、チタン(一部は粉末化したコンクリートと関連付けられる)、バナジウム、ニッケル(燃料オイルの燃焼としばしば関連付けられる)、銅、亜鉛があった。水銀は時折微粒子として検出されたが、低い濃度であった。これらの金属の多くはビルの建設では、配線や配管で、広く使用されている。コンピューターに良く使われているものもある。粗大粒子であった金属は現在も分析されている。

 

Cahill教授が述べているこれらの超微粒子は何を示すのであろうか。どのようにして金属粒子浮遊物質は生み出されるのであろうか。実際の所、超高温が必要とされるのではないだろうか。

 

超微粒子は特に危険である。なぜならそれらは人体の自然な防護メカニズムを侵入可能であり、吸入された場合、血流に直接侵入するからである。それらは利用可能な最高級呼吸保護マスクである、HEPA(高性能粒子捕捉)フィルターを通り抜け、皮膚を通して体内にまで侵入可能である。それらは深刻に有害である。

 

直径が1メートルの百万分の2.5以下のものは何であれ、こうした理由により危険であると見なされることになる。

 

「吸入される超微粒子に対しては確定された安全基準値が存在していないのです。その基準値に最も近い参考値は、大気中浮遊微粒子の許容量を2.5ミクロンから0ミクロンに制限しているアメリカ環境保護庁の「PM2.5」基準です。この基準は、超微粒子が全質量中のごく一部でしかない、標準的な大気サンプルによる健康調査を基にしています。対照的に、キャルフォルニア大学  Davis校が分析した世界貿易センターの粉塵サンプルでは、超微粒子は全質量中の大きな部分を占めていました。」

 

つまり私達にはCahill教授が、健康と安全の理由で超微粒子に注意を喚起しようとしていることが理解出来るのである。しかしこれについては他にないのだろうか。

 

Cahill教授はまた、記者団に対して粒子の生成の意味をより明白に説明してもいた。

 

「数日間の雨の直後にも粗大粒子が存在していたことは、それらが、乾いた、高温の発生源から継続して再生成されており、車道や他の地表によって遮られることがなかったことを示していました。」

 

Cahills教授の発言。「継続して再生成されていた。」というのだ。

 

これもまた、自分の考えを自由に発言出来ない人物による、核反応が起きたことを告げる微妙なほのめかしであろうか。

 

「超微粒子は、一般的に燃料オイルの燃焼と関連がある‐硫黄、バナジウム、ニッケルのような元素やプラスチックやその他の有機物の焼却と関連のある元素で、高い値で検出されていました。」

 

「通常見られない、微小なケイ素を含む微粒子もまた存在していました。このような類の浮遊物質は、土やガラスの気化を含む、超高温によってのみ生成可能なものです。」

 

911ではニューヨークで核分裂が起きたことを理解するために、天才科学者や核物理学者である必要はない。私にはどのようなタイプの爆弾が使用されたのか分らないが、911ではニューヨークで核分裂が起きたという私の主張については確固とした態度を保ち続けるものである。

 

苛性配水管洗浄剤と911

以下は、http://911scholars.ning.com/profiles/blogs/caustic-drain-cleaner-and-911の日本語訳です。

 

 

 

苛性配水管洗浄剤と911

2012年2月20日午後10時53分 Jeffによる投稿

 

「テストは粉塵が、12.1のpH値を示し(最高値14)極めてアルカリ性が強いことを明らかにした。[St Louis Post-Dispatch, 2/10/02] 一部では液体配水管洗浄剤と同程度に苛性であった。『私達は自分達の発見したpHレベルに驚いています。』Swayzeは付け加える。『私達はセメント粉塵が苛性であることは知っていましたが、12やそれ以上のpH値を測定していたのです。粉塵の中から帰宅する作業員や人々を保護するための予防策が取られなければならなかったことは明らかでした。』環境保護庁に勤める環境科学者、Sam Vanceは環境保護庁、ニューヨーク保険省、アメリカ公衆衛生局に担当者に測定結果を送付した。」

 

何が原因で粉塵がそれほど、配水管洗浄剤ほどまでに高いpH値を示すことが可能になったのであろうか。

 

乾燥した物質のpHを測定することは可能ではない。USGS のサンプルから得られた高い値のpH値は、実際にはまず最初に粉塵を水に浸し、次にその溶解液がどのようにアルカリ性あるいは酸性を示すのかを見ることで、測定されたのであった。pHテストが実施された可能性が高い現地では、(もしプールのpH値を測定したことがあれば、この測定がどれほどたやすいか、またこのpH測定が現地でなされたと考えるのが論理的で可能性が高いことがお分かりになるだろう)水分は救助作業員やニューヨークの人々の手や肌、肺に由来しており、空気中の水分が粉塵を運んでいたのであった。

 

これほど高いpH値が測定されたという事実は、コンクリートの粉塵が強い苛性のつまりアルカリ性の成分を含んでいたか、あるいはタワーが崩壊した際にさらされた何かによって、そのような成分に変化したということを意味している。

 

どのようにしてこうしたことが起こり得たのだろうか。

 

乾燥したセメントの粉は64%が酸化カルシウム(CsO)から成っている。これに水を加えると、水酸化ナトリウムである「配水管洗浄剤」に似た水酸化カルシウムつまりCa(OH)2 のアルカリ性溶液を形成する。セメントとコンクリートを混ぜる準備として、酸化カルシウムに他の酸化物を加える。水を加えると、CaOはCa(OH)2へと変化し、こうして未加工のセメント中に存在する他の酸化物と反応し、ケイ酸カルシウム、ケイ酸カルシウムアルミニウムそして同様な物質からなる、私達がコンクリートと呼ぶ不活性の完成物を形成する。

 

このため、粉々になったコンクリートやセメントの粉塵はそれ自体で苛性ではなく、実際には不活性なのである。コンクリートの粉塵が苛性にされる唯一の方法は、それを摂氏800度を越える高温にさらすことである。

 

世界貿易センタービルの崩壊の際の高温が、文字通り、コンクリート中のケイ酸カルシウムやケイ酸カルシウムアルミニウムを酸化カルシウムへと焼いて石灰化させたのである。

 

苛性とする他の原因

 

苛性反応を生じさせる、粉塵中のpH値を高めた原因は他にも存在する;それは核分裂と崩壊によって生成されるカルシウム、バリウム、ストロンチウム、亜鉛の放射性酸化物である。こうした酸化物は全て水と接触すると、アルカリ溶液を形成する。私達は、ジェット燃料にはコンクリートを苛性の粉塵へと変化させるほど高温で焼くことは出来ないことを見てきた。核爆発の衝撃波それ自体にもコンクリートを焼くことは出来ないが、火砕性の粉塵が進みながら「焼ける音を発していた」という目撃者の証言が存在する。つまり明らかに粉塵は高温であったのだ。 –コンクリートを石灰化させるほど高温であったのかは、私達には現時点では分らないが。

 

しかしながら、高温の火山性の熱はタワー下の地下二階の深さにのみ局所化されており、あるタイプの核事象による溶解炉心に端を発していたものであり、この高熱は崩壊するタワーの粉塵の大部分には影響を与えていなかったというのであれば、粉塵中の放射性降下物が苛性であったことになる。

 

こうして、粉塵の苛性という性質もまた、タワーが核爆発にさらされたことを示すもう一つの指標となり得る。私達は、苛性の粉塵が、バリウム、ストロンチウム、亜鉛、カルシウムというよくある核分裂生成物により存在したアルカリを示す酸化物によってもたらされたことを間違いなく想定出来るのである。

ナトリウム、カリウム、亜鉛

以下は、http://911scholars.ning.com/profiles/blogs/sodium-potassium-and-zincの日本語訳です。

 

 

ナトリウム、カリウム、亜鉛

2012年2月20日午後10時37分、Jeffによる投稿

 

私はなぜUSGSが採取した粉塵サンプル、911に際して採取された最も包括的な粉塵サンプル中に検出された元素が論じられていないのか尋ねたい。

なぜナトリウムとカリウムが異常値であるのか、誰も疑問に思わないのだろうか。

一連の亜鉛はどこから来たのだろうか。

 

どうすればバリウムとストロンチウムの間でのほとんど完全に線上の関係に対して、t検定によっても確認される0.9897 という積率相関係数を得ることが出来るのだろうか。

 

この二つの元素濃度は、バリウムで3670ppm、ストロンチウムで3130ppm、つまり粉塵の目方で 0.3%以上に達している。これはWTC01-16、Broadway と John Streetsの角のサンプル箇所では、重量でサンプルの0.37%がバリウムであり、0.31%がストロンチウムであったことを意味している。

 

かなり低い値の梁鉄骨皮膜のサンプルを含めたバリウムの平均濃度は533ppmで、ストロンチウムの平均濃度は727ppmである。これらは痕跡量ではない。これらは極めて危険で、かなり有毒な量である。これらはまた核分裂、崩壊のプロセスの成分でもある。

 

マンハッタン南端部付近での多くの測定結果に対して0.9897という積率相関係数を得るということは、まぎれもなく、特筆すべきことである。これが意味するのは、これら二つの元素間の濃度の変動には99%の相関関係が存在している言えるということである。それらは足並みを揃えて変動している;それらは同時に、同じように変動している。一方が変動すると、他方もまた変動している。バリウムであれストロンチウムであれ、これら二つの元素の一つの濃度の変動は、他方の濃度の同様な変動と釣り合いが取れていると、完全な数学的確実さで私達は明言出来るのである。

 

何がバリウムあるいはストロンチウムの存在をもたらしたのであれ、一方だけでなく双方を生み出したのである。これを説明出来る、双方を生み出す唯一のプロセスが存在する。全くよく知られているプロセスである。

それは核分裂である。

なぜこうした元素が議論されないのであろうか。USGSのサンプル群中に異常なデータがあるのに、この件に関して論じることには誰も興味を持っていないようである。

 

 

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